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レビュー

極上のハードボイルドであり恋愛小説。岡坂神策シリーズ中のターニングポイント作『十字路に立つ女』

 いきなりの引用になるが、あるインタヴューで、逢坂剛おうさかごうが次のように述べている。

 私の場合、八十年代に発表した『カディスの赤い星』や『百舌の叫ぶ夜』が、いまも文庫で読まれているのは嬉しいことです。三十年前の小説を読んでどのように思うのか、聞いてみたいですね。昭和四十年代に十年代の小説を読んで、戦前はこうだったのかと思うような感じでしょう(笑)。

 
 
 インタヴューが行われたのは、二〇一三年六月。この一年後、『百舌の叫ぶ夜』『幻の翼』を原作とする『MOZU』シリーズがテレビドラマ化&映画化されて、百舌もずシリーズが大ベストセラーとなる。〝三十年前の小説を読んでどのように思うのか、聞いてみたいですね〟というけれど、読者の感想は一言に要約できる。それは「最高に面白い!」だ。だからこそ逢坂作品が注目され、新たに広範の読者がつくようになった。
 もちろんそのようなことは、昔からの逢坂ファンなら充分承知していることだろう。何よりもストーリーテリングが抜群で、プロットは巧緻こうちで、まったく先が読めない。実にスリリングな作品が多いことは、百舌シリーズ以外の禿鷹はげたかシリーズ(『禿鷹の夜』)、イベリア・シリーズ(『イベリアの雷鳴』)、さらには池波正太郎いけなみしょうたろうの「鬼平犯科帳」への卓越したオマージュである長谷川平蔵はせがわへいぞうシリーズ(『平蔵の首』)を読んでもわかる。
 とはいえ個人的には、評論家という職業柄もあって新作を追うのに忙しく、逢坂剛の旧作を手にとる機会がなかったのだが、幸いなことに某紙で文庫新刊の書評をするようになり、今年に入って、角川文庫が復刊した岡坂神策おかさかしんさくシリーズの二つの短篇集『緑の家の女』(『ハポン追跡』改題)と『宝を探す女』(『カプグラの悪夢』改題)を久々に読み返し、いやはや本当に本当に面白い! と思ったものだ。とくに後者の『宝を探す女』に関しては、書評にも書いたことだが、最後の最後まで油断できないプロットが光る短篇集で、なかでも失踪した男との類似を語る「カプグラの悪夢」はツイストの連続で心地よい緊張感にとんでいるし、埋蔵金を探す表題作「宝を探す女」はとぼけた語り口とユーモラスな肖像が愉快だし、女優の嫉妬の意外な顛末てんまつを描く「過ぎし日の恋」は何ともいえない余韻があってたまらない。
 久しぶりに復刊された二冊の短篇集で、岡坂神策シリーズに興味をもつ読者が増えたのではないだろうか。御茶ノ水のマンションに現代調査研究所という個人事務所を開くフリーの調査マンの物語は、1『クリヴィツキー症候群』(一九八七年)、2『十字路に立つ女』(八九年)、3『緑の家の女』(九二年。※『ハポン追跡』改題)、4『あでやかな落日』(九七年)、5『宝を探す女』(九八年。※『カプグラの悪夢』改題)、6『牙をむく都会』(二〇〇〇年)、7『墓石の伝説』(〇四年)、8『バックストリート』(一三年)と八作あり、1と3と5が短篇集で、ほかは長篇である。
 本書『十字路に立つ女』は、ごらんのように、岡坂神策シリーズとしてはシリーズ第二作になり、初の長篇となる。刊行当時、「このミステリーがすごい! 1989年版」の第十一位に選ばれたが、いまの評価ならもっと上でもいいし、ベストテンに入ってもおかしくない。ベストテンやランキングというものは、どうしても一時の流行に左右されやすく、時間のふるいにかければ、いつまでも読まれる名作・傑作は意外とベストテン圏外に並ぶものである。実際、『十字路に立つ女』のあとに大沢在昌おおさわありまさ『氷の森』、東野圭吾『鳥人計画』、有栖川有栖『孤島パズル』『月光ゲーム -Yの悲劇'88-』、高橋克彦『パンドラ・ケース よみがえる殺人』などの名作が並んでいる。
 さて、『十字路に立つ女』であるが、まずはストーリーを簡単に紹介しよう。
 御茶ノ水に「現代調査研究所」を構える岡坂神策は、飲み友達の刑事・霜月真太郎しもつきしんたろうから頼まれて、精神科クリニックに入院していた麻薬の密売人の行方を追うことになる。ある暴力団の幹部数人を覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕できる重要な証人で、霜月がひそかに病院にかくまっていたのだが、逃げ出してしまい、立件もおぼつかない。証人のことは警察の上層部にも秘密にしていたので、何とか見つけ出してくれないかというのだ。売人の名前は田川志保子しほこ。四十代で、元ジャズ歌手、本人も軽い覚醒剤中毒だった。
 岡坂はさっそく田川の音楽関係者をあたりはじめ、調査に本腰をいれようとした矢先、事務所兼自宅の真向かいの桂本忠昭かつらもとただあき法律事務所から新たな依頼が舞い込む。三星物産の専務、三島友一郎の行動を調査してくれというのだ。友一郎は、岡坂がギターを教わっているギタリスト三島彩子あやこの兄だった。
 二つだけでも時間がとられたが、岡坂にはもうひとつ心配事があった。旧知の神保町の古書店「古楽堂」が地上げ屋に狙われ、いやがらせを受けていた。岡坂は古楽堂の娘のみずえとも親しくしていたが、彼女は腎臓が悪く、週に三回、人工透析をうけねばならなかった。そんな窮状をみかねたように、海外での腎臓移植の話が舞い込む。
