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試し読み

【試し読み】ホラー界に新たなる才能、登場。第45回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈大賞〉〈カクヨム賞〉W受賞! 綿原 芹『うたかたの娘』冒頭特別公開!

奇妙な人魚伝説が語り継がれる若狭の港町を舞台に、美しき化け物・人魚に翻弄される人間を描く――。

第45回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈大賞〉〈カクヨム賞〉をW受賞した綿原 芹『うたかたの娘』が、2025年10月1日(水)ついに発売!
刊行を記念して、本作の冒頭を特別公開いたします。

ホラー界に登場した新たなる才能を、ぜひその目でお確かめください。

綿原 芹『うたかたの娘』試し読み

1.あぶくの娘

 もし、お姉さん。
 おかしなことを聞いてもいいですか。
 あそこの茶色いビルの角に、人が立ってるの見えますか。あ、あんまり頭を動かさないで、チラッとだけ目をやって。
 そうです、紫のワンピース着てるおばあさん。ああ良かった、見えるんだ。
 いえね、僕、朝もこの道を通ってるんですよ。あのひと、そのときからずっといるんです。ずっと誰かを探すみたいに、通行人をめるような目つきで見てる。前を通るときに耳を澄ますとね、何かぶつぶつ言ってるみたいです。
 何だかおかしな感じがするでしょう。ひょっとしたら人間じゃないのかな、なんて、思ってたんですけど。でもお姉さんにも見えてるならオバケじゃないんですね。はは、残念。
 ワンピースもペラペラでコートも着てないし、寒そうだけど、ボケちゃってるのかなあ。今日って冷えますよね。僕は寒さに強い方なんですけどね、ほくりくの生まれだから。ああすみません、どうでもいいですね。
 え、あのおばあさんのとこへ行ってみる? 随分奇特な方ですね。
 いいですよ、ひとりじゃ怖いでしょうから、一緒に前を通りましょう。はい、どうぞ。
 ……かわいそうになぁ?
 かわいそうになぁ、って言われましたね。
 声もガラガラで聞き取りづらかったけど、僕を見ていたから僕に言ってたのかな。
 おばあさんにあわれまれる覚えはないなあ、何がかわいそうなんでしょう。やっぱりこう、夢と現実のはざにいるんでしょうね。なんだか切ないような、胸がきゅっとなる。……いつか自分も向かう道でしょうから。
 えっ、僕ですか。
 なんでいきなり話しかけてきたのか、って。
 えー、白状します。率直に言って、あなたがとってもれいだったからですよ。
 髪を耳に掛ける仕草にね、ハッとしてしまって。ああ、ただのナンパかぁ、って顔しないで。あなたは美人だからナンパなんて慣れてるんだろうけど、オバケをだしにナンパされるのは初めてじゃない? あ、オバケじゃなかったんだっけ。
 はは、笑ってくれましたね。
 無粋なナンパでごめんなさい。僕はどうもこういうのがうまくできないみたいだ。
 でも、ここでこうやってお会いしたのも何かの縁だと思いませんか。
 どうですか、もしお時間があれば、あそこのカフェでお茶でも一杯。
 ……えっ、いいんですか、ほんとに? 信じられない。
 ありがとう。いやあ、一年分の幸運を使ってしまったかな。
 
 
 飲み物は何にする? へえ、塩キャラメルラテのアイス。寒くない、大丈夫? 女性は冷え性の人が多いでしょう。
 会社で僕のはすかいの席に座ってた同僚なんて、真夏でも飲んでたよ。健康に対する意識が高かったんだろうね。よくすごい味のあめをくれて、閉口してしまった。自分は血がサラサラで綺麗なんだって自慢をしていたけど、実際は、どうだろうな。ちょっと分かんないね、あんなのは。
 あ、ごめんなさい、もちろん好きなもの頼んで。
 ところでそのスマホケース、可愛いね。実はさっきから気になっていて。有名な人魚のキャラクターでしょう、それ。好きなの、へえ、そう。
 アニメはアメリカだろうけど、デンマークのアンデルセンの人魚姫が元になってるんだよね。どうも西洋の方じゃ、人魚は可愛らしいファンタジーのイメージなのかな。なんだか不思議だね。
 ……日本じゃ、違うでしょう。
 知らないか、はつぴやく伝説とか。
 ある男が宴会の土産に人魚の肉を持って帰ったら、娘が食べてしまい、彼女はそれから八百年以上もの間、年を取らず死にもせず、出家して比丘尼となった。それが八百比丘尼。人魚や八百比丘尼の伝説は全国津々浦々に流布していて、地方によって色んなバリエーションがあるけれど、おおむねこういう話が多いみたいだね。
 日本の人魚伝説は中国から渡来したものといわれているけれど、国内で初めに人魚について記したのは日本書紀らしい。なんと、七世紀だよ。面白いね。人間はそんな昔から、海の中に人影を見ていたんだ。ジュゴンだとか、リュウグウノツカイだとかを見違えたのだとも言われているけれど、そんなものと人間をどう見違えるって言うんだろう。
 どうだろう、あなたは今の若くて可愛い姿のまま、八百年も生きていたいと思うかな。家族や恋人や友人が皆死んでしまっても。
 まあ見た目は若くいたいかもしれないけど、大体の人が、百年程度でぽっくり死にたいと答えるだろう。この世で一番恐ろしいのは孤独だと言う人がいるけれど、孤独に八百年もの時を過ごすのは、死ぬより苦しいことなんだろうね。
 僕自身?
 そうだね、どうだろう。僕はこう見えて結構楽しんで生きているからね。元気なうちにやってみたいことはまだまだあるし、ひとりでも割と平気なタイプだし。死にたくないなんて言うつもりはないんだけど、八百年くらいならいいかもしれない。
 ああ、君もそう思う、本当に? 僕たち気があうんじゃない? 運命を感じる。……冗談、ひかないで。ははは。
 僕の故郷は海辺の町だけど、やっぱり人魚がいたという言い伝えがあったね。
 誰が描いたものなのか、古い絵が残っていたよ。町の図書館に民芸資料室という部屋があって、そこに額縁に入れて飾ってあった。
 もちろん、君のスマホケースみたいな可愛い人魚じゃないよ。ボラみたいな形の大きな魚に、頭だけ人間のものがくっついている。おにばばのような恐ろしい形相で、髪を振り乱して真っ赤な口を開けて、ギザギザの歯がまばらに生えていた。
 町の小学生はみんな一年生のときにそこに遠足に行って見学してくるんだけど、今考えると情操教育に良くないんじゃないか。怖くって泣き出す子もいたな。
 え、本物の人魚を見たことがあるか?
 面白いこと聞くんだね。あるわけないよ、作り話でしょう。
 ……ああでも、そうだ、高校生のときこんなことがあったっけな。
 聞きたい? あなたも大抵、物好きだね。
 じゃあさ、話すのは構わないんだけど、場所を移さないか。ほら、君もラテ全部飲んじゃったみたいだし。近くに良いバーを知っててね。この話はお酒でも飲みながらじゃないと、ちょっと話しづらい……。
 ああ、紫のワンピースのおばあさん、まだいるね。人波を、じろじろと睨みつけて、品定めするみたいに。まだ誰かを探してるようだ。誰を探しているんだろう。あ、こっちを見てるみたい。気づかれたみたいだ。ちょっとおっかない顔してるから、君は見ない方がいい。目を合わすと、まれるかも。ふふふ。
 野良犬って、そうでしょう?



 僕の故郷は、北陸のわか地方の片隅にある小さな港町だ。
 漁業と、今は稼働していない原発が町の主な産業で、空気と水が綺麗で食べ物はいが、他には何もない。海に面して三方を山に囲まれた地形のせいか、忘れ去られた天然のようさいのようで、しんと静かな町だった。こうして都心に出てきてから、あの町のことを思い出すと、本当にあれは実在していたのか僕の妄想の中にあるのか、何だか不思議な気分になる。
 一年の大半は天気が悪くて、湿度が高い。どんよりした曇り空の下、潮風が町中に吹きすさんでいる。体がべたべたになり、車はすぐにさびにやられて駄目になる。
 君は日本海を訪れたことがあるだろうか。
 僕は海といわれれば、沖縄の観光ポスターに載っているようなスカイブルーのそれではなくて、岩を砕く真っ黒い化け物のような波を思い浮かべる。暗く、冷たく、人間を引きずり込む恐ろしい闇だ。故郷の海はそういうものだった。晴れた日は美しく波間が輝いて、夏には関西から海水浴客が来るけれど、波打ち際からちょっと入っただけでいきなり深くなるものだから、毎年必ず死人が出る。水死体は夏の風物詩だ。
 僕は平凡な高校生だった。一応進学クラスでそれなりに勉強していたけれど、大学も予備校もないような田舎だから、都会の子と比べればのんびりしたものだったと思う。
 そんなところで僕は、少しばかり周りから浮いていた。入学してすぐ、教師とちょっとしため事になり、停学をくらっていたからだ。まあ関係ない話なので、詳細についてここでは言わないでおく。それにしても、あの年頃のコミュニティで、一回のつまずきを取り返すのは難しい。周囲に変な奴と認定されてしまったらしく、なかなか友達が出来なかった。
 でも僕は元来そういうさいなことを気にする性格ではない。しやべり相手がいようがいなかろうが、変わらずのんに過ごしていた。
 陸上部に入っていたから、勉強に疲れると、天気が許す限りちんたら校庭を走る。海辺の高校で、校庭はいつも強い潮の匂いがしていた。校庭の端には水飲み場があって、僕がそこの水道で顔を洗っていると、たまに声をかけてくる生徒がいた。
「やっとるね。頑張っとる?」
 顔をあげると、ショートカットの少女がちょっとまぶしそうに目を細めている。みずしまあいだ。
「普通や」
 僕がタオルで顔をきながら答えると、水嶋は手に持っていたペットボトルを振ってみせた。
「ポカリ、いる?」
「ええの」
「買い過ぎたから。重いし」
 僕が礼を言って受け取ると、水嶋はかばんを肩に掛け直し、背を向けて裏門を出て行った。スカートから伸びた脚が抜けるように白く、なまめかしい。
 彼女はいつも校庭の端を通って裏門から下校するので、たまたま水飲み場の横を通ったというていだったけれど、よく考えると自転車通学のはずだ。駐輪場は正門の方が近い。なぜわざわざ校庭を通るのだろう。
 水嶋はふたつ隣のクラスだったけれど、目立つ女子だったので、僕も名前を知っていた。目立っていたのはその美しさゆえだ。猫を連想させる黒目がちな大きなひとみとつんととがった鼻は精巧な人形のようで、あまり笑わないことも手伝い、謎めいた雰囲気がぼうに拍車をかける。おまけに家は町で一番の大地主だった。
「お前、水嶋と仲いいん。よく話しとるやん」
 気がつくと、ふじわらが横に来ており、Tシャツの腹で顔の汗をぬぐいながら、水道の蛇口をひねった。同じクラスの藤原はサッカー部のミッドフィルダーだ。サッカー部と陸上部は校庭を分け合ってせせこましく使っている。
「別に仲いいとかやないで」
「そんな言って、ポカリまでもらってお前~」
 にやにやしながら僕の腰のあたりをっついてくる。藤原は軽薄でほうだが、クラスの中で浮いている僕に気軽に声をかけてくるのは、こいつくらいのものだった。人がいというよりむしろ、何も考えていないのだろう。
「何の気まぐれなんか、僕も分からん」
 ペットボトルのポカリは汗をかいているが、まだ冷たい。ふたをねじ切って口に含むと、渇いた体の隅々までしゅんしゅんと吸収されていく。ポカリの浸透圧は人間の体液と大体同じらしい。僕の体液は正確に五百ミリ増量する。
「お前に気があるんやないか」
「そんなわけないやろ、あんな美人が」
「分からんで。水嶋って可愛いけどさ、ちょっとこう、エキセントリックっていうの? そういうとこあるで。ほら、こないだ五組のしらいしと廊下でケンカしてさ、取っ組み合いになって先生に引っぺがされとったの知らん? 女子がそんなんするか、フツー」
 その話は初めて聞いたが、少々興味をそそられた。藤原はがぶがぶと蛇口の水を飲んでいたが、手の甲で口の端を拭う。
「だから案外、お前のこと好きになるような変わりもんかもしれんで」
「お前、僕に失礼だなあ」
 藤原は、ヘハハハハ、と間の抜けた笑い声をあげた。僕はぜんとした顔を作ってみたけれど、正直言って悪い気はしなかった。だって、水嶋は美人だから。
 
