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試し読み

聞かせてもらおうか、ちょっとはマシな推理ってやつを。和装名探偵と犯人に騙されまくる助手が、レトロな街の難事件に挑む! 『谷根千ミステリ散歩』特別ためし読み!#3

「小説 野性時代」で人気を博した、東川篤哉さんの本格ミステリ『谷根千ミステリ散歩』。
10月17日の書籍発売に先駆けて、「もう一度読みたい!」「ためし読みしてみたい」という声にお応えして、集中掲載を実施します!

>>第2回へ

 ◆ ◆ ◆

      5

 靴を脱いだ私は、いわれるままに畳の小上がりへとお邪魔した。竹田津優介さんは慣れた手つきで湯沸かしポットと急須を用いて、二人分のお茶を淹れる。古いちゃぶ台に置かれた湯飲み茶碗を覗き込むと、そこに見えるのは緑色の澱んだ液体だ。大学にある古池が、藻の繁殖する夏の期間だけ、こういう色をしていたっけ――などと余計な連想を働かせながら、意を決してその怪しい液体をひと口啜る。瞬間、私は思わず顔をしかめた。
 濃い。実に濃い。濃くて苦い。苦くて渋い。渋くて、やはり濃い。が――美味い!
 こんな泥水みたいな緑茶が、『吾郎』で客に出すほうじ茶よりも美味しいなんて信じられない。私は激しいショックを受けたが、しかしいまは濁ったお茶の感想など、べつにどうだってよろしい。それよりも足を踏まれた王子様の話が先だ。
 私は昨日、高村沙織さんから聞かされた奇妙な出来事の詳細を、丸眼鏡の店主に語った。黙り込んだ彼は時折、自分の湯飲み茶碗を傾けながら、私の話を聞いている。やがて話が終わると、竹田津さんはちゃぶ台の向こう側から難しい顔を私へと向けた。
「結局、その沙織さんという女性、倉橋稜っていう王子様の足を踏んでいないんだね。実際に踏んだのは、傍に落ちていた石ころのほうなんだね?」
「ええ、沙織さん本人は、そういっています」
「でも、なぜそう断言できるんだい? べつに沙織さんだって、自分の足許をずっと見ていたわけではないんだろ。君の話によれば、沙織さんは欠席したジェシカちゃん……」
「ジュリアちゃんです」
「ああ、そう、その娘の噂話に夢中になりながら、二三歩後ろに下がったところで、何かを踏んだはず。なぜ、それが王子様の足ではなくて、石ころのほうだと判るんだい?」
「それは判りますよ。靴と石ころでは、踏んだときの感触が全然違いますから」
「では、沙織さんの足の裏には石ころを踏んだような感触が、確かにあった――と?」
「ええ、そうらしいですね。だけど、彼女が何かを踏んだ直後に、倉橋先輩が悲鳴をあげて痛がる素振りを見せるから、最初は沙織さんも、自分が彼の足を踏んづけたんだと、思い込んだようです。ところが少しして彼女、ふと気付いたんですね。しゃがみ込む倉橋先輩の足許に、握り拳ぐらいある大きめの石が転がっていることに。で、よくよく考えてみると彼女自身、何かを踏んだときの印象は、石ころを踏んだ感触に近かった。少なくとも他人の靴を踏んだような感触ではなかった。そう思いなおしたんだそうです」
「なるほど、そういうことか」小さく頷いた竹田津さんは、自分のお茶をひと口啜ってから、「ちなみにそのとき、王子様はどういう靴を履いていたのかな?」
「ごく普通の白いスニーカーだったそうです」
「では沙織さんのほうは? ひょっとしてハイヒールとか?」
「まさか。そんなんじゃありませんよ。底の平べったいパンプスだったそうです」
「そうか。それじゃあ、何かを踏んだ感触はダイレクトに足の裏に伝わるわけだ。――てことは、やっぱり彼女が踏んだのは拳大の石ころってことか。だが、それじゃあ、王子様の痛がる意味がサッパリ判らないな」
「ええ、そうなんです。それで沙織さんは自分が倉橋先輩から意地悪されたんだと思い込んで、すっかり落ち込んでしまって、真っ昼間から飲んだくれて……まったくもう、お陰でこっちの商売大助かり……って、まあ、兄は大いに喜んでいますけどね」
「だったら、べつに問題ないんじゃないの?」
 ニヤリと皮肉な笑みを覗かせた竹田津さんは、すぐさま話を元に戻した。「うーん、しかし意地悪ねえ。そんな子供っぽい真似をして、イケメンの王子様に何か得することがあるだろうか」
