つねづね小説は不思議な創作物だと思っている。朗読されることもあるが、大抵は目で見て読む。しかし視覚メディアには分類されない。見ているのは文字だけで、それ自体は単なる記号だからだ。しかし私たちはその記号の連なりを「読む」ことで脳内に次々にイメージを思い浮かべていく。まるで映画やドラマのように。言葉がイメージを喚起する力は強く、視覚メディア以上に没入感が強いかもしれない。
小説が言葉で構築された王国だとすれば、その主は小説家である。私たち読者はその国に入るのを許された旅人だ。そこで目にするもの、耳にするものは読者それぞれが脳内でつくり出している幻影である。考えてみれば作者と読者は何とも頼りない世界を共有しているわけだが、王たる小説家は私たちに魔法をかけている。あなたの脳内に投影されたイメージはリアルなものだ、と。
長々と小説について書いたのは、『イリュージョン 最終版』(以下『イリュージョン』)が視覚的な盲点を突いた小説だと感じたからだ。「最終版」と銘打たれている理由については後述するが、まず押さえておきたいのがこの小説が『マジシャン 最終版』(本書と同時に角川文庫から刊行される)の続篇だということである。続篇だからといって前作から読む必要はないが、十代半ばの少女マジシャン、里見沙希と、警視庁の舛城警部補が探偵役を務め、マジックが関わった事件に挑むという共通項は覚えておいていい。そして、この二作で描かれるマジックは、どちらも舞台の上で演じられるエンターテインメントにとどまらない。マジックは人間の知覚のあやふやさ、欺されやすさの象徴なのだ。そして、人間の知覚の中で大きな割合を示すのが視覚である。だが、小説は言葉を使ってイメージを呼び起こしているにすぎない。にもかかわらず、この小説は後述する「ミスディレクション」によって、視覚的な盲点を表現することに成功している。
『イリュージョン』は生活安全課のDVストーカー対策係の窓口から物語の幕を開ける。窓口にやってきた相談者に対し、女性警察官は職業的な観察眼を発揮して彼女の被害を判断する。しかし、舛城警部補を訪ねてきた里見沙希の観察結果はその逆だった。二人は同じ人を見ているにもかかわらず、その認識も解釈も異なっている。「見る」ことと、その情報を「解釈する」ことの難しさを読者はさっそく知ることになる。
また、同じ場所にいても誰もが同じものを見ているとは限らない。注意をどこに向けるかで見ているものは大きく異なる。そこで思い出すエピソードがある。ハーバード大学の同僚研究者二人が行ったちょっとした実験である。
二人はバスケットボールのビデオをつくった。そして被験者に片方のチームのプレイヤーたちが何回パスを交わすか、その数を数えるようにいう。被験者たちは必死にボールの動きを追いカウントする。しかし研究者はパスの数には興味がなかった。実は、この試合中にゴリラの着ぐるみを着た女子学生がフィールドに闖入し、カメラに向かって胸を叩くというパフォーマンスを行っていた。このことに被験者が気づいたかどうかこそ彼らが知りたいことだった。そして、驚くべきことに、ゴリラに気づいたのは被験者の約半数にすぎなかった(クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ『錯覚の科学』文藝春秋、二〇一一年)。
にわかには信じられない結果である。しかし、私たちの目はそれほどまでに欺されやすい。注意が逸れれば、視界に入っているはずのものが見えない場合があるのだ。そして、それこそがマジックの根幹をなす「ミスディレクション」の源泉である。
『イリュージョン』のもう一人の主人公、椎橋彬はこのミスディレクションを効果的に使う技に長けていた。
観客はマジシャンの視線を追う。マジシャンが右手を見れば、客も右手を見る。いわば視線のフェイントだった。マジシャンの専門用語ではミスディレクションという。
p90
椎橋彬は舛城が追っている容疑者である。十代前半からマジックに親しみ、その才能を悪用した犯罪を重ねている。そこで舛城はマジシャンの沙希に捜査協力を願い出る。
では、椎橋彬とはどんな人物なのか。ここから物語は一人の少年の生い立ちへと視点を移す。父は紙芝居屋を自称していたが生活力がない。母は一家の生活を支えるためスナックを経営していたが経営状態は芳しくない。彬自身も冴えない少年時代を送っている。友だちに恵まれず、趣味はマジックのみ。母の店のレジから金を盗んではマジック道具を買い、マジシャンとして脚光を浴びる空想にふける。彬にとってマジックは現実逃避の手っ取り早い方法である。コインが消える。鳩が飛び出す。それらにはすべてタネがある。にもかかわらず魅せられている。いや、「にもかかわらず」ではなく、「だからこそ」なのかもしれない。タネがあるということは、自分も入手して練習すれば同じような魔法が使えるようになるのだから。
