この〈懐しの名画ミステリー〉シリーズも、本作が第三集となる。『血とバラ』、『悪魔のような女』に続くこの『埋もれた青春』では、表題作をはじめとして、五つの名画からお題を拝借した作品が並ぶ。
自作をふり返って、映画からの影響を語ることの多い赤川次郎氏だが、今回は若き日に熱中したというヨーロッパ映画のタイトルが五編中四編を占めている。さっそく収録作品を見ていこう。
最初の『或る種の愛情』は、イギリスの映画監督ジョン・シュレシンジャーの作品(1962年)からタイトルを頂いている。シュレシンジャーは初めて撮った劇映画の同作がベルリン国際映画祭で金熊賞に輝き、世界に認められた。「コードネームはファルコン」や「マラソンマン」など、スパイや謀略ものの映画でもおなじみだろう。
また、ニューシネマを代表する「真夜中のカーボーイ」や「日曜日は別れの時」に顕著な同性愛者への眼差しには、LGBT(性の多様性)についての意識の高さが窺える。相思相愛なのに微妙にすれ違う男女を描いた本作に、アラン・ベイツとジューン・リッチーというほとんど無名だった二人を起用したのは、リアリティを狙ったのだという。では例によって、映画のあらすじを紹介しよう。
祝福され、式を挙げた姉の幸福な花嫁姿に刺激され、弟のヴィック(アラン・ベイツ)は、製図工として働く職場で、可愛い事務員のイングリッド(ジューン・リッチー)を強く意識するようになる。周囲から冷やかされながらもデートに漕ぎ着け、紆余曲折ののち二人はベッドを共にする。愛情や性愛をめぐる互いの違いに戸惑いながらも、やがて彼女の妊娠が明らかになると、流されるように二人は結婚をすることに。しかし彼女の母親との同居生活は次々と摩擦を起こし、流産という悲劇がさらに彼らの関係に追い打ちをかける。
小説では、十五年前に殺人という過ちを犯した男が主人公で、時効目前のある時、目撃者から恐喝を受ける。ご存じのように、二〇一〇年の法改正で時効の適用は大きく変わり、法定刑で死刑に相当する殺人罪の公訴時効は廃止、無期懲役に相当するものは十五年から三十年に刑期が引き上げられた。いうまでもなく本作は、改正前の旧法下の物語だ。
主人公と恐喝者の駆け引きは、思いがけない形でクライマックスを迎える。互いの愛を再確認した主人公夫妻が手を取り合う場面は、傷ついた男女が実り多き人生をめざして再出発を誓う映画のラストシーンと鮮やかに重なり合う。
表題作の『埋もれた青春』は、フランス映画界の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエの作品(1954年)がモチーフだ(映画は「埋れた青春」)。代表作の「舞踏会の手帖」が巡礼形式の物語の嚆矢とも言われるこの監督は、本国以上に日本で人気が高かった。本作はドイツのヤコブ・ヴァッサマンの同題小説(雄鶏社刊)が原作で(ヒッチコックが映画化したデュ・モーリアの同題作とは別作品)、一九五五年度の〈キネマ旬報ベストテン〉で第四位に選出されている。
デュヴィヴィエは晩年、ジョン・ディクスン・カーの『火刑法廷』(「火刑の部屋」)やルイ・C・トーマの『悪魔のようなあなた』の映画化にも挑んだが、本作もミステリ・ファンなら見逃すべきではない。運命の女を描くノワールの雰囲気や、緊張感ある法廷場面に加え、本格ミステリ顔負けのフーダニットの要素まであるのだ。
ベルンで高校に通う少年(ジャック・シャバッソール)が、見知らぬ男につきまとわれる。少年の父親(シャルル・ヴァネル)は検事であり、やがて男の目的は十八年前に息子が有罪とされた事件の再審査を訴えることだとわかる。好奇心から事件を調べる少年の心に、容疑者(ダニエル・ジュラン)の妻殺しは寃罪だったかもしれないという疑惑が芽生える。美術史の教授は、なぜ年上の妻(マドレーヌ・ロバンソン)を殺したのか? そして妻の妹(エレオノラ・ロッシ=ドラゴ)とはどういう関係だったのか? 当時、若手検事だった父親の舌鋒鋭い論告を後押ししたのは、実は親友(アントン・ウォルブルック)の証言だった。
