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◎泣ける!1位

金なし、休みなし、彼女なし。うつ気味の僕の前にやってきたのは、金魚の化身のわけあり美女!?
直木賞作家の真骨頂! 笑って泣ける人間讃歌。

 
 夕暮れ時には心がざわめく。
 日曜日の、夜と呼べる時刻になっても明るいいまの季節はなおさらだ。
 西陽の射すベッドで僕は空を見上げている。窓に四角く囚われた夕焼け空が、夜のインクを少しずつ溶かしこんで暗色に変わっていく。残り時間をカウントダウンするように。あと十三時間四十七分、十三時間四十六分、十三時間四十五分。
 あと十三時間四十四分。明日の会社の始業までの時間だ。
 窓から顔を背けた。会社のことを考えると胃がすぼまる。目を覚ましたのは正午過ぎで、それからずっとベッドを出られずにいる。何も食っていない。起きたところで冷蔵庫に入っているのは缶ビールとミネラルウォーターだけ。駅前のコンビニまで歩くことを考えたら寝ていたほうがましだった。腹は減っているはずだが、感じるのは空腹というより鈍い痛みだ。
 腹這いになってみた。先の丸い針の束で内側をつつかれているような胃袋をなだめようと思って。今度は息苦しさに耐えかねて、また仰向けに戻る。休日の僕には寝返りが唯一の運動で、そしてそれすら重労働だ。
 うん、やっぱり仰向けが正解だ。背中から根が伸びて、ベッドのクッションにからみついていくのがわかる。壁かけ時計と、カーテンのない窓のむこうの赤から紫に変わろうとする空を、また眺めるはめになるのだけれど。
 あと十三時間三十九分。
 あと十三時間三十八分。
 目が覚めたら朝になっているのは、やるせないが、残り時間に追い立てられ続けるのはもっと辛い。ベッドから腕を伸ばしてウイスキーのボトルと睡眠導入剤を手探りする。ひと晩であらかた飲み尽くしてしまったフルボトルの残りで薬を流しこみ、タオルケットを頭からかぶる。
 頭の上で誰かのため息が聞こえた。数日前から不吉な唸りをあげていたエアコンが停まってしまった音だった。西陽にあぶられた部屋がたちまち外気と同じ温度になる。這い虫みたいにうなじを伝う汗が背中とタンクトップの間に潜りこんできた。
 ああ、暑い。これじゃあ眠れない。
 僕は背中と腕と太腿の裏側とふくらはぎに生えた根っこを引き抜いた。起き上がると、眠りすぎと二日酔いが重い鉛をしこませている頭が、くらりと揺れた。
 ベッドの上で膝立ちになり、エアコンの横腹を叩く。こうすれば、また動き出す、はずなのだが、今日はだめだった。
 閉め切っていた窓をほんの少し開けた。そよ風ではなく熱気が吹きこんできた。下の階からだろう子どものはしゃぎ声も。
 睡眠導入剤をもう一錠飲んだ。自分がこのまま目覚めなくてもいい気がした。頭の中で僕は呟く。
 死にたい。
 女は走っていた。墨絵のような夕闇の森の中を、赤い衣をひるがえして。行く手の空は落ちようとする陽に染まっている。
 暗くなる前に森を抜けるのはもう叶わぬことに思えたが、足は止まらなかった。追っ手が迫っていることは、夏至の風が運んでくる人馬の声を聞かずとも明らかだった。
 女は、郡太守劉顯りゅうけんとの婚の儀から逃れてきた。赤い衣は婚儀のための忌ま忌ましい新娘衣裳だ。
 女の名は、揚娥ようが。文人、揚忠ようちゅうの娘。沈魚美人、川で衣を洗えば、その美しさに魚が驚き水底へ沈む、と謳われた白面は硬くこわばっている。あざみの原を踏み越えてきた両足から血が流れ、紅のすそに違う赤を散らしていた。
 揚娥には許嫁いいなずけがいた。王凱。互相思慕の仲だった。
 二人を引き裂いたのは、劉顯だ。憎い男。顔色が山椒魚さんしょううおの如く青黒く、額や頰に醜いこぶのある老人。
 王凱は無実のとがで捕らえられ、土中に首まで埋められ、石と棒で顔の形がなくなるまで打たれ、喉を裂かれ、舌を引き出されて殺された。あのじじいを同じ目に遭わせてやりたい。食いしばった歯が内頰を嚙み切り、女の紅唇をさらに赤く染めた。
 背後でたけり声が大きくなってきた。女の足では時を待たず追いつかれてしまうだろう。女は森を抜けることを諦め、かたわらの斜面に取りすがった。ここを登り詰めた先に、ヂイの沼があるはずだった。
 登るたびに深山の枝々が打ちかかり、婚儀の赤い衣の長い裾と袖を、戦の旗の吹き流しのように引きちぎる。女はそれが嬉しかった。こんな衣、もっと破れればいい。
 登りきる頃には、馬を捨て、斜面を這い登る幾人もの男たちの姿が見えてきた。
 遥か下に霧に煙るヂイの沼がある。満月のような円い沼だ。陽の落ちたいま、たたえる水は森よりくらい。
「待て」追っ手が叫んでいた。これ以上、何を待てと言うのだ。
 女は身を投げた。墨絵の風景の中を、赤い衣が幾叉にもちぎれた裾をひらめかせて、昏い沼へ落ちていった。
 
 

