名探偵・浅見光彦登場から40年! 旅情ミステリーの最高峰
内田康夫『日蓮伝説殺人事件』文庫巻末解説
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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内田康夫『日蓮伝説殺人事件』
内田康夫『日蓮伝説殺人事件』自作解説
いまから七、八年前のある夜、NHKテレビのドキュメンタリー番組で、山梨県甲府市にある宝石メーカーを取材、紹介していた。従来、手作りで家内工業的に作られていた宝飾品を、デザインから仕上げまで、一貫生産する近代的工場が生まれた──というものであった。
宝石にあまり縁のない僕には、きわめて目新しい情報だったから、最初から最後まで興味深く視聴した。
流れ作業というわけにはいかないが、台座になるゴールドの加工技術などは、ダイカストの導入で、ある程度量産できるようになっているし、デザインの
公共放送だから会社名は紹介されない。しかし、建物の一部や工場内部などはきちんと見せてくれていた。そして番組は、こうした近代的な宝飾品メーカーが誕生したことによって、名産品である水晶の研磨など、従来からある山梨、甲府の業者のあいだに、ちょっとした動揺と旋風が巻き起こっている──と結んだ。
番組を見ているうちに、僕の頭の中にはぼんやりと、新しい作品のストーリーが思い浮かんだ。
甲府──山梨県から、
宝石と日蓮──このまったくのミスマッチといっていい題材をモチーフにして、物語が書けそうな気がしてきた。
日蓮については、子供のころ、学童疎開先が沼津市郊外の本能寺という日蓮宗の寺だったこともあって、多少だがなじみはある。日蓮は鎌倉時代、堕落した既成宗派に飽き足らず、攻撃的な
しかし、この作品を書くに当たって、強く僕の創作意欲をそそることになった原因は、前述した宝石メーカーを取材したときの奇々怪々な
テレビで紹介されたほどだから、甲府の新しい宝飾品メーカーは地元でも脚光を浴びているにちがいない──と思ったのだが、そうではなかった。甲府の宝石博物館を訪ね、山梨県宝石業組合といったたぐいのオフィスを訪ねて、問題の宝飾品メーカーの所在を尋ねると、なんと、僕がテレビで見たような近代的メーカーなど、この世に存在しないという答えが返ってきたのである。
キツネにつままれたというのは、まさにあれだ。詳しい経緯は作品の中で浅見光彦が遭遇したのと、ほとんど同じだと思っていただいていい。まことにひとを
その腹立ちまぎれの取材だったせいではないけれど、甲府では悪しきイメージの材料にばかり遭遇した。極めつけは「ほうとう」である。作中では「浅見ははじめて食べた」と書いたが、僕はめん類が好きで、山梨名物のほうとうも、過去にあちこちで食べて、
山梨県の名誉のために断っておくが、ほうとうは本来、旨いのである。山梨県の読者から何通もの手紙が来て、ほうとうの旨さを強調されたが、僕もそれは保証する。ほうとうを家庭で食べられるようにしたお土産のセットもあるから、ぜひいちどお試しになることをお勧めする。
しかし、やらずぶったくりみたいな悪い業者が一つでもあると、全体のイメージまで損なわれることになる。たかがほうとうと言うなかれ、その精神はすべてに通じるといっていい。大噓つきの宝石業界もそうだし、作品とは関係ないが、後にニュースにもなったように、金丸某に操られ、汚職に塗れた建設業界も山梨県のイメージを汚し、市民や若者、子供たちの精神をスポイルしているにちがいない。山梨県にかぎったことではなく、社会や市民の範となるべきおとなたちがそんな体たらくでは、イジメ問題などで立派なことを言えたものではないだろう。