 
 水嶋と初めてしっかり話す機会が訪れたのは、高二の十一月のことだった。
 その日はあまり気乗りがしなくて、授業が終わったあとは部活にも顔を出さず、真っ直ぐ家に帰ることにした。ほとんどの生徒と同じく、僕も自転車通学だ。一応近くにバス停もあるのだけれど、運行は一時間に一、二本しかなくてかなり不便だから、使っている生徒はほとんどいない。
 校舎の横にある駐輪場に行くと、自転車の間に女生徒がひとりしゃがみ込んでいた。ショートカットからうなじがのぞいているのが見える。水嶋だ。
「どしたん」
 声を掛けると、振り向いた水嶋の大きな瞳が、思い詰めたように揺れている。珍しく動揺がうかがえて、どきっとした。
「わたしの自転車、パンクしとるみたい」
「へえ、どれ」
 彼女の自転車を調べると、確かに後輪のふくらみが無く、地面にべったりくっついていた。一か所、大きな裂け目が見つかる。走行中にくぎなんかを踏んだくらいでは、こんな風にはならないだろう。
「縁石でバーストしたとか」
「しとらん。朝来たときはなんともなかった」
「ふーん。じゃあ、いたずらかなあ。ナイフで裂かれたんかも」
 返事はない。水嶋はのろのろ立ち上がったが、けんにきつくしわを寄せ、何かを考えているようだった。
「先生に言いに行こか」
「いいわ、めんどいから。バス待つわ」
「そか」
 僕は自分の自転車に向かいかけて、やっぱり足を止めた。少し躊躇ためらったが、思い切って言う。
「なんやったら、僕の自転車ニケツしてく?」
 かなり勇気を振り絞ったつもりだった。水嶋と僕の家は反対方向だし、僕はお人好しな性格ではない。水嶋はびっくりしたように大きな目を見張った。
「正直助かるけど、迷惑ちゃうの」
「いーよ、別に」
 格好つけた僕は精一杯澄まして答えた。僕が自転車にまたがると、水嶋は後輪の金具に足を乗せて立ち、僕の肩に手を置いた。女子とふたり乗りするのは初めての経験だった。ブレザー越しでも肩から伝わる水嶋の手の温度に胸が高揚し、自分をなだめるかのようにペダルを踏みこむ。
 下校する生徒がぞくぞくと校舎から出てきて、校門から出て行く僕らを見ていた。ひそひそと耳打ちをしあっている生徒もいたが、気にならない。水嶋の顔は見えないが、やはり平然としていたと思う。
「うちな、海の横通ってった方が近道やわ」
 水嶋が言うので、海沿いの堤防の脇道を通っていくことにした。一キロにも及ぶ長い砂浜と松原は、時代に高名な俳人が訪れたという景勝地だが、その間にはコンクリートの堤防が巡らされている。僕は砂粒にタイヤを取られないよう気をつけながら自転車を飛ばした。はるか先の方まで見渡せるが、人のひとりも通っていない。しんの凍るような潮風が僕らの頰を舐めあげ、気のふさぐ季節の気配に身を震わせる。さほど天気の悪くない日だったが、空から重たげな雲が垂れて黒い海に溶けこんでいた。
 北陸の冬は長い。北海道やとうほくほどの厳寒や降雪はないが、それでも海から吹き渡る冷たい風にさらされ、日の当たらないいんうつな日々が続く。昔から北国に美人が多いと言うのは、湿度が高くて日照量が少なく、肌に優しいからだ。
「あ、ねえ」
 背中の向こうで水嶋の声が流れていく。
「え、何?」
「寒いし、お礼にコーヒーでもごそうしよか」
 前方には松林を切り拓いて作った海水浴客用の駐車場があり、その隅に自動販売機が何台も設置されているのが見えた。
「気、遣わんでもええよ」
 一応そう言ったが、正直な所うれしかった。いそいそと自転車を自動販売機の脇に停めると、水嶋が飛び降りる。ちらりとももが見えた。
 水嶋は砂だらけの堤防にハンカチも敷かず、海の方を向いて腰を下ろした。僕も横に座り、缶コーヒーのプルタブを引く。普段は微糖しか飲まないのに、格好つけてブラックを選んだ。ちょっと苦かったが、胃が温かくなって全身が熱を取り戻していく。水嶋は甘い紅茶をすすっていた。
 一際高く黒い波が岩にぶつかり、大きな音を立てて砕けた。遥か彼方かなたに水平線がぼんやりとにじみ、防波堤と、沖合の灯台以外には何もない。
 しばらく黙って海を眺めていた。何か話題を振った方がいいのだろうかと思ったけれど、気の利いたことなんてとても思いつかない。コーヒーをあっという間に飲み干してしまって缶をもてあそんでいると、水嶋がぽつりと言った。
「ここらへんって、出るんやって」
「え」
「ここ、駐車場になる前は松林やったやろ。そこの松で何人も首をって死ぬから、困って切り倒して更地にしたんやって。それからよく出て、海水浴する人の足を引っ張るから、ここらへんでおぼれる人が多いんやって」
 水嶋はにこりとも笑わず、険しい顔で海を見ているが、僕は思わず首をかしげた。ごく短い期間とはいえ、オンシーズンには満車になるような人気の駐車場だ。確かにこの辺りの海はいきなり深くなるのでできすい事故は多いが、なぜ松で首を吊った人がわざわざ海に入って海水浴客の足を引っ張るのか。水嶋は海面を指さした。
「今もそこら辺うろうろしとるよ。ほら、あの波間とか」
 その指先を追って僕も波間に目を凝らしてみたが、特に何も見えなかった。
「水嶋さん見えるタイプなん」
「まあね」
 こいつはちゆうにびようとかいうやつかなと思ったが、面白かったので、僕は「すごいなー、すごいねー」とやたら感心してみせた。
「あんた、怖ないんや。こういう話」
「僕、ホラー映画とか好きなんやよ」
「ああ、ぽい」
 その冷え冷えとした無表情があまりにもかんぺきに整っていたので、美術品でも鑑賞するような気持ちでぼうっと眺めていると、水嶋がぱっとこちらを向いた。
「何」
「あ、いや、水嶋さん、綺麗やなあと思って。れてたわ」
 正直に答えると、水嶋は不意を突かれたようだった。僕をまじまじと見つめて、口角をあげる。
「やっぱおもろいな、自分。変わっとる」
「普通やと思うけどな。何が変わっとる? 水嶋さん、みんなに美人って言われるやろ」
「そうでもないで。ストレートに言ってくる奴は、案外少ない。わたし嫌われとるしな」
 水嶋は低い声で笑った。ちょっと鼻にかかって、びているように響く。
「口に出さんでもみんな美人やなって思っとるよ。だって人間はみんな、綺麗なもんが好きやん。綺麗やと思う基準がそれぞれちょっとずつ違って、グラデーションがあるだけで」
「へえ、あんたもそうなんや」
「そりゃあね」
 水嶋が誘うように僕の顔を覗き込んだ。ふと、シャンプーの甘い匂いが潮風に混じる。
「わたし、そんなに綺麗?」
 この近距離でまじまじと見ても良いという意味だろうととらえて、僕は息を止めて水嶋の顔を見つめた。大きな瞳が黒曜石のようにつややかで、それを縁取る太いまつ毛の先に小さな水のたまがついてきらきら光っている。きゅっと小さい顔に、きやしやたい。そして、無造作に投げ出された二本の脚。紺色のハイソックスに包まれた脚は、細いのに健康な十代の少女らしく引き締まって完璧なフォルムを描いており、この上なくみずみずしい。思わずなまつばを飲みそうになり、必死で目立たないように抑えながら、僕はこくんとうなずいた。
「綺麗やと思う」
 水嶋は照れるでも喜ぶでもなかったが、満足そうに頷いて、ふっと海に視線を戻した。しばらく黙っていたが、やがて口を開く。
「ねえ、人魚って、ほんまにおると思う?」
「えっ」
「この町って、人魚伝説あるやんか」
 話のつながりが読めないまま、僕はあいまいあいづちを打った。水嶋の家は旧家だが、僕の両親は関西の出身で、父親が原発関係の仕事をしている都合でこの町に住んでいるだけだ。人魚伝説についても聞いたことがあるようなないような、という程度だった。
「人魚伝説ってあれやろ、人魚の肉を食べたら不老不死になるみたいなやつ。八百比丘尼やっけ」
 僕が一所懸命記憶を辿たどっていると、水嶋はすっと目を細めた。なんや知らんのか、と言いたげだ。
「それやない。うすべにの話や」
「薄紅?」
 水嶋は若干面倒くさそうに、ぽつぽつと語った。
 昔々、海辺の村に薄紅という女がいた。
 なんでも大層美しい女だったそうで、薄紅をひと目見た男は全員恋に落ちた。飛ぶ鳥は墜落し、花は薄紅の方を向いて咲き、太陽は薄紅の美しさに当てられ、月の裏に顔を隠して世を暗闇にしたという。
 しかしそれだけの美人だから、当然しつも買う。ある日村で一番醜い容貌をした女が錯乱して薄紅の首をおので切り落とし、なべにして食ってしまった。
 するとあろうことか、その日からしこの顔が変わり始めた。みるみるうちに別人のように美しくなっていく。しかし女が喜んだのも束の間、今度は体中がうろこで覆われていき、その美しい顔を残してとうとう下半身が魚になってしまった。人魚になったのだ。女はたちまち侍に捕らえられて、不老不死の薬として時の権力者に献上されてしまった。おしまい。
「これがこの町に伝わる人魚伝説や」
 水嶋は素っ気なく言って、紅茶の残りを啜った。
「醜女が美人を食べたら人魚になってしまったっていうこと?」
「そうや」
 面白い、と僕は素直に感心した。人魚を食べると不老不死になるという話はよく聞くが、人魚がそもそもどうやってできた存在なのかということは考えたこともなかった気がする。
 昔話や民話なんかは、教訓が形を変えていることが多い。カニバリズムは、人間社会の絶対の禁忌だ。つまり、人の肉を食ったものは、もはや人ではない。神が形を変えたものとしてまつられる『魚』と交じり合った異形の存在、人魚となる。そして食われでもしない限り死ぬことができない、悠久の生命という罰を受ける。そういうことなんだろうか。
 僕がそんなことを考えていると、水嶋がぼそりとつぶやいた。
「わたし、人魚かもしれん」
 思わず水嶋の顔を見たが、ちょうど一陣の強い風が吹き、乱れた髪が顔を覆ったので、水嶋がどんな表情をしているか分からなかった。
「……なんて?」
「わたし、十歳くらいまで体弱かったんよ。小学校もほとんど通えてなくて、しょっちゅう入院しとった。親はいまだに病名教えてくれんけど、かなり重い病気やったと思うんやよね」
 髪を手で押さえた水嶋は、ローファーのつまさきで砂を軽くった。ここらの砂は大きな粒がたくさん交じって、黒く粗い。
「そうやったんや」
「その頃、うち住み込みのお手伝いさんがおったん」
 水嶋の家は大きくて目立つので、僕もどこにあるのか知っている。古い純和風家屋で、離れや蔵まであり、敷地は高い塀にぐるりと囲まれている。確かに人でも雇わないと、掃除が大変そうだ。
「ユミコちゃんっていって、すごく綺麗な子やった」
「若い人?」
「多分二十歳そこそこやったと思う。わたしが学校に行けんから、よう遊び相手になってくれて、本読んでもらったりとか、人形遊びとか、してもらった。気のいい優しい子で、本当のお姉さんみたいに思っとった」
 僕が黙っていると、水嶋は淡々と続けた。
「わたしの病気はどんどん悪くなっていった。体を起こしてるのすらしんどくなって、何もできんくなって、大阪の大きな病院に入院した。そのときのことはだいぶ忘れてもうたけど、毎日点滴の針やら注射やらたくさん打ってね、常に腕が痛かった記憶がある。そろそろご飯も口から食べられんくなってきて、子ども心にももうあかんのやろなって思った頃に、じいちゃんとおとんが見舞いに来た」
 付き添っていたおかんを休憩にやると、おとんは肩に下げていたクーラーバッグから、瓶のようなものを取り出した。それは真っ赤な液体で満たされていて、白い病室では眩しく感じるほど鮮烈なコントラストに、目を細めた。看護師が近くを通ると、おとんはさっと瓶を隠した。
 これは特別なトマトジュースや。じいちゃんが言った。
 元気になるから、全部飲みや。
 匂いをぐと、確かにトマトの匂いもしたが、それとは別の妙に甘い匂いが混じっている。南の果物を思わせるようなかぐわしい匂いだ。しかし口に含むとなんだか生臭く鉄臭い味もして、くて吐いてしまった。今までに味わったことの無い味だ。しかし飲めと強要されて、泣きながら、時間をかけてなんとか飲んだ。今にも体力が尽きようとしている自分にはひどい苦行だった。
 ぐったりとしてベッドに沈み込む自分を見て、おとんとじいちゃんは満足そうに笑っていた。
 良かったな。藍子、きっとこれで良くなる。
 なんなん、これ……。
 問い掛けたが、おとんとじいちゃんはふっと真顔になって、口をつぐんだ。
 これは一体何なのか。
 そのときはそれ以上問いただすだけの気力もなかったし、それより何より、知らない方がいいような気がした。何かとんでもないものを体に入れたのだと、もう取り返しがつかないのだと、それだけは分かった。しかしそれにあらがおうとするだけの意志も手段も、自分にはない。
 おとんとじいちゃんは、能面のようにのっぺりした顔で並んで、ただじっとこちらを見つめていた。
「そんで病気治ったん」
「そう。みるみるうちに良くなって、医者もびっくりしとった。同じ病気で苦しむ人たちのために細かいデータを取って研究させて欲しい、みたいに言ってきたみたいやけど、おとんが絶対だめやって断った。中学なんて皆勤賞やったわ」
「良かったやん、それは」
 水嶋がやっと僕と目を合わせた。
「でも、退院してわたしが家に帰ったら、ユミコちゃんがおらんくなってた」
「え、なんで?」
「おかんに聞いたら、家の都合で、急にうちのお仕事辞めて引っ越した、って。わたしは納得できんかった。わたしが手術終わって元気になったら、大好きな紅茶のシフォンケーキ焼いてくれるって約束しとったんよ。でも怖くて、それ以上聞けんかった」
 水嶋の目は僕を通り越し、どこか遠くを見ているみたいだった。波間に、いなくなったユミコちゃんを捜しているかのように。
 家政婦のユミコちゃんはどこへ行ったのか。トマトジュースに混じっていたのは、一体何だったのか。
 人間が人間を食べるという禁忌を犯せば、人魚になる。
 おとんとじいちゃんは、不老不死というその罰を逆手に取ったのではないか。
 僕が黙っていると、水嶋は僕をあざけるようにちょっと笑って目線をらした。
「それからしばらくして、目も二重まぶたになったん。わたし、子どもの頃は一重やったの」
「えっ」
「鼻ももっと丸い感じやったんやけど、なんか高くなってきて」
 水嶋はしなやかな指先で、通ったびりように触れた。寒さでわずかに赤らんではいるが、毛穴のひとつもない鼻は陶磁器で出来ているみたいに完璧な形をしている。
「それって、まさか、ユミコちゃんの顔になったってこと?」
「それは分からん。そんな気もするけど、違う気もする。子どもの頃のことやからかもしれんけど、わたし、ユミコちゃんの顔を思い出そうとしてもうまくいかんのよ。ただ綺麗な子だったってことだけ。それは間違いないんやけど」
 僕はぶるりと震えて、指先をズボンのポケットに突っ込んだ。コーヒーで温まっていた僕の体はあっという間に海風に熱を奪われていた。
「水嶋さんって人魚なん」
 その台詞せりふを口にしてから、無防備過ぎただろうかと思った。自分でも驚くほどに、妙な湿度を抱えた声だった。体の表層が冷えていくのと反比例するように、芯は熱くなっていく。
 水嶋はしばらく黙っていた。僕の湿気を、独特の鋭さで感じとったようだった。
「かも、しれんね」
 水嶋の低い声も同じくらい湿っていた。口元から青白い小粒の歯と、柔らかそうな舌がちろりと覗いた。海風に晒されているのに唇は赤くれたように光っていて、この世のものではないようにようえんだった。
 水嶋は確かに美しい。しかし、これがただの美しい少女ではなく、人の生き血を口にした人魚だったのだとしたら。
 人肉を食べるという禁忌を犯した人間は、人間ではいられない。死ぬことができないという罰を受け、人魚にちて悠久の時を暗い海の中で過ごすことになる。
 そう考えた途端、総毛立つような強い興奮を感じた。意識がスパークして遠のくようなこの感覚が、僕は嫌いではなかった。生きていると実感できる。
「美人、ってなんやろうね。綺麗な顔なんて、人を殺してまで手に入れるほどの価値があるもんなんやろか。結構、この顔のせいでいやな思いもしてきたんよ」
 夢の奥から水嶋の声が響いてくる。変質者に追い掛けられたとか、よく男子に告白されるので女子にねたまれているとか、そんなことを話していたが、僕はよく聞いていなかった。若干自慢げな口調だったので、そんなに深刻にいやな思いはしていないのだろう。
 しかし、水嶋がふと声のトーンを落とした。
「誰にも言わんで欲しいんやけど、心当たりあるんやわ。わたしの自転車、パンクさせた人」
「え」
 急に現実に引き戻され、僕は目を見張った。正直、水嶋の自転車のことなどとっくに頭から抜け落ちていた。
「……誰なん」
「四組のよしむらまど。最近、ちょいちょい地味ないやがらせしてくるから」
「え、生徒会長の吉村?」
「そうや」
 いくら僕でも、自分の高校の生徒会長の名前は知っていた。しかし顔は曖昧で、ぱっと浮かんでこない。鼻がでかかったような気がするが。
「いやがらせって、どんな。クラスもちゃうのに」
「うちのクラスは四組と体育一緒やから。バスケでわざとボールぶつけてきたりとか、着替え隠したりとか。……ま、わたし、割とそういうの慣れっこなんやけど」
 水嶋はじちようするように唇をゆがめてみせた。そんな表情まで魅惑的だった。
「ひどいな。いくら水嶋さんが美人だからって」
「な。ほんまかなわんわ」
 一際強い海風が吹いて、水嶋のスカートのすそを巻き上げた。水嶋はすぐにスカートを押さえたが、一瞬だけ脚があらわになる。僕は目を逸らしたが、はっとするような白い腿が瞼の裏に焼き付いて離れない。
 自分の唇を嚙んだ。心臓の鼓動がまだ速くて、何を言えば良いのか分からなかった。言葉にすれば、すべてが水嶋にばれてしまう。狂おしいほど強い衝動が、よこしまな気持ちが。
 漫画やドラマに出て来る高校生みたいに、これが純粋で可愛らしい恋心だったら良かった、と一瞬だけ思った。僕の気持ちは我ながら暗くて気持ち悪い劣情としか思えなくて、ほんの少しそれが悲しかった。でも本当に一瞬だけのことだ。僕は非現実的なものに焦がれるような夢想家ではなく、目の前にあるのは少女の瑞々しい肉体だった。
「僕にできることあったら、言って」
 僕が上っ面の台詞を吐くと、水嶋は満足げに微笑んだ。 
 
