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レビュー

聖人に憑かれた男は異形の魔物と化し――1枚の聖画を巡る、ハードボイルドの枠を超えた追走劇!『魔物』

 ベレッタM85から放たれた弾丸が、ガリガリに瘦せた大男のこめかみに突き刺さる。しかし、穿うがたれた穴からは一滴の血も出ない。いったい、なぜ?……。
『魔物』はタイトルの通り、われわれ人間の常識を超えた魔物、怪物と形容するほかはない恐るべき敵との戦いを描いた作品だ。
 物語は日本から遠く離れたシベリアの大地から始まる。ロシア正教会の司祭が、あるものを日本海に沈めてくれと幼なじみに頼む。白い布に包まれたそのものとは、いわくつきのイコン(聖像画)だった。しかし、麻薬の運び屋をやっている幼なじみは、司祭との約束を果たす前に「ロックマン」と呼ばれる冷酷無比な男に射殺される。死神のような男がこのイコンを手にしたことが、これから起こる災厄の始まりだった。
『魔物』は二〇〇七年刊行。作者の大沢在昌は私立探偵・佐久間公シリーズなどのハードボイルド小説、『新宿鮫』(一九九〇年)などの警察小説のほか、アクション、SFなどさまざまな要素を盛り込んだ作品を発表してきた、現代のエンターテインメント小説を代表する作家の一人である。
 近年の大沢作品に特徴的なのは、国際犯罪を扱った作品が多いことだろう。国際犯罪組織のブラックマネーの流れを追う組織、ブラックチェンバーの活躍を描く『ブラックチェンバー』(二〇一〇)はその収穫の一つだ。『魔物』も、ロシアマフィア、ヤクザ、麻薬取引というきわめて現代的な題材を取りそろえている。
 主人公は北海道厚生局麻薬取締部に所属する麻薬取締官・大塚、三十一歳。ロシアマフィアとヤクザの麻薬取引の実態を明らかにすべく、捜査を続けている。麻薬取締官と警察の対立、マフィアとヤクザの麻薬取引の密告など、麻薬ルートをめぐる実態が次々に明らかにされていく展開はまさに大沢在昌ワールドだ。大塚の上司が『無間人形 新宿鮫Ⅳ』で鮫島とともに戦った麻薬取締官、塔下であることにニヤリとする読者もいるだろう。
 ところが、物語はある場面から大きく変化していく。北海道にやってきたロックマンが大塚と初めて遭遇するシーンだ。
 不意に激しい風が吹きつけ、ロックマンが現れる。大塚はロックマンに銃弾を浴びせるが、まったく堪えた様子がない。しかも、ロックマンの睫毛は異様に長く、頰骨にかかるほどだ。睫毛の奥の瞳はまったく見えず、不気味なことこのうえない。さらに、ロックマンは怪力で人を殺した後、その場からかき消すようにいなくなってしまう。
 やがて大塚は、ロックマンが「カシアン」に憑依されていることを知る。カシアンとはロシア正教会の聖人であり、恐ろしい魔物でもある。カシアンのなかに絶対的な「悪」を見いだした大塚は、麻薬取締官という仕事の領分を越え、「悪」を倒すという目的のために、カシアンを追い始める。こうしてこの小説は「麻薬取締官を主人公にしたミステリ」という枠組みから逸脱し、ミステリ、ホラー、アクションなどの要素をはらみつつ、予断を許さない展開を見せ始める。
 ところで、『魔物』の重要なキーであるカシアンの伝説は実在する。巻末に参考文献としてあげられている『ロシア民俗夜話』(栗原成郎著)に「妖怪聖者」として一章を割いて紹介されているのだ。『魔物』に出てくるエピソード以外にも、カシアンについてのさまざまな伝説が紹介されているので興味のある方はぜひ読んでみてほしい。
『魔物』は、カシアンという超自然的な存在が登場するという点において、数多い大沢作品のなかでも異色作と言っていいだろう。ここで、超自然的な存在を物語に登場させた理由を推測してみよう。
 一つはエンターテインメントとしての面白さの追求だ。大沢はこれまでも、女刑事の脳をマフィアのボスの愛人の身体に移植する『天使の牙』シリーズや、死んだ人間が科学的に蘇らされてしまう『ウォームハートコールドボディ』など、奇想天外な発想から生まれたエンターテインメント作品を執筆している。『魔物』も、多くの人々の命を奪ってきたロシアの魔物が現代の日本に現れたら、というアイディアは興味をそそる。しかも、世界が狭くなったいま、SARSが世界中に飛び火するように、ロシアの魔物が日本にやってきても不思議はない。
 もう一つの理由は、カシアンの存在が日本という国、現代という時代に対するカウンター的な存在として機能するからではないか。かつてカシアンは人々に災厄をもたらしたが、現代の日本においてカシアンがなす「悪」はどのように見えるだろう。作中で大塚はこんなことを言っている。

