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(解説者:末國 善己 / 文芸評論家)
約半世紀前の一九六八年は、慶応から明治に改元(一八六八年)されてから百年後の節目だったことから、日本武道館で政府主催の明治百年記念式典が開かれるなど数多くのイベントが行われた。この時期は、ペリー来航から戊辰戦争までを追った大佛次郎『天皇の世紀』が連載(一九六七年~一九七三年)され、日露戦争を描いた東宝映画『日本海大海戦』(一九六九年)が公開されるなど、小説や映画でも明治を題材にした作品が増えていた。その中でも最も活躍したのが、一九六八年のNHK大河ドラマの原作に『竜馬がゆく』が選ばれ、陸軍軍人の秋山好古、その弟で海軍軍人の真之、真之の幼馴染みで俳人として写生運動を牽引する正岡子規──愛媛県松山市出身の三人の若者の成長を軸に日露戦争へと至る明治の群像を活写した『坂の上の雲』の連載(一九六八年~一九七二年)を始めた司馬遼太郎ではないだろうか。
一九六四年の東京オリンピックを成功させ、一九七〇年には日本万国博覧会(大阪万博)が控える高度経済成長の絶頂期にスタートした『坂の上の雲』は、技術革新と国家が一丸となるチームプレイで大国ロシアに勝利した明治の弱小国日本を、いち早く戦後復興を成し遂げ発展を続ける太平洋戦争後の社会に重ねていた。そのため『坂の上の雲』は、下瀬雅允が開発したピクリン酸を成分とする下瀬火薬、木村駿吉らが開発した三六式無線機といった最新テクノロジーと、砲台に据え付けられていた二十八サンチ砲を最前線に輸送した児玉源太郎、敵前で艦隊をターンさせる戦法を編み出した東郷平八郎、外債を売り困難な戦費の調達を成功させた高橋是清ら斬新な発想を持った才人たちによって日本が勝利したとするイノベーション史観がベースになっていた。
大阪万博のテーマが「人類の進歩と調和」だったことからも分かるように、新しい技術は人を幸福にすると信じられていた。しかし、安全でクリーン、資源の少ない日本に福音をもたらすとして建設が進められた原子力発電所の一つ福島第一原子力発電所が、二〇一一年三月十一日に発生した東日本大震災でメルトダウンを起こし、国土を汚染し周辺住民の生活を破壊したように、あらゆる技術にはマイナス面がある。
『坂の上の雲』と同じ四国の徳島県から始まり、実力が認められて陸軍の研究所で前線に持ち運びができる小型無線機を開発するまでに出世する叩き上げの技術者を主人公にした本書『光炎の人』は、司馬が描かなかった、というよりも経済的な豊かさを優先した多くの日本人が見て見ぬふりをしてきた科学技術の〝闇〟を掘り下げている。
徳島県の山間部で葉煙草農家をしている郷司家の三男・音三郎は、物語の開始時点で十二歳。尋常小学校を三年でやめてからは、家業の手伝いをしていた。『帝国統計年鑑』によると、音三郎が尋常小学校に通っていたと思われる一八九七年の徳島県の就学率は五八・九パーセントなので、小学校を卒業せず家業を手伝う音三郎は、当時の地方の農村部で暮らすごく普通の少年だったといえる。
といっても、一度教本を読むと内容が頭に入り、教師がかみ砕いて説明する授業が退屈だった音三郎は、小学校をやめることに不満はなかった。ただ同級だった幼馴染みの利平は、音三郎より二年も早く小学校をやめさせられたことに忸怩たる想いを抱いていた。封建的な身分制度を破壊した明治政府は、貧しい人も、かつて身分が低かった人も努力をすれば偉くなれるが、怠惰な者は転落するという立身出世主義を推し進めた。その典型が、中学を卒業後、高等学校を経て帝大に入り、高等文官試験を突破して官僚になるコースだが、ゴールにたどり着けるのは選ばれた一握りだけだった。学歴でエリートになれないことを熟知しているがゆえに、政治運動で上を目指す「壮士」に憧れる利平は、明治が生んだ立身出世主義の申し子なのである。
その利平が、池田の葉煙草工場で働くことになった。利平と一緒に工場に行った音三郎は、熟練した職人技が必要な煙草刻みを、いとも簡単に肩代わりし上質の製品を大量に生産している巨大な機械に魅了される。家に帰っても機械の仕組みが頭から離れなくなった音三郎は、父の勧めもあって利平と同じ工場で働くことになる。
