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レビュー

全ての賞を辞退した信念のひと・山本周五郎が極上の物語に込めた、ひたむきに生きる人への応援歌。『さぶ』

 世にあまたある文庫本のなかから、本書を選ばれたあなたは幸いである。
 書き出しから留めまで、山本周五郎やまもとしゅうごろうが抱く信念に触れ続けていられるからだ。しかも説教でも講話でもなく、極上の物語の形であなたに提示される。
 本稿を書くにあたり、初読から半世紀の隔たりをおいて再読した。氏を信念のひとだと確信できたし、いまさらながら深い感銘も覚えた。再読のたまものである。
 本書を読んだのは1967年6月の、鬱陶しい梅雨時だった。当時19歳だったわたしは、高卒で中途採用された旅行会社の新入小僧だった。
 本書の冒頭。経師きょうじ屋奉公人のさぶ(職人見習いの小僧)は、小雨降る両国橋を泣きながら西から東に渡っていた。歳は15だ。
 19歳だったわたしはあの日、所属の有楽町営業所から本社のある秋葉原まで、山手線に乗っていた。
 左手で柄を掴んだ雨傘を床に突き立てて、書類封筒を小脇に挟んでいた。右手は吊革を掴んでいた。
 目の前に座っていた純白ブラウス姿の女性は、文庫本を読んでいた。
 有楽町から東京駅までのわずか一駅の間に、その女性は読みながら白いハンカチを取り出して目に当てた。
 ブラウスとハンカチの白。豊かな黒髪と唇の紅色。鮮やかな色の対比に加えて、涙を押さえる所作の美しさに、わたしは見とれた。
「次は東京……東京です」
 車内放送を聞いて、彼女は立ち上がった。読んでいた文庫本の表紙が見えた。
 それが「さぶ」だった。
 本社に行き着くなり、先輩のNねえさんに「さぶって知ってますか?」と訊ねた。
「文庫本のさぶのこと?」
「そう、それです」
 声を弾ませたら、なんとNさんはデスクの引き出しから「さぶ」を取り出した。
「とてもいい話だから、ヤマモトくんも読んだほうがいいわよ」
 薦めてくれたNさんもまた、純白のブラウスを着ていた。
 密かに憧れていた先輩の薦めである。わたしはその日のうちに、地下鉄丸ノ内線銀座駅構内の書店で購入した。
 ほどほど分厚い文庫本だったが、通勤の車内と昼休みとを使い、二日で読み終えた。
 友達っていいなあ……
 19歳のわたしには、これが読後感だった。たまらなく逢いたくなり、工業高校の同級生に電話をかけた。
 さぶと栄二との友情を思い返しつつ。
         *
 古希が目前となって再読したら、さまざまなことを読み切れていなかったと痛感した。
 その最たるものが本稿冒頭に書いた「信念のひと」という点である。
 周五郎さんは文学賞受賞をことごとく辞退された。理由は明瞭だ。
「ひとがなにをしたかではなく、なにをしようとしていたかが大事だ」
 文学賞は仕上がった作品に対する評価だ。氏が生涯を通じて大事にされたのは、なにをしようとしているか、であろう。
 チャールズ・チャップリンは「あなたの最高傑作はなんですか?」との問いに……
「次回作だ」と答えたという。
 言葉は違うが、まさに周五郎さんも同じことを信念としておられたのだろう。
 ひたむきに生きることも、氏の作品の大事な主題だと理解できた。
 本作主役のひとり栄二は、冤罪で石川島人足寄場にんそくよせばに送られる。
 初読ではストーリーを追うだけで一杯だった。再読では、人足寄場部分が、本作の重要な肝部分だったと呑み込めた。
 さまざまな出来事が起こるのも、ストーリーテリングの名手・周五郎の技である。しかしここで描かれているのは、ただのエピソードではない。
 寄場に収容された咎人どがにん
 石川島を統べる役人たち。
 そして栄二と、栄二を訪ねてくる友人。
 これらの登場人物が、まことに味わい深い台詞を発しているのだ。すべては、ひたむきに生きるという主題のもとで。

世の中には賢い人間と賢くない人間がいる、けれども賢い人間ばかりでも、世の中はうまくいかないらしい

 
 これは栄二が寄場の父と慕い尊敬する与平の言い分である。
 損得勘定にしても、損する者がいるからこそ、得する者が生れる……
 周五郎さんの真骨頂のひとつだ。
 いまの時代は日進月歩どころか、秒速でひとの営みが為されている。朝告げたテーマの答えを、午後には求めるのが当たり前という時代だ。
 相手に先んじることが必勝と、世の大半がの目たかの目を光らせている。
 この風潮を否定はしない。しかし果たしてそれで、世の中は潤滑に回るのだろうか。

人間どうしの問題では、いそいで始末しなければならない場合と、辛抱づよく機の熟するのを待つ場合とがある

 
 寄場役人・岡安にこう語らせるのも、周五郎さんの強い想いに違いない。
 仕事に生きる者への応援歌も、随所に描かれている。
 いわれのない理由で、栄二は大事な得意先をしくじる。そして別の職人のもとに追い出されてしまう。
 得心のいかない異動を命じられた社員のような、不満多き心境だろうか。
 これをどう乗り切るか、周五郎さんは次のように提示している。

にんげん生きているうちは、知らねえまに世間へ借りや貸しのできるもんだ

 
 この箇所は読み始めるなり、わたしのはらにズシンッと響いた。

おめえもいま世間に貸しを一つ作ったというつもりで、ここはなんにも云わず、暫くうちの仕事を手伝っていてくれ

 
 ある日突然、傍系会社への出向を命じられたら、屈託のはけ口もみつからない。いつまでも腐っていては、出向先からも愛想尽かしを食らうかもしれない。
 世間にひとつ貸しを作る。
 世間の部分を会社なり組織なりに置き換えれば、抱えた屈託のはけ口にもなりそうではないか。
 さらにもう一つ、特筆したいことがある。
 周五郎さんが描く女がいいということだ。
 本作にも何人も女性が出てくるが、わたしはおのぶに強く惹かれた。

 おのぶは土間へおりてから振り返り、栄二の顔をじっとみつめながら、「ありがと、いただきます」と云った。

 
 好きでたまらない栄二との場面である。いかほど好きでも、添い遂げられない相手に対する、この描写。
 抑えた筆致からでも、おのぶの切ない思いが伝わってくる箇所だ。
         *
 ここに記したのは、あくまでも筆者が感じた周五郎賛歌に過ぎない。
 あとはあなたがたっぷり、好きなだけ本作にからめ捕られればいい。
 まこと、良書の読書は至福のときである。


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