ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 (シリーズ世界の思想)

【試し読み②】『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』〈§0 『論理哲学論考』の目的と構成〉
ウィトゲンシュタインが「哲学の問題すべてを一挙に解決する」という、哲学史上最高度に野心的な試みを行った『論理哲学論考』。
本文の解説に入る前に、まずは『論考』とは何か、そしてどんな構成になっているのか、書かれてあることの全体像を見てみましょう。
>>試し読み#1〈はじめに〉
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【目的】
哲学の諸問題を一挙に葬り去る
ウィトゲンシュタインは、『論考』を何のために書いたのだろうか。それは、哲学の問題すべてを解決することである。ただし、解決といってもそれは、問題ひとつひとつに具体的に解答を与えていく、という仕方でなされるわけではない。そうではなく、彼は、哲学の問題のほとんどが擬似問題であることを一挙に証し立てようとするのである。
古来人々は、「哲学」や、その一部門としての「倫理学」、「美学」、「形而上学」といった名の下で、経験的な内容を超えた世界の本質や原理について問うてきた。そして、それに対する解答を探ってきた。たとえば、なぜ世界は存在するのか。人の生きる意味は何か。普遍的な倫理や美とはどのようなものか。魂は不滅なのか。神は存在するのか。世界は因果法則に従っているのか、等々。ウィトゲンシュタインの考えでは、これらの問題はすべて人々の言語使用の混乱から生じたものにほかならない。つまり、昔から哲学の領域でなされてきた大半の議論は、言語が従っている論理について人々が十分な見通しをもっていないがゆえに延々と続けられてきた、全く無意味な問いと答えの応酬にすぎない、というのである。
『論考』の末尾には、次のような一節が結論として掲げられている。おそらくは、現代哲学で最も有名な文章のひとつだろう。
「語りえないことについては、沈黙しなければならない」。
語りえないこと──それは主として、「人の生きる意味は○○である」、「人が従うべき普遍的な倫理は○○である」、「○○は絶対的な価値をもつ」、「神は存在する(あるいは、神は存在しない)」、「魂は不滅である(あるいは、魂は存在しない)」等々、哲学の問題に対して具体的な解答として提出されるような主張を指す。しかし、それらはそもそも有意味な言葉にはなりえない。そうした試みは言うなれば言語の限界を超えているとウィトゲンシュタインは考える。「語りえないことについては、沈黙しなければならない」という一節は、さしあたりはそう解釈できる。(ただ、この一節にはさらに別の意味合いも含まれていると思われる。それについては本書の最後にあらためて考えることにしよう。)
語りえないことがあることを語る
以上のように、『論考』は、言語の限界を明らかにすることで哲学の問題を一挙に解決しようとする著作である。すなわち、哲学の問題に対する解答を我々が与えようとしても、どうしても有意味な言葉になりえない──語りえない──ということを証し立て、それによって哲学の諸問題を擬似問題として葬り去ろうとする、途方もない野心をもった著作なのである。
しかし、そのように言語の限界を明らかにすることなど、本当にできるのだろうか。言い換えれば、我々はそもそも、「語りうること」と「語りえないこと」の区別をつけることができるのだろうか。
仮に我々が、「○○については語りえない」ということを有意味に語りうるとしてみよう。しかし、その場合、「○○」の部分は何かしら意味のある言葉ということになってしまう。たとえば、「魂が不滅であるかどうかについては語りえない」と語ることができるとするなら、魂が不滅であるかどうかというのは少なくとも意味のある問いであり、擬似問題ではないことになる。言い換えれば、魂の不滅性は語りうる事柄だということになってしまうのである。
では、逆に、「○○については語りえない」の「○○」の部分は全く意味を成さない、としてみてはどうか。すると、今度は、「○○については語りえない」という発言全体もそもそも意味を成しえなくなってしまう。たとえば、「あぷぺぽぽらについては語りえない」という発言の意味を、我々は理解できないだろう。なぜなら、この発言が何について語っているのか──というより、そもそも何ごとかについて語っているかどうか自体──我々には分からないからである。
つまり、「○○については語りえない」という発言が何ごとかについて語っているとすれば、まさにそれについて語りうるということになるし、逆に、何ごとも語っていないとすれば、まさにそのような発言自体が意味を成さないということになる。いずれにせよ、我々には、「これについては語りうる/語りえない」という判断を下すことは不可能であるように思われるのだ。
この不可能性は、言語と思考の分離不可能性という観点で捉えることもできる。もしも我々が、いわばいったん言語の外に出て、語ることとは独立に考えることができるのだとすれば、「これについては語りうる/語りえない」という判断を下すことが可能となるだろう。しかし、いままさにその判断が言葉で語られていることからも明らかなとおり、我々は気づいたときにはすでに言葉を用いて考えているのであり、どうあがいても、言語の外に出て言葉なしに考えるということはできない。言い換えれば、我々はどこまでも、言語の内側から、語ることにおいて考えるしかない。それゆえ、たとえば、「○○については語りえない」という言葉を用いることなしに、それに類する何らかのいわば非言語的な判断を下す、ということなど、我々には理解不可能な営みでしかないだろう。だとすれば、「○○については語りえない」という判断──そのような言葉で言い表される言語的な判断──を下すことは、やはり我々には不可能ということになるだろう。
しかし、『論考』という野心的な著作は、まさにその判断が可能だと主張する。すなわち、我々はある意味で、語りえないことがあるということを語りうるというのである。いったいどうやったら、そんなことが可能なのだろうか。その仕掛けを探り、理解すること、それが『論考』を読み解く主な道筋となる。
【構成】
入れ子状の複雑な体系
『論考』の目的を確認したところで、最後の準備運動として、この書物の構成について見ておくことにしよう。
