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レビュー

これが将棋?異形のモンスターが犇く盤上で行われる、命を懸けた究極の頭脳ゲーム『ダークゾーン 上下』

 本書『ダークゾーン』は、貴志祐介が二〇一一年二月に上梓した作品を文庫化したものである。オリジナル版は祥伝社しょうでんしゃの小説誌『小説NON』に二〇〇八年から二〇一〇年にかけて連載された後、単行本として発売。その後もノベルス、文庫と判型を変えながら読み継がれてきたが、このほど貴志作品を数多くラインナップする角川文庫から装いも新たに刊行されることとなった。SFにしてダークファンタジー、ある種のミステリでもあるが、何よりスリリングな頭脳バトルを描いたゲーム小説として、抜群の面白さを誇る長篇である。

 物語は主人公・塚田裕史つかだひろしが、暗い部屋のなかで意識を取り戻すというシーンから幕を開ける。彼は将棋のプロ棋士を目指し、その登竜門である奨励会の三段リーグで日々研鑽けんさんを積んでいる大学生のはずだった。ところが心の奥底から「俺は、赤の王将キングだ」という声がわきあがってくる。赤の王将だって? それが何を指しているのか、自分自身にもよく分からない。
 部屋には塚田を含めて、十八人の男女のシルエットがあった。声や口調から分かるのは、どうやらそれが塚田の友人知人であるらしいということ。その中に同棲している恋人・理紗を見つけ、塚田はほっとする。塚田が赤の王将であるように、彼らは一つ眼キユクロプス鬼土偶ゴーレムなどと呼ばれる存在であることが分かってくる。
 いったい何が起こっているのだろうか。塚田たちのそんな疑問に、一つ眼と名乗った声が答える。彼ら十八人は「赤の軍勢」に属する駒であること。敵対する青の軍勢がすぐそこまで迫ってきており、あと十五分ほどで戦闘になること。このゲームは王将が殺されることで決着し、先に四勝した方が勝利を収めること。負けたチームは世界から永久に消滅させられるということ――。
 記憶を失った主人公が見知らぬ世界で目を覚まし、否応なく事件に巻き込まれてゆく、という展開はエンターテインメントのひとつの王道パターンだが、どうやら塚田たちが直面している事態は想像以上にとんでもないものらしい。彼らが今いるのは「ダークゾーン」と呼ばれる異次元空間に浮かぶ小島だ。面積は六・三ヘクタールほど。この島では永遠に夜が続き、三時間おきに暗黒と薄明をくり返す。
 この冒頭で衝撃的なのは、異形のモンスターと化した十八体の姿が月に照らされ、闇の中にはっきり浮かびあがるシーンだろう。三メートル以上もある巨体を剛毛で覆われた鬼土偶、アリクイを思わせる顔つきで、ぬめぬめと濡れ光る体をもった火蜥蜴サラマンドラ、上肢と下肢の間にマントのような皮膜を張った皮翼猿レムール、赤ん坊そっくりで額の中央に大きな目のついた一つ眼。死の手リーサル・タツチとなった恋人の理紗は、右手の肘の先から節足動物のあしのような黒い棘が何本も生えている。あたかも百鬼夜行絵巻のようなおぞましくも賑やかな怪物描写に、著者のホラー愛を感じて嬉しくなってしまった。
 今、ホラーと聞いて思わず本を閉じようとしたあなた。ちょっと待っていただきたい。たしかに本書はヒエロニムス・ボスの幻想絵画を思わせるような、異形のモンスターで埋め尽くされた作品だ(ご丁寧にも青の軍勢に属するモンスターは、赤の軍勢と名前やビジュアルが異なる)。しかし本作の主眼は、あくまで知略と知略がぶつかり合うロジカルな頭脳ゲームの面白さにある。両軍の駒をあえてグロテスクな姿形にしたのも(もちろん著者の趣味もあるとはいえ)、駒の役割を分かりやすくするためだろう。
 赤の軍勢に属するのは、王将のほか、それぞれに特殊な能力を備えた鬼土偶、火蜥蜴、死の手、皮翼猿、一つ眼の五体の役駒。それと歩兵ポーンDFデイフエンダーと呼ばれる駒が六体ずつ。すべての駒は(現実世界での意識を保ちながらも)王将の命令に従うように定められている。どうやらこの異次元で行われているのは、将棋やチェスに似た何らかのゲームらしい。味方の歩兵が一体、青の軍勢に捕殺されたのをきっかけに、ついに第一局の戦端が開かれる。
 ほどなく青軍を率いているのは、奨励会でともにプロ棋士を目指している友人の奥本博樹おくもとひろきだと判明する。奥本の大胆な攻めによって貴重な役駒まで奪われ、いきなり苦境に立たされた赤の軍勢。塚田はパニックに陥りかけながら、懸命に頭を働かせてゆく。そこからの数十ページ、第一局の幕切れまでが本書の最初のクライマックスである。塚田は現実の対局さながらに、敵の動きを読み、自らの思惑を隠したままで逆転のチャンスを待つ。読み誤りは死を意味するため、そのプレッシャーは半端ではない。第一局を制するのは赤か、青か。ぎりぎりまで予断を許さないゲーム展開に、読者は息をするのも忘れることだろう。
 本書を読んでいてつくづく感心するのは、ゲーム自体の面白さと分かりやすさである。塚田たちが戦っているゲームは、一見将棋やチェスに似ているが、その実かなりオリジナルな要素を含んでいるものだ。たとえば遠方を攻撃できる役駒の火蜥蜴と毒蜥蜴バシリスクは、炎や毒を噴射したら回復まで一時間はかかる。不死身ともいえる強力な鬼土偶と青銅人ターロスだが、死の手と蛇女ラミアには殺すことが可能。一つ眼と聖幼虫ラルヴアはテレパシー能力をもつ、などだ。とくに重要なのは、一定の要件を満たすことで、王将とDF以外はより強力な駒に「昇格」できるというルールだろう。こうした要素が将棋的思考に慣れた塚田を戸惑わせ、ときには読みを誤らせる。巧みに設計されたゲームのシステムが、物語を盛り上げることに一役も二役も買っているのだ。
 こう書くと「複雑なルールを理解しないと楽しめないのでは」と心配されそうだが、そんなことは一切ないので安心いただきたい。わたし自身ゲームはあまり得意ではなく、将棋も駒の動かし方が分かる程度だが、それでも第一局を読み終えるころには、作中のゲームをしっかり理解して一手一手に熱くなっていた。起伏のあるストーリーに沿って、複雑な情報を巧みに読者に呑みこませてしまう貴志祐介の手腕は、いつもながらに見事なもの。一見マニアックなようでいて、エンターテインメントとしての間口が広いのだ。
 七番勝負が続くうち、塚田も少しずつこの奇妙なゲームに習熟してゆく。それにつれて駒の配置が巧みになり、戦略のバリエーションが増えてゆくのが楽しい。このゲームではどう戦うのがベストなのか、トライ・アンド・エラーをくり返しながら知恵をしぼるプロセスは、ほとんど暗号解読もののミステリの読み味である。全篇ほぼ対局シーンで成り立っているという特異な小説でありながら、最後の最後まで目が離せないのは、全八局(なぜ七番勝負が八局になったかは読んでのお楽しみ)がそれぞれにまったく異なる展開を見せるからだ。よくもまあこれだけのバリエーションを思いつくものだ、と感心する。個人的に好きだったのは第四局。シンプルながら相手の裏をかいた駒の配置、あざやかなどんでん返しが決まった名勝負だと思う。