昔は、残酷な犯罪が起こると、『人間のやることではない』などといわれたものだった。それはつまり、人が人を信じていたからだ。なのに今は、誰がどんな罪を犯しても、そうはいわれなくなってしまった。人間が一番恐ろしいと誰もが思っているからじゃないか

上巻三五八ページ

 いま、この国では、まさかこんなことが、と驚かされるような事件が次々に起こっている。いや、奇怪な事件が続きすぎて、もはやどんな事態にも驚かないかもしれない。カシアンという魔物の存在は、いまのわれわれが「悪」に慣れきってしまっていることの異常さを浮き彫りにする。
『魔物』は大沢在昌が超自然的な魔物を描いた異色作だと書いたが、実は、『暗黒旅人』(一九八九年)というホラーサスペンス作品がある。魔物退治の使命を帯びた小説家、御岳雄一郎が四つの魔物と戦う物語だ。作中、御岳と行動をともにすることになる刑事がこんなことを言っている。

人知を超えた全能の存在があるとして、それが半導体のかたまりではないことは確かなんだ

 超自然的な現象は、この「世界」が科学や合理性だけでは成り立たないことの象徴でもある。カシアンという、聖人にして魔物という存在は、善と悪という二つの対極を内側に抱えた非合理の最たるものだろう。だからこそ、その存在は消え去ることもなく、ただ封印されてこの世界に残されていたと考えることもできる。カシアンのような超自然的な存在は、われわれが住む世界になくてはならないものなのかもしれない。
 そしてまた、カシアンは主人公、大塚の内面と呼応する存在でもある。大塚は中学生のときに、好意を持っていた同級生を犯罪から救うことができなかった。そのとき、大塚は初めて人間の悪意の底知れなさを思い知った。大塚が麻薬取締官になったのも、このときの後悔が犯罪への憎しみへと変わったからだった。大塚がカシアンを追うのは、自分自身の内側にある憎しみに決着をつけるためでもあるのだ。
 大沢在昌はデビュー以来、ハードボイルド作家と目されてきた。しかし、『新宿鮫』以降は作品の幅が広がったこともあって、現在では多彩な作品を手がけるエンターテインメント作家という印象が強い。しかし、こと主人公のキャラクターを見る限り、大沢は一貫してハードボイルド的なるものを作品の土台に置いている。
『雪蛍』(一九九六年)のなかで、大沢は主人公の私立探偵・佐久間公に「探偵は職業じゃない。生き方だ」と言わせている。『魔物』の大塚もまた、麻薬取締官という職業のためにではなく、忘れることのできない過去と向かい合うためにこの事件を追い、譲ることのできないもののために戦っている。不死身の魔物に対して、大塚が臆せず立ち向かっていけるのも、それが生き方と結びついたギリギリの選択だからなのだろう。大沢作品が常に読者の期待を裏切らないのは、そこにいつもブレない主人公の姿があるからなのだ。


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