追いつめられた人々の心情に迫るミステリーに、書籍初収録の幻の短編「青春の遺骨」を加えた珠玉の6編。
『最後の矜持 森村誠一傑作選』森村誠一
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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『最後の矜持 森村誠一傑作選』文庫巻末解説
解説
山前 譲(推理小説研究家)
長編短編あわせて数多くの作品を発表してきた森村誠一氏はこれまで、角川oneテーマ21の『作家とは何か ──小説道場・総論』や『小説の書き方 ──小説道場・実践編』などで、自身の創作手法を惜しげもなく公開してきた。たとえば二〇〇〇年十一月に刊行された短編集『法王庁の帽子』には、こんな「著者のことば」を寄せている。
短編の身上は切れ味とスピードにある。山あり坂ありの起伏に富んだ長編がマラソンならば、短編は短距離で一気に結論を出さなければならない。質量の中に挽回のきく長編と異なって、わずかなミスも許されない。
本書『最後の矜持』に収録された六作の短編にも、こうした緊張感が満ちているのはあえて指摘するまでもない。
前半の三作は森村作品ではお馴染みのキャラクターが、すなわち「音の架け橋」では作家の北村直樹が、「殺意を運ぶ鞄」では新宿署の牛尾正直が、そして「後朝の通夜」では警視庁捜査一課那須班の棟居弘一良が、メインの探偵役として登場している。彼らが共演する作品も多くあり、森村ミステリーワールドの核となってきた。
「音の架け橋」は新しい連載の構想に行き詰まった北村に作家仲間の山林が、夏休みの家族旅行中、自宅を使ってくれないかと持ちかける。気分転換になるだろうとその申し出を受け入れた北村だが、いざ作品を書き出そうとしたとき、轟音に驚かされた。それは米空母艦載機の陸上基地を発着する飛行機の音だった。北村はなんとか身(耳)をならそうとしたが、すると日常で多様な音と同居していることに気づく。彼本来の好奇心がむくむくと頭をもたげてきた。そして近所で殺人事件が起こるのだった。
北村は会社員から新人賞受賞を機に作家となった。初登場作は一九八七年刊の『腐蝕花壇』で、新宿歌舞伎町のラブホテルで発見された政財界の黒幕の変死体など三つの事件が絡み合っていくなかで、巨大な悪が暴かれていく。そんな事件に北村は偶然迷い込んでしまうのだ。
北村のサイン入り時計を持つ男の死体が発見された『殺人の祭壇』、北村の著書が死体遺棄の現場から発見される『死都物語』、見知らぬ女性からの手紙が北村を戸惑わせた『偽完全犯罪』など、警察官である牛尾や棟居とは違い、長編では北村は日常生活から事件に巻き込まれていくパターンが特徴的である。
短編の「恋刑」によれば、〝地味だが、社会の断面を抉る鋭い切口の作風で安定した読者層を維持している〟そうだ。『人間の証明』の棟居や『駅』の牛尾のように、初登場作で自身のアイデンティティーにかかわる事件に直面していた刑事に比べると、北村はちょっと印象が薄いかもしれないので、事件簿を少し詳しく紹介してみた。脇役的な存在の作品も少なくないのだが、変ったところでは、熱海市で展開されたミステリーイベント「アタミステリー紀行」の問題編として書かれた短編「後朝のコーヒー」にも登場していた。
やはり「恋刑」で、〝彼は作品の種類やそのときの気分に応じて書く場所を変える。街を歩いていて気分がおもむけば、目についたホテルや旅館へ飛び込んで書く〟とある。「音の架け橋」の発端も自然なのだ。そして特に短編では北村の作家的好奇心が強調されているようだ。作者自身の好奇心がそこに反映されているとしてもいいだろう。
「殺意を運ぶ鞄」は会社帰りの通勤電車で鞄を取り違えた藤波の心情がリアルである。自分のものではないその鞄には、なんと三千万円が入っていたのだ。そこには下城保なる人物の名刺も入っていた。きっと鞄の所有者だろう。連絡しなければ……。しかし、大金の誘惑に負けてしまった藤波である。自分の鞄には身許を示すものは何も入っていなかったはずだ。そして三千万円を紛失したという届け出の報道もない。自由に使えるのではないか? と考え、行きつけの飲み屋の女にプレゼントを買ってしまうのだった。
ところが下城保なる人物が殺されたとテレビのニュースが報じる。死体が発見されたのは新宿区大久保のアパートだ。となれば牛尾刑事の出番である。長年の相棒である青柳刑事との堅実な捜査が始まる。一方、藤波は──。牛尾の推理の伏線がじつに巧みに張られている。新宿という街を繊細に描いた連作集『殺人のスポットライト』など、牛尾刑事は短編でも活躍しているが、彼の実直な捜査ぶりと弱者に向けた視線がいつも印象的だ。
警視庁捜査一課那須班の椎谷刑事の葬儀が行われているのは「後朝の通夜」である。正義感溢れる彼は休みの日にコンビニで強盗犯に出くわしてしまう。もちろん犯人に立ち向かっていったのだが、刺されて命を落としてしまったのだ。その葬式に列席した棟居は、とりわけ悲嘆に打ちひしがれている二十代前半の女性が気になった。椎谷の恋人なのか?