   一


 眠れない。
 睡眠導入剤はくせになるとまるで効かない。
 暑い。
 そして、うるさい。
 十センチだけ開けた窓の向こうから、耳障りな音が忍びこんでくる。祭り囃子だ。国道を渡った先に、この界隈でいちばん大きな神社があるのだ。
 陽がようやく暮れたと思ったら、太鼓の木の縁を叩く甲高い音が新たなカウントダウンを刻みはじめた。今度は秒単位で。
 耳せんがわりにタオルケットで顔をぐるぐる巻きにした。
 何の役にも立たなかった。
 ああ、もう。
 窓を閉めるために、寝たまま片足を伸ばす。届かない。瀕死の芋虫のように体をずり下げていた僕の鼻先にふいに、醬油しょうゆとソースが鉄板で焦げる匂いが漂った。実際に嗅いだわけではなく、祭り囃子に匂いの記憶が蘇ったのだ。
 そうか、夏祭りなら、屋台が出ているかもしれない。空っぽの胃袋がよじれ、じんわりと胃液が広がった。久しく忘れていた感覚。食欲だ。まだ自分にそんなものがあったなんて驚きだった。
 コンビニより神社のほうが近い。よし、夕飯を調達してこよう。
 背中に張ったひげ根をひきちぎり、ベッドから這い出る。汗まみれのタンクトップを脱ぎ捨て、洗濯もせずに積み上げている服の山から、少しはまともなTシャツとカーゴパンツをひっぱり出した。何であれ、目的を持って行動するのは久しぶりだ。
 外はもう暗くなっていた。東の空に月が昇っている。満月だ。
 石造りの塀に沿ってのぼりが並んでいる。頭上には提灯が鈴なりになって、夜の初めの闇を照らし出していた。神社に近づくにつれ、思っていたとおりの匂いが強くなってきた。
 焼きそば。イカ焼き。とうもろこし。牛串。綿あめやクレープの甘い香りも混じっている。鳥居の先、狭い参道の両脇に夜店が軒を連ねていた。
 想像以上の人出だった。一日中寝たきりだった僕は、人の波に背中を押されながら、ウォーターマットを踏むような足どりで歩く。
 手近な露店で自販機の倍の値段で売っているビールを買った。明け方までの酒のせいでうずく頭を、なんとかしたかったからだ。睡眠導入剤とアルコールを併用すれば、酒の酔いとは別物の酩酊めいていに襲われるのを承知で。
 ビールを飲み干すと、胃がいままでとは違う鋭い痛みを訴えてきた。空腹の痛みだ。食欲を満たすというより、痛みをやわらげるために、食い物を手に入れることにする。
 まっさきにお好み焼きが頭に浮かんだが、長い列ができていた。食いやすさを考えてタコ焼きにした。ついでに飲み物の店へ戻り、二本目のビールも手に入れる。
 効かなくなった睡眠薬の効能というか副作用は、一時的に気分が高揚することだ。僕はタコ焼きの紙パックを折り畳み、ゴミ箱にフリースローする。残念ながら外れ。拾い上げてダンクした。
 輪投げ、やってみようか。ゴミ箱の先に、暇そうな輪投げの店があるのだ。
 代金を払い、輪を受け取る。全部で三つ。僕は自分で自分に賭けをしかけた。
 もしいちばん奥にある、スカイツリーのミニチュアが取れたら、会社に辞表を叩きつける。ひとつも取れなかったら、その時は──
 一投目。輪はスカイツリーの頂上近くに当たり、はねかえって、えびせんべいの小袋にすっぽりはまった。
 えびせんの袋を片手にぶら下げて、喧騒の中を歩いた。浮き立った足早な人々に次々と追い抜かれていく。
 浴衣で揃えたカップル。スカートやズボンにじゃれつく子どもを幸せそうにうるさがっている家族連れ。酒と祭りに酔ってはしゃぐ僕と同世代の男女半々のグループ。
 つかのまの高揚はすっかり醒めてしまった。一度高みに上ったあとの落下は激しい。元の場所より深く落ちる。
 辞表を叩きつける? できるわけがない。最初の会社を辞め、再就職の面接に落ち続けて、やっと潜りこんだ職場だ。今度辞めたら、もう次はない。周囲のさざめきのひとつひとつが、僕を責めたてる声に聞こえた。
「売り上げ〝0〟で会社帰ってくんじゃねえよ、この給料泥棒が」
「使えねえな、あいつ。あれで前の会社でも営業だったんだと」
「辞めちまえ、江沢えざわ。俺の評価まで落ちちまう」
 いま頃になって薬が効きはじめた。参道の提灯や露店の灯が滲んで見える。木立のこずえが風もないのに揺れている。二の鳥居は波状によじれ、生き物のようにうごめいていた。満月は波打つ水面に映っているかのようだ。僕とすれ違い、あるいは追い越していく人波が倍に増えたように思える。人影が僕の目に二重三重にだぶって映っているからだ。
 息が苦しくなってきた。この世界の空気が僕には重すぎる。自分が分厚い不透明なゼリーに包まれている気がする。すべての光景が水底から眺めているかのようだ。
 地球の重力に耐えきれなくなり、境内に続く短い石段にしゃがみこんだ。空気を求めて口を大きく開閉させる。心臓が太鼓を連打しているのに、酸欠の脳味噌は身体を見捨てて、現実から遠ざかろうとしている。このまま眠りこんでしまいたかった。ずっと目覚めなくたってかまわない。

書籍

『金魚姫』

荻原 浩

定価 821円(本体760円+税)

発売日:2018年06月15日

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    書籍

    『それでも空は青い』

    荻原 浩

    定価 1620円(本体1500円+税)

    発売日:2018年11月29日

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