 
 気がつくと、教室の外に出たら水嶋の姿を探し、見つければ目で追うようになっていた。それまで意識したことはなかったのに、水嶋が気になって仕方がない。
 そもそもクラスが違うから、そんなに頻繁に校内で見かけることはない。それが幸いだと思えた。同じクラスだったなら、僕の挙動は人目をひいて、ますます変な奴扱いをされただろう。
 やはり、水嶋と話ができるとしたら、放課後の校庭だった。僕は大抵走っているから、水嶋が校庭の端を歩いていることに気がついても、会話を交わせないことも多い。それでもタイミングが合うと声をかけてくれたり、機嫌よく会話を続けてくれることもあった。ただし気が乗らないと、目を合わせさえしない。女王様然としているつもりなのか、そんなところも面白いなと思った。
 水嶋の噂もせっせと収集するようになった。彼女も僕と同じく、あまり友達がいないらしい。『顔は可愛いけど、性格が残念』というのがもっぱらの評価だ。
 一年生の男子が水嶋にあこがれて告白したのをひどい態度で断り、しかもその男子がバレー部のアイドル的存在だったから、水嶋はバレー部の女子全員にかつのごとく嫌われているらしい。そのキャプテンが、廊下で取っ組み合いになったという五組の白石だ。
「ドブスが調子に乗ってんじゃねえよ。人権ねえよその顔で」
 白石の顔面を引っいた水嶋は、そう吐き捨てたという。よく停学にならなかったものだ。
「まあ告白断って逆恨みされたんならかわいそうな気もするけどさ、あいつ、いかにも美人なことを鼻に掛けとるからなあ。女子には嫌われるよな」
 水飲み場のすぐ傍、校舎の裏口にある段差に腰掛けて、藤原が品なくにやにやしている。水道水でのどを潤した僕はタオルで顔の汗を押さえた。
「美人を鼻に掛けるから嫌われるんか」
「そうやろ、そりゃ。女の嫉妬ってやつやろ。お前みたいなのは知らんやろけどな、女の世界は怖いんやで。美人はそれだけで嫌われる生き物やから、人一倍謙虚で目立たんようにせなあかんのや。うちの妹が読んどる漫画に書いてあったで」
「へえ」
 異性のきょうだいがいると便利そうだなと思っていると、ふと藤原が真顔になった。僕の顔を覗き込む。
「お前、水嶋にれてまったん?」
「まあ、別に」
「よう好きになるわ、ほんま不思議やわ。あんなやばい女」
 僕は藤原を見つめ返した。水嶋が僕のことを好きなのではないか、と言ったときは嬉しそうだったのに、僕が水嶋のことを好きなのは不思議なのだろうか。逆じゃないのか?
「でも男はあほやからなー。分かる分かる、俺も分かるで。中身はともかくガワさえ良ければ、くらっときちゃうわなー。それってしゃあないやん? 本能やん?」
「お前にだけはあほとか言われたくないな」
 そのとき水飲み場に人が走ってきたので、口をつぐんだ。背の高い男子生徒がさわやかに手をあげる。三年のかん先輩だった。陸上部で僕と同じ短距離走の選手だ。
「よ、おつかれ」
「おつかれさまです」
 神田先輩は推薦で早々に大阪の大学に進学を決めたので、最近また部活に顔を出すようになった。だいぶ寒くなって来たというのに、Tシャツ一枚でうっすら汗までかいている。たくましい二の腕の筋肉を惜しげもなくさらけ出した神田先輩は、藤原と僕を不思議そうに見比べた。
「お前ら仲良いん」
「良くはないすよ。ただ同じクラスってだけです」
 藤原が何の屈託も見せずに答えると、神田先輩は、なるほどねー、と笑って受け流した。
 水道で顔を洗う神田先輩の高い鼻から、水滴がきらめきながら落ちるのが見えた。神田先輩も彫りが深くて整った顔面をしており、まゆが濃くてやたらと存在感があるが、そのせいで情が深くとっつきやすそうに見えるのだろう。
 神田先輩は一応副キャプテンだが、キャプテンはタイムが良いだけで人望がないので、実質的には神田先輩が部を取りまとめている。
 部活後に部員同士でファミレスやカラオケに寄っていこう、となるとき、基本的に僕は誘われないが、たまに「行こうぜ」と声をかけてくれるのは神田先輩だ。ごくごくたまに顔を出すと、神田先輩は僕が孤立しないように何かと話を振ってくれる。もちろん僕だけに優しいのではなくて、男女分け隔てなく、誰に対してもそういう態度なのだ。だからみんなに好かれている。
 しかし、僕は正直に言って神田先輩があまり好きではなかった。神田先輩は、誰とでも仲良くなれる自分、僕のような変な男も人間らしく扱う自分が好きなのだ。別にそれ自体は悪いことではないし、むしろ健全といえるのかもしれない。しかし、周りの人間がみんな理想の自分を創り上げるための駒であるという自意識の高さに反感を覚える。
 どうせ向こうは僕のことを面白みのない人間だと思っているだろうが、僕だってそう思っている。覗かれるしんえんみたいに。
「こいつが水嶋藍子のこと好きなんちゃうかって、話してたんすよ」
 阿呆の藤原が、余計なことを平然と言う。
「えー、まじか、水嶋藍子なん」
 神田先輩が僕に目線をくれるが、僕は否定も肯定もしなかった。神田先輩はあごを触って、しばらく考えていたが、ひとりごとのように呟く。
「ま、あの子は美人やからな」
 人が水嶋の話題を口にするとき、まず最初に「美人」がくる。
 ちょっと性格が変わっているとか、実家が金持ちだとか、そういう話はその後だ。彼女のことを考えると、脳裏にまずあの端麗な顔貌が浮かぶ。そしてそれは僕も同じである。水嶋の最大の特徴は美人であるということだ。
 人は見た目が九割などというけれど、人を見た目で判断したり評価したりすることは、別に悪いことではないだろう。見た目だってその人を形成するひとつの要素なのだから。頭が良いことを褒めるのは良いのに、顔が良いことを褒めるのはいけないということはない。
 水嶋は美人なことを鼻に掛けていると藤原は言った。それもなんら悪いことではない、と僕は思う。自信がある武器は誇ればいい。自分の頰をでる彼女の手のゆっくりした動きを脳裏に思い描く。
 しかし、もしも水嶋の魅惑のかんばせが、人の生き血によって後天的に作られたものだとしたらどうだろう。
 生き血で美人になることは、整形手術で美しくなることと同じだろうか。いや、禁忌を犯しているという背徳感の分だけ効果が違うはずだ。あの顔が彼女のものではなかったとしたら、『美人』ではない水嶋のアイデンティティは、一体どこにあるのだろうか。少なくとも僕はあの容姿ではない水嶋に興味はない。僕はひどいことを言っているだろうか。
「水嶋って美人でも地雷系やないすか? 地雷系」
「んー、そうなんかな」
 藤原はとしていたが、神田先輩は歯切れが悪かった。僕に気を遣っているのだろうか。
「神田先輩」
 快活な声がして目をやると、制服姿の女子が水飲み場の脇に立ち、笑いかけていた。存在感のある大きな鼻に、奥二重の目は眠たげだ。神田先輩の顔がぱっと明るくなった。
「あっ、円佳。遅なってごめん」
「大丈夫ですよ。お疲れさまでした」
「俺、荷物取ってくる」
「じゃあ駐輪場で待ってますね」
 神田先輩は僕らに手を軽くあげて、いそいそと部室へ駆け出し、女子は駐輪場の方へ歩いていった。ややそとまたで、たくましいふくらはぎをしている。生命力が強そうだ。
「吉村円佳かあ。神田先輩ってブス専なんかな」
 藤原が下卑た笑みを浮かべて耳打ちしてくる。
「知らん」
「あ、でも前の彼女は普通に可愛かったっけ。顔ちゃうんか。あ、分かった。結構乳でかいかもな。それやわ」
 藤原を無視したのは、ホモソーシャルなノリに嫌悪感を抱いたから、ではなくて、単純に吉村円佳の胸部に全く興味が湧かなかったからだ。伸びをして立ち上がるが、藤原は全く気にせず喋っている。
「でも神田先輩のことやから、『ブスにも優しいオレ』が好きなんやろうな」
 阿呆だと思っていた藤原が自分と同じようなことを考えていると知って、げんなりした。
 吉村の政治的手腕については知らないが、会長選のスピーチはかった。人に安心感を与える喋り方ができるし、明るくはつらつとして、頭の回転も速そうだった。うがった見方をやめて普通に考えれば、神田先輩も吉村の人間性にかれているのだろう。
 もう少し走ろう。そう決めて地面を蹴った。潮風が全身にまとわりついて、白いスニーカーが少し重くなる。
 白いラインで描かれたトラックに沿ってゆっくりしたペースで走っていく。ジャージの下で、筋肉がしなる。校庭なんか走っても何も楽しくないから、ほとんどの部員は松林や浜辺を走っているが、僕は柔らかな地面が苦手だった。子どもじみているかもしれないが、何かがずぶずぶと地中に引きずりこんできそうな気がするから。水中はいいが、地中はいやだ。
 自転車にふたり乗りして帰ったあの日、休憩を終えて、ゴミ箱に紅茶の缶を放り捨てた水嶋の横顔を思い出す。
「ねえ、自分、彼女とかおるん」
 ちょっと背筋がぞっとするような粘っこい声だった。思わず水嶋の目を見ると、黒目の奥がらんらんと光っている。本物の猫のようだ。僕の鼓動がほんの少し速くなる。たかぶり出す神経を隠して、努めて冷静な声で「おらんよ、そんなん」と答えた。
「へえ、そうなん」
 水嶋は思わせぶりに微笑み、細い指に自分の艶やかな毛先を巻きつけた。次の言葉を期待したけれど、彼女はもう何も言わなかった。僕は少々落胆しながら、自転車にまたがる。水嶋が後輪に足を乗せると、ぐんと圧がかかった。
「ほんまムカつくわ、吉村」
 風に搔き消されるような小さな声だったが、そのとき彼女は確かにそう言った。
 その声を何度も繰り返し脳内で再生しながら、僕はぐるぐると校庭を走り回った。授業中に迷い込んできた野良犬みたいだったと思う。ひっそりとくらく興奮していた。
 今日は水嶋が校庭を通らない。
 
 
 その次の日の昼休み、僕はたまたま吉村に会った。購買の横にある自動販売機で牛乳を買っていたら、吉村が友達と話しながら僕の後ろに並んだのだ。
 脇に退き、牛乳のパックにストローを挿す。吉村がお茶を買うのを何とはなしに眺めていると、腰をかがめてお茶を取り出した吉村が、真っ直ぐ僕を見た。
「何か用」
「ああ、ごめん、じろじろ見て」
 友達らしき女生徒がふたり、僕を見てひそひそとささやき合っている。しかし吉村はりんとした表情を崩さなかった。
「あなた、陸上部の二年生やよね。一組の」
「そうやよ。さすが生徒会長はよう知っとるね」
「いや、昨日校庭で会ったし」
 吉村はにこりともしない。昨日神田先輩に見せていたような柔らかさは皆無だったが、それでも大多数の生徒が僕に向ける嫌悪感みたいなものが、そこからは感じとれなかった。さすが生徒会長、どんな生徒にも平等に接すべきと考えているのだろうか。神田先輩とお似合いだ。先程までそんな気はなかったけれど、好奇心が湧いた。
「ちょっと吉村さんに聞きたいことがあるんやけど」
 吉村は少し迷った素振りを見せたが、「いいけど」と頷いた。友達のふたりは心配そうに振り返りながらも、教室の方へ戻っていった。
「なに?」
 購買は校舎の端にあり、すぐ傍に体育館につながる渡り廊下がある。コンクリの柱と屋根があるだけの簡易な渡り廊下だ。ひとが無かったので、僕はその柱にもたれて牛乳を吸った。お茶を握り締めた吉村は、僕から十分な距離を取っている。
「吉村さん、水嶋さんにいやがらせしとんの」
 ストレートに聞いてみると、吉村は驚いたようだった。眠たげな目が見開かれている。
「そんなわけないでしょう」
 怒りを押し殺したように、吉村は小さく叫んだ。
「そんな……そんなわけないでしょ。水嶋さんがそう言っとるわけ?」
 僕が頷くと、忌々しそうにためいきをつく。
「ほんま、しょうもない人やな」
「いやがらせされてんのは、吉村さんの方なん」
 吉村は険しい目つきでじっと僕を見た。その通りなのだろう。
「バスケでボールぶつけられたり、着替え隠されたり?」
「……ボールはわざとじゃないかもしれんし、着替えは誰がやったかは分からんから」
 吉村は淡々と言った。評判通りの誠実で高潔な性格に、僕は好感を持つ。美人の水嶋と不美人の吉村は、まるで対照的だ。コインの表と裏のように、かげなたのように。気づくと自分の口元が歪んでいて、思わず手で隠した。吉村に気味悪がられてしまう。
「吉村さんの方から、いやがらせされて困ってる、って周りに言いふらせばいいんやない。誰からのいやがらせってはっきり言わなくても、匂わせればみんなすぐ気づくやろ。吉村さんは人気者なんやから、みんな吉村さんの言うこと信じるよ」
「そんなことはしない」
 吉村はむっつりと言って、手にしているものに気がついたように、ようやくペットボトルの封を切った。一口含む。
「そんなに困ってないし、小学生のいたずらレベルやもん。……相手にしてらんないってのが正直なところ」
「眼中にないってことね」
「ま、そう」
 僕はますます感心した。誠実というよりむしろ、吉村はとんでもなくごうまんなのかもしれない。水嶋を見下しているから相手にしないし、同じ土俵にあがらないことが自分の価値を保つために大事だと自覚しているのだ。
 そしてきっと水嶋もそれを知っている。人としての格が違う相手だと知りながら、気づかないふりをしている。
「美人やよね、水嶋さんって」
 僕が言うと、吉村はげんそうに眉をひそめた。
「吉村さんはどう思う」
「……美人やと思うよ。東京行けばアイドルとかなれるんちゃう」
「吉村さん、自分があんな顔やったらいいなって思う?」
 吉村は一瞬虚をつかれたように固まったが、ややして、皮肉っぽく唇の端を吊り上げた。
「それ失礼やない」
「そうかな」
「わたし、水嶋さんの持ってるものでうらやましいもの、ひとつもないよ。顔もそう」
 吉村の声は低くえとしていて、それでいてどこか勝ち誇っているように聞こえた。卑屈さも虚勢も感じない。瞼に埋もれた彼女の目は小さいが、瞳はきらめいていて、その光の強さは水嶋に勝るとも劣らなかった。
 あの美しい顔が、吉村は羨ましくないと言うのだ。水嶋のアイデンティティである、あの美しいかんばせが。しびれるほど残酷だ、と僕は思った。その甘美さにくらくらする。
 他のものはなんでも持ってるんだから、せめて顔は羨ましがってやってくれよ。
「吉村さんさ、薄紅の話って知っとる?」
 意味が分からない、というように吉村は顔をしかめた。
「何それ。知らない」
「そう。じゃあいいや」
 吉村は僕の頭のてっぺんから足の爪先まで素早く値踏みするような目線を向けた。
「あんたは水嶋さんが好きなん」
「好きやよ」
「そう。お似合いやわ」
 皮肉っぽく聞こえたが、僕は気がつかないふりをして「そいつは嬉しいね」と応じた。
 おうい、と遠くから男の声がする。
 こちらに向けられていると思わずにしばらく無視していたが、吉村が渡り廊下の外に向かって手を振る。僕も目をやると、神田先輩が大きく手を振りながら歩いて来るところだった。背が高くて腕も長いから、そうすると何だかクリーチャーじみている。
「そんなとこで何しとんの。ふたり、知り合いやったん」
 神田先輩は澄んだ瞳で吉村と僕を見比べた。神田先輩の口から出てくる言葉は全て、何の裏もなさそうに響く。
「ううん、そこの自販機で一緒になっただけ」
 吉村が答えると、神田先輩は嬉しそうに微笑んだ。吉村を見る目が、三日月のように優しげに細くなる。それを見ただけで、神田先輩がいかに吉村のことを好きなのか、よく分かった。頭ときつの良い、ひとつ年下の少女に、心底惚れているのだろう。
 行こ、と吉村が神田先輩の腕を取った。ふたりが校舎へ入っていくのを黙って見送った僕は、何とはなしに体育館の方を向いて、はっとした。
 渡り廊下の奥、体育館の入り口に水嶋藍子が立っている。
 顔には真っ黒に影が差していた。どんな表情をしているのかまるで分からないが、じっと吉村と神田先輩の後姿を見ているようだった。一体いつからそこにいたのか。僕と吉村の会話は聞こえなかっただろうと思ったが、そんなことはどうでもいい。僕のことなどまるで視界に入っていないようだった。
 愚かなことに、僕はそのときやっと、水嶋が僕に対して多少なりとも好意を持っているのかもしれない、というのが丸っきり勘違いだったことを悟った。きっと彼女は神田先輩の姿を見たくて、グラウンド横を通って下校していたのだ。ついでに同じ部活の僕を抱きこめば役に立つだろうと思ったのだろうか。
 神田先輩と吉村が廊下を曲がって見えなくなるまで、水嶋はそこに立っていた。ややあって、ふうと息をつくと、ゆっくりと歩き出す。僕の目の前を通るが、視線は交わらない。
「ほんま、ムカつくわ」
 小さな呟きが、吸い込まれるように耳に入ってきた。コンクリづくりの暗い渡り廊下は、深海に沈んだ遺跡のように見えた。そこをひとり滑るように行く水嶋は、本物の人魚姫のようで、震えるほどに美しかった。
 