「私もそう思います。倉橋先輩が沙織さんに意地悪する理由がありません」
「ちなみに、なめ郎の奴は何かいっていたかい?」
「えー、『なめ郎の奴』ですかぁ」私は苦笑いを浮かべながら、「ええっと確か、沙織さんの被害妄想じゃないかって――自分のミスを認めたくない沙織さんは、自分が倉橋先輩から意地悪されている、自分こそが被害者なんだと、そう思い込もうとしているんじゃないかって――兄貴の奴はそんなふうにいっていましたよ」
「そうかい。しかし君が奴のことを『奴』っていっちゃ駄目なんじゃないか。そこは、いちおう『お兄ちゃん』と呼んであげなきゃ、奴があんまり可哀想――」と竹田津さんは自分の発言を丸ごと棚に上げて、私のことをたしなめる。そして真顔で聞いてきた。「ところで、君はどう考えているんだい、つみれちゃん? 今回の件について」
「え、私ですか!?」話を振られた私は、両手を身体の前でバタバタさせながら、「いえいえ、私は何も考えない人ですから。頭、悪いですから。現役D大生ですから」
 とプライドの欠片もない逃げを打つ。すると丸眼鏡の店主は心底納得した表情で、「D大生!? ああ、君、D大学なのか。じゃあ聞いても無駄だな」と聞き捨てならない問題発言。
 たちまち心の中の何かを刺激された私は「むッ」と口許を歪めながら、「ちょっと、無駄とは何ですか、無駄とは! 世の中いって良いことと悪いことがありますよ!」
「いま君が自分でいったんだよ。D大生ですからぁ、アホですからぁ――って」
「アホとはいってません! 頭が悪いといっただけ。それだってハッキリいって謙遜ですから。兄よりか、だいぶマシですから!」
 と、ここにいない兄を引き合いに出して、私は懸命に《アホじゃないアピール》。すると竹田津さんは、さらに挑発的な口調になって、「ふうん、だったら聞かせてもらおうか。なめ郎の奴より、ちょっとはマシな考えってやつを」
「いいですとも、望むところですよ」と強気に胸を叩いた私は、「でも、ちょっと待ってくださいね」といってシンキング・タイムを要求。腕組みしながら《ちょっとはマシな考え》を懸命に追い求める。そうして熟考を続けること約十分。ついに閃きの天使が頭上に舞い降り、私は声をあげた。「――ととッ、整いましたッ」
 そういって顔を上げると、目の前では待ちくたびれた様子の竹田津さんが、あぐらを掻きながら浅い眠りに落ちていた。私は彼にずいと顔を寄せて、「整いましたあッ!」
 大きな声で訴えると、驚いた彼は「わあッ」と叫んで、その場で数ミリほど空中浮揚。傾いたレンズの奥で両目をパチパチと瞬かせながら、「――ん、な、何が整ったって!?」
「例の《ちょっとはマシな考え》って奴です」私は店主の丸い眼鏡を覗き込むようにして断言した。「私は沙織さんの言葉を信じます。彼女は王子様の足など踏んでいません」
「へえ、そうなのかい? では、なぜ王子様は痛がる素振りを?」
「実は、倉橋先輩は痛がってなど、いなかったんですよ」
「ほう――というと?」
「沙織さんは石ころを踏んだ。でも、そのとき彼女のパンプスの一部分は、確かに倉橋先輩のスニーカーにも軽く触れてはいたんです」
「触れていた? 踏んだわけではないけれど、軽く触れていた……?」
「そうです。そして倉橋先輩はしゃがみ込んだ。べつに足が痛かったわけではありません。お気に入りの白いスニーカーが沙織さんのパンプスと触れ合うことで、ほんの僅か汚れてしまった。それがショックで、彼は思わず情けないような悲鳴をあげてしまった。そして、その僅かな汚れを拭うため、咄嗟に彼はその場にしゃがみ込んだんです」
「――ということは、つまり?」
「そう、倉橋先輩という人、実はかなりの潔癖症だったんですね。そう考えれば、彼が沙織さんの伸ばした手を邪険に振り払った理由も判ります。要するに『汚い手で俺のスニーカーに触るな!』という意思表示だったのでしょう。潔癖症の人は自分が大切にしている物に関して、他人が素手で触ることを酷く嫌がりますからね」
「なるほど。女子たちの憧れの的である王子様は、実はドを越した潔癖症だった。いや、待てよ。ひょっとするとドを越したスニーカー偏愛者っていう可能性も考えられるな」
 独り言のように呟いた竹田津さんは、しかし次の瞬間には、急にいままでの話に興味を失ったかのようにガックリと肩を落として、「でもまあ、いずれの説が真相だとしても、所詮そう大した話じゃないか……」