両親の不仲、離婚、母の逮捕という荒波に飲み込まれそうになった彬は中学卒業前に衝動的に家出をする。新宿歌舞伎町に流れ着き、ラーメン屋でテレビ番組を見たことがきっかけで万引きGメンになろうと思いつく。映像の中の万引きを簡単に見抜くことができたからだ。マジックに精通した彬にとって、万引き犯の「ミスディレクション」は幼稚なものだった。
『イリュージョン』の前半は、椎橋彬という少年がいかにして万引きGメンとして成功を収めたかというサクセスストーリーが描かれる。しかし、その裏側にはもう一つの物語がある。悪事を重ねるピカレスクロマン(悪漢小説)だ。万引き犯たちを次々に捕まえる一方で、彬は誰にも知られることなく犯罪に手を染める。しかし、二つの顔を知ってもなお、読者は彬に感情移入できるはずだ。なぜなら、彬の中に強い怒りがあることを知っているから。大人になりきれない未熟な両親に育てられ、自身も未成熟なまま社会に出て生きていかざるをえなかった。その理不尽への怒りである。
テレビに出演し、講演会をこなし、調子に乗った彬は、万引き犯のテクニックと称し、ついにマジックを講演会で披露してしまう。しかし皮肉なことに観客の食いつきはよく、さらに彬の名声を高めるのだ。マジシャン志望だった彬のショーマンシップが大いに発揮され、マスコミは彬を盛んに取り上げるようになる。「天才少年万引きGメン椎橋コナン君」というニックネームまでつけて。サクセスとピカレスクが裏表になった物語は、彬を取り巻く大人たち、ひいては現代社会のもろさをあぶり出す。
読者は彼の成功とその舞台裏をのぞきながら、やがてはその成功がもろくも崩れ去るだろうと心のどこかで予想するはずだ。カタストロフはいつ、どのように訪れるのか。予感と不安が入り混じるひりひりとした感覚が、この小説前半の大きな魅力である。
そして物語の後半は舛城がどのように彬を追い詰めていくかに焦点が絞られていく。彬の犯罪を暴くだけでは本当の解決にはならない。大人に対して不信感を抱き、反社会的行為に走った彬に更正のきっかけを与えることはできるのか。冒頭で鮮烈な印象を残した里見沙希がどのように活躍するのかも含め、物語の展開に目が離せなくなる。
ここで本書が松岡作品の中でどのように位置づけられるかを見ておこう。先述したように、この『イリュージョン』は「最終版」と銘打たれている。二〇〇三年刊行の『イリュージョン:マジシャン第Ⅱ幕』(小学館)およびその文庫版(小学館文庫、二〇〇四年)があるが、そこから大きく改稿され「最終版」となった。松岡圭祐ファンならご存じの通り、松岡作品は文庫化にあたって大きく書き直され、新しいものが「正史」となる。前作の『マジシャン』も今回「最終版」が『イリュージョン』と同時刊行される。
『マジシャン』には舛城警部補と里見沙希とが出会うきっかけとなった事件が描かれている。マジックを悪用した詐欺事件の捜査にあたった舛城が、マジシャン志望の沙希と出会い、事件の解決に挑むのだ。その続篇が『イリュージョン』なのだが、実はもう一作、里見沙希が登場する作品がある。『千里眼 マジシャンの少女 完全版』(角川文庫)だ。臨床心理士で元航空自衛官の岬美由紀を主人公とした「千里眼」シリーズの一冊である。法改正を前提に東京お台場につくられたカジノ・テーマパークの仮営業にあたり、沙希にイリュージョンを演じてほしいという依頼が舞い込む。しかし、その当日、ショーの会場が武装集団に占拠されてしまうというスケールの大きな作品だ。いまとなっては、今年(二〇一八年)、ついに成立したカジノを含む統合型リゾート(IR)実施法を先取りした作品となった。
三つの作品で描かれる里見沙希の人生を辿ると、同世代の若者たちに比べて恵まれない少女時代を送ってきたことがわかる。幼い頃に両親を失い、養父の後見はあったものの児童養護施設で育った。そして、孤独のうちにマジックに光明を見いだした。そう、里見沙希もまた、椎橋彬と同様、周囲の大人たちへの不信感を持って育ったマジシャンなのだ。それだけに『イリュージョン』のクライマックスで、二人の人生が交差するシーンは感動的なものになっている。
松岡圭祐はデビュー作の『催眠』(一九九七年)以来、「千里眼」「万能鑑定士Q」「特等添乗員α」「探偵の探偵」「水鏡推理」など、多数の人気シリーズを抱えるベストセラー作家として活躍している。この「マジシャン」シリーズはいまのところこの二作のみだが、今回「最終版」が揃って登場するということで、新たな新作が期待できそうだ。犯罪者たちが仕掛けるウソを鮮やかに見破る美少女マジシャン沙希と、彼女を見守る包容力のある舛城警部補。二人の新たな活躍を期待したい。
>>松岡圭祐シリーズ特設サイト
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