「鳥類図鑑」という一風変わったニックネームの少年の記述から始まる本書は、この著者ならではの独特の感触に満ち溢れていて、まずは、あ、これぞまさしく長野まゆみ的世界、という安心感に包まれる。
デビュー作『少年アリス』以降、ずっと変わらず維持されてきた個性である。当時から、彼女の世界には70年代に黄金時代を迎えていた少女漫画的な雰囲気が濃厚だった。竹宮惠子、萩尾望都、といった伝説的な二十四年組の少女漫画家の特質を受け継いでいる。女子の教養主義たるディレッタンティズムと、しゃっきりとした孤高のプライドが入り混じった、硬質で透明感漂う世界観なのである。
少女漫画的な世界を小説で書くという、一見簡単そうでいて、実は恐ろしく込み入った作業。それを可能にした先駆者が長野まゆみであった。
著者がデビューした80年代当時は、日本の少女漫画の魅力をどう評価すべきか自体が、まだわからなかった時代である。しかし、21世紀の現在を迎えて、それは世界でも類例のない、濃厚な女性文化の結晶と理解されるようになった。少女文化圏で、バリエーション豊かに蓄積されてきた、圧倒的に女性的な感性は、既存の男性優位で雄の匂い濃厚な文芸世界とは、思想においても感性においても美学においても、ことごとく異なっている。散文という異なったメディアで少女漫画世界を再構築して見せたのは、驚異としか言いようのない、一つの奇跡であった。この作家の作品が、熱狂的な女性読者を中心に、今も強烈に愛され、ずっと読み継がれているのは、そのためだ。
だから、最初の一行目から、「懐かしく美しい世界」に、心を踊らせ、安心感に包まれた読者も多いことだろう。なめらかで美しく親しみやすい文体は、金銀細工や洋菓子を思わせる緻密なディテールに満ち溢れ、その人工的な感触からは硬質な幻想性が浮かび上がる。
舞台となっているのは、架空のU大陸にある海洋国ポルトラノ。かつてシトラスカ湾と呼ばれたところにあるドラモンテ島。今は古びた灯台のみが残る幽霊島……と、どこかにありそうで、どこにもない異世界が姿を現す。登場人物の名前も風変わりで我々の住んでいる時空間では特定しにくい。その作りこみは、食物や風物や人のライフスタイルに至るまで徹底している。
しかし、読み進めると、歪んだ時空間に落ち込んだような奇妙な酩酊感に襲われる。登場人物は錯綜し、追いきれなくなってくるのだ。やがて、本書には幾多の文学的な試みが仕掛けられていることがわかる。そう。本書は極めて野心的な実験作なのである。
酩酊感に翻弄される読者のために、少し物語をたどってみよう。全体は、三部にわかれている。そして、各章毎に語り手が異なる。
まず第一章の語り手のソラが、自らの父である「鳥類図鑑」ことナウシストのエピソードを記す。ソラの父は、若かりし頃、実に不思議な事件に遭遇していた。謎めいた美少年の案内で、孤島を訪れ、数奇な一夜を過ごしたのだ。ソラはそれを含めて、一族全体を俯瞰した『デカルコマニア』という書籍を書き著す。
タイトルになっている『デカルコマニア』(decalcomania)は第一義的には「ガラスや陶器、紙などに模様を写し込む転写印刷」のこと。この用語が英語圏で使われ始めたのは、19世紀半ばであるから、その頃の技術革新と、関連がある。ウェブで検索すると、細密画を転写した美麗な陶器やガラス機器を見ることができる。特に九谷焼を思わせる陶器の緻密で繊細な絵には心がときめく。そして、気がつく。この陶器の美しさは、長野作品のコンセプトに近いのではないかと。
ところがその「デカルコマニア(デカルコ)」という言葉は、本書の描く未来世界では、時間旅行を可能にした技術の名前としても使われている。つまり、ナウシストらの冒険は、時間旅行と関係があることが匂わされる。
第二章は、『デカルコマニア』という本を図書館で発見したシリルが語り手となる。本の記述を追いかけるうちに、ことは、時間旅行の話にとどまらず、むしろソラら、ドラモンテ一族全体の話にまで発展していく。時間旅行はひとりだけの話ではなく、一族全体が関わっているのだが、その規模は、なんと中世から23世紀にまで及ぶ。
最終章では、シリルの弟ミロルが、シリルとは違った視点から家族史を捉えている。
つまり、この物語は、時間線を越えて広がる、ある一族の歴史物語なのである。酩酊感の正体は、時間を超える登場人物らの関係性にあったのだ。これには、驚かされた。
本書が時間旅行を扱った時間SFであるのは間違いない。
時間SFには、H.G.ウェルズ『タイムマシン』という古典的名著がよく知られているが、その人気の秘密は時間旅行によって歴史が変化してはいけない、という約束事にある。安易に過去の世界に干渉すると、未来も変化し、ひょっとすると、時間旅行者自体の存亡をも左右するかもしれないのだ。
