文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説者:
女性も物語も時間の中で美しく生まれ変わって行く
「猫弁」シリーズ愛読者のみなさんにとっては、「猫の次は牛?」と思われたかも知れません。
でも『牛姫の嫁入り』は「猫弁」よりも早い二〇〇六年に作者大山淳子さんが映画用に書いた脚本の、実に一〇年を経ての小説化なのです。この脚本は映画界で最も権威ある脚本賞「城戸賞」を二〇〇六年に受賞しています。
江戸時代、まぼろしの姫と名高い
時代小説には珍しい今日的女性視点で描かれるこの物語は、「誘拐見合い」というミッション・インポッシブルに挑む美しく強いヒロイン・コウの物語として始まり、任務完遂のために「牛=重姫を美しい姫に変身させる」という更に困難なミッションを成功させ、最後には見合いを遂げてみせる、という作戦劇です。
読者は、どうやって
もちろんこの主筋に歌舞伎役者と見紛う若侍や、当代一の実力忍者の登場、さらには将軍家乗っ取り計画や隠密の野望など、魅力的な人物とエピソードがアクション満載で次々と登場します。
当然ですが、ヒロインのコウ自身の切ない恋心も語られます。
そして、ここがポイント。全編を包む心温まるユーモアと現代に通じるメッセージが、面白くて美しい物語を読んだ、という大きな満足感を読後に提供します。
コウと重姫の父
コウ「重姫様を美しくすると申し上げましたが、瘦せさせるとは申しておりません」
好継「たわけたことを。あの重が瘦せずして美しくなるわけがないではないか」
コウ「瘦せるのは目的ではありません。結果です」
時代は五代将軍綱吉の次の世ですから一七一〇年前後。三〇〇年続いた徳川時代の最初の一〇〇年が終わった頃です。余談ですが、明治維新(一八六八)からの体制は一〇〇年持たず第二次大戦敗戦(一九四五)で
映画にして観たい小説
『牛姫の嫁入り』の魅力を映画的視点で探ってみようと思います。何と言っても脚本から生まれた小説なのですから。
まずヒロイン・コウのキャスティングは誰か。抜群の身体能力とクールビューティと言えば、ハリウッドでは「アベンジャーズ」や「ゴースト・イン・ザ・シェル」のスカーレット・ヨハンソンを思い浮かべます。
では見事な変身を遂げるヒロイン重姫は。指導を得て変身すると言えば「マイ・フェア・レディ」ですし、姫様のお忍び行状記(ストーリーの分岐点になる重要なエピソードです)からすると「ローマの休日」が思い出されます。いずれにせよ重姫はオードリー・ヘップバーンそのものです。
では実際にこの二人を日本でキャスティングするとしたら誰が最適か。僕の案では
次に観客に対するドラマの魅力のアピール方法について。
美しさ、という争点を巡って登場人物たちそれぞれがゴールを目指しますが、重姫が見事に変身していく流れは成長物語としてまさに王道です。見逃してならないのは、重姫を指導しているコウが、重姫の純真な質問に窮する場面が幾度も描かれることです。コウの指導で重姫が成長するだけでなく、重姫の澄んだ心から発せられる問いによってコウもまた成長する。
主役二人が影響し合いながらお互いを高めて行く、というストーリーラインが強く心に残ります。
これは、二〇一九年第九一回米国アカデミー賞で作品賞と脚本賞を受賞した「グリーンブック」に見られる、双方向での成長物語とまさに同質です。さらに第九一回アカデミー賞と言えばメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞した「バイス」がありました。主演のクリスチャン・ベールは二〇㎏も増量した上に、毎回五時間の特殊メイクをして撮影に臨んだといいますが、重姫の特殊メイクはそれに負けないものになるでしょう。
どうでしょう。米国アカデミー賞受賞作品の魅力を持ちつつ、日本的な時代劇のジャンルでダイエットという今日的題材を扱い、女忍者とお姫様というコントラスト豊かなバディ(相棒)ものの要素で惹きつける映画『牛姫の嫁入り』、見どころ満載になると思いませんか。