 
 吉村円佳が事故に遭ったのは、その二週間後のことだった。
 自転車で通学路を下校中、横の田んぼに落ちたのだという。そう聞くと笑い話のように思うかもしれないが、けいついを骨折し、せきずいを損傷する大怪我だった。
 いつも神田先輩か友達と下校していたのに、その日に限ってひとりだったので、誰も吉村が怪我した瞬間を見ていない。数十分後に通りかかった生徒が見つけて通報したのだという。
 自転車の前輪はバーストしていたそうだ。道に異物が落ちていることを気づかずに踏んで、タイヤが勢い良く破裂したことに驚き、ハンドル操作を誤ってしまった。異物も田んぼに落ちたのか見つかっていないから、何だったのか分からない。全校集会で校長がそう報告した。かわいそうに、リハビリのために吉村は一年休学して、復学できることの無いまま、結局退学した。
 生徒会長で有名人の吉村の事故の話は、しばらく学校中の話題になった。警察署に頼んで全校生徒対象に自転車の安全運転講習が実施され、学校のあちこちに「ご安全に」というポスターが貼られた。
 しかしその浮ついた雰囲気も一か月ほどのことで、学校は徐々に平穏を取り戻していった。生徒会は副会長が会長に繰り上がって滞りなく運営されていたし、一度ちらりと覗いた四組では、吉村の机は片付けられていた。
 吉村はあんなに人気者だったのに、いなけりゃいないでいいようだ。そう思うと、ちょっと切ない。僕は退屈な授業中にほおづえをついて窓の外に目をやりながら、今頃吉村は病院で何食べてるのかな、などと考えたりもした。もともと彼女に興味がなかった僕が、なんだかんだ一番彼女のことを考えているんじゃないだろうか。
 暦の上では春が訪れているとはいえ、とてもそうとは思えない厳寒のさなかのある日、神田先輩の姿を見かけた。昼休みの食堂だった。珍しくひとりで隅の席に座り、を食べている。
 卒業式はまだだったけれど、三年生はもう自由登校になっていた。神田先輩もほとんど登校しなくなり、部活に顔を出すことも減っていた。
「神田先輩」
 声をかけると、顔をあげた神田先輩は、ちょっと戸惑ったような表情を浮かべた。
「おう。なんか久しぶりやんな」
「ここ座っていいですか」
「ああ、うん」
 僕は昼飯を食べ終えていたし、昼休み終了のチャイムまであまり間もなかったけれど、神田先輩の正面の椅子をひいて腰を下ろした。
 事故直後の神田先輩の落胆ぶりは相当なものだった。毎日吉村の見舞いに行っているとも聞いたが、吉村はしばらく市外にある大学病院のICUに入っていたから、面会謝絶だったはずだ。
「吉村さんのお見舞い、まだ行ってるんですか」
 神田先輩は蕎麦をすすりながら、上目遣いで僕を見た。何度かせわしなくまばたきする。
「……もう行ってない。会いたくないって言われたから」
「そうなんですか」
 なぜ吉村は神田先輩に会いたくないのか、聞かなかった。もうリハビリを始めているのかは知らないが、今後のことを考えて憂えたのだろう。自分の存在が神田先輩の足かせになると思ったのかもしれないし、なにより彼氏は都会で学生生活をおうして、自分はつらいリハビリだなんて、女子高生には酷だ。
 神田先輩はちょっと目が落ちくぼんで疲れているようだったが、そのかげりが渋さになって、男っぷりが上がっているようにも見える。人はこうやってつらい経験を糧にしていくのかと思うとなかなか興味深い。
 僕なんかが心のこもらない慰めの言葉をかけても喜ばないだろうと思って黙っていたが、神田先輩は食べ終えた蕎麦の器を脇にけると、真顔で言った。
「事故する前にさ、自分、渡り廊下のとこで円佳と話しとったやろ」
「はい」
「薄紅の話を知っとるか、って聞いたんやって? あのあと円佳に聞いた」
「ああ、聞きました。吉村さんは知らないって言ってましたけど」
 神田先輩は細く溜息をついた。
「俺は知っとったんよ。死んだばあちゃんに聞いたことある。だから円佳にも教えてやったんやけど。自分、どういう意味で円佳に薄紅の話知っとるかって聞いたん」
 僕を責めるようでもなく、淡々としている。僕も正直に答えた。
「吉村さんは、水嶋さんの顔を全く羨ましくないって言ったんです。だから、人を食って人魚に堕とされてまで綺麗になりたい女の話を吉村さんならどう思うかな、と思って聞いたんです」
 神田先輩は、皮肉っぽく口の端をあげた。
「馬鹿みたい、って言っとったよ」
 予想通りの答えだった。吉村ならそう言うだろう。何も面白くない。
「でしょうね」
「でもあれって、人を食ったら人魚に堕とされるぞ、ってそういう話なんやろうか」
「え」
 神田先輩は吉村を思い出すように遠い目をした。よく見ると、神田先輩の瞳は綺麗なセピア色だった。
「円佳は、それはピンとこないって言っとった。食人の民話やおとぎばなしって全国にたくさんあるけど、それで人魚になるって話は聞いたことない。この町だけやろ。この町にだけ、人を食べると人魚になるっていう何か特別な呪いの要素があるのか……、そもそも薄紅自体が人魚だったんやないか」
「は……」
 思いがけない方に話が転がっていったので、僕もさすがに戸惑った。神田先輩の普段の快活さはなりを潜め、別人のような低い声で淡々と続ける。
「あの話で名前が出て来るのは薄紅だけや。薄紅を殺して食べた醜い女の話が主体のように見えるのに、その女は名前さえ出ない。あれは人魚の薄紅のてんまつを描いたもので、人魚を食べた人間は人魚になるって話なんやないか。八百比丘尼の伝説は知っとるやろ、人魚の肉を食べて八百年長生きした尼さんの話や。あの話は日本中色んな所にあるけど、人が人魚の肉を食べると不老不死になるってのは共通項で、八百比丘尼自身が人魚になったっていうパターンもあるらしい。薄紅の話もそのバリエーションのひとつなんやないか」
「吉村さんがそれを言っとったんですか?」
 神田先輩は浅く頷いた。吉村は思った以上に博学だったらしい。直接話したかったな、と思うと初めて少々胸が痛んだ。
「そうかもしれませんね。面白い考察やと思います」
「だから、薄紅はブスにねたまれたかわいそうな美人やないんよ。もともと人権のない、食料と同等の妖怪やったってこと」
 神田先輩は聞いたこともないような冷然とした声で言い放った。僕が黙っていると、食器をのせたトレイを持って席を立つ。
「自分、水嶋藍子とまだ仲いいの」
 セピアの瞳がうじ虫でも見るような嫌悪感を露わにして僕を見下ろしていた。
「普通です」
「迷惑やから、もう俺の周りうろつかんで、って言っといて。俺、顔しか取り柄のない女なんて嫌いやし」
 僕の返事も待たずに、神田先輩は背を向け、さっさと行ってしまった。予鈴のチャイムが鳴り出したけれど、僕はしばらくそのまま座っていた。
 正直に言うと、興奮していた。言いようのない暗い愉悦がじわじわと腹にまっていく。
 僕は初めて、神田先輩の心の氷点に触れたのだ。どんな人間にも優しくする自分が一番好き、ではなかったのか。自意識が塗り替えられてしまうほど、それほどまでに吉村円佳が大事だったのか。
 面白くないと思っていた神田先輩のむきだしの本音が、たまらなく魅力的に感じた。思わずにやついてしまい、手で口元を押さえるが、ふふ、とちょっと声が漏れ出た。知らない女生徒がふたり、薄気味悪そうにちらりと見てきた。
 やっぱり水嶋藍子だな、と僕は思った。
 神田先輩の本性を引きずり出してくれたのは水嶋に他ならない。
 昼休みの終わった、だだっぴろい食堂で、生徒がばらばらと立ち上がる。生徒の白いシャツと、紺色のブレザーやセーラー服が行き交う様子は、波のうねりのようにも見えた。ここは未知の生き物にあふれた海の中だ。意識するよりも早く水嶋の姿を捜していたが、彼女はいなかった。僕の人魚はここにいない。
 ふふ、ふふふ。
 指の隙間からこぼれてしまう。自分の奇妙な笑い声が、あぶくになってこぼれていく。
 僕が普段必死で取り繕っているものが、一緒になってぱらぱらとこぼれ落ちていくような気がした。自分が抑えきれなくなっていく。
 僕はやっぱり、水嶋藍子が欲しい。
 
 
 神田先輩が部活に来なくなったので、水嶋が校庭を通ることも無くなってしまった。ただ待っていてもなかなか会話を交わす機会がないので、寒風に晒された駐輪場で待ち伏せることにした。
 水嶋はひとりでやってきた。互いに友達がいないから、何かと都合がよい。黒いハイソックスに包まれた小枝のような脚がすらすらと交互に踏み出される様子をたんのうした。あまり見ては警戒されるだろうとか、そういう気遣いももはや不要に思えたから、思う存分見た。
 水嶋は僕を認めても表情を変えず、目を逸らす。さっさと自分の自転車を引っ張り出そうとスタンドをはずして、手が止まった。ハンドルを握ったまま、後輪のあたりをじっと見る。僕はゆらゆらと近付いた。
「またパンクしちゃった?」
 水嶋はきっと僕を睨みつけた。細い眉根を寄せて目が吊り上がって、美人のそんな表情はなかなか迫力がある。
「こないだのもあんたやったの」
 僕が答えずにいると、水嶋は肯定と取ったようだった。嫌悪感も露わに「最低」と吐き捨てたので、思わず喉の奥でクツクツと笑ってしまう。最低なのはどっちだ。
「いいやん、水嶋さんは怪我してないんやから」
 水嶋はふっと表情を引っ込めた。
「あの子が勝手に転んだんや」
「へー、そうなん」
 僕は自分の自転車のスタンドをあげて引っ張り出した。さっとまたがる。胸が高揚していた。
「送るわ。また海見に行こうよ」
 もっと渋るかと思ったが、水嶋は口の中で何やらぶつぶつ言ってから、僕の自転車の後輪に足を乗せた。ぐっとかかる重みが心地よい。
 美しい十代の少女というのは、実に傲慢で世間知らずで無防備だ。自分は世界で一番価値のある存在であり、全て自分の思い通りになると思っている。水嶋も、そういうごく普通の人間に過ぎない。恋敵に大怪我させて強制退場させるという非道なことをしてもなお、自分は世界の中心にいて、僕を駒にできるつもりでいる。
 その愚かさが可愛くてたまらなくて、僕は自転車をぎながら、水嶋にばれないように歯をきだして笑った。
 その日は天気が悪くて、どす黒い空は今にも泣き出しそうだった。重く湿った大気に鬱々とした気配が充満し、海辺を走ると、制服がべとべとと体にまとわりつく。
 浜辺を走ると、ごうおんが響いている。ゴウゴウと地獄の底から吹いてくるようなこの低い音は海鳴りだ。海鳴りが聞こえる日は天気が荒れる。これから嵐が来るのだろうか。
 以前と同じところに自転車を停めると、水嶋はいやいやといった様子で自転車から降りた。
「早く帰りたいんやけど」
「こないだはそっちから誘ってくれたんに、つれないな」
 僕は前と同じようにコンクリートの堤防に腰掛けたが、水嶋は座ろうとしなかった。白いひざ小僧に冷たい海風が吹きつけている。こんなところにいたら、すぐに真っ赤になってしまうだろう。
「あんた、もうちょっと役に立つと思ったんに」
 僕の顔をちらりとも見ずに、海鳴りに搔き消されそうなくらい小さな声で水嶋は呟いた。
「僕が水嶋さんを好きになれば、吉村さんにいやがらせしてくれると思ったん?」
 水嶋は黙っていた。いや、いやがらせ以上のことを期待していたのだろう。僕も舐められたもんだな、なんて苦笑してしまうけれど、なんら気分を害してはいない。
「あてが外れたけど、上手いこと大怪我してくれて良かったよね。神田先輩は吉村さんと別れるやろし、吉村さんは大学も行けんかもしれんし、就職もできんかもな。将来はめちゃめちゃや」
 水嶋はきゅっと唇を嚙んだ。何も言わなかったが、瞳が揺れていた。罪悪感があるのだと感じて、ちょっと失望した。
 水嶋が吉村の通学路に何を置いていたのか知らないが、うまい具合に吉村の自転車がそれを踏む保証はないし、タイヤが派手にバーストすることも、それで転倒することも、ましてや脊髄損傷の大怪我をすることなんて、予測は不可能だ。水嶋は自分の自転車がパンクさせられたことにヒントを得て、吉村がちょっと困ればいいと思っただけだったんだろう。
 ひとひとりの人生を奪うという、そこまでの度胸も狂気も、水嶋の中には初めから存在しなかった。思ったよりことが大きくなって、恐れている。
 どこまでも非情にエゴイスティックに笑ってくれる方が、僕の好みだったけれど、そこまで期待するものではない。水嶋がそういう性格であることは最初から分かっていたことだ。彼女は僕とは違うのだ。水嶋はただ見かけが整っているというだけの、どこにでもいるような痛々しい十代の少女だ。
「僕は、吉村さんに何かしたりせんよ。吉村さんに興味ないもん」
 ゴゴウゴウ。一際大きな海鳴りが魔物のようにうなった。しょっぱい風が僕らの髪をめちゃくちゃにかき回し、水嶋は死人のように青白い手でそれを押さえた。
「でも、水嶋さんには興味ある」
「あっそ」
「吉村さんにさ、水嶋さんみたいな顔になりたいか聞いたんやけど」
 僕がのんびり言うと、水嶋はゆっくりとこっちを向いた。平静を装っているがどこかおびえが滲んでいた。
「なりたくないって言ってた」
 海が荒れている。海底から巻き上がった白い波が岩とぶつかって砕ける音がする。
「吉村さんは美人っていうタイプやないかもしれんけど、頭も良くて人望あって、生徒会長やって、素敵な彼氏も友達もおるもんね。だからもう満たされてるっていうか……、人を羨んだりしないんやろうね」
 水嶋は何も言わない。こちらを向いてはいたが、その目は僕を見ていなかった。僕の向こうにある何かを見ている。吉村の幻だろうか。
 水嶋のような顔になりたい。美人になりたい。
 吉村がそれを願うような少女であれば、彼女の脊髄は無事だったのかもしれなかった。吉村は高潔でプライドがあって、そして本当に、心から、水嶋の顔面になんてまるで興味を持っていなかった。眼中になかった。だから水嶋は許せなかった。
 見た目しか取り柄のない水嶋が、その価値を全く肯定してもらえないことは、どんなに彼女の心を傷つけたことだろう。かわいそうに、と僕は胸を痛めた。かわいそうだから、せめて神田先輩の伝言は伝えずにおこうと思った。
 ――迷惑やから、もう俺の周りうろつかんで、って言っといて。俺、顔しか取り柄のない女なんて嫌いやし。
 別にそんな残酷なことを伝えなくても、水嶋が神田先輩の周りをうろつくことなんて、もうないだろうし。
「……つまらん話。寒いし。よ帰りたい」
 ぷいとそっぽを向いて、水嶋が呟いた。
「僕はそんな強くて立派な吉村さんより、水嶋さんに惹かれるんやよ」
「顔やろ」
「当たり前やん。それ以外に何があるん」
 それは半分噓だったのだが、水嶋の反応が見たくて、ついそう言ってしまう。水嶋がつらそうに顔を歪めたので、おかしくなった。さんざん自分の外見を鼻に掛けておきながら、結局は内面に美点をいだして欲しいと言う。その割り切れない弱さや、はらんだ矛盾が彼女の魅力なのだ。
「わたし、あんたみたいなキモい奴嫌いやし」
「うん、それは分かる」
 海鳴りの音が僕の語尾をかっさらう。こんな日は鳶も飛んでいない。
「こないだ水嶋さんがしてくれた薄紅の話、面白かったわ。あれから、頭から離れんくて、何回も思い出してるんよ。なんであの話を僕にしてくれたん」
「特に意味は無い。何となく」
「水嶋さんが飲んだのは、ユミコちゃんの生き血やったの」
「……分からんよ」
 僕は神田先輩から聞いた、吉村が語ったという薄紅の考察を思い出していた。醜い女が食べた美女・薄紅の正体は、人魚だったのではないか。人魚を食べればその者が身代わりとして人魚になるのではないのか。
「あのさ、ユミコちゃんって、人魚だったんやないかな」
 水嶋は虚をつかれたように瞬きをした。
「何……」
「思い当たるところはない? 泳ぎが上手かったとか、生魚を頭からかじってたとかさ。いや、人魚の特徴なんて知らんのやけど、僕も人魚見たことないし」
「そんなん、知らんし」
 水嶋は薄気味悪そうに呟いたが、記憶を辿るように視線が彷徨さまよった。
「……そういえば、ユミコちゃんは塩水飲んでた、けど」
「塩水?」
「小さな水筒持ってたから。何が入ってるんかなと思って一度こっそり飲んでみたら、しょっぱくて、吐き出した」
 僕は、ほう、と呟いた。興味深い証言だ。しょっぱく感じるほどの塩水を普通の人間が常飲していたら、すぐに健康を害してしまうのではないだろうか。
「今は水嶋さんも塩水飲んでるん?」
「飲んでない」
「水嶋さんは、人魚になったん? 違うん?」
「知らん」
 水嶋はさげすむような冷たい眼で僕を見下ろした。僕も見つめ返す。見た目も年相応の高校生だから、不老不死というわけでもなさそうだ。
 やはり薄紅の話はただの御伽噺で、何らかの教訓が形を変えただけのものなのだろうか。しかし、水嶋はユミコちゃんをまるごと食べてしまったわけでもなく、血をちょっとばかり飲んだだけだ。体に取り入れる量が少なかったから、完全な人魚にはならなかったのかもしれない。
「ユミコちゃんって、殺されたってことなんかなあ。水嶋さんのじいちゃんとか、おとんに」
 他人を害してでも欲しいものを手に入れようとするのは、家系なのだろうか。
「わたし、もう帰るから」
 水嶋がきびすを返そうとする素振りを見せたので、僕はその白魚のような手をつかんだ。水嶋は汚物に触れたかのように顔を歪めて、振りほどこうとするが、その力は思ったよりずっと弱々しかった。
「触んなよ」
「ユミコちゃんの血をもらって、そんな綺麗な顔になって、それでも欲しいものは何にも手に入らんのやろ」
 人魚を食べて得る対価は、本当にそれだけの価値があるものなのだろうか。
 美しい顔を手に入れても、結局何も満たされないという絶望を知るだけのことではないのだろうか。顔しか取り柄のない水嶋にとってそれはどれほどの苦しみだろう。
 僕はこれからの長い人生を生きていく水嶋が味わうだろう苦難を想像して憂えた。びんだと思った。このまま彼女が生きていくのであれば、大怪我をしてつらいリハビリを乗り越えて生きていかなくてはいけない吉村よりも、苦労するのではないか。
 それであれば、僕がなんとかしてあげるべきではないだろうか。
 力では振り解けないと悟った水嶋が、僕の手に歯を立てようとする。あおめたエナメル質に覆われた歯の一本一本まで美しかった。この歯並びも人魚からもらったものなのだろうか。僕の血を飲んでもらうのも面白いかもしれないと思ったが、痛いのは嫌いなので、水嶋の手をひねり上げる。絞り出された細い悲鳴は、海鳴りに搔き消された。少し離れれば民家もあるが、とても声は届くまい。
「水嶋さんを食べたら、僕は不老不死になれるんかな」
 はなして、はなして。水嶋の声が遥か後方に流れていく。僕の手の下で生命が暴れている。恐怖に引きった顔はとても生き生きして見え、やっと水嶋と通じ合うことができたような気がして嬉しくなった。
「あ、そうや」
 ふと思い出したことがあった。誤解は解いておいた方が良い。
「水嶋さん、僕が一年のときに、新任で来た先生の服を切った話聞いて、吉村さんに同じことするの期待したんやろ?」
 水嶋の目に戸惑いが混じる。図星なのだろう。
 正直、それは遺憾だった。若い女の服を切り裂きたがる高校生だなんて、ただの変態じゃないか。それが原因で僕は周りから浮く羽目になったのだが、本当のところを知っているのは、文字通り逃げるように辞めてしまった先生だけだ。彼女も魅力的な顔つきで、カモシカのような素晴らしい脚をしていた。
「あれはやり方がまずくて、服が切れちゃっただけやよ。僕は先生の脚が欲しかったんよ」
 絶えず吹き荒れる風に晒されているのに、水嶋の大きな瞳は濡れて揺れていた。酔っているように焦点が定まらず、今にも気を失って倒れそうに見えて、堪らなくいとしかった。僕が手をたたけば、ぱちんとあぶくがはじけるように、彼女の命はついえてしまうだろう。人の命は、はかないから美しい。思わず笑みがこぼれた。
 ああ、人魚の脚はどんな味がするんだろう。



