バシー海峡は、台湾とフィリピンの間に横たわる南シナ海の海峡である。
地図をひらくと、台湾最南端からフィリピン最北端まで距離はおおむね四百キロメートルほど。ルソンの北にバブヤン諸島など小さな島々があり、黒潮の支流が太平洋から南シナ海へと流れる海域になっている。
太平洋戦争の末期、この海は魔の海峡で、〝輸送船の墓場〟と呼ばれていた。
三百隻もの日本の輸送船がアメリカ潜水艦「狼群戦法」の魚雷攻撃を受け、十万人を超える日本兵が青い海底へ沈んだ。台湾最南端の海辺には、連日、おびただしい数の兵士の遺体が打ち寄せられたという。
日米決戦の場となったフィリピンへ兵力の輸送は欠くべからざるものであり、無謀と知りながら大本営の作戦は続けられた。いま、この悲惨な真実を、どれだけの日本人が承知しているだろうか。まさに「忘れられた戦没者」(著者の言葉)たちの悲しみを。
すでに戦後七十余年、この本は戦争の真実を問いつめ、著者自身の無念と悲痛たる思いをつづったノンフィクションの労作である。
タイトルの「慟哭」という言葉は、日常の日本語ではあまり使われていない。「ひどく悲しんで、激しく泣くこと」(『明鏡』国語辞典)。同じような意味の漢語を並べれば、号泣、鬼哭、痛惜、悲嘆、涕泣……だろうか。少し意味は違うが、嗚咽、歔欷などがある。しかし、悲しみの深さで言えば、慟哭が最高の表現かもしれない。
白川静『字統』によると、声をふるわせて哭することだが、弔問のとき死者との関係によってその礼が異なる。すなわち近親の者だけが慟する定めだったという。
孔子の話が引用されている。孔子は愛弟子の顔淵の死を弔って思わず慟したので、従者から「子、慟せり」と注意された。それに対して孔子は「天は予をほろぼした」ほどの悲しみであり、彼のために泣かずして誰のために泣くのかと、なお慟することをやめなかった、とある。
著者は、おそらく文字通り慟哭しながら取材をし、ペンを執ったことだろう。しかし、読む者もまた、同じ気持ちに誘われずにはいられない作品である。評者(石井)は胸からこみ上げるものを抑えずに読みとおすことができなかった。
二〇一三年十月、ほぼ同じ時期に世を去った二人の老人の話から始められている。二人は会ったことも話したこともない別々の人生を歩んだが、フーガ(遁走曲)のように、奇しくも共有したものがある。それはバシー海峡の狂った波涛である。
一人は九十二歳で死んだ中嶋秀次。独立歩兵第十三聨隊通信兵・中嶋の乗った輸送船「玉津丸」はバシー海峡で撃沈され、実に十二日間漂流の末、奇跡的に生還を遂げた。そして日本兵たちの遺体が流れついた台湾最南端の猫鼻頭岬に寺(潮音寺)を建て、戦友の慰霊に戦後の人生を捧げた。
もう一人は九十四歳で死んだやなせたかし。日本の子どもたちのヒーロー「アンパンマン」の作者である柳瀬嵩は、バシー海峡で二十三歳の若さで死んだ柳瀬千尋の兄だった。
柳瀬兄弟は高知の旧家に生まれ、兄は漫画家になり、弟は京都帝大から学徒出陣で海軍少尉に。そして、駆逐艦「呉竹」で米潜水艦の魚雷を受け、艦長以下百四十人とともにバシー海峡に沈んだ。
千尋は前途有為の青年で、学問と真理に憧れていたが、ペンを剣に持ちかえ、海軍少尉としてみごとに対潜探知室を指揮していた。彼もまた多くの若者とともに〝時代〟の波に呑み込まれたのである。
歴史に埋没した戦争の悲劇を掘りおこす著者の筆は、とくにバシー海峡の彼我の攻防に光彩を放つ。攻防の海戦といっても、こちらは魚雷を浴びるばかりの一方的な被害であり、極限状態のなかの漂流である。しかしこれほどリアルで凄惨な描写は、ノンフィクションのなかでも近年稀だろう。
著者はバシー海峡や台湾猫鼻頭岬にまで足を運んで死者に手を合わせ、病床の中嶋秀次を訪ねてその最期をみとっている。この通信兵は早大予科に籍を置いた文学青年ではあったが、戦闘や沈没や漂流、その時々の心境を短歌に託して記録していた。
水かけて やれば微かに 礼をいう 窶れし友の 小さなる顔 いつしかに われ群青の魚となり のびやかに舞う 藍の水槽 戦友らみな バシーの海に 沈みたり われのみ何故に いまを漂う
市井の名もない兵士でさえも、雅な伝統文化の道を身につけていたとは、あの時代の日本人のたしなみというか、知的水準の高さを示している。
日本の戦後はこうした人間味豊かな若者たちの犠牲の上に築かれたが、多くの日本人はそのことを忘れている。あるいは忘れたふりをしている。彼らの「死」は、一体何だったのだろうか。
この本『慟哭の海峡』が世に出てからほぼ一年後の二〇一五年八月二日、台湾南部・屏東県の潮音寺において「戦後七十周年バシー海峡戦没者慰霊祭」がおこなわれ、著者も参列したという。
バシー海峡の戦没者は、あくまで輸送途上の『戦死』である。これまで慰霊祭が催されることもなく、『忘れられた戦没者』となっていた
著者は文庫版あとがきでもそう書いている。
どこまでも青く澄み渡った空の下、その戦没者のご遺族はじめ多くの方が集まり、バシー海峡戦没者の遺児である吉田宗利住職(七三)による読経がおこなわれた。吉田住職は本書に登場する駆逐艦「呉竹」吉田宗雄艦長の忘れ形見である。三歳のときに死に別れた父親の顔を吉田住職は記憶していない。しかし、海軍兵学校の同期の文集に残された手記には、父子が別れるときの様子がつづられている。 海への献花と読経が流れるなか、参列者の間から『おーい、日本へ帰ってこいよぉー』という声があがった。魂だけでも日本に帰って来てくれということだろう。私は胸がいっぱいになった
(大意)
著者の数多いノンフィクション作品の一つに『康子十九歳 戦渦の日記』(二〇〇九年、文藝春秋刊のちに文春文庫)というのがある。
原爆死した広島市長の次女・粟屋康子が、生き残った母の看病で広島に入り、そのため原爆症にかかる。しかし最後まで希望を捨てず、家族への愛と日本の未来を信じて命を捧げる物語だ。その本のあとがきで、著者は次のように書いている。
焦土の中から立ち上がった日本は、戦後、なぜかくも発展を遂げたのだろうか。(中略)私は、それを、日本人は絶望の中でも誇りと気高さを失わなかったからではないかと思っている
――そのことを考える時、現在の日本が先人の尊い犠牲と、失われることのなかった誇りの上に成り立っていることを忘れてはならない、と思う
本書もまた、平成の私たちに重い問いかけを突き付けている。