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レビュー

大坂きっての伊達男、江戸を相手に一世一代の大勝負!!『悪玉伝』解説

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

(解説:高島 幸次 / 大阪大学招しよう聘へい教授)

 時代小説を楽しみながら、考証の虫に悩まされることがよくある。それは、日本史の研究者にとっては持病のようなものだ。

 ある幕末の小説に玉たま葱ねぎが登場したら、それだけでもう駄目なのだ。玉葱の食用は明治何年からだったか、と確認せずにはおれないのだ。我ながら困った読者である。

 あるいは、大男の弁べん慶けいが活躍する小説では、史料もないのに「大男」と書けていいなと妬ねたんでしまうのだ。史料に基づいて論を立てる術すべしか持たないものだから、その制約から抜け出せる作者への嫉しつ妬とでしかない。実まことに嫌な読者である。

 では、なぜ本書の解説を引き受けたのか。それは、この作者の場合は政治経済から日常生活に至る幅広い史資料を博捜したうえで時代を描き、そこに類たぐいまれな創造力によるフィクションを溶け込ませるからである。考証の虫がムズムズする前に、四の五の言わさず物語の世界に引きずり込む筆力を持つからである。手て練だれの作者の前では、私は素直な良い読者なのである。

「第一章 満中陰」の冒頭シーンでは、元げん文ぶん四年(一七三九)の道どう頓とん堀ぼりの芝居茶屋にワープして、そこで交わされる吉きち兵べ衛えや三さぶ郎ろう太た、源げん四し郎ろうの会話を、すぐそばで聞いているような気分になっている。さすがに、「第五章 依怙の沙汰」の、糞ふん尿にようの臭気漂うリアルな牢ろう獄ごくシーンでは、牢内への移動には抵抗したけれど……。

 また、明らかなフィクションだと気づいても、筋書きの必然性を匂わせる語り口に思わず納得させられてしまうのだ。終章となる「第八章 弁財天」には、吉兵衛のその後を暗示する仕込みがある。それは創作には違いないのだが、この仕込みがあればこそ心地よく頁を閉じることができるのである。この作者にかかれば、考証の虫などはどこかに吹き飛ばされ、史実と創作の見極めなどは二の次になってしまう。このあたりは司し馬ば遼?りよう太た郎ろうの作品にも通じる。本作が司馬遼?太郎賞を受賞したのも宜むべなるかなである。

 その一方で、吉兵衛が烏からす丸まる大だい納な言ごんから公家装束を拝領し、「図ず書しよ」という侍名を買ったという逸話などは、彼の道楽・放ほう蕩とうぶりを強調するための創作のようにみる読者もいるだろう。しかし、これは同時代の『町人考見録』に「(吉兵衛は)京へ上り堂上方(公家衆)の御家人と相成り図書と改名」と記録される史実なのである。それに加えて近年の研究では、江戸時代には異なった身分・職業や名前を持つ「両属の者」がいたことが明らかになっており、吉兵衛の行為はあながち特異な事例とも言えないのである(尾お脇わき秀ひで和かず『壱人両名 江戸日本の知られざる二重身分』)。

 さて『悪玉伝』は、江戸中期の大坂において、家産二百万両、手代四百六十人を誇った豪商・辰たつ巳み屋やの家督争いを題材としている。その張本の木き津づ屋や吉兵衛を裁く過程で、大坂町奉行に止まらず、将軍・老中・寺社奉行、江戸町奉行までをも巻き込む、前代未聞の大疑獄事件に発展していく。

 ことの成り行きは、「事実は小説よりも奇なり」を地でいくような面白さで、世間の注目を集め、間もなく、浄じよう瑠る璃り『女おんな舞まい剣つるぎの紅楓もみじ』、小説『銀の笄かんざし』、歌舞伎『棹さおの歌うた木き津づ川がわ八はつ景けい』などの作品を生んでいる。

 研究史的には『大阪市史』第一巻(大正二年)が、吉兵衛は辰巳屋の財産を横領し、東町奉行に贈賄したと断じている。結果、東町奉行・稲いな垣がき種たね信のぶは解任、持高半減、閉門を命じられ、その用よう人にん・馬ば場ば源四郎は死罪、吉兵衛は遠島(のち減刑)に処せられたのだが、市史はこの処分に続けて、わざわざ「武家諸法度」の収賄禁止の箇条を引用し、贈収賄が政治に与える弊害を説く。吉兵衛の悪事は疑いなしとばかりの書きぶりである。

 しかし、われらが朝あさ井いまかては違う。権威ある市史の裁定に納得せず、吉兵衛の言い分に耳を傾けるのである。しかも、それは奇を衒てらった視点の転換ではなく、その背景に大坂の銀と江戸の金の対立を据えるとともに、賄まい賂ないに対する大坂商人と幕府の捉とらえ方の違いを指摘する。そのうえで、民事訴訟は当事者の示談に任せる幕府の方針「相対済まし」に対する吉兵衛の信念にも理解を示すのである。

 なお、この評定に加わった寺社奉行があの大おお岡おか越えち前ぜんの守かみであると聞けば、その名裁きぶりを期待する向きもあろうが、それは違う。大坂商人の反骨精神を描く本作を大岡政談物の亜流にしてはならない。

