このミス、本ミスW受賞の注目作。往復書簡で真相に迫る、本格ミステリー
『欺瞞の殺意』深木章子
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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『欺瞞の殺意』文庫巻末解説
解説
千街 晶之(ミステリー評論家・書評家)
欺瞞という言葉の意味を辞書で調べてみると、大抵「あざむき、騙すこと」といった説明が載っている。ならば、ミステリというジャンルとは切っても切れない関係にある言葉と言えよう。江戸川乱歩の『化人幻戯』(一九五五年)には「もしこの密室を、なんら欺瞞のない、動かしがたいものとするならば、この事件に他殺の疑いをさしはさむ余地はないのだが、近代の警察官には『密室』を素朴に信じてしまうような者は一人もいなかった。密室状態にぶっつかったら先ず欺瞞を考えるのが常識となっていた」というくだりがあるけれども、この場合は偽装工作やトリックとほぼ同義として使われているようだ。
その欺瞞という言葉をタイトルに冠したのが、深木章子の『欺瞞の殺意』(二○二○年二月、原書房ミステリー・リーグから書き下ろしで刊行)である。まさにタイトル通り、隅々まで騙しに満ちた、一筋縄ではいかない本格ミステリだ。
事件が起きたのは昭和四十一年の七月。Q県福水市の名だたる資産家・楡家で、先代当主・伊一郎の三十五日法要が催された。集まったのは、伊一郎の妻・久和子、伊一郎夫婦の亡き長男の妻・千華子、その九歳の息子・芳雄、長女の澤子、その夫で婿養子の治重、二女の橙子、その夫の大賀庸平、伊一郎の議員秘書で千華子の内縁の夫の兵藤豊、税理士の佐倉邦男という面々である。
菩提寺の住職を送り出したあと、九人はダイニングルームで一息ついていた。飲み物と菓子を運んできたのは、楡家に長年仕える家政婦の岩田スミエ。その席上、コーヒーを口にした澤子が急に苦しみ出し、搬送先の病院で死亡した。死因は急性ヒ素中毒で、彼女のコーヒーカップだけからヒ素が検出された。更に、楡家に到着した警察官が事情聴取をしている最中、今度は芳雄がヒ素の入ったチョコレートを口にして倒れているのを発見され、間もなく死亡したのだ。治重の上着のポケットからチョコレートの銀紙の破片が発見されたため、彼に嫌疑がかかる。最初は否認していた治重だが、やがて罪を認めた。
治重の逮捕と自白によって、世間的には幕が下りたことになっていた楡家殺人事件。しかし、事件から四十二年経った平成二十年に、事態は再び動き出す。この年、仮釈放となった治重は、義妹の橙子宛てに手紙を出した。そこには、「澤子と芳雄を殺した人間は断じて僕ではありません」と記されていた。彼は、ある理由で自ら罪を認めたことにせざるを得なかったというのだ。
治重が橙子に手紙を出したのは、単に彼女が事件関係者のうち数少ない生き残りだからではない。二人は初めて出会った日から互いに惹かれ合っていたが、結婚を人間支配の決め手と信じて疑わない専制君主的家長であった伊一郎の意思に従い、それぞれ配偶者を迎えざるを得なかったのだ。そして、橙子は推理小説マニアだった。自らも長年の刑務所暮らしのあいだに推理小説を耽読した治重は、橙子への手紙で、ある人物を真犯人として指名し、その推理が合っているか判断を仰ごうとする。
本書の本格ミステリとしての狙いについては、「二人の往復書簡が『毒入りチョコレート事件』を根底から覆す!」という単行本版の帯の惹句がずばり指し示している。『毒入りチョコレート事件』とは、イギリスの作家アントニイ・バークリーが一九二九年に発表した本格ミステリだ。ユーステス・ペンファーザー卿に宛てて送られてきたチョコレートを譲り受けたベンディックス夫人が、仕込まれていた毒によって落命した怪事件について、「犯罪研究会」の六人のメンバーがそれぞれ異なる推理を唱えるという内容であり、貫井徳郎の『プリズム』(一九九九年)、西澤保彦の『聯愁殺』(二○○二年)、米澤穂信の『愚者のエンドロール』(二○○二年)、深水黎一郎の『ミステリー・アリーナ』(二○一五年)などの後世の多重解決ミステリに大きな影響を与えた。本書も、芳雄殺害に用いられたのが毒入りチョコレートである時点で、バークリーの作品に対するオマージュの意図は明々白々だろう。だが、それだけにとどまらない趣向が本書には用意されている。それが、先に引用した帯の惹句にもあった「往復書簡」だ。