 物語は、岡坂神策が大いなる関心を抱くスペイン現代史の話を交えていく。話の相手は、神田にある明央大学文学部助教授の花形理絵はながたりえ。スペイン語学者で、「スペイン現代史研究」という会報への寄稿が縁で二人は本書で知り合い、関係を深めていく。そして二人の関係は、ある事件へと導かれていくことになる。
 この小説が面白いのは、まず、三つの事件が並行していく点だろう。行方をくらました女性の捜索、会社の御曹司の追跡調査、懇意にしている古本屋の地上げ問題である。そこに腎臓移植、さらに後半ではある囚人の脱走問題が起きて、ばらばらに存在していた三つの事件が次第に絡まりだし、実に意外な人間関係が明らかになっていく。
 ミステリとしてはまず、この事件が複雑に絡むプロットがいい。複数の事件捜査を同時進行の形で描いていくモジュラー型捜査小説は、J・J・マリックのギデオン警視シリーズ(『ギデオンの一日』)が嚆矢こうしだが、世界中に広めたのは一九五六年にスタートしたエド・マクベインの87分署シリーズ(『警官嫌い』)だろう。いまや世界中の警察ドラマがそれを踏襲しているし、警察小説の分野では、新作が出るたびに各紙誌のベストテンの上位を独占するR・D・ウィングフィールドのフロスト警部もの(『クリスマスのフロスト』)が、モジュラー型警察小説の白眉はくびといっていいだろう。
 警察小説ではないが、本書もそのジャンルの一つに入るだろう。安易に死体などを出さずに読ませるのもいい。というより、殺人や死体といった生々しい犯罪で読者の注目を集めることをしないで、たんたんと、でもいくつものひねりを用意して意外性で引っ張っていくのだが(これが実にうまい)、その意外性のひとつが女性の存在だろう。タイトルでもある『十字路に立つ女』とは誰のことなのか。事件関係者のひとりのことかと思っていると、出てくる女性がみな情況的にきびしく、隠したい過去があり、人にはいえぬ秘密や出来事があって、それが事件の進展によって表面化し、軋轢あつれきを生み、悲劇へとむかおうとするのである。
 本書は、ジャンルわけするなら、ハードボイルドになるだろう。自分の信条をまげずに事件と対峙たいじしていく岡坂神策の姿は、ハードボイルド・ヒーローのそれであり、ハードボイルド・ヒーローがみな崩れつつある世界の統御にむかうように、ここでも岡坂は事態を巧みにコントロールしようとするけれど、腎臓移植問題がいい例だが、かならずしも適切な選択をとることはできない。むしろ正しいこととは何かが見えないからこそ、物語のカタルシスも混沌として深みをのぞかせることになる。
 そしてその混沌のひとつが、男と女の関係だろう。本書はハードボイルド・サスペンスであるが、久々に読み返してみれば、本質的には恋愛小説なのではないかと思った。男と女がどのように出会い、どのようにして惹かれ、どのようにして距離を縮めたのか。縮めようとしてもその距離は決してゼロにはならず、むしろ油断すれば広がりもするのに、言葉と行動で近づき、また離れることを繰り返す。その接近が心地よい。
 この心地よさは、会話の妙味からも生まれる。なぜならここまで洒落ていてユーモラスな会話も珍しいからである。それも男女に限らず、男同士でも交わされるからニヤニヤ笑いがとまらない。本来、ワイズクラックとよばれる気の利いた台詞や会話の妙味は、ハードボイルド小説には欠かせないものだが、一九七〇年代以降のネオ・ハードボイルド以降、ヒーローの弱体化(アンチ・ヒーロー化)により、読者が求めるヒーロー像がいちだんと下世話になり、内外のハードボイルド小説では、極端に会話や台詞の力が弱まってきた(そもそもヒーローに知性を求めなくなった)。気の利いた台詞や会話とは、言葉を換えるなら、自らを客観化する批評性であり、短く的確な言葉で急所をついたり、ときに定型を別角度から捉えたりして笑いを生み出す。もちろんそういう会話や台詞の面白さは、作品に一つや二つはあるものだが(全くないものもとても多いが)、逢坂剛ほど徹底して最初から最後まで会話と台詞に凝る作家はいない。
 とくに男と女の関係においてそれが発揮されると、溌剌はつらつとした雰囲気を醸しだす。本書の場合は、岡坂と理絵の関係だ。興趣をうばうので、彼らがどのような方向にいくのかは読んでのお楽しみだが、ひとつだけいえるのは、終盤のサスペンスが高まるのは、理絵によせる岡坂の心情が強いからである。三つの事件がひとつに束ねられて、その解決へとつながることにもなるからだ(事件解決後のエピローグでも印象深い)。
 なお、本書で描かれた岡坂神策と花形理絵の関係は、花形理絵の後日譚ともいうべき『斜影はるかな国』(一九九一年)で簡単に電話で触れられた後、『緑の家の女』所収の「ハポン追跡」で詳しく語られることになるので、ぜひ読まれるといいだろう。余談になるが、会話や台詞がいちだんと洗練され、都会小説として結晶するのが、広告業界を舞台にした『あでやかな落日』である(岡坂神策シリーズのベスト)。また本書の節々で語られるスペイン現代史や第二次世界大戦に関する細部は、イベリア・シリーズに昇華されているので、そちらも手にとられるといいだろう。いずれにしろ、本書は初期の名作のひとつであり、復刊により、『カディスの赤い星』『百舌の叫ぶ夜』と同じく、ずっと読みつがれることになるのではないかと思う。


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