 おや、お酒は強いって言っていたのに、大丈夫かな。ソルティドッグの飲み過ぎだよ。甘いお酒って悪酔いしちゃうんだ。随分フラフラしてるよ。マスター、お会計。
 ……ほら、肩を貸そう。僕の家はすぐそこだ、何も心配ないよ。
 あのおばあさん、さすがにいなくなったみたいだな。家に帰れたのかな、ホームレスかな。君、老人はいたわるべきだと思う方? 僕はこの国の未来のためには、人生定年制を導入してまとめて処分しちゃった方がいいと思う方だな。はは、人魚のように八百年変わらない姿で生きられたら別だけどね。
 え、水嶋?
 彼女はそれから姿を消して、結局遺体が漁港に上がったのは一か月も後のことだった。海水にかっていたから損傷がひどくて、左脚が無いことも、波に揉まれたせいだろう、と問題視されなかった。かわいそうに、あの美しい顔もただれてふやけて、なくなってしまったのだろうね。
 残念ながら、僕には何の変化も出なかった。
 不老不死にはならなかったみたいだ。ちゃんと年も取ってるしね。
 果たして水嶋は人魚だったんだろうか。彼女が飲んだのは血だけだったから、不老不死にならなかったんじゃないか、っていう仮説を立てていたわけだけど、僕は脚一本分。それでも少ないんだろうか。まぁ不老不死になりたかったわけじゃないけど、ちょっとがっかりだよ。
 やっぱり人魚なんて作り話なのかな。それとも実は、僕も人魚になっているのかな。胸にナイフでも刺してみたら分かるんだろうか。人魚って一体、何なんだろう。
 君、聞いてる? 聞いてないか。ははは。
 いやあ、今までここに連れて来た子に水嶋の話をしたことはなかったよ。お恥ずかしい、なんでこんなにぺらぺら喋っちゃったんだろう。
 脚がない若い女性の遺体が相次いで見つかれば大騒ぎになるし、大々的に捜査されるだろうね。でも日本では年間八万人もの行方不明者が出る。もっとも、そのうち八割は見つかるそうだけど、それでも二割もの人間は見つからない。
 僕ももう慣れてる、警察が来たことは一度もないよ。
 大丈夫、何の問題もない。あぶくが弾けるように、君も綺麗さっぱり消えてしまうだろう。安心して欲しい。
 しかし、実のところ、水嶋を超える味にはあれからってないんだ。君にはポテンシャルを感じるな。ああ、興奮で手が震えている。電気のスイッチが押せない……。
 え、あら、目が覚めちゃった? 
 かわいそうに、寝てた方が君のためだった。もう一度寝るかい。
 ん、あ、痛っ。
 無駄だからやめてくれよ。
 ほら、すぐに寝かせてあげるから、とりあえずまで歩いて……。
 いやいや、痛い、痛いって!
 やめて、やめてくれ。何なんだ。なんて力だ。
 やめろと言ってるじゃないか、僕にこんなことしていいと思ってるわけ。
 あ、駄目、がっ。がああ。
 やめ、やめ、やめてくれ、んぎっ。
 がああああああああああああああああああああ。
 耳が、僕の耳が。
 痛い、痛い痛い。
 がっ、げっ。
 ききき君、手足に、模様、浮き出てる……。
 うう鱗なのか、それは。
 げ、あ、あ。
 やめろ、やめて、お願いです、やめてください。
 いいいいいいいいいいいいい痛い。痛い。痛い。
 ぐ、げ、げ。
 返せ? 返せって、何を。
 君のもの、なんて、なに、なに、何も、っちゃ、いない。
 みずしま……?
 ち。血を返せ。
 あ、君。
 ……ユミコちゃん?


2.にんぎょにんぎょう

 死んでほしい人間がいる。
ふじさん」
 不思議なことに、いいに声を掛けられるときは、実際に発声される直前に分かる。ああ来るな、と予感がする。嫌悪感を持ちすぎて神経が過敏になっているのだろう。
「はい」
 無言で手招きされて、できる限り早く駆け寄る。もたもたしていると攻撃材料が増えるからだ。それにしてもどの件なのか、心当たりがありすぎる。
工業の件さ、俺、逐一報告あげろって言ったよな」
 その件か。椅子にもたれかかった課長の飯田は、吐き気でも感じているかのようにけんに深くしわを寄せている。よく日焼けした南の男らしい顔つきは、一見せいかんのようだが、中身は蛇より陰湿だ。
「はい」
「はいじゃねえよ。さっき波多野社長と話したんだけどさ、いちかわの工場の火災保険、あいになったって、藤野さんには言ったってんだけど。聞いてねえぞ、あ?」
「すみませんでした」
 わたしは即座に頭を下げた。考えるより早く謝罪する癖がついている。こまめに報告をあげろとは確かに言われていたが、別の顧客の新規案件で同様に他社と相見積を取られることになったとき、飯田に報告したら「いちいち報告いらない、ガキの使いじゃねえんだから」と吐き捨てられたから、今回はあげなかった。
 しかし言い訳はしなかった。多分、別の顧客と波多野工業は重要度が違うということで、わたしがそれを理解していないバカだと言われるだけだ。
「すみませんでした」
 ひたすらそれだけ連呼していると、飯田は露骨にうんざりした表情で「で、どうなってんの、今」と報告を促してきたのでほっとした。別に案件自体はい事態にはなっていない。現在のしんちよくを手早く報告して解放された。
 終業間近のオフィスでは、ほぼ全員のメンバーが着席しているが、特にわたしを気に留める人はいない。いつもの光景だからだ。ばれないように、細く長いためいきをついた。ひざに置いたこぶしがかすかに震えている。ずっとどうがしていて、治まらない。
 本当はすぐにここを出て、トイレにでも行きたい。でもこのタイミングでオフィスを出れば、飯田が大きな声でわたしをこき下ろすだろう。最近は後輩にも馬鹿にされ始めているから、それはできるだけ避けたい。
 日系損保に勤めるわたしが経理から営業へ異動してきたのは二年前、入社五年目のときのことだが、三十歳目前で新人のような扱いを受けているのはつらいものがある。
 はっきり言って、営業の仕事はわたしに全く向いていない。経理の仕事はくいっていたから、頭の回転が悪いわけではないと思う。しかしカンも察しも良くないし、臨機応変に対応するのが苦手で、コミュニケーション能力が低い。顧客の重要度など、数字だけで画一的に測れないものがうまく理解できない。容姿も凡庸で、特別に不細工ではないと思っているが、決して美人でもない。見た目だけで好感を持ってもらえることもない。
 半年前の人事で飯田が大阪から異動してきたのだが、わたしが人事面談で異動希望を出した頃から嫌われるようになった。在籍の短い人間が異動希望を出すと、上長の減点になるからだ。
 飯田は入社からずっと営業畑を歩いてきて、業績をあげて何度も社内表彰を受け、最年少で管理職になったという。課長になってからここが二箇所目の四十一歳。わたしのような仕事の出来ない人間のことを理解できないし、する必要性も感じないのだろう。
「そろそろ行きましょうかあ」
 次席である巨漢のうえくらさんが伸びをして、のんびりと言った。
 最悪なことに、今日は月末の締め飲みだ。飲み会の風習は新型感染症の流行で廃れ去ったと喜んでいたのに、飯田の着任と一緒に戻ってきた。表向きは任意参加であるものの、こと独身者の欠席は許されない雰囲気がある。
 わたしは左の胸の上あたりをそっと押さえた。これはわたしの癖で、過呼吸の症状にビニール袋を口にあてがうのと同じようなものだ。確かめたいのだ。大丈夫、わたしの心臓は動いている、と。
 
 
 会社の近くにある海鮮居酒屋の座敷を貸しきりにして、益のない宴席がダラダラと始まる。新人が社員の間を縫って注文を集め、そこかしこでグラスやジョッキのぶつかり合う音がする。けんそうと揚げ物の匂いで気分が悪くなりそうだ。わたしは烏龍ウーロン茶のグラスを持ち、できる限り端の席に座って、人の話にあいづちを打って過ごした。
「藤野ちゃん、課長にお酌でもしてび売っといた方がいいんじゃないの」
 このまま乗り切りたかったのに、事務のベテラン、おおさんがわたしにささやいてくる。
「あ、いえ、わたしが行っても課長もいやでしょうし」
「そんなことないそんなことない。課長、口は悪いけどさ、体育会系だから。へこたれずに懐に飛び込んでくると喜ぶから」
 ビール瓶まで渡されて拒み切れず、のろのろと飯田の陣取るテーブルに向かう。声をかける前から、飯田の左隣に座っていた上倉さんが気がついて「おっ藤野さん、ここ、どくから座って!」と席を立ってしまう。
 顔を赤くした飯田は既に目が半ば据わっており、暑いのかワイシャツのボタンをふたつ開けているのが気持ち悪かった。急いで膝をついて、飯田のグラスにビールを注ぐ。泡だらけの不格好な一杯だ。早々に立ち去ろうと思ったのに、一気にグラスを飲み干した飯田は、低い声で言った。
「藤野、お前、どうすんだよこれから」
 心臓がぎゅっとなった。業務中はさん付けで呼ばれるのは、昨今の風潮をんでいるのだろうが、宴席では呼び捨てだ。他の女子社員はさん付けのままだが、わたしだけ呼び捨て。
「……はい」
「七年目だっけ。七年目つったら立派な中堅だろ。そろそろ教わるんじゃなくて教える方の立場だろうが。このままじゃやばいっていう自覚あるわけ? お前見てるとさ、ビジョンとか全然伝わってこないわけよ。社会人として、これからどうなりたいって思ってんの?」
 膝の上の自分の拳に目を落とす。脇から冷や汗が噴き出てくるのを感じた。テーブルの他のメンバーは聞こえないふりをして、面白い動画の話題に花を咲かせている。
 このままじゃやばい、このままじゃやばい。
 確かにその通りだろう。しかしこれから会社でどうなりたいのか、自分でも全く分からない。とにかく営業部から逃げ出したいという一心しかなく、今後自分がまともな社会人になる前向きな『ビジョン』なんてとても描けない。
 言葉が見つからず絶句していると、飯田は鼻で笑った。
「まー、言うてさ、お前も女なわけだから、仕事できなくても結婚って道もあるかあ。そっちはどうなの」
 話がそちらに転がるとは思わず、まゆの辺りがぴくりとけいれんしてしまった。飯田にプライベートの話をしたことはない。
「結婚の予定はありません」
 小さな声で答えると、「彼氏とかは」と追い打ちがかかる。
「いえ、特には……」
「特には、ってなんだよ。いるかいないかだろ、特にもクソもねえだろうがよ。お前、そういうとこがいちいち駄目なんだよ」
「すみません」
 何を言っても裏目に出る。飯田は手酌でビールを注ぎながらぶつぶつ言った。
「あのさ、悪いけど、お前モテないの分かるよ。いやほんとごめんな、顔がブスとか言いたいんじゃなくてさ。いくら人は顔じゃねえって言ってもさ、にじみ出るだろう。内面がさ。生まれ持ってのいい容姿じゃなくても、人間的な魅力っていうのがあればいい女になるんだよ。ほら、キャバでもナンバーワンは意外とブスだったりするじゃん。それが、お前はどうだ。仕事も駄目だってのに、ウジウジジメジメしてて、人間性にもまるで魅力がない。そういうのが全部顔に出てるんだよ。だから男も寄ってこないんだ。ほら、俺のグラス空いてても気づかねえくらい気も利かないし。あ、このご時世だから、別に注げってんじゃないよ。強要とか言われるとめんどくせえからさあ。でもすかさず注ぐ奴は気が利くなって思うし、そういうもんの積み重ねだろ、人間関係って」
 すみませんと言うのも忘れ、わたしはただうつむいて座っていた。気がつくと、ほとんど無意識に心臓の上を押さえていた。
 聞こえないふりをしていた同じテーブルの誰かが、さすがにまずいと思ったのか「もー、課長~」とおどけてたしなめた。
「そんなこと言って、分かんないでしょう。藤野さんみたいな大人しそうな人こそ、意外な一面を持ってたりするもんですから」
「あー、夜はすごいとか? 分かる分かる」
「あ、駄目だ、それはセクハラ。アウトで~す!」
「あー、ごめん。それは悪かった! すまん、すまん。この通り」
 顔をてらてらと光らせた飯田は、手刀を切ってテーブルの面々にぺこぺこと頭を下げたが、わたしの方だけ向かなかった。わたしへのモラハラセクハラをびたのではなく、他のメンバーを不快にさせたことを詫びている。同僚は、わたしを助けたつもりなのか、「次はないっすよー」なんてへらへらしている。
 一滴も飲んでいないのに頭がぼうっとしてきた。心臓が痛い、脈が速い。
 惨めな気分だとか傷ついただとか、そういう段階はもう超えてしまったような気がする。何が痛いのか、なぜ痛いのかもよく分からなくなっていた。逃げ出したいのに、今ここから逃げ出したら二度と戻ってこられない気がする。正座している足はしびれてうまく動かない。
 落ち着け、とわたしは自分に言い聞かせた。冷静になるべきだ。
 仕事もできないし、人間性の魅力の無さが顔に出ているから、わたしにはいいところが一つもない。それは本当だろうか。
 幸いなことに、これがハラスメントだと思える冷静な理性がまだ残っている。同僚たちがわたしをかばってくれないのは、わたしが仕事ができないからだろうが、仕事ができなければ人権がないというわけではない。そうだ。わたしはこんなところで、こんな赤ら顔の中年男に人権を無視されていい人間ではないはずだ。こいつは間違っている。
 ……死ねばいいのに。
 ふいにその言葉が浮かんだ。
 そうだ。こんな奴死んだらいいんだ。お前なんか、死ねよ。飯田の横顔を見ながらそう唱えると、心が少しだけ楽になって、わたしは心臓から手を離した。
 