当初は下働きだった音三郎だが、機械への興味と洞察力が認められ、機械の整備や修理を行う豊川研輔の助手のようになる。一九〇七年、池田の近くで水力発電所の建設が始まる。音三郎は、電灯で夜を明るくし、石油に代わり工場の機械を動かすようになる電気に無限の可能性を感じた。研輔と音三郎の働きは煙草問屋の担当者・吉成仁志の目にとまり、二人は電線と電球ソケットを製造する大阪の小宮山製造所に転職する。
日本における電気の歴史は、工部大学校で日本初の電灯(アーク灯)が灯った一八七八年三月二十五日に始まる(三月二十五日は、電気記念日になっている)。一八八二年には東京銀座にアーク灯が設置され、多くの日本人が電灯を目にすることになった。一八八六年に日本初の電気事業者・東京電灯会社が開業したのを皮切りに、名古屋電灯、神戸電灯、京都電灯、大阪電灯が相次いで設立された。電気料金は高額だったため家に電気を引くことができたのは一部の金持ちだけだったが、一九〇七年頃から、発電所の高性能化と送電線の距離の延長が進み、電力会社の顧客獲得競争により電気料金が下がったことで、電気を使う一般の家庭も増えてくる。小宮山製造所が多忙を極めていたのには、明治末の電力の普及という歴史的な背景があったのだ。
小宮山製造所が作っている電球ソケットの性能は、外国製の高価なソケットとは比較にならならないほど悪かった。そこで音三郎は、ソケットを改良して外国製に近付けようとするが、社長の小宮山は新製品の開発には消極的だった。そこで音三郎は、自腹で高価な材料を揃えようとするが研究は遅々として進まない。元号が大正に変わり(一九一二年)、日露戦争後の不況に苦しむ小宮山は、下請けの不安定さから脱するためようやく新製品の重要性に気付き、音三郎と研輔に無線機の開発を命じる。
独学で無線機を開発する音三郎は、大阪実業界の大物・弓濱の目にとまり、大手の大都伸銅に転職する。そこで音三郎は、高等工業学校卒の技師・金海一雄と出会う。
十九世紀後半、今も周波数の単位にその名を残すヘルツが、マクスウェルが予言した電磁波の存在を確認した。ヘルツの研究に感銘を受けたイタリアの発明家マルコーニは、一八九四年に電磁波の実験を開始。翌年には電信(いわゆるモールス信号)を三十五キロ送受信することに成功、一八九七年にはマルコーニ無線電信会社を設立している。日本でもマルコーニの影響で無線技術への関心が高まり、一九〇〇年には海軍が津田沼と横須賀の五十四キロを繫ぐ無線実験を行い、一九〇一年には三四式無線機を完成させている。明治末から大正初期の無線は電信が中心で(日露戦争で活躍した三六式無線機も電信)、音三郎が開発を目指す音声を送受信する無線機はまさに最新技術だったのである。無線で音声を送受信するTYK式無線電話機を世界で初めて実用化したのは、音三郎が資料として熟読する『無線電信電話』を書いた鳥潟右一(横山英太郎、北村政治郎と共同開発。TYKは三人の頭文字に由来)で、一九一二年のことだ。作中では、音三郎が氷山にぶつかり沈没したタイタニック号が無線電信で救助を呼んだ事例で、無線の重要性を力説する。世界的に見るとタイタニック号の沈没は無線の普及に役立ったようだが、この事故が日本で知られるようになるのは、牧逸馬が一九二九年から一九三三年まで「中央公論」に連載した『世界怪奇実話』で紹介してからになるので、音三郎が無線技術の情報を熱心に集めていたことがうかがえる。
音三郎が無線機の実験を進める場面は、技術・家庭の授業などで鉱石ラジオを作った経験のある読者には、懐かしく感じられるのではないか。だが趣味ではなく社命で無線機の開発をしている音三郎は、予算や納期に追い詰められ苛立ちを募らせていく。それに拍車をかけるのは、傍若無人で口汚い言葉を使う金海の存在だった。
電気の普及で多発する感電死や火災などの事故を防ぐ装置の研究をしている金海は、音三郎が作ろうとしている無線機の有効性は認めながらも、ひたすら新しい製品を開発する、高性能化だけを目指す音三郎の技術者としての姿勢を厳しく批判する。
