本書は、大きく四つの章から成っている。第一章は、「日露戦争」についてである。明石元二郎をはじめ、「公」の為に尽くされた方々が丁寧に描写されている。
著者が、講演のときにしばしば「もしも日露戦争で負けていたら、私の名前はナターシャだったかもしれません」と冗談を言うと書かれているが、これが決して冗談では済まなかった歴史の事実を私たちは学ばなければならない。
第二章では、「日本人の知らない日本人」として、あまり広くは知られていない数名の日本人達のすばらしさが説かれている。日清戦争から日露戦争を経て第二次世界大戦に到るまで、戦争という苛烈な状況下にありながら、人として如何に生きるか、自分のことよりも「公」の為に尽くそうと懸命に努力をされた人達の物語である。
戦争は、言うまでもなく多くの犠牲者を生みだす。最も避けるべきことであろう。その努力を忘れてはなるまい。しかしながら、人類の歴史は、悲しいかな戦争の歴史でもある。もちろんのこと、戦争を決して美化してはならない。それはこの本の著者も十分に心得ておられる。それでも戦渦に巻き込まれ悲惨な状況にありながらも、先人達は、一輪の花の如くに、人としてのまごころを咲かせていた。日本人としてすばらしい生き方をされた方々のことを忘れてはなるまい。
第三章は、「世界から見た日本人」であり、「感謝と報恩の歴史」が説かれている。ベルギー、メキシコ、ウズベキスタンなどの諸外国と日本との感動の物語が綴られている。
和歌山県に生を享けた私は、エルトゥールル号の話を取り上げてくれると、うれしくなる。郷土の誇りでもある。明治の時代、紀州の大島の人々は、わが身を省みずに、人を救おうとされた「惻隠の情」に満ちておられたのだ。
スリランカのジャヤワルダナ氏の事も書かれているが、我々日本人が決して忘れてはならない恩人である。仏陀の教えを学ぶ僧である私にとっては、同じ仏教国であり、仏陀の教えを引用して慈愛の心を説かれたジャヤワルダナ氏を尊敬してやまない。鎌倉には高徳院の大仏様の側に、ジャヤワルダナ氏の顕彰碑も建てられている。
第四章は「東京オリンピックと復興」である。著者は、昭和三十九年の東京オリンピックを「戦後復興の象徴」とし、次回の東京オリンピックを「震災復興の象徴」と位置づけ、私も知らなかった様々な感動の物語を綴って未来への希望を説いている。本章の最後には、日本人が忘れてはならない八田與一氏の事も詳述されていてうれしい。
「おわりに」の文章も心して読みたい。トィンビーの「自国の歴史を忘れた民族は滅びる」の一言は、深く胸に刻まれる。
最後に、本書の第一章に伊藤博文氏の側近として登場していて、日露戦争に深く関わった金子堅太郎氏の事を少し書かせていただきたい。
現在私の住する鎌倉の円覚寺と金子堅太郎氏とのご縁である。円覚寺の管長を長く勤められた朝比奈宗源老師の著『覚悟はよいか』によれば、金子堅太郎氏は、その晩年に「私は生きている間に一度は時宗公の霊前でお話をさせてもらいたいと思っていた」と書かれている。
円覚寺は、北条時宗公が、我が国最初の国難というべき元寇の戦いで亡くなった多くの人達を、敵味方の区別無く平等に弔う為に創建された寺である。
時宗公は、十八歳で執権に就任し、二十四歳で文永の役、三十一歳で弘安の役に遭い、三十四歳で亡くなっている。まさしく元寇を戦い国を守るために生まれてきたといっても過言ではない生涯であった。
時宗公の命日四月四日には今も円覚寺一山の僧侶によって供養が続けられている。金子堅太郎氏は、その時宗公の命日に、円覚寺で講演なされた。以下概略を記してみたい。
明治三十七年ロシアとの戦いを決めた御前会議が終わった後、枢密院議長だった伊藤博文氏は宿舎に戻るや、金子堅太郎氏に電話してすぐに来て欲しいと頼んだ。
金子氏は人力車で飛んでいったという。その時に伊藤氏は、金子氏にいきなり「きみは、すぐに仕度をしてアメリカへ行ってくれ」と言われた。朝比奈老師の本によれば、どういうことかと問う金子氏に、伊藤氏はこう言われた。
「もう今度の戦争は、まったく勝ち敗けはわからん。けれども、ともかく日本は、ロシアという大国を向こうにまわして相当やるだろう。そこでちょっとしたきっかけをつかんで、講和してもらうんだ。アメリカのルーズベルト大統領は、日本に好意をもっているし、さいわいにきみは、ハーバード大学で同窓だ。だからきみをわずらわすんだが、すぐにルーズベルトに会って、彼に日本の立場を説明して、日本の窮境を訴えてほしい。仕方がないから一戦はする。講和の時機は、儂(伊藤)が手を上げて、サインを送るから、その時に仲介に立ってもらうように頼んでおけ」
あまりにも重い大役に金子氏は断る。それでも伊藤氏は行けという。お互いに遠慮のない間柄だったというので、とうとう喧嘩腰になったらしい。
最後に伊藤氏は腹を立てて金子氏に言われた。
「じゃあ言うが、儂が決心したのは、ほかでもない。昔、元が日本に攻めて来たとき、時の執権・北条時宗公は、奥方に、いま九州や山陽道の武士たちが戦っているが、あの防戦が不利になったら、この時宗が自分で行って指揮をとる。そのときは、そなたも行って兵隊の飯を炊くんだぞ、とおっしゃった。儂はこれを思い出した。だから儂も、もし今度の戦いがうまくいかなかったら、自分で銃をとって前線に立つという肚をきめた。時宗の決心を、儂もやろうと思った。そう思ったから決断したのだ。それなのにきみは、頭から出来そうにないといって辞退する」と。
そこで金子氏は、講演でこう語られたという。
「あなたがた関東のかたにはわからないだろうが、私は九州福岡の出身だ。北九州は、元寇のとき、外国兵に踏みにじられ、大宰府まで占領された、だから我々の子供のとき、駄々をこねると〝蒙古が来るゾ〟といっておどされた」と。
朝比奈老師は更にこう綴られている。
「そういう雰囲気のなかで育った金子さんは蒙古ときくだけで、今でも、血が逆流する。だから蒙古襲来の例を引きあいに出されると、全く無抵抗で、すぐ『わかりました』とこたえたという」。
朝比奈老師は「儂のいいたいのは、明治時代は、明治天皇以下、伊藤さんのような人が、まだ鉄砲一発撃ってないときに、講和の準備をしている。これだよ。勝つよりも敗けない仕度だ。勝てば幸いだけれども、敗けちゃあ大変だから、折を見て一発やって、あとは外交で補う。これだよ。最後の最後まで、読んでいた。それが、今度はなんだ。だらしない。このことを思ったらば、我々は明治時代の人に会わす顔はないよ」と語られている。「今度はなんだ」というのは、先の大戦のことである。
元寇の戦いにおける北条時宗公の決意が金子堅太郎氏を動かされたというのだ。この心を忘れてはなるまいと思う。
博多に住まわれる著者もきっとこの事を伝えたいであろうと察せられる。
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