『論考』の基幹となるのは、以下の七個の文章である。まず、ざっと眺めてみよう。(大半はそれだけでは意味不明だが、現段階では全く気にしなくていい。)
一 世界は、成立している事柄の総体である。
二 成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。
三 事実の論理像が、思考である。
四 思考とは、有意味な命題のことである。
五 命題は、要素命題の真理関数である。
(要素命題は、自分自身の真理関数である。)
六 真理関数の一般形式は、[p, ξ, N (ξ)]である。
これは命題の一般形式である。
七 語りえないことについては、沈黙しなければならない。
そして、各節の文章それぞれについてのコメント(補足ないし注釈)が記された約五百個の文章が並んでいる。たとえば、最初の第一節周辺の記述は以下のようになっている。
一 世界は、成立している事柄の総体である。
一・一 世界は事実の総体であり、物の総体ではない。
一・一一 世界は諸事実によって規定される。さらに、それらが事実のすべてであることによって規定される。
一・一二 なぜなら、事実の総体は、どのようなことが成立しているかを規定すると同時に、どのようなことが成立していないかも規定するからである。
一・一三 論理空間のなかにある事実が世界である。
これらの節で具体的に何が述べられているかについては、すぐ後で本格的に読解を始める。ここで確認すべきなのは、各節の番号の規則だけである。
たとえば、一・一節と一・二節の内容は、一節へのコメントとなっている。そして、一・一一節、一・一二節、一・一三節の内容はすべて、一・一節へのコメントとなっている。また、『論考』のなかにはたとえば「五・五四五一」という長い番号が付された節があるが、これは、五・五四五節へのコメントとなる節であることを示している。
このように、『論考』は、上記の七個の文章を頂点に、それらへのコメントとなる文章群、さらにそれらの文章群へのコメントとなる文章群……、という入れ子状の構造をもった、非常に特異な書物である。そのため、いま読んでいる節の文章が別のどの節に関連して書かれたものなのかということを、読者はある程度意識しておく必要がある。つまり、『論考』はその見掛け上のコンパクトさとは裏腹に、各節同士の連関を考慮しながら読むことを要求する、複雑な体系を構成しているのである。
前後する議論の筋道
もうひとつ、『論考』を読みにくくさせているのは、前後するその議論の筋道である。ある簡潔な主張がなされた後、それに深く関連する比較的詳しい議論がずっと後になって展開されている場合もしばしばなのだ。したがって、ともかくいったん最後まで読み通しておかないと、最初の方の節の内容もはっきり捉えることができない。つまり『論考』は、二度も三度も繰り返し読み直すことを読者に要求するのである。
本書は、そうした読者の負担を和らげるために、本文を適宜省略したり、後続する内容を先取りした解説を行うことなどによって、できるだけ最初から順に読み進めつつ、しかも内容の大枠を摑む、ということが可能となるように工夫している。その意味で、まず本書を読んでから、『論考』本体の読書に向かうことを勧めたい。
『論考』全体のおおよその構成
とはいえ、本書を読み進めることに対しても、多くの読者がこれから負担を感じることだろう。この議論はいったい何をしようとしているのか、どこに向かっているのか、という疑問が先に立って、なかなか内容を吞み込めないという人も出てくると思われる。
したがって、読者の便宜のために、ここで『論考』の議論のごくおおまかな流れを紹介しておくことにしたい。
まず、『論考』のゴールは、先に確認したように、語りうることと語りえないこととの境界線を引くことである。このゴールに辿り着くために、ウィトゲンシュタインがさしあたり提示しようとするのは、真偽の値をもちうる言葉である「命題」を、現実(実際の世界のあり方)を写し取る像ないし模型として捉える視座であり、そして、言語を命題の総体として特徴づける見方である。つまり、言語と世界を写像という関係で把握することが、この著作の当面の目標となる。
そのために、『論考』ではまず最初に、そもそも世界とは何か、世界はどのような要素からなるか、現実とは異なる世界の可能性はいかにありうるのか、といった問題が取り上げられる(本書§1〜4)。
そのうえで今度は、現実の模型(像)としての命題とはどのようなものかという問題が扱われ、言語が世界を写し取るということの内実が探究される。その過程で同時に、世界の可能性をこれ以上なくきめ細かい仕方で明晰に描き出せる言語とはどのようなものかも、論理学の道具立てを用いつつ輪郭づけられることになる(§5〜14)。
そうして、言語と世界の写像関係が明らかにされると、そのことを起点に言語の限界が見定められていくことになる。まず、世界と写像関係をもちえない言葉──つまり、現実の模型たりえない命題──が、無意味な命題もどきとして規定される。そのうえで、我々が哲学の諸問題への解答を語ろうとすると、それらがことごとくそうした命題もどきになるという消息が辿られることで、我々が言葉にできることの限界が示される(§15〜34)。
本書を読み進めるうえで一番苦しいのは、§14まで──『論考』本体で言えば三番台の節まで──を理解することである。逆に言えば、そこまでの内容を十分に理解できれば、その後の内容を追うのはそれほど大変ではない、ということだ。
本書を読む過程を登山に喩えるならば、前半部の坂道が最も急で険しく、その後はむしろ緩やかな登りが続くと思ってもらえればいい。本書の解説をガイドに、頂上の第七節、「語りえないことについては、沈黙しなければならない」という一文に辿り着くまで、何とか登り切ってほしい。
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ともあれ、以上の構造や構成を頭に入れてもらったならば、『論考』の文章に向き合うための準備が整ったことになる。これから早速読み始めることにしよう。
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これで、本文を読む準備が整いました。
次回、いよいよ冒頭部分の抜粋と解説をお見せします。お楽しみに!
▶▷〈§1〉物が集まっただけでは世界にならない
≫古田 徹也『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 (シリーズ世界の思想)』