それはそれとして、そういう背景があったからこそ、この物語は生まれたともいえる。宝石業界内の確執や宝石デザイナーについてはもちろん、女性の宝石鑑定士のことなど、いままで知らなかった世界に触れるだけでも、十分にエンターテーメントの要素があると思った。取材に協力してくれた宝石鑑定士は若い女性で、彼女がそのまま「伊藤木綿子」のモデルになった。ちなみに彼女の名は勁文社という出版社の編集者の名前を借りた。伊藤氏には後に『鐘』を書いた際、出身地である富山県の方言指導を頼んだりしている。そのくせ、彼女の度重なる執筆依頼に、いまもって応えていないのが心苦しい。
『日蓮伝説殺人事件』は実業之日本社の「週刊小説」に十六回にわたって連載された作品に加筆して刊行した。連載終了後に千葉県の
連載を開始してから起算すると、すでに七年を経過している。天安門広場の事件も記憶が薄れた方が多いだろう。山梨の宝石業界の因習に満ちたしきたりは改善されたかもしれない。
しかし、世の矛盾や不条理は基本的には何ひとつ変わっていない。むしろ、奇々怪々の事件は増える一方である。この文章を書いている朝も、東京の地下鉄で、死亡者を含む驚くべき多数の被害者が出たという「毒ガス事件」が発生した。去年の六月に長野県松本で起きた「サリン事件」を
考えてみると、社会の秩序のかなりの部分は、人々の良識と善意を前提に、あやうく成立しているといっていい。したがって、その良識と善意に対する信頼を裏切るような犯行に対しては、ほとんど無防備だ。多くの人は、隣の席の乗客が、理由もなくいきなりナイフで切りつける──などということは想定しないで生きているのである。
無防備の人々が相手なのだから、犯罪を行おうとする者にとっては、「裏切り」の場はいたるところにあるといえる。犯罪ばかりではない。政治、経済、宗教などのあらゆる場面で裏切りが日常茶飯的に横行している。政治を信じ、経済の仕組みに身を委ね、宗教に心の拠り所を求めるわれわれ庶民は、それらが裏切り行為に走った場合には、ひとたまりもない。そういう、いわば公的な「裏切り」が人々の公徳心を
山梨県では何年か前、金融機関に勤める若い女性が誘拐され殺された事件があった。たまたま被害者が僕と同姓だったこともあって、無関心ではいられなかったが、彼女のケースもまさに善意を悪用され事件に巻き込まれたといえる。その事件報道を知ったとき、僕はなぜか宝石博物館の入口でしらじらしい
『日蓮伝説殺人事件』を書いた一九八九年は僕がもっとも多作だった時期で、この年に刊行した作品は『隠岐伝説殺人事件(下巻)』から『神戸殺人事件』まで十三冊にのぼる。その中で『日蓮──』は僕のとりわけ好きな作品である。取材旅行で出会った出来事のひとこまひとこまが、これほど有効に使われた作品はほかにあまり例がない。久しぶりに読み返して、その当時のことが思い出される。一生懸命になって噓をついていた宝石博物館の人々や、あんなに不味かったほうとうでさえも、しだいしだいに懐かしく思えてくるのである。
一九九五年三月二〇日深夜
内田 康夫
作品紹介・あらすじ
内田康夫『日蓮伝説殺人事件』
日蓮伝説殺人事件
著者 内田 康夫
定価: 990円(本体900円+税)
発売日:2022年02月22日
名探偵・浅見光彦登場から40年! 旅情ミステリーの最高峰
宝石鑑定士・伊藤木綿子に、宝飾メーカーの専属デザイナー・白木美奈子が相談を持ちかけた。彼女が手がけた製品に粗悪な石が混在していたというのだ。美奈子は木綿子の恋人・塩野満の素姓も尋ねる。だが数日後、美奈子は死体となって発見され、塩野も事件発生の翌日、木綿子に連絡を残して消息を絶った。日蓮聖人のルポを依頼され、山梨にきた浅見光彦は、伝説シリーズ最大級の謎と煌びやかな宝石の世界に幻惑されるが……!
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322110001003/
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