本書「津軽」の、出立前の筆者の旅先との関わりを記した序編に続く本編一は「巡礼」と題されているが、巡礼とはすなわち西国三十三箇所等の聖地・霊場等を巡拝することであり、ではなぜそういう面倒くさいことをするかというと、巡礼・巡拝の功徳によって病気平癒等、日頃の祈願を実現したいからである。しかしながら、これはあくまでもニュアンス・雰囲気・ムード・気持ち・気分といった曖昧かつ主観的なもので他意を含むところはなにもないのだが、メッカやエルサレムへ向けて出立するのと四国西国へ向けて出立するのではかなりイメージが異なり、たとえばメッカ巡礼の旅、なんていうとなんだかやる気が横溢して雄々しい信仰心に支えられた強気の旅、賽銭やお供物などもぬかりなく用意して砂塵を撒き散らして進軍、って風情が漂うのだけれども、四国西国というと、現世に破れ疲れた人が乞食・乞丐となって心細い杖に縋り、おちこちのたづきもしらぬ山中、或いは一歩一歩がずぶずぶめりこんできわめて歩きづらい砂浜をよろぼい歩く、ってイメージがあるのであるが、本編一、冒頭の会話において、配偶者と思しき人に、「ね、なぜ旅に出るの」と問われた主人公は、ごくあっさり、とは書いていないが、しかしながらそういう調子で、「苦しいからさ」と答えて出立するのであり、その服装もまた、「有り合わせの木綿の布切れを、家の者が紺色に染めて、ジャンパーみたいなものと、ズボンみたいなものにでっち上げた何だか合点のゆかない見馴れぬ型の作業服」それも、「一、二度着て外へ出たら、たちまち変色して、むらさきみたいな妙な色になった」作業服に、「緑色のスフのゲートルをつけ」、「ゴム底の白いズックの靴」を履き、「帽子は、スフのテニス帽」といった主観的にも客観的にも「乞食のような姿」で出立するのであって、一瞬、四国西国のクチかとも思われるが、また同時に、この服装の描写は、いま私はこれを写しつつ思わず吹き出して少量の洟を垂らしてしまったが、それくらい珍妙なもので、この後、行く先々でこの服装に関して幾度も、笑いを誘うような調子で触れているのであって一概に四国西国とも言えぬのである。また、芭蕉翁行脚掟を異常に気にして、「好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺にして止むべし」まあ、いわば、飲め飲め、と言われてもええ加減で止めとけ、という教えも一方に論語を引き合いに出して、泥酔しなければいい、第一、「私はアルコールには強いのである。芭蕉翁の数倍強いのではあるまいかと思われる」なんて弁解して大いに飲むあたりも、それなら最初から芭蕉なんて引き合いに出さなきゃいいじゃないか、と思うが頻りに芭蕉を気にするところがまた可笑しく、まるで四国西国じゃない。
しかしながら、じゃあ最初からまるっきり四国西国ではないか、というとそうでもなく、かかる原稿ものというものは、まあ人にもよるだろうが、元来、旅先で書けるものではなく、旅程終了して帰宅の後、メモその他を参照しつつ後日改めて書くものであって、本書も、序章以降基本的に現在の時制でもって書かれてはいるが、実際は、「かなり重要な事件のひとつであった」と筆者自らいうような体験を経て書かれているのであり、旅に出た段階では、筆者にまるで屈託がなかったとはいえず、例えば、飯。当時の東京の人が地方に行った場合、餓鬼のごとき有り様であるのに対して、「蟹だけは除外例を認めて」はいたものの「姿こそ、むらさき色の乞食にも似ているが、私は真理と愛情の乞食だ」と自己に対して諧謔的なこだわり、こわばりを持ち、日本酒やビールは遠慮してリンゴ酒と気を回す。或いは、訪れた家の奥方の元気のなさに、「僕のことで喧嘩をしたのじゃないかな?」といつもの癖で思い、自らの出現によって善良の家庭に不安の感を与うる事の苦痛を感じ、「この苦痛を体験した事の無い作家は馬鹿である」と嘆じているのであり、この屈託は道中、仕舞の方までつきまとい、素の自分であることに他者よりも先に耐えられなくなってしまう筆者は、芭蕉翁に自らを擬し、またはひき比べこれを乗り切ろうとするのであるが、なんのことはない、その都度触れる、十年ぶりに訪れた故郷の風土・風景・人は、東京の人は餓鬼だ、とたれも思ってもいないし、リンゴ酒と言っているのは「東京で日本酒やビールを飲みあきて」のことであろう、と逆に気を遣っている、奥方を追い回して、「疾風怒濤の如き接待」でもって愛情を表現し、後日、そのことを思い出すと恥ずかしくて酒を飲まずにいられなくなるくらいに愛情を過度に露出してしまう、なんだ、はは、まるっきり俺じゃねぇか、ってすっかり素の自分に戻って、ときにまた芭蕉、「問に答へざるはよろしからず」てって、志賀直哉を罵倒するうち、段々おかしくなって、「他の短を挙げて、己の長を顕す」ような変な具合になってしまい、悲鳴に似た声でルイ十六世まで持ち出し、またかあっ、となるのだけれどもここは蟹田、最後はみんな笑ってくれて、と心ほどけるような、これが俺の素だったんだあ、と思えるような風土を「真理と愛情の乞食」たる筆者は改めてここで体験したのであり、その過程は味わうべきところの平明かつ諧謔に富んだ文章に明らか、詳らか。生家を訪れ、旅の最後にいたって、一度は、「いかに育ての親とはいっても、露骨に言えば使用人だ。女中じゃないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして」と自暴自棄な考えに陥るも、自分の母だと思っていた、かつての女中、たけに、幻のごとき運動会場で再会した筆者は、「胸中に一つも思うことがな」い、「無憂無風」の安堵感を心に覚え、旅の目的、日頃の祈願であった真理と愛情に到達するのであり、その「心の平和の体験」を読者は、初めは笑いもせず、「さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調」で、「さ、はいって運動会を」「ここさお座りになりせえ」と言ったばかりのたけが、掛小屋の後ろの砂山、ところどころに八重桜の咲く竜神様の森で、「久し振りだなあ。はじめは、わからなかった。金木の津島と、うちの子供は言ったが、まさかと思った。まさか、来てくれるとは思わなかった。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われて、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった、運動会も何も見えなくなった」と話し始めるにいたって、筆者と同時に体験するのであって、ここにいたって心が動かぬものがあったとしたらその人は人非人である。したがって、またぞろ日々の職場に還り、「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬」という筆者の最後の言葉も、よろぼい歩いた揚げ句、力つきるのではなく、また、ただただ、はは、俺の罪は祓われた清められた、オッケーやで、という調子でもない、別種の力強さでもって読者の心に反響するのである。
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