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レビュー

理不尽に、負けるな。いつの世にもいる、運命に抗い、闘いぬく人たちへのエール『柳橋物語』

 私たちはなにを失くしてしまったのか。豊かになりすぎて、忘れているものがあるのではないか。周五郎(しゅうごろう)作品を読むたびに愕然としたり心をふるわせたり、自らに問いかけたくなるのは私だけではないはずだ。
 山本(やまもと)周五郎さんが亡くなられて半世紀が過ぎた。これだけの歳月が経っても小説は変わらず愛されつづけ、この間に優れた評論や評伝も数多く出版されている。そんな雲上の大先輩について若輩者の私がえらそうに評する言葉はもちあわせていないが、ひとつだけ強調したいのは、反骨魂に裏づけされた〈弱者によりそうまなざし〉についてである。
 山本周五郎さんは小説の中で常に闘っている。耐え難い貧困だったり、冷淡な世間だったり、裏切りや不実や偽りだったり……闘う相手はたいがい世間なのだが、たとえば『樅ノ木は残った』では理不尽な(まつりごと)への怒り、『五瓣の椿』ではめらめらと燃え上がる復讐(ふくしゅう)心、『その木戸を通って』では弱気や恐怖心、というように、つきつめていえばそうした理不尽に対峙する自身の心と闘っている、ともいえる。
 本書に収録された二編もその例にもれない。どころか、いずれも壮絶な闘いの物語である。中心となる人物はどちらも悲惨な境遇におかれた女で、著者は二人の心情にぴたりとよりそって、その胸の内を鮮やかに解き明かしてゆく。
 私は若い頃、周五郎作品を読み(あさ)った時期があった。おびただしい数の作品があるので全作ではないものの、二度三度と読み返す中で、『柳橋物語』は遠い昔にたった一度、読んだきりだった。なぜなら、あまりにも不幸つづきの主人公おせんが可哀想で、悔しくてたまらなかったからだ。こんなことがあってよいのか、これではあんまりではないか……と、著者に腹を立てさえしていた。
 それなのに今回、この解説を書くために始めの数行、秋鰺(あきあじ)の酢作りの描写を読んだとたん口中に新鮮な魚の味がひろがり、同時に、小説の全容がよみがえった。風が吹き渡る柳河岸(やなぎがし)の光景も、黙々と道具を研ぐ祖父源六(げんろく)の背中も、燃え(たけ)る炎も、赤子の泣き声も、そして報われない愛のために死んでいった幸太(こうた)の悲痛な叫びも……忘れてはいなかったのだ。まるでたった今、読み終えたばかりのように――私自身がおせんになったかのように五感までともなって――次々に場面が浮かんでくる。本編が私の胸の奥にくっきりと刻み込まれていた証拠である。
 やっぱり切ない。悔しさも変わらない。それでも読み直してみて、私は若い頃とは少し違った印象を抱いた。〈運命にもてあそばれる悲惨な女の話〉と思っていたが、そうではなく〈闘う女の話〉だと気づいたのだ。
 前篇で、源六はおせんに、涙ながらにこういう。

人間は調子のいいときは、自分のことしか考えないものだ……(中略)……自分に不運がまわってきて、人にも世間にも捨てられ、その日その日の苦労をするようになると、はじめて他人のことも考え、見るもの聞くものが身にしみるようになる……

 そして、前篇・中篇と、祖父の死から始まって大火、洪水、あらぬ噂と数々の悲惨な目に遭ったあと、おせんは後篇で幸太の自分への真実の愛に気づいて「喉を絞るように(むせ)びあげ」る。

