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レビュー

映画公開も間近!ファッションの力で社会通念を覆す『ミセス・ハリス』――『ミセス・ハリス、パリへ行く』著:ポール・ギャリコ 訳:亀山龍樹 文庫巻末解説【解説:町山智浩】

もうすぐ60歳の家政婦さんがディオールのドレスに恋をした!
『ミセス・ハリス、パリへ行く』著:ポール・ギャリコ 訳:亀山龍樹

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

ミセス・ハリス、パリへ行く』著:ポール・ギャリコ 訳:亀山龍樹



『ミセス・ハリス、パリへ行く』 文庫巻末解説

角川文庫版 解説
まちやま ともひろ(映画評論家)

 ポール・ギャリコの小説『ミセス・ハリス、パリへ行く』(1958年)は、一種のおとぎばなしとして書かれています。ロンドンで毎日毎日ほこりをかぶって床を磨いていた還暦近い家政婦ハリスさんが、努力と幸運と善意で、パリの高級ドレスを仕立てることになる、まさにシンデレラ・ストーリーです。
 しかし、その背景には、当時、イギリスやフランスで起こりつつあった社会変動が隠されています。
『ミセス・ハリス、パリへ行く』は何度か映像化されましたが、刊行から64年後の2022年に映画化されたバージョンでは、原作には書かれていない時代的な背景までも物語に盛り込んでいます。ここでは、それについて解説してみます。
 ハリスさんは「通いの家政婦」、原語ではチャーウーマン Charwoman といいます。チャー Char はチョー Chore(雑用)と同語源です。彼女たちは最低賃金の時給で暮らし、朝から晩まで何十年働いても、決して豊かになる可能性はありませんでした。
 当時のイギリスは格差の大きな階級社会で、親から受け継いだ土地や資産のおかげで生まれた時から何不自由なく暮らす上流階級と、ハリスさんのような労働者階級に大きく分かれ、その身分は固定されていました。
 そんな未来のない社会に対する怒りを描いたのが、1956年のジョン・オズボーンの戯曲『怒りをこめて振り返れ』でした。それがきっかけで、労働者階級の若者たちのへいそくかんを描いた文学や映画が次々と生まれ、「怒れる若者たち」と呼ばれました。最も有名なのは1959年にアラン・シリトーが書いた『長距離ランナーの孤独』でしょう。労働者階級の少年がグレて「感化院」(非行少年の教育的保護を目的とした施設)に入りますが、長距離走の選手として認められます。彼は長距離レースで2位以下を大きく引き離しますが、ゴール直前で立ち止まります。自分を踏みにじってきた社会への反逆として。
 ハリスさんは怒れる若者ではありませんが、一生縁がないと思われたオート・クチュールのドレスを作ることが、彼女なりの反逆であることはいうまでもありません。
 オート・クチュールのドレスはハリスさんの年収とほぼ同じ値段ですが、値段だけが問題ではありません。それは、彼女をけ者にする上流階級そのものの象徴です。
 オート・クチュールは直訳すれば「高級仕立て服」ですが、高級なオーダーメイドならオート・クチュールと呼べるわけではありません。パリ・クチュール組合(通称サンディカ)に加盟したメゾンで縫製されたものだけを指します。加盟するには厳しい条件と審査があります。
 そして、どれも一点ものです。今はハリウッドのセレブがアカデミー賞授賞式で着たドレスですら、お金を出せば誰でも買える時代ですが、当時はそんなことはありえませんでした。だから、ファッションショーも大会場ではなく、オート・クチュールのメゾンの中で、ごくごく限られたお得意様だけに見せるものでした。つまり貴族や大富豪の御婦人方だけに。
 だからハリスさんがディオールのメゾンを訪ねても、そこにはショーウインドウなどはありません。彼女はそこが大金持ちのためだけの閉ざされた場所だとすぐに気づきますが、それでもおじづいたりあきらめたり卑屈になったりすることなく、堂々と、ショーを見せろと要求します。親や夫の金ではなく、自分自身が汗水垂らして稼いだ金を持ってきたのに何を恥じることがあるのか。
 ディオールのマダム コルベールさんは、ハリスさんを見て「ふしぎな風格」を感じます。風格とか気品はその人の生まれ育ちや着ている服ではなく、内面から立ち上がるものだからです。
 ディオールのモデルのナターシャと会計係のアンドレ・フォーベル君も、他のクチュリエール(お針子さん)たちもハリスさんのファンになります。みんな庶民ですから。