小説と脚本の大きな違い
大山さんはこの小説の前に、脚本としてこの物語を書かれました。小説と脚本。文字を使って表現されたものとしてこの両者は近似点の多い創作物か、まったくの異物なのか、考えてみたいと思います。
日本映画界の巨人・
シナリオを設計書の青写真に置き換えればそれらは一目瞭然である。設計書に欠落する線、あやふやな線、余分な線などがあれば、一目見ただけで、その設計書は意味をなさない
脚本は映画の設計書、なのです。
脚本に書かれてあるのは、場所・物・人です。
脚本にはそれらがどのような状態にあるか、が必要十分なだけ、過不足なく書かれなければなりません。つまり脚本には、どこで、なにと、だれが、どうしているか、が書かれてあるのです。これこそが映画の設計書と呼ばれる理由ですが、その
映画のスタッフは脚本を基に撮影の準備をします。そこに書かれてある場所・物・人を用意し、どこで、なにと、だれが、どうしているか、を撮影できるようにする訳です。
一方読み物である小説には脚本のような縛りはありません。
むしろ作家の望むままに場所・物・人を丁寧に描写することも、逆に意図的に隠すことも可能です。読み物として物語られる小説は、表現自由度の高いストーリーテリングの代表と言えるでしょう。
Story(筋・話の流れ・構成)とTelling(描写)を併せ持った小説には長い歴史がありますが、演劇の戯曲を手本に書かれ始めた映画の脚本は、映画誕生から数えてもわずか百二十年余の蓄積しかありません。
結論として小説と脚本は目的も創作手法も歴史も異なる〝異種〟ということが言えると思います。
『複眼の映像』で橋本忍はこんなことも言っています。
小説家からシナリオライターになった例は一例もなく、これからもそれはあり得ない
なぜ小説家から脚本家になった人はいないのか。主な理由は小説家の社会的地位と脚本家のそれの低さに
ただし大山さんは例外的存在です。なぜなら設計図としての脚本執筆の方法を熟知しているからです。二〇〇六年の城戸賞受賞時からの蓄積を糧に、大山さんが『牛姫の嫁入り』の脚本を書いたらどうなるか。
登場人物への大山さんの温かな視線と、エンタテインメント作品を徹底的に追求する作家としての姿勢に、設計図としての脚本を書く緻密な技量が加わった傑作が生まれる予感に胸が高鳴ります。
それは「三日月夜話」と名付けられた城戸賞受賞作品とは一味も二味も違う、一三年の年月をかけて美しく練り上げられた脚本として、新しい生を受けるのです。
映画界の変化が小説世界にも影響する
近年、日本の映画興行界は劇的な変化を遂げています。
二〇一六年に大ヒットした三作品「シン・ゴジラ」「君の名は。」「この世界の片隅に」に始まって、二〇一八年も「万引き家族」「カメラを止めるな!」「ボヘミアン・ラプソディ」の三本が記憶に残る大ヒットを遂げました。
六作品に共通するのは、映画会社の宣伝や、作品の作り手・送り手からのメッセージで映画がヒットしたのではなく、観客が自分でその映画を発見し、自分の声で映画を広め一人ひとりが大ヒットを招く導火線となったことです。劇的変化とはこのことを指します。
一人ひとりの観客が素晴らしいと感じる映画を自ら発見し、自分で動いてその作品をヒットにまで高める。驚くべき現象が日本映画界で生まれ、継続しています。
小説の世界ではどうなのでしょう。
『牛姫の嫁入り』は脚本から生まれた小説です。その小説が読者の声に後押しされて映画になったら素晴らしいと思いませんか。
脚本から小説に、そして映画に。コウと重姫なら私たちをミラクルな未来にまで連れて行ってくれる気がするのです。
あとがきを先に読んだ方々、まずは本編小説をお読みください。
そして既に読了されたみなさま。読後の感想は
もし満足して頂けたのであれば、映画化希望の大きな声を上げてください。そして同じ意見の人たちと一緒に集って、映画化実現の気運を盛り上げましょう。当然僕も参加させて
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