『モリアーティ』。
大胆で、迫力のあるタイトルだ。
BBC制作のドラマ『SHERLOCK/シャーロック』の大ヒットもあって、それがシャーロック・ホームズの宿敵の名前であることが今では広く知られるようになった。もちろん、ホームズの熱心なファンにとっては以前から常識であったが。
映画『ヤング・シャーロック ピラミッドの謎』(一九八五年公開/バリー・レヴィンソン監督)では、エンドロール後にある男がホテルにチェックインする場面になり、彼はモリアーティと署名する。その意味が判らず「これは誰?」と首を傾げる観客が続出したのも、遠い過去の話になったようだ。
本作は、コナン・ドイル財団が初めて公認したホームズ譚の続編『シャーロック・ホームズ 絹の家』に続く第二弾。作者は同じくアンソニー・ホロヴィッツだが、前作の続きではなく、独立した物語になっている。
『絹の家』は、わけあってワトスンが発表を控えていた事件の記録という体裁をとっていた。ホームズもののパスティーシュではお馴染みの設定ながら、事件の真相を知ってみると「なるほど、これは公にできない」という強い説得力があり、しかも現在の作家ならば書き切れる、という事件になっているのも巧みだった。ホームズとワトスンがいきいきと描かれ、彼ららしさが存分に出ていた点でも申し分なし。また、ドイルが遺
前作でロンドンの光と闇の中を縦横無尽に駆け抜けたホームズとワトスンが、『モリアーティ』ではどんな活躍を見せてくれるのか? タイトルからして、ホームズとモリアーティとの壮絶な直接対決を想像してしまうのは当然だろう。
モリアーティは、世紀の名探偵と同等の頭脳を持つ悪の権化であることがホームズの口から紹介されているが、その実像はさっぱり判っていない。ホームズ譚でジェイムズ・モリアーティ教授の名前が初めて登場するのは、第二短編集『シャーロック・ホームズの回想』の掉尾
ご承知のとおり、この時点で作者のドイルはホームズ譚を書くことに嫌気がさし(歴史小説など、他に書きたいものがあったため)、ホームズが作中で死ぬ最終話を書こうとしていた。そのため急ごしらえで〈すごい宿敵〉を創り、スイス・ライヘンバッハの滝で劇的な相討ちを遂げさせたのだ。発表後に読者の怒りを買い、ホームズを生還させてシリーズを再開させたのも、すでに皆様ご存じのこと。
事情を知った目で読むと(いや、知らなくても)、「最後の事件」で姿を現わしたモリアーティの造形のいい加減さは明らかだ。ドイルにすれば「どんな奴かくわしく描かないよ。何も考えてもいないし。とにかく〈すごい宿敵〉と思ってくれたらよい」であったと推察する。
ホームズが生還した後の作品で、かの名探偵は何度かモリアーティの名を出しているが、作者のドイルは書きながら苦笑していたかもしれない。「〈すごい宿敵〉として創ったからには、多少はフォローしておこうか」と。
というわけで、〈すごい宿敵〉のモリアーティには中身がなく、がらんどうのキャラクターなのだ。これは、ホームズ譚のパロディやパスティーシュを書く場合、まことに都合がいい。作者が自由に空想の羽を広げる余地があるからだ。ホームズのお墨付きがあるため、モリアーティは実はあんなこともしていた、こんなこともできた、と書き放題。
創作とは面白いもので、自分の手を汚さずに悪事を為
本作の話に戻る。『モリアーティ』というタイトルなのだから、どんなすごいモリアーティが作中で描かれるのか、と期待しながら読み始めたら――おや、どうも様子が変だ。ホロヴィッツは予想を裏切ってくる。私はてっきり、ワトスンの知らないところで知の死闘を繰り広げる二人が描かれる、と思っていたのに。
物語の幕が上がると、ホームズとモリアーティが滝壺
ホームズ死すの報
これから読む方の興を削いでしまわないよう、内容には立ち入らないことにする。読者は起伏に富んだストーリーを追い、紙上でヴィクトリア朝ロンドンへの旅を満喫し、随所で〈いかにもホームズっぽい推理〉が語られるのに感心し、ホームズと馴染みのある警察官が勢ぞろいする会議などを楽しみながら、衝撃の結末までぐいぐい導かれていくことだろう。ホームズもワトスンも、モリアーティまでも舞台に立たないというのは渋すぎる、と思ったことなどすっかり忘れて。
ホロヴィッツは、ITV制作のドラマ『名探偵ポワロ』シリーズ他で脚本家として活躍する一方、イアン・フレミング財団の公認を得て『007 逆襲のトリガー』を書くなど、〈続編の達人〉だ。対象とする作品を大掴
併録の短編『三つのヴィクトリア女王像』も上質の本格ミステリだ。
さて――。
謎解きや冒険的な捜査は、いつの世でも変わらず面白いものだが、ドイルがホームズ譚を書いていた時代と現在では、様子が変わったこともある。ドイルの時代には、まだミステリにおけるフェアプレイの概念が発達しておらず、探偵が握った手掛かりを結末まで読者に隠しておいても非難されなかったし、虚偽の記述によって作者が読者を騙すこともあった。面白ければOKで、今日のように「アンフェアだ」の誹
はたしてこの作品はフェアか、アンフェアか、判定は読者に委ねられている。ページを繰り直して、探偵のごとく作者の工夫の跡をたどっていただきたい。
>>角川文庫創刊70周年 特設サイト
紹介した書籍
関連書籍
-
試し読み
-
レビュー
-
連載
-
試し読み
-
連載