 
 それからどういう流れで飲み会がお開きになったのか、よく覚えていない。気がつけばわたしは自宅の最寄り駅を三駅乗り過ごし、初めて降りる駅のホームに立っていた。
 反対方向の電車に乗るには、ホームを移動しなくてはいけない。溜息をついて、のろのろ階段を下りると、駅舎の向かいにあるカフェチェーンの看板が目に入った。その途端、疲れて早く帰りたいと思っていたはずなのに、引き寄せられるように改札を出てしまった。
 見知らぬ駅前のロータリーは、牛丼屋やコンビニ、飲み屋などが雑然と並んでいて、通行人も多くにぎやかだったが、何だかすべてが作り物のように白々しい。ビルの隙間で押しつぶされそうな、妙に間口が狭いカフェに入ると、中もやはり狭苦しかった。一杯温かいコーヒーでも飲めば、少しリフレッシュになるだろうか。
 カウンターでホットコーヒーを買うと、壁際の椅子に座った。店の内装もすべてがなんとなくくすんでいて、全席禁煙の張り紙があるのに、煙草の臭いがする。何のリフレッシュにもなりはしない。なぜこんなところへ入ってしまったのか、やめればよかった。あんたんたる気持ちでコーヒーに口をつけると、隣の席に人が来た。
 店内はいているのに、なぜ席をひとつ空けてくれないのだろう。ちらりと顔をうかがうと、老婆だった。思わず見てしまう。
 顔中の深い皺に目が埋もれており、人間の皮膚というより木の皮のように見える。白髪はざんばらで腰のあたりまで伸びており、いろせた紫色のワンピースから棒のように細い手足が突き出ている。飲み物を持っていないが、カウンターで注文するシステムを知らないのだろうか。ホームレスかもしれないと思ったが、特に悪臭などはない。老婆が腰を下ろした瞬間、潮のような匂いを感じた。
 こっそり観察していたつもりだったのに、老婆がいきなりこちらを向いた。皺の中の白濁した目と目が合い、ぎょっとする。木の皮に入った切れ込みのような口が動いた。
「あんた、見てやろうか」
 しわがれて細い声だったが、何とか聞き取れた。
「え」
「わし、色々見えるで。手え握れば、そいつの皮の中身が見えるんやよ」
 自分の顔が引きるのを感じた。関わり合いになりたくない。九十歳も過ぎているように見えるが、きっと認知症が進行しているのだろう。コーヒーを飲み干して席を立とう、と思ったら、老婆は両手のひらを上に向けて、わたしに差し出した。
「手え」
「え、いや、無理です」
 顔の前で手を振ったのに、老婆は見た目から想像もつかない無駄のない動きで、すっとわたしの手を取った。反射的に振りほどこうとしたのに、精気を吸い取られたかのように体がかんし、動けなかった。口を開く気力すら湧かない。老婆の手は全く水気が無く、紙のような感触だったが、やたらと熱く、それだけがこの老婆は幽霊ではなく生きているのだと示していた。
「あれえ」
 老婆はうつむいて、ぶつぶつ言った。
「あんた、見た目より骨があるな。見込みがある。『死にたがり』やない。自分が死ぬより、ひとに死んで欲しがっとる」
 思わずどきりとして、その衝撃で手に力が戻る。慌てて老婆の手を振り払った。老婆はたじろぐわけでもなく、わたしではないどこか遠くを見ている。
「あんなあ、同じなあ、絶望のさなかにあっても、その矛先がおのれへ向くのんと他人へ向くのんがおる。他人へ向く方がええ。そっちのが健全や。顔見たらなあ、どうせ死にたがりやと思ったけどなあ、ええわ、そっちのが、ええわ」
 歯が足りていないのか、聞き取りづらい声で、もごもごと老婆は言った。
 わたしはそんなに死にたがっていそうな顔をしているのか。そう思ったら、ふいに先程の飯田の台詞せりふが頭によみがえった。
 仕事も駄目だってのに、ウジウジジメジメしてて、人間性にもまるで魅力がない。そういうのが全部顔に出てるんだよ。
 わたしは思わず両手で心臓を押さえた。手でわしづかみにされているかのように痛い。
「おお、おお、ろくでもねえ男やなあ」
 遠くを見たまま老婆はつぶやいた。皺が深すぎて、どんな表情をしているのかさっぱり分からない。手を握ってもいないのに、まるでわたしの頭の中を読んだようだった。
「自分のことを棚に上げて、好き勝手なこと言いよって、憎らしい。なるほど、あいつは死ねばええなあ。死ねばええ、死ねばええ。でもなあ、殺したらなあ、あんた、お上に捕まるからなあ」
 ぶつぶつ言いながら、老婆は足元に置いていた紙袋の中から何かを取り出して、テーブルの上に置いた。
 ひと目見た途端、背筋に悪寒が走った。
 それは陶磁器の人形だった。かなり年季が入ったもので、もとは黄土色だったようだが、全体が真っ黒になってくすんでいる。大きさは二十センチほどで、人形と判断したのはひとの形をかたどっているように見えたからだが、やっぱり違うかもしれない。頭らしきものはあるが、腕が一本欠けている。それに二本の脚ではなく、一つの大きな尻尾しつぽのような形になって、横に投げ出されている。尻尾のようなものにはうろこのような文様が刻まれ、尻尾の先は欠けているがひれがあったように思えた。
「人魚?」
 思わず声が出たが、老婆はそれには答えない。気付けばわたしは二の腕に触れていた。鳥肌が立っている。しようきというのか、邪悪な気配が人形から滲み出ているのを感じる。これはよくない。霊感などは皆無だが、これはまずいものだとはっきり分かる。
 であるのに、目が離せない。
 人形の顔は目鼻が無く、鏡面のように滑らかに光っていた。ない眼でじっと見つめられると、不気味である反面、何とも言えない愛着のような感情が自分の中に湧き始めて戸惑った。恐ろしくて気持ち悪いのに、懐かしいような、いとおしいような気さえする。これが愛おしいとは、一体どういうことなのか。自分でも信じられない。
「これ、あんたにやるから。割れもんやから気をつけな」
 老婆は、小さな子どもにするように、人形の背中らしいところを優しげにさすった。
「顔の所をな、両手の親指ででながらな、殺して欲しい人間の名前を言うんや。簡単やろ。でもやってくれるんは、ひとりだけやで」
 いらないと言って、席を立たなくては。
 分かっているのに、『いらない』という言葉が出てこない。
 わたしは人形を凝視したまま、口を何度もぱくぱくさせたり、つばを飲んだり、小さな深呼吸をしたりした。そうしているうちに、視界の隅で、老婆がゆっくりと立ち上がり、去って行くのが見えた。人形をテーブルに置いたまま。止める声も、やはり出て来ない。
 どのくらいの時間が経ったのか、やっと人形から目を離すことができて、わたしは目をつぶって溜息を吐いた。指先でまぶたを押さえる。
 冷めたコーヒーはもう飲む気がしない。そっと人形の胴体をつかんで持ち上げると、意外と冷たさがなく、ほんのりと温かく手になじむ。生きている、とあり得ないことを思う。いけない。魅入られる。
 いけないのに、ここに置いていくという選択肢がない。そのまま、トートバッグの中に入ってもらう。
 
 
 それから一週間、「とんでもなく良いものを手に入れた」という高揚感と「まずいことになったのでは」という恐怖がないまぜになって、落ち着かない日々を過ごした。
 正直に認めるが、人を殺すことができる道具を持っているということが、こんなに心強いことだとは知らなかった。
 奇妙な人形は、何も言わずにわたしの部屋のテレビ台の上に鎮座している。飯田にねちねち言われたり、仕事で失敗したりしても、家に帰れば人形があると思えば、少し胸の痛みが落ち着いた。お守りがわりにバタフライナイフを隠し持つ思春期の少年の気持ちが、初めて分かった気がする。
 お守り。そうだ、これはお守りだ。
 どんなにまずいものだったとしても、お守りとして持っているだけならば、無害だ。わたしにはまだ自分を理性の岸につなぎ留めたいという意思がある。
 しかし同時に、そんなにうまくいくものだろうか、という漠然とした恐れが常にまとわりついている。呪いの人形だなんてものをお守りにして、何事もないなどと、そんなことがあるだろうか。
 しゆんじゆんした挙句、わたしは人形について調べることにした。人形の処遇をこれからどうするか決めるにせよ、正体が分からなければどうしようもないだろう。一体これは何なのか。
 スマホで写真を撮って画像検索してもヒットはない。夜な夜な、仕事を終えてからネットで片っ端から呪いの人形の情報をあさったが、『呪いの人形』いうワードでは情報量がばくだいになる上、ごくありふれた都市伝説やオカルト動画ばかり出て来る。
 これが本当に人魚なのか分からないが、『人魚』というワードをそこに追加してみる。一気に出て来る情報が減ったが、出てきたページを片っ端からクリックしても、めぼしいものはない。いくつかのSNSでも同じように検索をかけてみると、ひとつ気になるものを見つけた。
 Xに登録された『もふじ@なにわのバイクのり』というアカウントで、プロフィールには関西在住のSEとある。アイコンが眼鏡をかけた青年のイラストだから、男性だろうか。   
 フォロワーは百人程度。他愛ない日常を呟いていたようだが、わたしの目に留まったのは十五年も前の投稿だった。
 
 20××年6月10日
 この週末は、バイクでほくりくいもの巡りの旅してきた!
 寿、ソースカツ丼、大満喫、大満足。
 雨も降らなかったし、海岸沿いを走ったら海がれいで最高。
 ●●浜のところにバイク停めて休憩してたら、地元のおばあちゃんに声かけられて、ちょっとおしゃべり。
 気に入られたんか、ヤバイ人形みたいなんもらってもうた(笑)
 や、ちょっと困る!(笑) なんやろ、これ。人魚っぽいけど。呪いの人形だったらどうしよう(笑)
 
 写真が添付されていた。ぼんやりした曇り空の下に広がるあいいろの海をバックに、男性の手が写っていて、何かを鷲摑みにしているようだ。その『何か』はほんの一部しか写っていないが、わたしがもらった人形の尾びれらしき部分に似ているような気がした。
 いいねは十個ほどついているものの、その投稿にリプライを寄せている人はいない。二日後、居酒屋ランチの写真をアップしたのを最後に、投稿は止まっている。もふじはもうこのアカウントを使っていないようだ。
 少し迷ったが、ダイレクトメッセージは受け取れる設定のようだったので、『詳しい話を聞きたい』という旨のメッセージを送信した。通知する設定にしているかは分からないし、返事がある望みは薄い。期待してはいけないと自分に言い聞かせた。
 
 
「藤野さん、ちょっと」
 朝八時、オフィスに入った途端、飯田が不機嫌そうに呼ぶ。わたしはかばんだけ自席に置いて、パソコンの電源をつける間もなく、課長席へ飛んで行く。
「来週の業務連絡会の草案、なんだこれ」
 わたしが昨日提出していた、代理店向けの業務連絡会用の資料を机に放る。放り出されるのとたたきつけられるのの中間くらいの乾いた音がした。
「はい、あの」
「何年目なんだよお前さあ。学生じゃねえんだから」
「すみません」
「あのさあ、とりあえず謝ればしのげるって思うのやめろよ」
 そこから十五分、延々と資料の駄目出しをされ、わたしは無表情で突っ立って聞いていた。胸にどんどんおりまっていく。飯田の説教の回数は日増しに多くなっている気がする。
 駄目出しの内容には、理不尽なものと理不尽でないものが交じっている。全てが理不尽というわけではないのがミソだ。全く文句のつけられる余地のないかんぺきな資料を作っていたのなら、きっとみんなわたしに同情するだろう。でもわたしはそこまで優秀ではない。
 社員が続々と出社してきて、幾人かは気づかわしげにこちらをちらりと見るが、恐らく思っているのは「かわいそうだけど、藤野ちゃん、仕事できないからなあ」だ。
 わたしが飯田のパワハラやセクハラを社内の倫理委員会に通報したら、課内では「課長も言い方は悪かったけど、まあ、藤野さんも藤野さんだよね」と白い眼で見られるだろう。部長にも煙たがれて、希望の異動は通らないだろう。たとえ飯田が処分されても、この社内のどこにもわたしの居場所はないのだ。
「聞いてんのかよ」
 飯田があきれたように言い、わたしは「はい」とうつむいた。神妙な表情のつもりだったのに、ほうけてみえるらしい。
「あのさあ、せめてシャキッとしろよ。お前がそうやって暗い顔でぶー垂れてるの見ると、こっちも気がってくるんだよ。くされてる場合じゃねえだろうが。仕事できねえならさあ、せめて愛想良くするとかさあ。自分に何ができるのか、もっとしんに考えたらどうなんだよ。お前、その意識の低さとか怠け根性とかが全部顔に出てんだよ」
 飯田の顔が正面から見られない。胸の辺りに視線をやりながら、わたしが考えていたのは、もちろんあの人形のことだった。
 死ねばいいのに。
 お守りのようにじゆを唱える。死ねばいいのに、死ねばいいのに。わたしがその気になれば、お前などいつでも殺せるんだから、あまり怒らせない方がいい……。
「お前、そんなんじゃ、どこ行っても駄目なまんまだぞ」
 飯田が吐き捨てるように言ったとき、ふと、課内の空気が変わったのを感じた。飯田がはっと目を見開く。わたしを飛び越えて向こうを見つめている。思わず振り向くと、わたしの背後にひとりの女性が立っていた。
 驚くほど美しい女性だった。ともすれば冷然として見えそうな、完璧な均整がとれた目鼻立ちだが、ほんの少し目尻を下げていて、それが柔和な雰囲気を作っている。栗色の長い髪を背に流して、質の良さそうなベージュのワンピースを着ており、全身がきらきらと光り輝いているように見えた。
「お話し中、申し訳ありません。わたし本日からこちらに配属になりました派遣社員のみようがたにです」
 鈴が清流を転がるような声で言って、頭を下げる。
「お世話になります。よろしくお願いいたします」
「あ、ああ……。そうだった、今日からか。よろしくね」
 ふんぞり返っていた飯田が姿勢を正し、椅子に座り直す。珍しく動揺したように手を握ったり開いたりしているのが見えた。
「えーと、太田さん。新しい派遣さんだ。色々説明してあげて」
「あ、はいはい」
 茗荷谷は太田さんに連れられて、ロッカールームの方へ消えていった。オフィスにいた全員が興味津々の様子で、彼女を目で追う。
「びっくりしたあ、すっごい美人」
「モデルみたい。なんで事務なんてやってるんだろう」
 男も女も老いも若きも浮足立っている。今月から産休に入る社員がいるので、新しい派遣社員が来ることは聞いていたが、まさかこんなに美しい女性が来るとは誰も予想していなかったのだ。
 飯田も毒気を抜かれたように「じゃ、よろしく」と呟いたので、わたしはやっと自席に戻ることができた。
 
 
 すいせいのごとく突如現れた美人派遣社員・茗荷谷は、たちまち課内のみならず部内の社員全員を魅了した。
 二十五歳、独身。なんといっても抜群に容姿が美しいが、仕事もミスがなくて正確。ぼうを鼻にかけるわけでもなく、性格も明るく気さく。まさに非の打ち所がない。
 社内に仲の良い人のいないわたしにもその程度の話はすぐに伝わるほど、彼女は人気者のようだった。ほとんどの男子社員は、パートナーがいるいないにかかわらずそわそわ落ち着かず、なんとか彼女の気をひこうと必死になっている。昼休みにはランチに誘おうとする男子社員で茗荷谷の席の周りは山盛りだ。しかしそういう男たちを追い払い、らしているのは女子社員たちである。
「ほんと、あなたたちは職場に何しに来てるの? 茗荷谷さんに迷惑でしょ」
「茗荷谷さん、ランチはわたしたちと行きましょうよ」
 女の敵は女だなんて知った顔で言いたがる男もいるが、あれは噓だ。茗荷谷にしつしていじめようとするような女子社員はいないようだった。性格が難しいといわれる古参の社員も、茗荷谷に話しかけられればうれしそうな顔をしている。わたしが話しかけてもほぼ無視だというのに。
 飯田も、もちろん茗荷谷を気に入り、ちょっとしたことでもおおに褒めそやしている。さすがに他の社員の前で大っぴらに誘ったりしている様子はないが、もしかしたら個人的にチャットやメールで何かしらモーションをかけているかもしれない。そうだ、セクハラで通報されないだろうか。わたしではなくて茗荷谷が被害を訴えたのなら、きっと皆、茗荷谷の味方をして上手くいくだろう。
 そんなことを考えながら、午後八時半のカフェでわたしはひとりパソコンを叩いて仕事をしていた。あの老婆に会ったカフェだ。ここならまた会えるのではと思い、会社帰りに何度か寄っているが、老婆には再会したことがない。
 しかし首尾よく老婆に会えたところで、わたしは一体どうするのだろう。あの人形の謎など、聞いたところで老婆は教えてくれまい。
 傍らに置いていたスマホが振動した。ちらりと見て目を見開く。Xのダイレクトメッセージが届いていた。心当たりと言えば、もふじしかいない。はやる気持ちを抑えて画面を開いた。表示されていたのはやはりもふじのアイコンだった。
 