 ところで、アンドレ君の顔には戦争で負った傷があると書かれています。彼の年齢からすれば、1954年から1962年まで続いたアルジェリア戦争でしょう。フランスの植民地の独立戦争で、独立を阻止しようとしたフランス軍は民間人虐殺までしました。しかし結局は負け戦に終わり、徴兵されて戦場に送られ、地獄を体験させられたフランスの若者たちは、政府への怒りを表明し始めます。
 このような若者たちの反逆は世界規模で広がっていきました。その理由は2つ。第二次世界大戦後、世界の産業が急激に発展し、労働者の収入が増えていったことです。それにベビーブームで、さらに若者の人口が激増したことです。こうして「中流」が激増していきました。それ以前の社会は、数少ない資産家と大量の貧しい労働者だけで構成されていましたが、戦後、「中流」が人口の半分以上を占めるようになり、彼ら「大衆」こそが、社会の主役として、権利を主張し始めたのです。
 そして社会が変わっていきます。1958年に英国では「一代貴族法」が成立します。それまで貴族と庶民は血筋で厳密に分離されていたのですが、この法律で生まれに関係なく男爵になれるようになりました。それ以来、世襲の貴族の特権はどんどん失われ、身分社会は崩壊していきました。
 フランスではサルトルの実存主義が若者の人気を集めます。サルトルはアンガージュマンという思想を主張しました。政治や社会に参加し、それを変えなければ生きる意味がない、という考えで、社会の主役になっていく人々の心をきつけました。
 政治だけではありません。中流は経済の主役にもなっていきます。大量の中流の消費力は、わずかな富裕層のそれを数で圧倒します。ファッションの世界でも、消費力を持った中流のために、超高級なオート・クチュールと「るし」と呼ばれていた安物の既製服の間の商品が求められるようになります。
『ミセス・ハリス、パリへ行く』が書かれた時、実はオート・クチュールの全盛期の最後で、その後、ディオールを含めたメゾンはどこも大衆時代に合わせてビジネスを転換せざるを得なくなります。しかも、創始者のクリスチャン・ディオールは1957年にすでに亡くなっているのです。
 面白いのは、2022年の映画化で、アンドレ・フォーベル君に眼鏡をかけさせていること。眼鏡をかけたアンドレ君の見た目は、1958年当時、創始者亡き後のディオールをアートディレクターとして背負っていた22歳の天才デザイナー、イヴ・サン゠ローランそっくりなのです。
 サン゠ローランは1960年、アルジェリア戦争に徴兵され、軍隊内のいじめで精神を病み、精神科に入院します。それで戦争や権力への深い怒りを抱いたサン゠ローランは、サルトルが提唱する社会変革の思想に傾倒していったといいます。2022年の映画版のアンドレ君もサルトルの愛読者として描かれています。
 1966年、サン゠ローランは自分のブランドから既製服、プレタポルテのラインを発売します。それは、特権階級のファッションを人民に解放する、彼なりのアンガージュマンだと言われます。
 60年代は意識革命の時代でした。成人になったベビーブーム世代がそれまでの価値観すべてに反抗したのでカウンターカルチャーともいいます。彼らにとって、ファッションはおしゃれを超えた自己主張、絵を描いたり歌を歌ったりするのと同じ「表現」になっていきました。ロックミュージシャンは、新進気鋭のデザイナーの服を、競うように着ました。個性的であればあるほど素晴らしいとされました。他人にどう見られるか、どこに着ていくのか、年相応か、そんなことはどうでもいい。自分が着たいから着るのだと。
「着たいから着る」ミセス・ハリスは、そんな革命を先取りしていたのかもしれません。
 好きな服を着ることが自己表現だった時代が遠く過ぎ去り、均一なファストファッションが世界を支配してしまった現在から見ると、本当におとぎばなしのようですが。

作品紹介・あらすじ



ミセス・ハリス、パリへ行く
著 ポール・ギャリコ訳 亀山 龍樹
定価: 990円(本体900円+税)
発売日:2022年10月24日

【映画原作】もうすぐ60歳の家政婦さんがディオールのドレスに恋をした!
1950年代のロンドン。ハリスおばさんはもうすぐ60歳の通いの家政婦。夫を亡くし、質素な生活を送っている。ある日、勤め先の衣装戸棚でふるえるほど美しいクリスチャン・ディオールのドレスに出会う。今まで身なりを気にしてこなかったが、自分もパリでドレスを仕立てようと決意し、必死でお金をためることに。やがて訪れたパリで、新しい出会い、冒険、そして恋? 何歳になっても夢をあきらめない勇気と奇跡の物語。解説・町山智浩
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322206000778/
amazonページはこちら


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