一年後、捜査で一周忌に出ることの叶わなかった棟居は、椎谷の菩提寺に墓参りに行く。そこで出会ったのがあの女性だった。それがコンビニ強盗事件を再検討する切っ掛けとなるのだ。警察官の重い使命が、そして誇りが胸に迫る。警視庁捜査一課那須班のメンバーは棟居が登場する前から森村作品における犯罪捜査を担っていた。シリーズキャラクターという意味では、もっとも登場しているキャラクターかもしれない。
後半の三作からはより本書のタイトルのイメージが伝わってくるだろう。
神奈川県は丹沢山麓の沼で、ビニールシートに包まれた男性の死体が発見されているのは「ラストシーン」である。死後半年以上経っていて、死因は鈍器による脳挫傷だったが、身許がつかめず捜査は暗礁に乗り上げてしまう。
物語は埼玉県熊谷市に転じる。同僚の死で定年前に脱サラを決意した前原の郷里で、彼はレストランを開業したのだ。幸い評判が良く、店の前に行列ができるようになった。妻とシェフ、そして非常勤の従業員で回していたのだが、手が足りなくなってきた。そこで常雇いの従業員を入れることにしたのだが……。
一流商社の課長から、人生のラストシーンに新たな視野を展開して、まったく畑違いのレストラン経営に励み、自分の城を確立する──。そのプロセスからは森村作品ならではの鋭い分析が伝わってくる。そして思いもよらぬラストシーンを迎えてしまった前原……。それはもちろんまったく予定外のことだった。
余生とは一般的には盛りをすぎたあとの残りの人生を意味している。森村氏は「老進気鋭」などのエッセイで、人生を大きく三期に分けていた。仕込みの時代の第一期、社会人の仲間入りをした現役時代の第二期、そして六十歳を一応の引退時点と区切って寿命までの第三期である。長寿社会となってこの第三期、すなわち余生の期間が長くなった。森村氏は第三期を自分のために生きる人生の総決算期だとしている。
「ラストシーン」の前原は意欲満々に自由な余生へと船出した。ところが「余命の正義」の北野純一はまだ四十九歳だが、がんを宣告されて自分のラストシーンが突然迫ってきたことに動揺している。だが、余生を意識したことでありふれた日常もまた違った景色に映るのだった。そして残された余命でなにをすべきか決断する。余命のあるうちに返済しなければならない人生の債務を意識しはじめるのだ。
二〇〇三年に刊行された『誉生の証明』は、森村作品においてひとつのターニングポイントとなる長編だった。多数の犠牲者を出したバス転落事故でからくも死を免れた男女四人が、八ヶ岳の山荘で共同生活を始める。ところがトラブルに巻き込まれて、名誉ある余生をおくるために立ち上がるのだった。「誉生」という森村氏らしい造語が、その作品に相前後して森村作品における重要なキーワードとなっていく。「余命の正義」の北野はまさに誉生の道を選んでいる。後半、殺人事件の捜査に携わっている帯広は、『棟居刑事の砂漠の喫茶店』で定年間近に執念の捜査を見せている刑事と同姓だ。
最後の「青春の遺骨」は本書が初収録の作品である。大学を卒業して三十年、俳誌を主宰している山県は、母校同窓会から講演を頼まれた。久々に学び舎の正門を潜り、かつてのクラスメートと再会したとき、彼はタイムスリップするのだった。青春のマドンナとの鮮烈な思い出に……。余生の重い意味が読者の胸に迫ってくるに違いない。
前述の『法王庁の帽子』の「著者のことば」にはこのようにも書かれていた。
ここに選んだ短編は、いずれも激流のようにライフサイクルの速い現代を切り取った作品である。人生のフラッシュライトのような短編に、読者との潜在的な共鳴を期待した。
こうした森村氏の短編の創作に込めた思いは、本書収録の六作にも通底している。読み進めていけばきっと「共鳴」するに違いない。
作品紹介・あらすじ
最後の矜持 森村誠一傑作選
著者 森村 誠一
定価: 814円 (本体740円+税)
発売日:2023年05月23日
「刑事は必ず正義の上で死ぬんだ」。ミステリー界の巨匠、珠玉の短編集。
警視庁捜査一課・棟居の後輩刑事が殺された。非番中コンビニ強盗に遭遇し、店員を守るため凶刃に倒れたのだ。彼の死は世間の同情を集め一般市民も通夜に訪れる中、滂沱の涙を流す女性がいた。彼女の正体を追った棟居は、事件の悲しい顛末を知る(「後朝の通夜」)。
ある者は魔が差したせいで、ある者は確固たる信念によって、追いつめられた人々の心情に迫るミステリーに、書籍初収録の幻の短編「青春の遺骨」を加えた珠玉の6編。
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