 ――このアカウントを使っていたものの身内です。
 ――アカウント主は、最後の投稿日に亡くなっています。
 ――ですので、あなたのご質問にはお答えできません。
 
 吹き出しに素っ気ない文面が並んでいる。わたしはほうと息を吐いた。無視しても良いのにわざわざ返信をくれたとは、義理堅い遺族だ。
 もふじは亡くなっていた。十五年も経っているのだから不思議ではないが、最後の投稿日に亡くなった、というのが引っ掛かる。
 もふじの最後の投稿は、居酒屋ランチの写真だった。はしぶくろに印刷されたチェーン店の名前が写り込んでいる。わたしはパソコンの画面に映していた仕事の資料を閉じ、その店名と日付を検索エンジンに打ち込んでみた。しばらく色々な方法で試していると、数件ヒットする。引っ掛かったのは過去に大型掲示板にたてられていたスレッドのログで、「ジャンル・都市伝説」の記載がある。
 
 居酒屋××変死事件
 20××年6月12日、居酒屋××の●●店で、男性客が不審死。
 新聞記事にもなってないが、そこに居合わせたツレから聞いたから、間違いない。
 ランチの時間帯、ひとりで食事していた男性客が、急に苦しみ出して倒れた。
 店内はもちろん騒然。
 その客は顔が真っ白になってて、しばらく見てたら、みるみるうちにむくんで膨らみ出して、パンパンになった。
 顔だけじゃなくて、手とかも膨らんでて。目がぐるんってなって、白目むいて。
 まるで水死体みたいに。
 店員が救急車呼んだけど、誰がどう見ても手遅れ。
 後から聞いた話だけど、死因はでき。胃の中は海水で一杯だったらしい。
 ……直前まで、唐揚げ定食食べてたのに。
 
『怖い』『なかなかリアリティあるな』という好意的なレスもあったが、『つまんね』『雑過ぎる』『なんで居酒屋で居合わせただけなのに、後から死因分かるんだよ』というごもっともな文句もつけられている。スレッド主がこたえなかったこともあってか、スレッドはほとんど伸びていない。
 わたしはその投稿を何度も目でなぞった。この日にこの居酒屋で亡くなった人がいたというのが事実ならば、変死した人物はもふじである可能性が高い。あの投稿をした直後に死んでいたのかもしれない。そう考えると背筋がうっすら寒くなったが、よく分からない。もふじはあの人形をもらった方の人間だ。呪われた方ではない。なぜ死んだのだろう。
 死因が溺死だったというのも、本当のことだろうか。誰かがレスしていた通り、居合わせただけの人間がそんなことを知ることができるとは考えづらいから、創作だろうか。しかし創作にしてはいやに唐突だし、第一あまり面白くない。
 もふじが投稿していた日本海の写真を思い出す。彼は海辺であの人形をもらったのだ。
 人を呪わば穴二つ。
 その言葉が脳裏に浮かんだ。因果応報だ。古今東西、呪いにまつわる民話やぐうは膨大にあるが、ほとんどの話で、呪った側である人間もまた不幸な最期を遂げる。あの人形にもそのようなルールがあるのではないだろうか。
 つまり、もふじはあの人形を使って、誰かを呪い、そして自分も命を落としたのではないか。
 ごくりと自分が唾を飲む音がやたらと大きく聞こえた。なぜそんな当たり前のことに気がつかなかったのだろう。あのいかにも怪しげな老婆が、親切心でわたしに人形をくれたはずがない。きっとあの老婆は、人を呪った人間が自滅するのを見て楽しむ、魔女のような存在なのだ。
 考え事に夢中になっていたわたしは、隣のテーブルの椅子がひかれる音で我に返った。あの老婆が座った席だ。
 はじかれるように顔をあげたが、目が合った相手は老婆ではなく、麗しい美女だった。
 派遣社員の茗荷谷。
「あら藤野さん、こんばんは」
 茗荷谷はわたしを見下ろし、穏やかに微笑んだ。アイスラテのグラスをテーブルに置き、トレンチコートを脱ぐ姿に、向こうの席で勉強していた学生がうっとりと見とれている。気がつけば客が増えて、店内は半分ほど埋まっていた。
「茗荷谷、さん」
「こんなところで会うなんて、奇遇ですね。おうちはこのあたりなんですか?」
「あ、いえ……。別に」
 動揺を隠しきれず目が泳いでしまい、慌ててうつむいた。さぞかし挙動不審だろう。しかし茗荷谷と直接会話を交わすのは初めてだったし、彼女がわたしの名前と顔が一致するとは思っていなかった。
 茗荷谷は気にする様子もなく、ラテをストローでくるくる混ぜる。
「そうなんですか、わたし割とここ来るんですよ。近くに行きつけのシーシャバーがあって、そこ行くついでに。藤野さん、シーシャって知ってます?」
「い、いいえ」
「シーシャってね、水煙草のことですよ。最近ってるっていうから、一度行ってみたら案外面白くて。良かったら藤野さんも一回行ってみてくださいよ。わたし、一緒に行ってもいいですし」
 表情はあまり動いていなかったが、わたしが気の置けない同僚かのようにぺらぺらしやべる茗荷谷に、わたしはすっかりされていた。コミュニケーション能力の高さがまぶしい。彼女がこんなに堂々と喋れるのは、自分が圧倒的美人だという自覚があるせいだろう。嫌われるはずがないと思っているから、おくさず振舞えるのだ。
 茗荷谷はストローに口をつけた。「わたしこれ好きなんですよね、塩キャラメルラテ」と呟くが、心底どうでも良かったので、わたしは返事をしない。茗荷谷は歌うように弾んだ口調で言った。
「もし良かったら、藤野さんも趣味とか教えてくれませんか」
 わたしは戸惑った。そんなことまるで興味がないだろうに、社交辞令なんて言わなくて良いのに。
「あいにく無趣味で……」
「最近ちょっと気になってるとかそんなレベルでいいんですよ」
「別に特に……」
 答えながら、我ながら自分のつまらなさにへきえきする。こういうときに気の利いた面白いことを言える女だったなら、きっとこんな苦労をしていない。
「ふうん。では何ですか、日々特に楽しいこともなく、ただ生きてるだけなんですか」
 わたしは返事の代わりに重苦しい息を吐きだした。とうとう入職直後の派遣社員にすら馬鹿にされるようになったのだ。ここは会社でも、付き合い飲み会の会場でもないのに、さっさと席を立つこともできない。
 茗荷谷は黙っているわたしを見やると、ひようひようと言った。
「気を悪くされたならすみません。藤野さん、わたしはそれが良くないって言ってるんじゃないんですよ。ただ日々を生きている、それはそれで面白いじゃないですか。わたしとは違うから、どのような思考なのか気になります。わたし、色んな人の考えてることとか、好きなこととか生き方とか、興味あるんですよ。他人に興味があるんです」
 わたしは茗荷谷の目を見た。澄み切っている。
 が出る、と思った。なんてごうまんでいやな女だろう。他人に興味があるなどとうそぶいて、ほとんど初対面で根掘り葉掘りプライベートをほじくって面白がる。何様のつもりなのだ。今まで美人だから許されてきたのかもしれないが、あまりに下品だ。茗荷谷は意に介した様子もなく、ラテをすすっている。
「藤野さん、わたしのこと傲慢だと思ってますね」
「……いいえ」
「いいんですよ。それもそういう風に感じる人もいるんだな、って勉強になります。面白い。わたし、人間が好きなだけなんです。だから藤野さんのこと、もっと教えてください」
 ふつふつと自分のはらわたが煮える音を聞きながら、飯田に人間的魅力が外面に滲み出ると言われたことを思い出した。茗荷谷の魅惑的な顔は、彼女の内面の魅力が滲み出たものだというのか。こんなの、ただの傍若無人で非常識な女じゃないか。
「茗荷谷さん、『好奇心は猫をも殺す』っていうことわざを知ってますか」
 わたしが小さな声で言うと、茗荷谷は目を半月のように細めて楽しそうに笑った。歯並びも完璧のように見えて、唯一右の八重歯がとがって目立っており、そのアンバランスさが彼女の笑顔をより一層魅惑的に見せる。
「もちろんですよ。イギリスの古いことわざですね。猫は九つの命があると言われているけれど、不用意な好奇心で色んなことに首を突っ込むのは、その猫すら死んでしまうくらいに危険なことだという意味です。……ふふふ。何ですか藤野さん、わたしが好奇心を持ってあなたのことを根掘り葉掘り聞きたがるのは危険なことだっていうんですか。ずいぶん可愛らしいことおつしやいますね」
「呪いの人形を手に入れたんですよ」
 気がつけば口を滑らせていた。茗荷谷は笑った顔のまま、ぴたりと止まった。
「呪いの人形?」
「ある人に、もらったんです。それを使えば誰でも殺せるらしいんです。わたしが今一番興味あるのはその人形のことですよ」
 調子に乗っている茗荷谷に、一発らわせてやりたかった。それだけだった。職場で言いふらされるかもしれないと思ったが、あまりに業腹だったので、もう何でもいい、と投げやりになっていた。しかし、茗荷谷は少し考えていたものの、気味悪がる様子はまるでなく、天使のように小首をかしげて微笑んだ。
「やっぱり藤野さんはとっても面白いですね。ね、やっぱり、面白くない人間なんていませんよ。誰を殺してもらうか、もう決めてるんですか」
 わたしも笑ってみせようとしたが、唇の端がいびつにり上がっただけだった。茗荷谷はどんな変人にも物おじしない自分カッコイイ、とでも思っているのだろう。安全圏から貧者に施す特権階級のつもりなのだ。ますます腹が立つ。
「まだ決めてませんよ。誰でも殺せるらしいんで、茗荷谷さんを殺すつもりだったらどうします」
 確かに自分の口が動いているのに、声が遠いところから響いてくるような気がした。やけに粘っこくて、茗荷谷とは対照的な不快で醜い声だった。
「あらー、怖い」
 茗荷谷は楽しそうに笑った。
「ねえ藤野さん、わたしもその人形が見てみたいです。今度会社に持ってきてくれませんか。それかわたしがおうちに遊びに行くのでもいいですけど」
「いやです」
「ええ、仲良くしてくださいよ、藤野さん。下の名前はさんでしたっけ? 依里さんって呼んでいいですか? え、駄目?」
 茗荷谷はわたしの顔をのぞき込むように見てくる。全てのパーツが完璧な配置で収まっていて、この世のものではないような美しい顔だった。美しければ美しいほど、醜い感情がわたしの奥から際限なく湧いてくる。断じて嫉妬ではない。ただの運の良さで得た容姿の上に胡坐あぐらをかく高慢が気に入らないのだ。
 本当に、この女、どうしてやろうか。
 わたしの心中を気にする様子などじんも見せず、茗荷谷はえんぜんと微笑んだ。
「わたしの名前は茗荷谷です。どうぞ気軽にユミコって呼んでくださいね」
 
 
 茗荷谷のことは不愉快だったが、あんな女に構っている場合ではないと思い直した。そうそうにカフェを出て、帰宅してスマホをいじる。
 ――失礼なことをお聞きしますが、もふじさんの亡くなる前に、もふじさんの周りで他にも亡くなった方はいませんでしたか?
 もふじのアカウントから返信してくれた彼の遺族に聞いてみたが、それに対する返事はなかなかこなかった。気づいていないのか、訳の分からないことを聞かれてうんざりしているのだろうか。しかし、あきらめかけた頃に返信が届いた。
 ――なんでそんなことを聞くんですか。
 はやる気持ちを抑え、細い糸が途切れないように、迷いながらも慎重に打ち込む。
 ――もふじさんがもらったという人形と似たものを最近手に入れたので、色々と調べています。
 それに対する返信は早かった。こちらで話しませんか、と別のアプリのアカウントのURLが貼られている。アカウントの名前はAriel。通話ができるアプリらしい。深夜だったが起きていて良かったと思いながら、急いでそのアプリのアカウントを作成した。電話は苦手だったが、そんなことを主張できる立場ではない。
「もふじはわたしの兄です」
 通話が繫がると、相手はあいさつもそこそこにそう切り出した。三十代半ばとおぼしき落ち着いた女性の声だったが、警戒心が滲むようにこわっていた。
「いましたよ、兄の周りで死んだ人。兄が死んだ前日に」
「本当ですか」
 思わず声が大きくなったが、わたしの台詞を遮るようにArielは早口で言った。
「死んだのは、わたしの人生をめちゃくちゃにした男です」
「えっ」
「わたしが高校生のときに通ってた塾の講師です。あいつのせいで、あいつのせいで、わたしは外に出られなくなって、大学受験もできなくなって、ろくな就職もできなくて。警察にも行ったのに、大した捜査もしてくれなくて、泣き寝入りして。両親も、兄も、一緒に怒ってくれたけど、どうしようもなくて。あいつは何ひとつ反省せずにのうのうと、別の塾で変わらずに女子高生に教えてて、放っといたら、わたし以外にもきっと、被害に遭う女の子が」
「え、え」
 Arielは感情を押し殺すように早口でまくし立てる。その勢いについていけず、わたしは間抜けな声を出すことしかできなかった。
「そして十五年前のあの日、唐突に、あいつは死んだんです」
 呼吸を整えるためなのか沈黙が少しあり、のどに引っ掛かるような音がした。笑ったらしい。
「職場の塾の講師部屋で仕事をしてるときに、いきなり、悲鳴をあげたそうです。かんを押さえて、真っ青な顔で泡を吹いて倒れて、ズボンが血で真っ赤になっていて。救急車で運ばれたけど、ショック死状態だったそうですよ。なんでも、アレが食いちぎられたみたいにズタズタになって取れちゃってたそうです。うふ、ふ、ふ」
 彼女はその日の夜、地元を離れてひとり暮らししていた兄のもふじからの電話でそれを知った。もふじは大喜びではしゃいでいたという。
「天罰ってあるんだな、って上機嫌でした。週末海に行ったときに、知らない人にいいものをもらったんだ、って言ってました。信じてなんかいなかったけど、死んでいい人間って言ったらあいつだろ、って、試してみたら本当に上手くいったって。わたしはびっくりして……、まさか、兄が自分の手で、って疑いましたけど、聞けば聞くほど、不可能でしょう。あんなこと、人間にできるはずがない」
 混乱したArielは、もふじからもっと詳しいことを聞き出そうとしたが、はぐらかされ、通話を切られたと言う。
「兄が死んだのは次の日です。昼食を取っているときに倒れて、海にも行っていないのに死因は海水による溺死だったそうです。警察はもちろん、どちらの件も捜査してましたけど、いつの間にか事故ということになって打ち切られました」
 つまり、あの掲示板の書き込みは真実だったらしい。Arielは低い声で続けた。
「SNSで人形をもらったときのことに触れているのには、しばらくしてから気がつきました。ああ、これのことだったのか、って。でも兄の遺品に人形のようなものはありませんでしたし、信じきれなくて、わたしはこの話を誰にもしていません。……あなた、ほんとにあの人形を手に入れたんですか」
「はい……」
「誰かを殺すつもりなんですか?」
 すぐに返事をすることができなかった。Arielの思惑を測りかねていた。闇にうごめく小動物のようなかすかな息遣いが、電話口の向こうから伝わってくる。
「……それはまだ分かりません」
「でもそうしたいから調べたんでしょう。そして自分も兄みたいに死ぬのが怖くなったでしょう?」
 わたしはごくりと唾を飲む。図星だった。
 Arielの話が本当なら、もふじは死ぬのが当然の鬼畜のような人間を殺した。しかも自分のエゴや利益のためではなく、妹の人生を奪ったふくしゆうだ。それでもあの人形は何の考慮もせず、きっちりと、もふじに呪いを返したのだ。飯田がどんなにくそのような人間でも、わたしが奴を呪えば、呪い返しを免れることはできないのだろう。
 しかしそんなことをArielに言っても仕方がない。わたしは唇をめて湿らせた。
「あなたは、どうしてわざわざ電話までして、わたしにこのことを教えてくれたんですか」
「それはもちろん、早まらない方がいいと言うためですよ。人を呪っていいのは、同じ穴に落ちる覚悟のある人間だけです。兄はそのことをよく考えずに安易に手を出してしまった。わたしは今でも、時を巻き戻すことができたならば、と思うことがあります。兄に使わせずに、わたしがその人形を手に入れることができたなら……。わたしは死ぬことになっても全く構わなかったのに」
 へいたんだったArielの声が揺れ、少し湿ったものが混じったような気がした。Arielはひどく不幸な経験をしながら、兄の愛情に生かされて助かったのだ。わたしに忠告をしてくれたということは、彼女も性根が善良なのだろう。きっと仲の良い兄妹だったのだろうに、と思うと胸が痛んだ。
「でも、あの、きっとお兄さんはArielさんに生きて欲しかったんでしょうから。……今Arielさんは幸せに暮らしているんでしょうか」
 思わずそんなことを聞いてしまったのは、もふじが自分の命をして妹を守ったがあったのだと、報われたのだと、確かめたかったからだった。しかし、Arielは黙りこんでしまった。重苦しい沈黙が降りる。
「えっと」
「わたしは仕事も恋愛もろくに続いたためしがありません。自殺衝動が消えなくて、精神科に通院してます。今でも死にたい」
 Arielは低い声で淡々と言った。不味いことを聞いてしまったようだ。
「あ、それは、大変な……。あの、軽はずみに、すみません」
「言ったでしょう。今でも、時を巻き戻すことができたならば、って」
 その声は思わず身震いするほど冷え込んでいて、黒い海の底をすくっているような感覚に陥る。
「時を戻すことができたならば、わたしは兄を呪い殺したのに」
 気がつけば心臓の上に手を当てていた。やけに、息苦しい。
「今でもわたしはあの人にとらわれて逃げ出すことができないの。兄は中学生になった頃からずっと、妹のわたしをおもちゃにして突っつきまわして汚らしいことをして、そして自分と同じことをした他の男を呪い殺して、わたしを深い海の底に閉じ込めたまま、逃げるように死んでしまった。わたしはわたしはわたしは、自分で兄を殺さなくちゃいけなかった。そうして死ぬべきだった。そうでしょう、わたしが呪える相手はもういないの。わたしは今でもずっとずっと生きながら死んでいるの。だからわたしは、あなたが、うらやましい」
 わたしの返事を待たずに、ぶつりと通話が切れた。
 電子音をたっぷり一分間聞いて、ようやく耳からスマホを離す。Arielの声はあんなに冷たかったのに、スマホは対照的に熱を発していて、耳にじっとりと汗をかいていた。ティッシュで画面をぬぐう。
 時刻を見るともう日付が変わっていた。強い疲労を感じてベッドにあおけになったが、頭は興奮状態で眠気は寄ってこない。
 わたしは寝転んだままゆっくりと頭を動かし、視線を移した。狭いワンルームの中で、どこにいてもそれは目に入れることができる。
 テレビ台の端に、尻尾を折り曲げた人魚の人形が座っている。人魚の顔はない。よく磨かれた鏡面のようにつるりとしている。元々顔を持たないのだろうと思い込んでいたが、もしかすると、長い年月をかけて数多あまたの人の手に渡り、数多の呪いを聞き入れ、こすられるうちに顔がなくなったのかもしれない。そうだとすると、一体どのくらいの人間が死んだのか。
 しかし、不思議と恐ろしいという感情は湧いてこなかった。初めて見たときに恐ろしいと感じた瘴気すら、同居するうちにわたしの体にしっくりとんでいくのを感じていた。この人形はわたしのお守りだ。Arielの話をそうだと感じたのに、同時に効果が実証されたことを喜ばしく思う気持ちもある。
 あなたが、羨ましい。
 冷水のような声が脳裏にこびりついている。
 彼女は、呪える相手がまだ生きているわたしが羨ましいと言ったのだ。忌まわしい相手を清算し、自分の人生に幕を引くことができるわたしが、羨ましいと言うのだ。
 顔も知らないArielが、黒い海の底に沈められた鉄のおりにひとり閉じ込められているところが思い浮かぶ。彼女はいまだに兄に囚われているのだろう。
 飯田は死ねば良い。でも飯田を殺して自分も死ぬなんてそんなのごめんだ。そんなことするくらいなら、オフィスの浄水器に猛毒を入れて同僚を全員殺して、警察に捕まる前に自分も自殺すれば良い。どうせ死ぬなら、そっちの方がたくさん殺せてお得だ。そうだ、そうすれば茗荷谷も一緒に殺せるし。
 そう思って、はたと気がついた。
 もふじはArielを暴行した男を殺して、自分も死んでしまった。普通に考えれば、Arielにとってはこれ以上ない幸運なのだ。憎らしい人間が一度で片付いて自分は無傷なのだから。
 それと一緒だ。茗荷谷に飯田を殺してもらえばいいのではないか。あのふたりが死んでしまっても、わたしはArielみたいに海底に囚われたりすることはない。
 茗荷谷に死んで欲しいと思うほどの強い恨みがあるかと言われれば、それほどではないし、申し訳ない気もするが、好奇心は猫をも殺すのだ。あの容姿で今までさんざんいい思いをして、世の中の辛酸をめずに済んだのだから、人より少し早めに生を終わりにしたところで、とんとんなのではないだろうか。
 胸のつかえがすっと下りた気がした。知らず知らずのうちに口角が上がっている。
 わたしは目を閉じた。今日はよく眠れそうだと思った。
 