映画と小説、その双方に共通するキーワードは、無実の罪である。片や映画は、あってはならないことながら、裁判もまた人間が行うものであるから、起こりうることを否定できない寃罪を描く。一方小説は、妻の身代わりとなって殺人罪で二十年を刑務所で過ごした男が出所するところから始まる。
男女の再会がさらなる悲劇の連鎖反応を引き起こすという展開は映画と相通じるが、ペシミスティックなデュヴィヴィエに対し、作者の描く夫婦は悪戯好きの運命の女神の前でもたじろぎもしない。どこかノンシャランで、人を食ったようなユーモラスなラストが読者を煙にまく愉快な一編だ。
第二集の『暴力教室』の解説でも触れたが、「理由なき反抗」(1955年)は当時アメリカで流行した非行少年映画の一つである。早逝したジェームズ・ディーンの代表作としても知られ、深夜三時のロサンジェルスの路上から始まり、翌日同時刻のグリフィス天文台のプラネタリウムで幕を下ろす。
監督のニコラス・レイはアメリカ人だが、ヌーヴェルヴァーグの監督たちからリスペクトを受け、後年はヨーロッパでも活躍した。デビュー作の「夜の人々」や、ドロシー・ヒューズ原作の「孤独な場所で」などで、フィルム・ノワールの作り手としても知られる。
泥酔状態で保護されたジム(ジェームズ・ディーン)は、夜中の警察署でジュディ(ナタリー・ウッド)とプレイトウ(サル・ミネオ)を見かける。翌日、二人が転校先の高校のクラスメートだと知るが、彼らはそれぞれに家族との関係に問題があり、悩みを抱えていた。不良グループの挑発に乗ったジムは、そのボス格でジュディのボーイフレンドのバズと、断崖に向けて自動車を疾走させるチキンレースで勝負をするが、相手は転落死してしまう。事なかれ主義の父親に相談しても、納得のいく答えは得られずに困惑する彼を、不良グループが付け狙い始める。
心優しく繊細でありながら時折危うさも覗かせるジムに、ジュディは次第に惹かれていくが、十六歳の香里が心を奪われるのは、暴走族の少年である。彼女は、チキンレースよろしく猛スピードで走ってきた二台のバイクにあて逃げされるが、人目を避けるように花束を携え病院に現れた犯人の少年に好意を抱く。
香里とその一家は、一見どこにでもありそうな家族だが、放映中のテレビドラマに吸い寄せられるように、静かに崩壊へと向かっていく。不気味な余韻を残す最後の一節が、心胆寒からしめる恐怖の一編である。
イタリアのバレリオ・ズルリーニ監督の「家族日誌」(1962年)は、ヴァスコ・プルトリーニの自伝的作品と言われる同題小説(早川書房刊)が原作である。ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞に輝いた本作は、名匠ズルリーニ監督の代表作といえるだろう。
主人公の兄弟役を演じた二人の名優は、それぞれに輝かしい経歴の持ち主だが、マルチェロ・マストロヤンニは「ガンモール おかしなギャングと可愛い女」(コーネル・ウールリッチの短編が原作)や「悪のシンフォニー」(イアン・フレミング原作、テレンス・ヤング監督)、ジャック・ペランは「うたかたの日々」(ボリス・ヴィアン原作)などのユニークな出演作も忘れがたい。
