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試し読み

【新連載試し読み】竹本健治「狐火の辻」

10/10(水)より配信の「文芸カドカワ」2018年11月号では、竹本健治さんの新連載「狐火の辻」がスタート!
カドブンではこの新連載の試し読みを公開いたします。

湯河原で起きた交通事故と、不気味な噂話――。鬼才・竹本健治が贈る、戦慄のミステリー!
話題作『涙香迷宮』に連なる長編、ここに開幕!

 
 

 序としての三つの断章

 こんもりと繁った森の奥へと続く小道。
 そこは彼にとって、冒険へのいちばんの入口だった。
 小道の先に何があるのか、ある程度は分かっている。まずその小道がはじまっているのは、つたがびっしりと絡まった古い古い洋館と、三つのお地蔵さんがまつられているぼろぼろに朽ちかけたお堂のあいだからだ。そこを通るだけでもうちょっと恐い。ある程度慣れているはずの彼でさえ、少し心臓がどきどきする。これまで何人も友達を冒険に誘ったが、気の弱い子はそこで尻ごみしてしまって、絶対に足を踏み入れようとはしなかった。
 彼自身、上級生にひっぱられて初めてそこを通り抜けたときは相当の勇気がった。立ち並ぶ錆びた鉄柵を辿って洋館の裏手にさしかかると、庭の片隅に乾いた泥にまみれた三輪車がひっくり返っていて、それが気味悪くて仕方なかった。あの三輪車は今でも変わらず同じ場所にあって、見るたびにどんな子が乗っていたんだろうとついつい思ってしまうのが自分でも嫌なのだが。
 そこを過ぎると、見あげんばかりの大きな木が真っ黒な枝をひろげた場所だ。太い幹には大きなうろがぽっかりと口を開いて、それが叫び声をあげている人の顔に見える。分厚く折り重なってのびひろがるこずえがその一帯に深い影を落として、昼でも電気を消した体育館のなかに置き去りにされたようだ。
 その場所を抜けると、片側は隙間なく木々が生い繁り、もう片側はぼうぼうと生えた草だらけになる。その荒れ放題の草叢くさむらのむこうにかろうじて家々の屋根が見えるが、そちらとこちらではもう別世界だ。そしてさらに奥へ進めば、草叢のあった側にも木々の壁が立ちふさがって、人家は完全に見えなくなってしまう。あとは深い森の風景が続くばかり。
 そんな暗がりとせるような草いきれのなかをずんずん辿っていくと、ぽっかりと大きな沼が現われる。恐ろしいほど濃い緑色に濁った沼だ。「危険 近寄るな」と書かれた古びた看板が傾いている。上級生たちは底なし沼と呼んでいた。岸辺から先が急に深くなっていて、これまで溺れて死んだ人が大勢いるそうだ。
 沼をぐるりとまわりこんだ先には昔の何かの建物の跡もある。低いところで斜めに切り取られた感じで、床は見えず、コンクリートの壁だけが地面から突き出している。周囲もなかの地面もいつでもじくじくと湿って、そこがいちばん気味の悪い場所だった。
 そこがいちおうの終点だ。そのあたりまでの道は何とかぎりぎり車が通れるくらいの幅があるが、そこから先には人がやっとの獣道しかない。いちばんやんちゃな上級生の話では、ずっと奥にお墓があるそうだ。だけどそれが本当かどうか、彼も確かめる気にはなれなかった。――そう、少なくとも彼一人では。
 一人でなきゃいいんだ。あるとき彼はふとそう思った。思いついたらすぐやらずにいられない。仲間の四人ばかりに声をかけ、学校の帰りに引き連れて行ってみた。けれども洋館の脇からその道に踏みこもうとしたとき、タイミング悪くその近所に住んでいるキツネザルに見つかった。
 この先は危ない、近づくのは学校で禁止されている、帰りなさい、と言う。そして脅すようにこんな話を語って聞かせた。
 以前にもよくここに来ていた子がいた。あるときその子がいつまでたっても家に帰ってこないので、みんな心配して捜しまわった。そしたらこの奥でその子が死んでいるのが見つかった。その子の片手は手首からすっぱり切り落とされていた。そしてその白眼を剝いてひきつった顔を見た者は、みんな震えあがらずにいられなかったという。
 そうやって追い返されてしまったが、彼はそんなことがあるものかと思った。今まで何度もここに来て何もなかったんだし、上級生はもっと奥のお墓まで行ったというじゃないか。そう思うと、逆にむくむくと反発心が湧いてきた。そうだ、そんな作り話を恐がったりするものか。
 だけど大勢で来たりすると、また見つかってしまう可能性が高くなる。そうなったら本当に網でも張られて立入禁止にされてしまうかも知れない。これからはこっそり一人で来るようにしようと彼は決めた。そしてそれは自分が作り話を恐がったりしないのを確かめたいという目的にもかなっていた。