 小説全体の構成についても触れておくと、現実世界の塚田裕史を描いた短いパートが、各対局の間にそれぞれ「断章」として插入されている。プロ棋士の予備軍と言われる奨励会に籍を置いている塚田だが、そこから脱け出すのは容易なことではない。半年ごとにおこなわれるリーグ戦からプロになれるのはわずかに上位二名のみ。あまりのプレッシャーから精神を病んだり、パニック障害を起こしたりする者もいる。リーグ戦で年下の相手に一敗を喫した塚田は、焦燥感と悔しさにまみれる。塚田にとってダークゾーンで戦うのも地獄なら、現実世界もまた終わりの見えない地獄なのだ。
 しかしそもそもダークゾーンとは何なのだろう。どうして二つの世界の登場人物は重なり合っているのか。どうして戦いの舞台が長崎沖に浮かぶ無人島の端島はしま(軍艦島)にそっくりなのか。塚田の頭にふと浮かんできた言葉「DOA」の意味するものとは。いくつもの謎を孕みながら、二つの物語は進展してゆく。それがラストでどう交差するのかも、七番勝負の行く末とともにぜひ注目していただきたい。
 塚田たちは激しい戦闘の中で、かぎ爪や牙で引き裂かれ、毒霧を吹き付けられて何度も命を落とす。そして次の局面になると復活する。リアルな痛みをともなった死とそのリセットが執拗にくり返されるこの奇妙な光景は、人間をゲームの駒とするという特異なコンセプトの作品でなければ描かれなかったものだろう。山田風太郎の名作『甲賀忍法帖』(著者がしばしば愛読書にあげている小説だ)が、道具のように次々と死んでゆく異能の忍者を描くことで、命の崇高さや戦いのむなしさを逆説的に描き出したように、本書もまた著者の意図を超えたところで、生命の根元的なたくましさに触れているような気がしてならない。作品の通奏底音をなす「戦え。戦い続けろ」というフレーズは、この世に生まれ落ちた直後から生存競争に参加せざるをえないわたしたちを、シビアに見つめながらも力強く鼓舞しているように思われるのだが――それは邪推が過ぎるだろうか。

 最後に著者について簡単に紹介しておこう。貴志祐介は一九五九年大阪府生まれ。転勤族だった父に連れられ全国を転々とした後(海外生活の経験もある)、京都大学に入学。在学中はチェスクラブに在籍していた。生命保険会社勤務を経て、日本ホラー小説大賞長編賞佳作となった『十三番目の人格ペルソナ ISOLA』で九六年作家デビュー。翌年『黒い家』で同賞の大賞に輝き、一躍ベストセラー作家となる。同作は国内のみならず、韓国でも映画化された。その後も『青の炎』『硝子ガラスのハンマー』『新世界より』『悪の教典』と話題作を連発。ミステリー、SF、ホラーとジャンルを横断しながらハイレベルな作品を発表し続ける、エンターテインメント界の巨人である。
 将棋にも造詣が深く、二〇一三年にはプロ棋士とコンピュータソフトが対局する第二回将棋電王でんおう戦をゲストとして観戦。本書『ダークゾーン』は将棋の可能性を広げた作品として、第二三回将棋ペンクラブ大賞特別賞を受賞している。
 その小説はいずれも、壮大なイマジネーションと理系的思考がバランスよく融合した傑作でどれを読んでも面白いが、本書のような頭脳ゲームが読みたいという方には、サバイバルゲーム小説の金字塔『クリムゾンの迷宮』や、『硝子のハンマー』を第一作とするミステリ「防犯探偵榎本えのもとシリーズ」を特におすすめしておこう。
 さあ、解説はここまで。先にこのページを開いてしまって、まだ本篇をお読みでないというあなた。こんなところで油を売っている場合ではない。今すぐ上巻のページを開いて、前代未聞のスケールで展開する頭脳バトルを堪能してほしい。急いで急いで!


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