 ところで、本作には時代小説らしからぬ表現も垣かい間ま見える。辰巳屋の養子・乙おと之の助すけは、女おんな形がたの歌舞伎役者との恋仲を知られたため実家に逃げ帰るのだが、これを受けて、吉兵衛は次のような衆しゆ道どう(男性の同性愛)観を吐露するのだ。

わしは衆道を下に見たことなど一度もないわ。男が好きな男もおるし、おなごが好きな女もおる。己のことしか好きでおられへん人間の方が、よほど浅ましい。

 この発話を、江戸時代における同性愛意識を踏まえたセリフと読むこともできようが、私は現代におけるSOGI(性的指向と性自認)への作者の優しい眼まな差ざしを感じる。同様の眼差しは、東町奉行の用人・馬場源四郎が「自死を図った」という表現にも窺うかがえる。近年は、やむを得ず自ら命を絶つ行為を「自殺」と言っては遺族の苦しみを増すとの立場から、「自死」が提唱されている。その現代的な用語をあえて時代小説に使うところに、ニュートラルな作者の配慮を感じる。たとえ江戸時代を舞台とする小説であっても、読者は現代を生きているのだから。


書影

朝井まかて『悪玉伝』
定価: 858円(本体780円+税)
※画像タップでAmazonオフィシャルページに移動します。


 本作では、吉兵衛ら大坂商人の動きと、大岡ら幕閣の動きが、章ごとに交互に描かれる。その章構成を効果的にしているのが、吉兵衛らの船せん場ば言葉である。「お喜びでごわりました」と聞くと、大阪に生まれ育った私などは懐かしくて仕方ない。この船場言葉に対比させるように、泉せん州しゆうの唐から金かね屋や与よ茂も作さくは「雑ぞう巾きん」を「どうきん」、「全然」を「でんでん」と発音する。「江戸からご覧になれば同じ上方に映るかもしれまへんが、大坂と泉州は成り立ちや風儀が異なります」ということなのだ。

 この流れで、『悪玉伝』の振り仮名について注目したい。もともと漢字を多用する朝井まかての小説では、編集部によるルビも少なくないようだが、その一方では作者による効果的なルビが頻出する。

 そもそも振り仮名には、相反する二種の役割がある。正しい読みを示すための教育ルビと、作者の意図的な読みを示唆する誘導ルビである。教育ルビの例として、大坂の「難なに波わ橋ばし」と、江戸の「日に本ほん橋ばし」を挙げておこう。大坂と江戸が交互に描かれる小説ならではのルビである。難波橋については、現在の大阪の繁華街・難なん波ばに引きずられて、「なんばばし」と誤読する外来者が多い。昨今は、大阪の若者にも「なんばばし」と読む輩やからがいるようだ。そのため、二〇〇八年開業の京けい阪はん中なか之の島しま線には平仮名表記の「なにわ橋駅」が登場した。一方の「日に本ほん橋ばし」は、東京の読者には目障りなルビでしかないだろうが、「日につ本ぽん橋ばし」に慣れ親しんだ大阪人への念のためのルビなのだ。

 そして、ここからが、作者らしい振り仮名の急所なのだが、「本ほんま物もん」「本当ほんま」のルビは、本当ほんまに嬉うれしい。このルビがなければ、全国の読者のほとんどが「ほんもの」「ほんとう」と読んで疑わないだろう。「亡のうなった」にいたっては、誤植として読み流されるに違いない。それでは、吉兵衛はんに申し訳ない。

「大だい根こ」「牛ごん蒡ぼ」については、江戸っ子が「大だい根こんと付くべき文字を付けもせず、いらぬ牛ご蒡ぼうをごんぼぉという」と揶や揄ゆしたことを思い出す。こんな揶揄なんかに負けないで、これからもまかて流ルビを駆使して欲しいものだ。

 最後に、書名『悪玉伝』について触れねばなるまい。終章において作者は、吉兵衛に「わしこそが、亡家の悪玉やった」と独白させている。しかし、この物語を読み進めてきた読者は、それを素直には受け止めないだろう。
 曹そう洞とう宗しゆうの開祖・道どう元げん禅師は、人の善悪について次のように洞察している。

人の心、元より善悪なし。善悪は、縁に随(したが)いて起こる。(正法眼蔵随聞記)

 吉兵衛にとって、辰巳屋の次男に生まれたことは大きな縁であり、この疑獄に連座した人々には、吉兵衛との出会いもまた縁だったのである。

《付記》酒宴の席における朝井まかては、なんとも可愛い天然のやらかす人である。それなのにどうして、『悪玉伝』のような緻ち密みつに計算された作品を生み出せるのか、その謎を解くヒントを本書に見付けた。

文机(ふづくえ)の前に坐ればいかほど疲れておろうと頭が澄み、考えが巡り、腹に力が漲(みなぎ)ってくる性分である。

 これは、大岡忠ただ相すけの仕事ぶりについての謂いいだが、きっと作者自身のことでもあるに違いない。

▼朝井まかて『悪玉伝』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322003000401/


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