鉄道沿線の地理や名所を紹介する『鉄道唱歌』(作詞・大和田建樹)の「山陽・九州篇」(一九〇〇年)には、厳島合戦を題材にした「毛利元就この島に 城をかまへて君の敵 陶晴賢を誅せしは のこす武臣の鑑なり」の一節がある。
元就は、一代で中国地方に覇を唱え、(後世の創作とされるが)三本の矢の喩えを使って息子たちに結束の重要性を説いたエピソードでも有名である。ただ陶晴賢が何者で、元就と戦った理由は何かを説明できるのは、かなりの歴史好きだけのように思える。
戦国時代初期の大内氏は、中国地方の周防、長門、石見、安芸、九州の筑前、豊前などを支配する大大名で、陶家は大内氏の重臣だった。大内氏は、出雲、伯耆、備中を治める大国・尼子と対立しており、安芸国の郡山城を本拠地とする毛利は、情勢次第で大内に付いたり、尼子に付いたりする国衆に過ぎなかった。
大内氏の十五代当主の義興は京へ上り将軍を補佐するほどの力を持っていたが、その子・義隆は、武よりも学問、遊興を好み、政治、軍事は若くして陶家を継いだ隆房(後の晴賢)に任せていた。やがて義隆は、隆房に弑逆されるが、その前に、仇討ちを頼む手紙を元就に出していたという(この説は、一九一八年に刊行された大町桂月『七英八傑』などで紹介されている)。『鉄道唱歌』の「城をかまへて君の敵 陶晴賢を誅せしは」は、この逸話をベースにしたものである。ただ元就は、事前にクーデター計画を隆房から知らされ賛同していたようなので、史実では、元就は、主君の仇を討つため厳島で晴賢(この時は改名している)と戦ったわけではないのだ。
ただ、元就が長く主君の仇を討った「忠臣」とされてきただけに、隆房は、主君を殺し、大軍を擁しながら寡兵の元就に敗れた悪逆非道な愚将と見なされてきた。だが隆房は、義隆と不仲だった期間が長いとはいえ側近として大内氏の内政、軍事を取り仕切り、義隆を討った数年後の厳島合戦で、大内氏の兵を糾合し二万(一説には三万とも)の大軍を編成したので、人望と組織運営の能力は高かったように思える。
それなのに隆房が「悪名」にまみれ、元就が〝善玉〟とされているのは、元就との乾坤一擲の勝負に敗れ、業績が十分に理解されないまま、あるいは誤解を招く行為の弁明ができないまま死んだからではないだろうか。この辺りの事情は、信長に敗れたがゆえに、公家の風俗に染まり化粧、置眉をしていた、馬に乗れないほど太り輿で移動したなどの「悪名」だけが残り、外交と軍事に辣腕を振るい〝海道一の弓取り〟と恐れられた事実が忘れ去られている今川義元と同じかもしれない。
歴史に「悪名」を残す隆房を再評価した本書『悪名残すとも』は、若くして大内氏の命運を背負う立場に置かれ、プレッシャーをはねのけ実績を残していた隆房が、なぜ主君に叛くに至ったのか、なぜ互いに実力を認め合っていた元就と対立したのかを斬新な解釈で描いている。
天文九(一五四〇)年、尼子の三万の兵が、二千四百人が守る元就の居城・郡山城を包囲した。物語は、義隆の命を受けた陶隆房が、元就を救うための援軍一万を率い、郡山城近くに到着する場面から始まる。わずかな兵力で半年も落城を許さなかった元就の実力を看破した隆房は、まだ面識がない元就が次にこの一手を打ってくると予想、元就も自分の考えを理解して動いてくれると信じ、二人が連携できることを前提にした大胆な作戦を立案する。籠城戦後、二人は初めて顔を合わせた。この時、隆房は二十一歳、元就は四十五歳。元就も隆房の将器を認め、大内氏の力で乱世に終止符を打つという隆房の理想に共鳴し、文字通り微力ながら、隆房と大内氏を支える決意を固める。
天文十(一五四一)年、「謀聖」と恐れられた尼子経久が死んだ。隆房は、尼子の混乱をついて一気に本拠地・月山富田城を攻めるべきと主張するが、新参の相良武任を筆頭に、家中には相次ぐ出陣に反対し、調略で出雲国衆を切り崩すべきとする穏健派も少なくなかった。多数決によって義隆自ら大軍を率いての遠征が決まり、安芸で元就ら国衆を加え兵は二万三千余りになるが、敵の激しい抵抗もあって進軍は遅れに遅れる。
隆房ら武断派の失策をあげつらう穏健派は、再び調略を提案。義隆は、調略を行いながらペースを落として進軍する玉虫色の裁定を下す。長引く遠征に大内軍の士気は下がり、月山富田城に到着するも城攻めは難航する。国衆の離脱もあり戦線を維持できなくなった大内軍は撤退を開始するが、海路を退却していた船が転覆し、義隆が養子に迎えた養嗣子で、武術にも学問にも芸道にも秀でていた晴持が溺死してしまう。
将来を期待していた晴持の死は、義隆に無常観を植え付け、ひたすら刹那的な遊興にふけるようになる。さらに義隆は、耳に心地よい言葉をささやく武任を重用し、諫言を繰り返す隆房を遠ざけるようになる。
合戦のスペクタクルが連続する派手な冒頭部が一転、月山富田城攻めが失敗してからは、隆房派と武任派が暗闘を繰り広げる大内家中の派閥抗争にシフトする。といっても、相手に悟られないように多数派工作を行う陰謀劇もあれば、評定の場で政敵を論破しようとするリーガル・サスペンスを思わせる展開もあり、少しでも計算が間違ったり、決断が遅れたりすると死に直結する極限状態で行われる頭脳戦、心理戦が生み出す息詰まる展開は、合戦シーンに勝るとも劣らない迫力がある。
