しかし、それでも「及ばせたいよ。おばあちゃん」と思うひかり。
 明治から平成の世へと引き継がれていくこの物語は、「及ばぬ」という思いが「及ばせたい」という思いを生む物語でもある。そして、ひかりのその思いは、颶風(強く激しい風)吹きすさぶ花島で、「なんも。及んでるよ」と変化していく。孤島に取り残されて可哀相。たった一頭で可哀相。そんな人間の考えとは相容れない時間と場所で、馬は生きる。生き抜く。そのことを、説明ではなく、花島の自然と馬のたたずまいの描写によって伝えるラストがもたらす感動は格別だ。
 この自然と人為(人意)の対比は、道産子をはじめとする外来種の血が入らない和種の馬について語る箇所でも強調されている。明治期に入り西欧文化が流入したことで、〈馬についても品種改良による形質の向上が必要だと〉理解した政府によって、去勢された日本の在来種の牡馬たち。しかし、完全には淘汰されなかった。〈例えば孤島。例えば辺境。政府の触れが届かない、あるいは住人がそれを遵守する気がない島では、政府の計画は実行されなかった〉〈当時、花島で祖父の捨造が貸し出し、使役されていた馬もまた、結果的に去勢を免れた〉。そんな、今や稀少とされる在来種の馬への愛情が、この小説の基盤になっているのだ。
 馬に命を救われたミネ。馬によって命を与えられた捨造。自分が救い出すことができなかった馬に心を残し続ける和子。最後の一頭となった馬との対面によって、大きな視野を得るひかり。豊かで美しいだけではない、厳しく残酷なかおも持ち合わせる東北や北海道の自然を背景に、人と馬の百二十年余りの時間を、原稿用紙わずか四百枚弱で描ききった力量に感服。ベタついた動物愛護精神とはかけはなれた心持ちで、馬という生きものの魅力を伸びやかに伝える濶達かったつな文章に感嘆。三年前の夏に見かけた面構えのいい女性は、面構えのいい小説を書く作家だったのだ。
 なかでも、わたしが好きなシーンは、行方不明になったワカを探しに、幼い和子が月明かりとランプを頼りに、自分の家の登記になっている森に入っていく場面だ。大きなシマフクロウに脅され、ほうほうの体で逃げる和子はこう思う。
この森の主はけっして祖父ではない。あのシマフクロウだけのものでもない。この森は、森そのものの領分なのだ。和子は祖父の言葉を思い出す。
『オヨバヌトコロ』
 祖父が繰り返していた言葉が脳裏に蘇る。及ばぬ所。空と海と、そして不可侵の大地。いかに人工の光で照らそうと、鉄の機械で行き来し蹂躙しても、人の智と営みなどとても及びもつかない、粗野で広大なオヨバヌトコロ
 この場面に代表される、人間が分け入ることを許さない自然の領分と、そこで生きる動物たちへのおそれにも似た愛着は、長篇第二作『肉弾』にも受け継がれている。河﨑秋子の小説は、読んで面白いだけではない。自然と野生を身近から失ってしまった現代人の一人であるわたしに、生きものとしての己の本分を問いかけてくるのだ。面構えのいい作家は、これだから剣呑けんのんだ。これだから信頼できるのだ。
>>文庫版『颶風の王』

書籍

『颶風の王』

河﨑 秋子

定価 605円(本体560円+税)

発売日:2018年08月24日

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    書籍

    『肉弾』

    河崎 秋子

    定価 1728円(本体1600円+税)

    発売日:2017年10月06日

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