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レビュー

腕利きの剣士にして手習い師匠、雁野直春が恋の嵐に巻き込まれ……!?

 将来性豊かな「二つ目」が出てきたな――。
 それが『手蹟指南所「薫風堂」』を読んだ時の率直な感想だった。
 落語の世界にたとえるなら、前座から二つ目へと立場が変わったばかりなのに、すでに独自の芸風が垣間見える。人気も上々。きっと、抜擢で真打になれるほどの逸材だろう――。
 落語の世界では、真打は「到達点」であり、人によっては墓場と呼ぶこともある。そこからの上がり目は期待できないということだ。つまり、二つ目でどこまで駆け上がることができるかが芸人としての勝負なのだ。
 野口さんはこの作品で、手蹟指南所(寺子屋)という小さな世界を舞台としながらも、人間の情と欲を丁寧に描き出していく。物語は大きく動くことはないのに、読んでいると大きく感情を揺さぶられるのだ。
 最大の魅力は二十歳の主人公、雁野直春の爽やかさにある。
 イキのいい二つ目が出てきたな、と思った所以である。

 二〇一一年、六十七歳を迎える年に作家デビューした野口卓さんは、書き手としては晩稲だが、その芸風は驚くほど広い。
 野口さんの出世作となった『軍鶏侍』シリーズは、南国の園瀬藩を舞台に、御家騒動や緊迫感あふれる決闘場面など、まさに時代小説の本格派の佇まい。このシリーズからは『遊び奉行』というスピンオフまで飛び出しており、野口さんが紡ぎ出す世界観が完成しつつある。
『軍鶏侍』は、いわば楷書の時代小説。寄席でいうなら、堂々の主任、トリを務める名人だ。
 ところが武張った時代物ばかりではなく、最近、野口さんは『ご隠居さん』シリーズで世話物のクリーンヒットを打ち続けている。
 江戸の鏡磨ぎ、梟助はお得意先で鏡を磨ぐだけではなく、先方に望まれて「おはなし」をしたり、耳を傾けたりもする(最新刊では、梟助さんが聞き上手、だということがよく分かってきた)。落語を主題にしたものや、滑稽なはなし、そして摩訶不思議なはなしまで色とりどり。
『ご隠居さん』シリーズは、草書の時代小説だ。寄席だったなら、その日のお客さんを前にして、自在に自分の簞笥から噺を取り出して披露する名人芸の印象だ。
 硬軟自在に書き分ける野口さんだが、七十歳を過ぎて、またまた新シリーズを生み出した。それが二〇一六年の夏に発売された『手蹟指南所「薫風堂」』。
 主人公の雁野直春は、幼くして両親を亡くしたが、真面目な使用人夫婦に育てられ、すくすくと成長を見せる。七歳から手習所で読み書きを、九歳から町道場で剣を学び、十二歳からは儒学の私塾に通った秀才。そして十五歳で元服。しかし、所詮は浪人だ。生活は貧しい。
 とある夜のこと、直春が団子坂(現在の東京都文京区千駄木二丁目から三丁目にかけての坂。その道は谷中へと続いている)に差し掛かった時に事件は起きた。野口さんはこう書く。
「前方から来る老爺が坂を上りきったところで、団子屋の軒下に潜んでいた浪人者らしき武士が、一歩踏み出しながら抜刀した。
『金を渡してもらおうか』
 満月はすぎたが二月の十七日、立待の月なので十分に明るい。その光を受けて煌めく白刃を見た老人は、その場に尻餅をついた。
『あわわわわ』
 右手をまえに出し、左手を地面に突いて後退ろうとする」
 情景が鮮やかに浮かんでくるではないか。立待月、そして危難に遭遇し慌てる老爺の姿。蛇足だが、「左手を地面に突いて」という表現は絶妙だ。「左手を地面について」が自然だと思うが、「突いて」と書いてあるので、ピンと腕が伸びているのがハッキリと分かる。一文字変えただけで、緊張の度合いが増す。
 その場を目撃した雁野直春は、つばめのような敏捷さを見せ、老爺の危難を救う。そしてこれが縁となり、浪人だった直春は手蹟指南所の師匠に収まる――。
 出生の秘密、育ての親、そして危難を救った老爺の情があり、「家」をめぐってのいさかいがある。驚いたことに、直春は見事な剣の使い手であるにもかかわらず、老爺を救ってからは一度も剣を抜いていない。野口さんは戦いをまさに「封印」し、人と人の動きで物語を進めていく。
 さらには、美雪という美しい女性が登場し、いつしか彼女は直春にとって大切な人となっていく――。読んでいる方としては、直春がまっすぐに生きてほしい、と願うような気持ちになってくる。わずか、一作にして。
 そして、美雪を含む「三人娘」が直春に絡んでくるのが今回の第二作である。
 物語は、他の寺子屋を四度も追い出された問題児、儀助の「登山」から始まる(かつて、手蹟指南所や寺子屋に通い始めることを登山と言ったのだという。野口さんの並々ならぬ知識量!)。直春の師匠としての指導力が問われるところであるが、ここでも直春の人格が人々を新しい道へと導いていく。
 雲行きが怪しくなってくるのは、美雪の友だちであるノブ、菜実が薫風堂を訪れてからだ。ふたりは美雪の思い人である直春の顔をひと目見に来たのだが(図々しいったらありゃしない)、凜としたたたずまいの直春に魅了されてしまい――。さてさて、直春の周囲がややこしいことになっていく。
 まっすぐ生きてきた直春には「うぶ」という弱点があり、それが周囲の誤解を生んでしまう。真面目に人に向き合い、誠実であることが他人を傷つけるという、直春には思ってもみない展開になっていくのだが、改めて彼はまだ二十歳を越えたばかりの若者なのだ、ということに気づく。
『手蹟指南所「薫風堂」』は青年の成長物語なのである。

 それにしても、「雁野直春」とはなんと素敵な名前なのだろう。
 雁は二十四節気でいえば寒露の時期、晩秋になるとわが国に戻ってくる鳥だ。小林一茶は『けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ』と詠んだが、雁が連なって飛んでいるのを見ると、人々は季節が進み、これから冬の寒さが来ることを想像する。そして春になって、雁はまた飛んでいく。そういえば、歌舞伎の『義経千本桜』の『吉野山』には、春になって「帰る雁」という台詞があった。
 雁野、という苗字には秋から冬にかけての厳しさ、つらさが込められているように思えるのだ。
 しかし、野口さんが与えた名は「直春」。冬が過ぎ、まっすぐ春に進んでいく、そのままのイメージだ。
 きっと、雁野直春はこれからも縁談、家、血筋、そして手蹟指南所で様々な苦難に直面することだろう。しかし、きっとその先には満開の桜が咲く美しい春が待っていると予感させてくれる。
 あ、そういえば思い人の名は美雪だった。
 ここにも、季節が隠されている。
 今回は、「三人娘」から仕掛けられた恋模様で右往左往する直春だが、今回でまた人間の感情の機微を学んだに違いない。
 勢いのある二つ目は、人生勉強を積み重ね、春へと進んでいく。きっと、春を通り越して、薫風の季節まで一気に成長を見せてくれるに違いない。いまから野口さんが書く次の物語が待ち遠しくてならない。
 私は、雁野直春が真打になるまでを、じっと見届けるつもりだ。


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