「幸太さんわかってよ、あんたがどんなに苦しかったか、あたしには、今ようくわかってよ」  今はすべてが明らかにわかる、自分を本当に愛して呉れたのは幸太であった。

 十七の娘が庄吉(しょうきち)に胸をときめかせたのは、恋に恋する乙女心だった。しかも「待つ」という言葉には崇高な響きがある。貞節を重んじる昔堅気の娘なればこそ、その言葉を美化し、すがりついて、真実を見る目を曇らせてしまった。
 けれど〈信じて待つ〉という執念がなかったら、おせんはここまで強く生きられたか。一度ならず記憶を失うほどに打ちのめされながら、しかも四面楚歌の苦しみの中でも自分を見失わなかったのは、たとえまちがいだったにせよ、人を想う執念と赤子の存在があったからだろう。庄吉恋しさから一度は捨てようとした赤子を、やはり育てようと決めたとき、おせんは真の意味で自立した。いったん芽生えた疑いは容易には消せない。自分では気づかなくても、負い目を抱えたまま庄吉と暮らす不幸と、孤独ではあっても正々堂々とした生き方とを(はかり)にかけて、おせんは後者を選んだのだ。そう思えば、最後の場面でおせんが庄吉に嘘をついた理由もわかる。憐れみはいらない。闘って闘って――世間とも庄吉とも自分の心とも――闘いぬいて、最後に、おせんは勝利を得たのである。
 
 どんなに悲惨な目にあっても〈庄吉を待つ〉という希望にすがっていられたおせんは、ある意味で幸せだったと思う。絶望の(ふち)に沈んだときも幼い幸太郎(こうたろう)や自分より不運なおもんがいたし、得体は知れないものの松造(まつぞう)という後ろ盾もいた。
 それに比べて『しじみ河岸』のお(きぬ)には救いがない。
 お絹は、これでもか、と目をおおいたくなるほど悲惨な境遇で暮らしていた。世の中、こんな不公平があってよいものかと読んでいる私まで運命を呪いたくなる場所――しじみ河岸は、そういうところだ。
 お絹がなぜ犯してもいない罪で入牢(じゅろう)し、嘘の証言をしてまで処刑される道を選んだのか。本編は南町奉行所の吟味与力、花房律之助(はなぶさりつのすけ)がその謎を解き明かしてゆくミステリー仕立ての短編だが、ここに通奏低音として流れているのも闘う心、著者の〈反骨魂〉である。だから真犯人が捕縛されてお絹が無実となっても、決してめでたしめでたしとはいかない。そこにはもっと切実な貧困、生活苦、それゆえの人情の酷薄さという厳然たる不幸が横たわっているからだ。貧すれば鈍するというが、江戸の人情長屋はまだ恵まれた人々が集うところで、最下層のどん底にいる人々はそんな綺麗事などいってはいられない。
 山本周五郎さんが『柳橋物語』を書いたのは昭和二十一年、終戦の翌年である。大火や洪水の地獄絵は、戦争末期の修羅場の合わせ鏡でもあったのか。『しじみ河岸』は昭和二十九年。戦争の傷跡がようやく癒えはじめたこの時代、やはりまだ……というより復興の最中だからこそ、そこから落ちこぼれ、忘れ去られて悲惨な境遇にあえぐ人々の姿が著者の胸をゆさぶったのではないか。
『しじみ河岸』にあるのは、絶望と諦観(ていかん)である。

われわれのような、その日の食にも困っている人間は、なにを云っても世間には通用しません」と弥五は云った、「仮りに旦那にしたってそうでしょう、土蔵付きの大きな家に住んで、財産があって、絹物かなんぞを着ている人の云うことと、その日稼ぎの、いつも腹をへらしている人足の云うことと、どっちを信用なさいますか、いや、お返辞はわかってます

 しじみ河岸の住民の悟りきった言葉の前に、律之助は(こうべ)を垂れるしかなかった。お絹を救ったことが果たして良かったのかどうか。お絹を待っている過酷な日常を想って、律之助はほろ苦い酒を呑む。
 なんという小説だろう。
 山本周五郎さんの、なんと切実な問いかけだろう。
 悲惨な境遇を耐えぬいたおせんと、疲れ果てて死を選ぼうとしたお絹。どんなに世の中が豊かになっても、おそらくおせんやお絹のように苦しむ女たち、いや人間がこの世からいなくなることはないはずだ。
 周五郎作品は色あせない。生きることは闘うことだから。
 本書がこれからも長く愛されるように、一人でも多くの読者が地の底から湧き上がるようなお絹の(うめ)きに耳をかたむけ、苦境の中をたくましく生きぬくおせんの姿から勇気を得られるように、私はそう願っている。
 

 

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