「ちょ、ちょっと、『大した話じゃない』とは何ですか! 沙織さんにとっては重大な恋の悩みなんですからね。――こら、寝ないでください。私これでも、いちおう客ですよね。悩みに相応しい開運グッズを選んでくれるんじゃないんですか。――ほら、起きて!」
 だが畳の上で怠惰に横たわった彼は、作務衣の背中を私に向けながら、
「そういうけどね、つみれちゃん、仮にも君はなめ郎の妹なんだろ。そんな君にインチキなグッズを売りつけるってのは、さすがの僕も気が咎めるよ」と、またしても問題発言。
「インチキって!? ここ開運グッズの店ですよね。――え、インチキなんですか!?」
「いや、まあ、インチキといっては、さすがに身も蓋もないか。ならば、とりあえず《鰯の頭》と同等のご利益が期待できるレベル――といっておくよ。それならいいだろ」
「なんですか、それ。呆れた……」私は思わずハァと溜め息をつくと、「いったいなんで、この店、良い評判が立っているのかしら?」と、つくづく不思議に思う。
 すると、その言葉を耳にした丸眼鏡の店主は、「へえ、良い評判が立っているのかい、この店に? ふうん……」と横になったまま、どこか他人事のような呟き声。
「ええ、少なくとも兄はそういっていましたよ。それとあと、斉藤巡査も」
「巡査? なんで、おまわりさんが僕の店の評判を?」
「たいしたことじゃありません。ここにくる途中、斉藤さんっていう巡査と偶然、道端で出会ったんですよ。なんでも、一昨日の昼に石材店に泥棒が入ったらしくて……」
「ん、石材店に泥棒!? しかも一昨日の昼だって……」それらの言葉の何にどう反応したのだろうか。竹田津さんは再び畳の上でむっくりと身体を起こしながら、「なかなか面白そうな話じゃないか。ひょっとして墓石でも盗まれたのかい?」
 先ほどの私とまったく同じ思考レベルだ。私は若干の嬉しさを滲ませながら、
「うふふッ、まさかー。あんな重いもの、泥棒は盗みませんよー」
「そうか。まあ、軽くても盗まないと思うけどね。――じゃあ泥棒は、いったい何を?」
「そうそう、それが変なんですよねえ……」
 と声を潜めながら、私は斉藤巡査から入手した情報を『怪運堂』の怪しい店主へと伝えた。すると話を聞くうち、なぜだか彼の顔色が一変。皮肉屋っぽいニヤニヤ笑いは影を潜め、いままでにない真剣な表情が浮かび上がる。私が語り終わると、彼は呻き声を発して首を傾げた。
「ふーむ、泥棒は何も盗んでいかなかった……いや、そんなはずはない……」
 そして何を思ったのか竹田津さんはすっくと立ち上がると、外出の支度を整えながら、
「ちょっと僕は出掛けてくる。悪いが君は、ここで店番していてくれたまえ」
「え、店番って!?」いやいや、一方的に『してくれたまえ』といわれても、そう簡単に『してさしあげる』わけにはいかない。私はちゃぶ台の上に手を突いて叫んだ。「駄目ですよ、店番なんて! できるわけないじゃないですか」
 しかし戸惑う私をよそに、彼は悠然と靴を履きながらヒラヒラと手を振った。
「なーに、大丈夫だよ。客なんて、そう滅多にこないからさ」
「そういう問題じゃありません。他人の店でひとりにされちゃ困ります」
「そうか。だったら君も僕と一緒にきたまえ。店は臨時休業ってことにすればよろしい」
「え、え!? どういうことですか」問い返しながら、ついつい立ち上がる私。慌てて自分の靴を履きながら、「いったいどこへ連れてく気ですか」
「もちろん石材店だよ。奇妙な泥棒に入られた間抜けな店だ。――えッ、どこにあるのかって?」瞬間、竹田津さんは呆気に取られたような表情。そして私の顔をシゲシゲと覗き込みながら、「あれ!? 君は、知ってるんじゃないのかい、その店のこと」
「いいえ、斉藤巡査からは、ただ石材店としか聞いてませんけど……」
 そういって首を左右に振ると、竹田津さんは長い髪の毛を右手で掻き回しながら、
「なんだよ、そりゃ困ったな。――じゃあ僕ら、どこにいけばいいんだ?」
 そんなこと聞かれても困る。私はハァと短い溜め息で答えるしかなかった。

(つづく)

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