新聞記者のエンリコ(マルチェロ・マストロヤンニ)は、早朝の記者クラブで電話を受けた。唯一の肉親である弟ロレンツォ(ジャック・ペラン)が亡くなったのだ。母親の死で兄弟は別々に少年時代を送った。祖母の許で過ごした兄に対し、弟は英国貴族の執事に引き取られ、恵まれた環境で育てられる。別々の道を行く彼らの人生は交わっては離れていくが、唯一の肉親としての絆は強かった。兄は病苦や貧困に屈さず独学で記者になるが、依頼心が強く甘えのある弟は仕事に恵まれず、不運にも病に倒れる。そんな弟の願いを兄はかなえようと奔走する。
弟の訃報から始まるのは、小説も同じである。実業家として成功している兄の正彦と、何をやってもうまくいかない弟の忠彦という二人の好対照もまた同様だ。
作者は、兄弟と弟の妻という一種の三角関係を描いていくが、恋愛や女性関係とも無縁でストイックな生き方を貫く映画のマストロヤンニに、もし愛する女がいたならば、というイフのインスピレーションが、作者にはあったのではないか。それが邪推でなければ、本作は映画の後日談ともいえるだろう。
フランスのジャン・ルノワールは、印象派の画家ルノワールの次男で、自由濶達な作風で後の世代にも大きな影響を与えた映像作家である。第一次世界大戦に従軍の経験があり、戦傷の療養中に興味を持ったのが映画だったという。
後年、自らの戦争体験を活かした「大いなる幻影」を撮るが、フランス人捕虜とドイツ人将校の友情を描くこの反戦映画は、映画史に残る名作となる。リアリズムに徹した同作に対し、この「草の上の昼食」(1959年)は大らかで官能的、なおかつファンタスティックな楽しさに溢れている。これもまた晩年の代表作だろう。
おそらくは近未来。子孫の繁栄は人工授精によるべし、という過激な思想で、アレクシ博士(ポール・ムーリス)は欧州連合の大統領選に打って出ようとしている。選挙を有利に運ぶため、ドイツの女伯爵との結婚準備も進み、お披露目を兼ねて川辺で昼食会が開かれるが、そこで珍事が持ち上がる。山羊を連れた老人の笛の音がひとたび鳴り響くや、強風が吹き荒れ、人々は右往左往。博士は、そのさ中に親しくなった田舎娘のネネット(カトリーヌ・ルーベル)と恋に落ちてしまう。彼女の実家に身を隠す二人だったが、やがて取り巻きたちが博士を捜しにやって来る。
日本では古くから、女性や色ごとに惑わされない堅物の男のことを石部金吉と呼んだりするが、本作の主人公の石堂堅吉は、そのもじりだろう。しかし、飛行中に川で洗濯する女性の足に見惚れて落下した久米仙人よろしく、彼もまた、たった一度の過ち(?)が大変な事態を招いてしまう。
言うなれば、本作は作者好みでもあるフランスのエスプリを日本の風土へ移植しようと試みた作品かもしれない。その成果は、男女の陥った悲劇的な事態を、機知と閃きで一気に切り返してみせる心地よさに表れている。
最後に書誌的なデータを掲げておくと、この『埋もれた青春』の初刊は一九八七年一月・角川書店刊で、その翌年に同社で文庫化され、今回の新装版は再文庫化となる。初出は『或る種の愛情』が〈月刊カドカワ〉八五年四月号、『理由なき反抗』が〈小説新潮〉臨時増刊八六年・夏、残る三編はすべて〈野性時代〉に発表され、『埋もれた青春』が八四年三月号、『家族日誌』が八六年十月号、『草の上の昼食』が八二年二月号にそれぞれ掲載された。
本作の初刊から三十年余りが経つが、その間に映画鑑賞の手段はビデオからDVD、さらにはブルーレイへとシフトし、近年ではネット配信が主流になりつつある。その急速な変化に新たなソフト化が追いつかず、作者の熱烈な映画愛好家ぶりがうかがえる本書収録作の元となった作品の数々も、一部を除き視聴が難しくなって来ているのが現状だ。これらの名作が、手軽に鑑賞できる日が早く戻って来てほしいと思う。
なお、続く第四集『明日なき十代』も、近く本文庫から新装版の刊行が予定されている。楽しみにお待ちいただければと思う。
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