これが有名なタイムパラドックス問題で、よく例に挙げられるのは、過去に遡って自らの先祖を殺してしまった場合、自分自身が生まれなかった世界が出現することになり、過去における殺人も不可能になる、という矛盾をきたす。過去を変えてしまうと当然未来世界が変化してしまう訳で、あらかじめ整合性を前提としたロジックがあるため、謎解きミステリとしても面白いのである。
昨今では、タイムリープものが根強い人気で、同じ時間をなんども繰り返すという物語に頻繁にお目にかかるが、それでも歴史を変えてはいけない、という鉄則はまだ健在である。
本書の場合も基本的には歴史を変化させてしまうような大きなイベントはないが、その代わり特異な人物たちの家系図が網の目のように、この時間線に張り込まれている。
次々登場する人々は、陶器に描かれた細かな図柄のように、ある時には名前を二つ持ち、容姿も似通っていて、時々すり替わり、時として似た人物になりすます。タイムパラドックスで例証される殺人という物騒な道具ではなく、ここでは複雑な縁戚関係が問題になっているのである。時として、親から子へと繋がっていく家系図の因果関係を逆転させることすら、ありうる。
この一族は、デカルコマニアという技術に深く関わり、何人かは実際に過去へと旅し、そこで生涯を全うすることもある。時間線を行きつ戻りつする一族。よって、物語は時間線を行ったり来たりしながら進み、それがあの酩酊を引き起こす原因になるのである。
なんという構築力だろう。一度読了してから、いくつかの登場人物のことが気になって再読すると、ますますクリアに浮かび上がってくる家族の歴史。それは絶対不変と思われた歴史にも、実は不思議な一族が、ひっそりと隠れ住んでいるのかもしれない、という気分にさせる。
しかも、そのような幻想的な世界を生きる家族の姿こそ、「デカルコマニア」という技術と深い関わりを持つ。
現実のデカルコマニアの技術は、20世紀に入ると、シュールレアリスム(超現実主義)の画家らに取り入れられ、現実を超える、超現実世界を描き出す手法へと発展を遂げた。同時にロール・シャッハテストの画像にも使われて、ヒトの心の内側に潜む(と仮定される)無意識の世界を浮かび上がらせることになる。
シュールレアリスムの画家といえば、私などはマックス・エルンストよりは、やはり女性幻想画家レメディオス・バロや、レオノーラ・カリントンが好みで、女性的感性そのままに現実ならぬ幻想風景を描き続けた彼女たちの作風は、確かに長野まゆみ的な世界と共鳴していると思う。女性の持つ幻想的なイマジネーションということでは、少女漫画的な世界観とも共振する世界である。
時間という厳格で動かしがたい、極めてリアリスティックなコンセプトに、ひっそりと絡みついているようなドラモンテ一族の物語は、したがって、時間という意識世界に隠蔽された無意識の世界を映し出しているような気がしたのだ。
長野まゆみのラディカルな部分はまさにこの点にあるのではないだろうか。
だからこそ、物語前半の、まさに時間軸を行ったり来たりしながら、だんだん深まっていく酩酊感は、時間に縛られた現実世界がだんだんと突き崩されていく崩壊感と表裏一体なのである。
実際、西洋的な二元論では、時間こそ男性的なものと捉えられ、空間性は女性的なものと結び付けられている。その証左が、「歴史」(history)という概念で、ここにはもともと「救世主の物語」(his story)という前提があるという。時間というコンセプトは、だからこそ、もっとも現実を支えている強固なシステムなのである。
時間が作り出す強固なリアリティの世界を、本書は、家系図を持って突き崩し、 幻想の家族史の姿を浮かび上がらせる。過去から未来へと一方にしか流れないのが普通と考えられる時間の流れの中で、そのどこかに、時間に縛られない一族がいて、時々未来から子孫が過去に混入し、一族自体の未来に関わっていくのだ。
その家族像の描き方もまた面白い。政治・経済・技術といった社会的な事象に一族が関わっていくばかりではなく、家族同士の緊密な関係にこそ、話題が集中している。登場人物たちの関心の持ち方は、家族内でしか理解できず伝達できない伝承を、極めて私的な幻想空間の中に解き放ち、一族独自の時空間を織り成しているようで興味深い。
そこには、そもそも世界の歴史を云々するよりはるか以前に、むしろ家族的な団欒の場で、一族に伝わる様々な身内の伝説を、時代を超越しながら思い出し、語り合うことでのみ構築されるような、そんなもうひとつの歴史光景(家族史)が広がっている。
本書は、恐ろしく意欲的なコンセプトを有する技巧的な作品である。だが最もラディカルなのは、そんな実験的な野心はおくびにも出さず、美しくも快い情景を、それこそデカルコマニアで転写された細密画のように、次々と描き出していく長野まゆみという作家自体である。
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