科学技術には、二面性がある。ノーベルは、爆薬としては高性能だが衝撃に弱く細心の注意を払わなければ使えなかったニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませて安全化し、爆発のタイミングを自由にコントロールできる雷管を発明してダイナマイトを完成させた。ノーベルは、素人でも電気を安全に使える装置の開発を急ぐ金海と同じように、鉱石採掘、トンネル貫通などの工事現場の安全性を向上させるためにダイナマイトを作ったが、その想いとは裏腹に、ダイナマイトはすぐに戦場で兵士を効率的に殺戮する兵器として使用されるようになった(ノーベルはダイナマイトが戦争に使われることを想定していたが、破壊力の大きさを恐れ世界が平和になると考えていたとの説もある)。これは、核分裂連鎖反応が原子爆弾にも、原子力発電にも使われ、人間の作業を手助けするために開発された人工知能(AI)が、人間の仕事を奪うところまで高性能化されても研究開発が続いている現在の状況と同じである。
初めて刻み煙草を作る機械を見た頃の音三郎は、新しい技術が人の生活を豊かにすると考え研究に没頭した。だが組織に入り、上司から早く成果を出すことを迫られるようになると、理想を忘れ、自分が開発する製品が社会にどのような影響を与えるのかも考えられなくなる。これに対し「すべての技術は希望からはじまらなあかんのや」という音三郎が捨て去った正論を守っている金海は、「人の暮らしを明るくしよう、楽しゅうしよう、安全に高度な技術に接せられるようにしよう」との「意識をもって開発にあたら」ないと「技術っちゅうのは本当の意味で成就せん」と断言する。
著者が、無線機が社会をどのように変えるのかなど考えず、恋人となったおタツとの結婚に後ろ向きで、数少ない肉親である叔母のミツには冷淡という、情を捨て去ってまで開発に没頭する音三郎と、労働者の待遇改善を訴える運動に身を投じる研輔、高い技術者倫理を持つ金海を対比させながら物語を進めたのは、技術者の使命は、製品の高性能化、低コスト化を推し進めることなのか、それとも安全性の確保、製造過程や廃棄後に環境を汚染しないかも含め、開発した製品に責任を持つことなのかを問い掛けるためだったように思えてならない。
技術者としての価値観が金海と対立したまま、音三郎は再び弓濱の紹介で、東京にある官営の軍需工場・十板火薬製造所の研究員となり、そこで関東軍の下士官になっていた利平と再会する。音三郎は電球ソケットの改良作業では高価な材料が買えず苦労したが、軍が使う無線機の開発では潤沢な予算が使えるようになる。だが昭和に入り戦争が現実味をおびると、音三郎と利平はその大きなうねりに吞み込まれていく。
音三郎が軍の研究所に入ると、技術者の戦争協力は是か非かという新たな倫理問題が浮上する。これは戦時中の特殊事情に思えるかもしれないが、二〇一五年、防衛装備庁が将来的に武器など防衛装備に使える基礎研究に資金を提供する「安全保障技術研究推進制度」が始まっていることを踏まえれば、決して過去の問題ではない。日本の基礎研究への助成資金は潤沢ではないので、軍の研究所を楽園のように感じている音三郎のように、軍事研究に参入する技術者はこれから増えてくるかもしれないのだ。つまり本書は、技術者が戦争に協力した歴史から、現代人は何を学ぶべきかという現代的なテーマにも切り込んでいるのである。
どれだけ優れた技術も、それを必要とする社会や、使ってみたいと考えるユーザーがいなければ日の目を見ることはない。その意味で、二面性がある技術を悪しき方法に使うか、よき方法で使うかは、ささやかではあるが政治を動かし、世論を左右する力を持っている個人も責任を負っている。技術者だけでなく、使用する側にも高い倫理観が求められているとする著者のメッセージは、重く受け止める必要がある。
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