角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
荻原浩『それでも空は青い』
荻原浩『それでも空は青い』文庫巻末解説
解説
以前、冬のフィンランドを訪ねたことがある。目的はオーロラ観測。しかし滞在中天候不順で空はずっと厚い雲に覆われていた。帰国まであと数日という日、焦りが募ったわたしはたまたま入った土産物屋の主人に愚痴をこぼすように
「オーロラはいつ見えるんでしょうね」
すると主人は言った。
「オーロラは見えないだけで、今も出ている」
オーロラは雲の上に出ている。地上からは見えないだけ。そう言われてハッとした。
見えないと、そこにあることを忘れてしまう。オーロラに限ったことじゃない。
心もそうだ。
たとえ見えなくても一人一人が持っていると知っている。それなのに相手の心を傷つけたり、自分の心を
もし心に形があったなら、傷つけることをためらうのではないか。
なぜなら人の心を傷つければ、自分の心が痛むから。個々の心は、きっと見えない何かで
本書を読みながら、わたしの心はチクチクと針を刺されたようになったり、素手で絞られるようだったり、空に放たれた風船みたいに軽くなったり、一話ごとに心の
「スピードキング」はプロ野球選手・
「俺」は甲子園出場、プロ選手を目指して野球の強い高校へ進学したが、その先に藤嶋がいた。藤嶋は圧倒的な実力で光を放ち、やがてプロの世界へ。「俺」はその影とならざるを得なかった。
影から光を見つめることはできても、光から影は見えない。いつしか心も見えなくなっていた。しかし光と影が交わる瞬間が訪れる。
野球を通して「俺」と藤嶋の人生は交差し、藤嶋の死により「俺」は野球を振り返り、ラストで車を走らせる「俺」の心は間違いなく動き出していた。
「
かつての同窓会で「いいね!」をもらった
帰国子女の桜井はクラスで注目を集め、
人が見えないものが見える──それは妖精でもあるし、心でもある。自分が見えないものを他の誰かが見てしまうことを恐れる。まるで中世の魔女狩りみたいだが、現代だって魔女狩りに近いことは起こってしまう。
逆に見えていたものが見えなくなることもある。大切な人の心の変化を見逃してはいけない。
「あなたによく似た機械」の主人公・
ロボットは人間を模造した機械。誰かに似せたロボットなら、その人の心が宿らないとは言えない──。
「僕と彼女と牛男のレシピ」は昔の思い出を共有できない年上の彼女がいる
本書は七つの短編が収められているが、実に多彩で味わいが豊か。多くの話でスポーツ、とりわけ野球が登場する回数が多い。子どもの頃からテレビ観戦し、実際にやってみた人が多いからだろうか。わたしはそれほど野球に詳しくないけど、野球が好きな「牛男」の熱は伝わってくるし、段々と「牛男」の心が開いていくのもわかる。
「君を守るために、」はあまり内容に触れると読む楽しみを奪ってしまいそうで怖い。
そう、これはホラーだ。ただしそれほど怖くはない。怖くないホラーはホラーなのか? 怖い話が苦手なのだが、三日月を横に倒した形の唇から「ヒー」と声が漏れそうになった。笑っちゃうのに怖い、新しい感覚。心は肉体とともになくならない。死んだ人を思い続ける限り、その人の心に死んだ人の心は居続ける。
「ダブルトラブルギャンブル」の主人公は双子の
同じ親に同じように育てられても、持って生まれた性格は違うように、心もそれぞれ違う。生まれてからずっと一緒だった二人は、心を寄せ合い、支え合ってきた。何しろ双子の悩みは当事者が一番よくわかっているのだから。
「人生はパイナップル」には再び野球が登場する。
じいちゃんから野球を教わった「ぼく」の人生と、戦時中を
中学で甲子園出場を果たしたじいちゃん。
一方、学校でうまく
その野球を巡り「噓をついた」という「ぼく」の汚名をそそぐためじいちゃんは行動する。
「手の中の
ボールを投げる代わりに手榴弾を投げることになったじいちゃん。そのせいで肩を壊し、野球を続けることを
野球を最優先した進学を両親に反対された「ぼく」は、じいちゃんに相談するが、思ったような答えは返ってこない……。
「人生はパイナップル」……じいちゃんの言葉は「ぼく」の心に一編の詩のように刻まれる。
輪切りのパイナップルの
言葉とは言葉でしかなく、パイナップルはパイナップルでしかない。しかしそれを受け取ったものは、その意味を
じいちゃんは人生をパイナップルに重ね、「ぼく」もまたじいちゃんを通してパイナップルの意味を探していく。答えはそれぞれの心が出していく。
ひとつひとつの心が絡まり合って、たった一つの物語がうまれてくる。小説はフィクションではあるけど、そこにある心はフィクションではない。
小説に表れる心が伝わるから、読者の心は動く。痛さも、切なさも、
本を閉じれば物語から離れ、現実へと立ち返る。どんな現実に生きていても、誰もが同じ空の下にいることを思う。
たとえ闇の中にいても、世界の裏側では陽が昇っているし、空が雲に覆われていても、その向こうは青い空が広がっている。
見えない心は必ずそこにある。そう信じる力をくれる一冊だ。
作品紹介
それでも空は青い
著者 荻原 浩
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2021年11月20日
『神様からひと言』著者の感動作! 明日への元気がもらえる7つの物語
「うん」「いや」「ああ」しか言わない夫に、ある疑いを抱く妻。7歳年上バツイチの恋人との間にそびえる壁をどうにか飛び越えようと奮闘するバーテンダー。子どもの頃から築きあげてきた協力関係が崩壊の危機を迎える双子。外ではうまく喋れずに、じいちゃんと野球の練習ばかりしている小学生……。
すれ違ったりぶつかったり、わずらわしいことも多いけれど、一緒にいたい人がいる。人づきあいに疲れた心に沁みる7つの物語。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322103000600/
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