 次の日、あえて夕闇が迫ってくる時間を選んでそこに向かった。今までは明るいうちにしかここに来たことはない。そしてこの時間に行って帰ってくることができれば、自分の勇気を証明することができる。
 あたりを見まわすまでもなく、洋館の前の通りには人っ子一人いない。彼はおなかに力をこめて地蔵堂とのあいだの小道に足を踏み入れた。
 洋館の壁を這いまわる蔦がいつもよりうねりが激しいような気がする。二階の窓に白く貼りついた埃がうっすらとした人影のように見える。その上の屋根に風見鶏かざみどりが取りつけられているのに初めて気がついた。ただ、その鶏は芯棒ごと大きく折れ傾いて、風によって向きを変えることはもう決してないだろう。
 立ち並んだ鉄柵。荒れ放題の裏庭。いつもの三輪車がひっくり返っている。いや、ちょっと場所がずれていないだろうか。庭木の影が覆い隠すように被さっているせいだろうか。いったいどんな子が乗っていたのだろう。色が赤だから女の子? もしかして、さっきの窓のある二階部屋に住んでいたのだろうか。そんなことをまたついつい考えて、背筋にひんやりしたものを感じてしまう。
 そして巨木の傘の下に足を踏み入れる。昼でも薄暗いその場所はもう懐中電灯がほしいくらいの暗さで、いつもは人の顔に見える幹の洞さえ闇に塗りこめられてしまっている。そのせいで、かえってあの顔はどこにあるのだろうと眼で捜してしまうのだった。
 大丈夫だ。大丈夫だ。ここさえ通り過ぎればまた空が現われる。恐くなんかない。恐いことなんか何もない。彼は自分に言い聞かせながら進み続けた。
 傘を抜けると、森と草叢に挟まれた場所だ。宵闇が急ぎ足に深まっているとはいえ、頭上に半分空が戻ってほっとする。草叢のむこうにぽつぽつと見える屋根。それらが夕焼けで赤く染まっている。雲もどろどろと渦巻き、ところどころ濃い赤の筋が血管のように走っているのが不気味さを搔き立てていた。
 彼はそれからそらせるように眼をあげた。
 あ、一番星。
 真上近くにぽつんと小さく星がまたたいている。たった一つだけなのが何だか寂しく、心細い感じがするが、いや、これからどんどんふえていくのだから、そんなことはないと思いなおした。
 だけどその草叢も次第に木立に置き換わり、やがて両側ともすっぽりと森に包まれてしまう。頭上の空も再びどんどん狭まって、さっきと同じような暗さに戻っていく。それにつれて彼の心臓の鼓動も激しくなり、耳の奥で響くのが聞こえるようになった。
 さっきより恐さが増しているのはあの沼に近づいているせいだ。その意識がひたひたと胸に迫ってきているのだ。空がどんどん狭くなり、周囲がますます暗くなっていくにつれ、彼は妙な反発心からこんな時間にここに来たことを少し後悔した。
 でも、とてもじゃない。あくまで少しだ。自分の勇気を確かめたい気持ちのほうが大きいのだから。そう、大きいはずだ。自分は臆病じゃない。あんな噓っぱちな話にビクついて尻ごみするような弱虫じゃない。
 小道の先のほうが真っ暗な闇になっている。ここからはまだ見えないけど、あの先が沼だ。あの底なし沼。いちめん緑色に濁って、その底に何がひそんでいても全くうかがい知れないあの沼が――。そう考えると、冷たいものが背筋から肩までぞくぞくと這いあがってきた。
 突然何かがはためくような音が聞こえて、思わずびくっと立ち止まった。心臓がとび出しそうだった。音はまだ聞こえている。横手や後ろからじゃない。上? 恐る恐る顔をあげると、押し被さる梢から覗けた空に無数の黒い点が渦巻くように流れ動いている。鳥だ。ムクドリか何かの集団が寝場所を捜してとびまわっているのだ。それが分かってほっとはしたものの、その光景自体も足元を揺り動かされるような感覚を呼び起こした。
 いったん立ち止まったことも恐さを倍加させた。進もうと思うのだが、なかなか足が前に出ない。何かが耳元で、これはここから先に行くなという知らせだ、やめとけ、やめとけとささやきかけてくる。
 そうなのか?
 そうしようか――。
 だけどすぐに、何をそんなにビクついてるんだ、自分はそこいらの奴らとは違う、そんな怒りに似た想いがこみあげてきて、彼は決然と足を踏み出した。


(このつづきは「文芸カドカワ」2018年11月号でお楽しみください)
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