著者が秀逸なのは、閨閥による派閥固め、敵の追い落としを、大内家中では実際にこのような事態が起きていたのでは、と思わせるほど生々しく描いたことである。
正室の貞子にも、側室の小槻氏にも子供がいない義隆は、晴持の没後、晴英を養子にするも、その直後、小槻氏が懐妊する。小槻氏の子供は、武任との不義密通でできたとの噂もあったが、武任は小槻氏に取り入ることで義隆との関係をさらに緊密にし、隆房との政争を有利に進めていく。これに対し、美少年で義隆の寵童だったこともある隆房は、性技と将来の出世を餌に、義隆の衆道の相手を務める安富源内を手駒にし、義隆の動向を探るスパイに仕立てる。歴史小説には、主君の正室や側室に取り入って出世を目論む奸臣は珍しくないが、衆道が君臣の絆を確認する武士のたしなみだった事実を踏まえながら、それを逆手に取った謀略を作ったのは本書の独創といえる。男と女、男と男の渦巻く愛憎が、大内家中にさらなる混乱をもたらす異色のラブロマンスも面白く、特に義隆の寵童の一人で、スパイとして使って欲しいと隆房のところにやって来た四郎の存在は、後半の重要な鍵になっており見逃せない。
もう一つ本書が特徴的なのは、大国の大内氏が内側から腐っていくプロセスと、外交、謀略、合戦などの硬軟取り混ぜた戦略で勢力拡大をはかる元就を同時並行して描いたことである。これにより、国衆の支持と協力がなければ大名家は維持できず、独裁的な政権運営などできない不自由な存在であり、大国の狭間で生きる国衆は、時と場合によって仕える主君を変えるしたたかな戦略で生き残りをはかっていたなど、それぞれの領国経営の難しさが、よく分かるようになっている。
現代人は、戦国時代と聞くと織田信長、その後継者となって天下統一を果たした豊臣秀吉以降をイメージしがちだ。歴史小説では、信長、秀吉は中央集権的な体制を作ろうとした武将とされるが、それが史実だったとしても例外的で、多くの戦国大名は、国衆の利益を守る代表者に過ぎなかった。著作は、盟友となった隆房と元就を通して、大名家と国衆の微妙な関係を的確に捉えており、歴史好きならそのリアルさに、歴史に詳しくない方は常識が覆されることに、驚かされるのではないか。
大内氏の力を使って京に上り、やがては大内氏の領国のような平和で安定した地域を全国に広げるという夢を抱いていた隆房だが、武任の甘言で遊興にふけり、それに必要な費用を増税でまかなう義隆がトップにいては、大内氏は堕落していくばかりだと考えるようになる。領民のために義隆、武任の排除を決め、元就の協力も取り付けた隆房だが、元就は、大内氏を滅ぼしても隆房が頂点に立たない計画に甘さを感じていた。
隆房は、大内氏を存続させ改革派主導による組織再建の道を選ぶが、元就は腐敗した組織は一度潰し、新たな指導者のもとで出直すのが最善と考える。企業、官庁、政党など現代日本の組織も、業績不振や不祥事があると再出発の方法を模索するが、その時に、欠点を修復するのか、一から作り直すのか、再建の主体は現幹部か、新たに起用される幹部かが議論される。隆房と元就のスタンスの違いは、改革のあるべき姿とは何かを問い掛けており、一種の組織論としても見事である。
隆房と元就の関係でさらに興味深いのは、若い隆房が家臣の分を守って主家を盛り立てるという保守的な思考から抜け出せなかったのに、老境に差し掛かった年代の元就が、常識にとらわれない斬新な発想で勢力を拡大していく展開なのだ。
柔軟で失敗を恐れずチャレンジするのは若者と考えがちだが、日本の若者は安定志向が強く、ベンチャーではなく、大企業を就職先に選ぶことが多いという。巨大な組織は前例や過去の成功体験を重んじる傾向が強く(いわゆる大企業病)、これが若者の潜在的な能力を摘み、組織全体の生産効率を下げているとの指摘もある。
大企業病的な風土に蝕まれ躍進の機会を逃した隆房と、ベンチャー精神でのし上がっていった壮年の元就の対比は、年齢や世代で人間をカテゴライズすることの愚かさはもちろん、日本型組織が抱える構造的な欠点にも気付かせてくれるのである。
義隆を排除するところまでは同志だった隆房と元就は、やがて決別し、相手の追い落としを画策し始める。天才的な策士にして戦闘指揮官でもある二人が、敵の裏をかく凄まじい謀略戦を経て、決戦地となる厳島へと兵を進める終盤のスピード感とスリルは、まさにクライマックスに相応しい迫力であり圧倒されるはずだ。
隆房(死んだ時は晴賢)は悲劇的な最期を迎えるが、本書はバッドエンディングではない。晴賢を「凡物、愚物」という息子たちに、元就がかける言葉は、合戦に敗れ批判の的になった晴賢から学ぶべきことが如何に多いかを教えてくれるのである。
著者は、本書の後にも、石田三成の真意に迫る『治部の礎』(二〇一六年)、困難な道を進む今川義元を描く『海道の修羅』(二〇一七年)など、歴史の敗者に焦点をあてる歴史小説で、このジャンルに新たな地平を切り開いている。これらの作品も、本書と合わせて読んで欲しい。
ご購入&試し読みはこちら>>吉川 永青『悪名残すとも』
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