書簡体ミステリの傑作といえば、大下宇陀児の「偽悪病患者」(一九三六年)、横溝正史の「車井戸はなぜ軋る」(一九四九年)、山田風太郎の「死者の呼び声」(一九五二年)、中井英夫の「蘇るオルフェウス」(一九七一年)、井上ひさしの『十二人の手紙』(一九七八年)、連城三紀彦の『明日という過去に』(一九九三年)、湊かなえの『往復書簡』(二○一○年)などが思い浮かぶし、著者自身もかつて、『敗者の告白』(二○一四年)でこのスタイルに挑んでいる。
書簡体ミステリのメリットは、一人称の内的独白のスタイルと同じように登場人物の内面で繰り広げられている思考を描けると同時に、そこに平然と虚構を紛れ込ませることも可能な点だ。つまり、一見書き手の率直な思考や感情と思われる記述も、真実である保証はどこにもない。それどころか、書簡を出した目的にも裏があるかも知れないのだ。本書の場合で言えば、治重と橙子の往復書簡にはそれぞれの意図が秘められている可能性があり、読者は手紙に書かれたことのみならず、その裏面までも洞察しなければならないのである。
治重と橙子の往復書簡には、関係者たちが事件後どうなったか、栄華を誇った楡家がどんな運命を辿ったかなどが記されている。それらの事実を踏まえつつ、二人は相手の仮説の弱点を指摘し、より説得力のある推理を上積みしてゆくのだが、それは次第に過熱し、互いの心理の読み合いへと発展する。その過程では事件関係者の大部分が、一度は犯人として指名されるのである。治重が最初から有力な容疑者扱いされたのは、他に動機を持つ者たちがいてもアリバイが証明されたからだった。だが、それらのアリバイは本当に成立するのか? 仮説が検討されるたびに、一度はすべてのピースが嵌まったかに見えたパズルがバラバラに戻り、全く別の構図を新たにかたちづくってゆくさまは多重解決ミステリの醍醐味そのものと言えるだろう。
さて、本書の四分の三くらいまで来たところで、往復書簡のパートは終了し、事件はまた新たな展開を見せる。そこで明らかになるのは、四十年以上の歳月をかけてじっくり煮詰められた壮絶な情念のドラマであり、その坩堝から生み出された巧妙なトリックである。すべての真相を知って、ここまでスケールの大きな仕掛けだったのかと茫然とする読者も多いのではないか。そして、記述のすべてが推理のための伏線として無駄なく機能している点にも感嘆を禁じ得ない筈だ。また、極めて手の込んだ濃密なミステリでありながら、この内容をコンパクトにまとめているため、作品全体としては意外とスマートな印象を漂わせるあたり、手練の筆致と評するべきだろう。
著者は一九四七年生まれ。弁護士として長年活動した後、六十歳になったのを機に退職し、二○一○年に『鬼畜の家』で第三回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し(一田和樹『檻の中の少女』と同時受賞)、翌年にこの作品で作家デビューした。弁護士としての豊かな経験で培われた法律および現実の犯罪の知識を作家としての武器としつつ、本格ミステリの書き手としてのただならぬセンスを発揮し続けているが、長篇は本書が最新作にあたる。巧妙な欺瞞が仕掛けられた、著者にしか書けない本格ミステリの傑作を今後も期待したいところだ。
作品紹介・あらすじ
欺瞞の殺意
著者 深木 章子
定価: 858円(本体780円+税)
発売日:2023年02月24日
このミス、本ミスW受賞の注目作。往復書簡で真相に迫る、本格ミステリー
昭和41年。地方の資産家楡家の当主がゴルフ中に心筋梗塞64才で逝去。親族しかいない法要が屋敷で執り行われるがそこで殺人事件が起こる。長女と孫(早死にした長男の子)がヒ素で死んだのだ。調査を進めると、殺された長女の婿養子の弁護士のポケットから、ヒ素をいれたチョコレートの紙片が発見された。
「わたしは犯人ではありません。あなたはそれを知っているはずです――。」
無実にもかかわらず「自白」して無期懲役となったその弁護士は、事件関係者と「往復書簡」を交わすことに。「毒入りチョコレート」の真犯人をめぐる推理合戦は往復書簡の中で繰り広げられ――、やがて思わぬ方向へ「真相」が導いていく――。「このミステリーがすごい!」2021年版 国内編(宝島社)と「2021年本格ミステリベスト10」国内ランキング(原書房)で堂々7位のW受賞作品。A.バークリーの『毒入りチョコレート事件』をオマージュとした本格ミステリ長編。
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