 
 しかし物事はそう上手くいくものではなかった。
「ねえ茗荷谷さん」
「茗荷谷さん、ちょっとこれ見てくれる」
「茗荷谷さん」
 自席でキーボードを叩きながら、茗荷谷がひらひらとシマの合間を動き回るのを横目で観察する。派遣社員は社員のアシスト的な業務をしているので、茗荷谷と喋りたいがために、特に意味もなく呼ぶ社員が多い。他の課の人間も何かと理由をつけてやって来るので、茗荷谷が来てからオフィスに無駄な活気が出た。
「茗荷谷さん、忙しくて大変ですね」
 トイレで会ったので話し掛けてみると、茗荷谷は筆に取った口紅を唇に載せようとしていた手を止めて、鏡越しに微笑んだ。
「そうでもないですよ。ここの職場はまともな人が多いですし、快適です。大きい会社の方がいいですね、やっぱり」
「でも、どこでだって茗荷谷さんは優しくされるでしょう」
 思わず皮肉ってしまったが、茗荷谷はそんなことで動じない。
「そう見えるかもしれませんけど、そうでもないんですよ。お嫁さん候補扱いして、ちゃんと仕事をやらせてくれるところ自体が少ないんです。令和の話ですよ。女性は容姿と性器さえあればいいと思っている人は男女問わずいますし、下品で残酷なことを言うのが楽しいコミュニケーションだと勘違いしている人も未だにいます。どんなに美人でも子どもを産まなければ価値がないとか、美しいのに無防備な女は犯されても文句は言えないだとか、どれだけあてこすられて来たか。ナンパだのストーカーだのに監禁されそうになったり殺されそうになることも、しょっちゅうありますよ。バーでお酒に薬を入れられたりね、日常茶飯事です。ま、わたしに薬なんて効きませんけど」
 ケロリとした顔をしているが、こちらがたじろいでしまう。
「美人は大変ですね」
「どうでしょう、不美人は不美人でひどい扱いを受けたりしますからね」
 鏡の中の自分と目が合う。生気に欠けた、ぞっとするようなひどい顔だと思った。
 わたしのもともとの顔立ちはごく平凡で、美人でも不美人でもないと思う。化粧を勉強すれば綺麗になると言われたこともある。しかし、そう、何をやっても、人間的魅力の無さが顔に出ている。
「でもまあ、ここ数十年で人の価値観もだいぶ変わってきましたね。良いとか悪いとかじゃなくて、変わっただけ。面白いですね人間は」
 何が面白いのか全く分からない。茗荷谷は涼しい顔で口紅を塗っている。そうしているだけで化粧品のポスターになりそうだ。
「そんなことより藤野さん、呪いの人形見せてくれるって話はどうなったんです」
 やはり来た。
「見せるとは言ってませんけど」
 軽々しく茗荷谷に人形の話をしてしまったことは失敗だった。どうやったら人形の力が発動するのかまでは言っていなかったが、ちょっとこの人形のこのあたりを擦って課長の名前を言ってみてください、なんてやったら、茗荷谷は何をさせられようとしているのか、すぐに勘づいてしまうだろう。
「大事なものなので、やっぱり外へ持ち出すのは抵抗があります。今度うちに来ますか」
 部屋でふたりきりだったら誤魔化しようがあるかもしれない。少し手を考えよう。わたしの言葉に、茗荷谷の顔が意外なほどぱっと輝いた。
「ほんとに? いいんですか」
「でも人に言わないでくださいね。変な噂になったらいやだから」
「もちろんです。藤野さんのおうちにあげてもらえるなんて嬉しい。ケーキ買っていきますね。この前しい塩レモンケーキのあるケーキ屋さんを見つけたんです。お好きかしら」
「気を遣わないでください」
 茗荷谷は人形が見られるということより、わたしの家に来られることを喜んでいるように見えた。どうしてこんなに喜ぶのだろう。他の同僚は誰でも、茗荷谷が家へ遊びに行きたいと言えば喜んで招き入れてくれるだろうに。わたしに特別な関心があるというのだろうか。
 茗荷谷と別れ、用を足してからオフィスに戻ると、ちょうどデスクの電話が鳴った。わたしはいい年して電話が苦手で、ベルの音を聞くだけで胸がキュッとなってしまう。
「藤野です」
「藤野さん、波多野工業のたどころです」
 遠慮がちな中年女性の声がする。波多野工業の総務の田所さんだ。穏やかで親切な人だが、いつもより声のトーンが弱々しいのが気になった。
「田所さん、お世話になっております」
「あの、ちょっとお話が」
 田所さんは小さく息を吸って、覚悟を決めたように「来月の自動車保険の更新、他社でお願いすることになりました」と一息に言った。
 文字通り絶句したわたしは、しばらく呼吸を忘れた。一気に血の気が足元に落ちて、一瞬意識が遠のきかける。椅子に座っていて良かった、などとどうでも良いことを思う。
 波多野工業の自動車保険の年間保険料は五百万円で、来月この課が保有する契約の中で一番の大口だった。数十年ずっと当社で更新され続けていて、もちろん予算に見込んでいる。これが計上されなければ、課はおろか、営業部全体の成績が大きく揺らぐ。この契約がなくなることは絶対に許されない。
「え、あ、なぜ」
 つっかえながら間抜けな声しか絞り出せなかった。田所さんはバツが悪そうにもじもじ言う。
「本当、ごめんなさいね。藤野さんも頑張ってるのに、こんなこと言いたくないんだけどね。こないだの従業員の団体傷害保険の申込書、ちょっとミスがあったじゃない」
「ミス……」
「ちょっとね、まあそういうこともあったし。社長がね、今後も見据えてね、他の会社とのお付き合いも考えたいかなって」
 確かに、先週更新だった傷害保険の書類で、なついんを一か所もらい忘れた箇所があり、次の日にもう一度社長にもらいに行った。しかし、ただそれだけだ。書類のミスなんて、日常的によくある。保険料を間違えたわけでもないし、顧客側に大きな手間を取らせたわけではない。今まで数十年の付き合いの中で、もっととんでもないミスはきっとたくさんあったはずだ。どう考えても、ただの口実だ。
 受話器を持ったまま、思わず課長席を見た。飯田がけんのんな表情でパソコンを眺めている。日に焼けた額が蛍光灯の下でてらてら光っていた。機嫌が悪そうだ。心臓が針金で締められたかのようにぎゅううと痛んだ。
 課の成績も部の成績も、心底どうでもいい。自分が怒られることだけが怖い。
 頭の中で億千の言い訳を展開させたが、最悪の事態を回避するルートが見つけられない。飯田には人格の全てを否定する勢いでとうされるだろう。課内中に無視され陰口を言われ、陰湿ないやがらせを受けるかもしれない。人事評価などはどのみちあてにしていないが、地方に異動になるかもしれない。南の果てか北の果てか、そこはここよりもっとひどいところかもしれない。
 どう答えたかよく分からないまま、気がつくと電話は切れていた。わたしは強く心臓を押さえた。心筋こうそくで倒れて救急搬送されれば、さすがに怒られないで済むのではないだろうか。しかしそんなことは起こるはずもない。どうしよう、どうすれば。
 パニックになりかけた頭に、ぱっとその考えは浮上した。
 そうだ、飯田に報告する前に殺せばいいのではないだろうか。
 その思い付きは闇の中に射した一筋の光のごとく、鮮烈にわたしを照らした。わたしがタイミングよく心筋梗塞を起こすことはないが、飯田に死んでもらうことはできる。だってわたしは呪いの人形を持っているから。少なくとも飯田に怒られることはなくなるし、社内で派手に変死してくれれば大騒ぎになって、部長などもそれどころではなくなるだろう。
 そうとなれば、急がなくては。
 波多野工業の社長から、直接飯田に連絡があるかもしれない。すぐに茗荷谷をわたしの家に連れて行き、何とかして飯田を殺させるのだ。うまくいけば、飯田が帰宅する前に間に合って、社内で死んでくれるかもしれない。そうすればより騒ぎが大きくなるだろう。
 焦ったわたしがノートパソコンを閉じたとき、耳元でせせらぎのような軽やかな声がした。
「藤野さん」
 はっとして振り向くと、茗荷谷が立っていた。体の前で両手の指を組み、微笑んで小首をかしげている。
「は、はい」
「何か困ったことが起きましたか。汗かいてますよ」
 喉はカラカラだったがごくりと唾を飲み、手の甲で額を拭った。
「大丈夫です。それより茗荷谷さん、いいところに。今日これからの予定……」
「大丈夫じゃないと思います」
 茗荷谷は小さな声で囁いた。
「大口の契約が落ちそうなんですか」
「えっ」
 弾かれるように顔をあげた。茗荷谷の席はだいぶ離れていて、わたしはほとんど何も喋っていないし、電話の向こう側の田所さんの声が聞こえたはずがない。茗荷谷は腰をかがめ、わたしだけに聞こえるように早口で言った。
「もし落ちてしまったとしても、仕方がないです。商売なんですから。たまたま担当だった藤野さんのせいじゃありませんよ。それより黙っている方がまずいです。サラリーマンに大切なのはホウレンソウって言うでしょ? 昔から。課長に報告しに行きましょう」
「え、いや、そんなこと」
「大丈夫です、わたしが上手くフォローしますから」
 澄み切ったひとみに真っ直ぐ見つめられ、わたしは魔法にかかったように、よろよろと立ち上がった。スポンジの上を歩くような足取りで飯田の前に出ると、げんそうな目線を向けられる。
「何、藤野さん」
「波多野工業の自動車保険フリート、他社で更新すると連絡がありました」
 ぴたと動きを止めた飯田の顔がみるみるうちに真っ赤になった。こめかみのあたりに筋が何本も浮き上がり、大きく口を開け、息を吸う。来る、と思ったせつ、絶妙なタイミングで茗荷谷が「あの」と口を挟んだ。出鼻をくじかれた飯田に、茗荷谷は優雅な動きで頭を下げた。
「申し訳ありません。先週の書類不備の件を先方の口実にされてしまいました。捺印箇所にはお客さまが分かりやすいようせんもつけていますから、本来こちらの不手際ではないのですけれど。先週田所さんとお電話でお話ししたときに、他社の新しい営業が社長室に入り浸ってて何してるんだか、ってこぼしてましたから、もしかしたら社長の個人的なご意向があったのではないでしょうか」
 勢いをがれた飯田は、それでも口の端をぶるぶる震わせ、凄い形相でわたしをにらんできた。
「新規の営業に抜かれたってことかよ。何やってんだ藤野ぉ……」
「社長とお会いする機会は飯田課長の方が多かったんじゃありませんか。何か仰ってたとか、ありませんでしたか」
 茗荷谷がやんわりと言う。オフィスに残っていた社員も皆、かたんでこちらに注目していた。
 波多野工業は重要な取引先だから、課長自ら社長と繫がりを持つようにしていた。原因が社長の心変わりというのであれば、むしろわたしよりも飯田の落ち度の方が大きいと言えるのではないか。それでも、わたしが同じことを口にすれば怒鳴られるだろう。
 しかし飯田はただ赤い顔をして口を結んだ。茗荷谷は涼しげな顔でつらつらと続ける。
「波多野さんは何十年も我が社とお付き合いのあったお客さまだと聞いています。確かにあちらがお客さまではありますけども、こちらは保険金をお支払いしておりますから、そういう不義理が簡単に許される業界ではございませんでしょ。すぐに社長に会いに行かれます? とりあえず、出せるだけの保険金の支払履歴をプリントしましょうか」
「……頼む」
 絞り出すような声で飯田が言った。拳を握った手が、小刻みに震えている。
「アポ取らずにすぐに行くから」
「承知しました」
 茗荷谷がさっさと自席に戻っていく後姿をわたしはただぼうぜんと見ていた。一本の木のように背筋の真っ直ぐ伸びた背中は、表しようがないほど美しかった。
 この場にいる全員が魔法に掛けられたように、茗荷谷を見ていた。オフィス全体に何かの粉を振りかけられたように、皆、茗荷谷の魔力に痺れている。
 
 
 結局、波多野工業の自動車保険はうちで更新された。
 飯田が波多野社長を脅したのか土下座したのか、それよりもっと非人道的な方法を取ったのか、分からない。とにかく何とかして契約を守り抜き、部長にも報告せずに済んだようだ。
 しかも、わたしが飯田に罵倒されることもなかった。飯田はあれからげっそりと疲れ果てていて、わたしをサンドバッグにしようという気力すら湧かないようだった。
「波多野工業の件、良かったね」
 残業でたまたまオフィスにふたりきりになったときに、次席の上倉さんが言った。肥満の上倉さんは、八時を回っているのに、甘い缶コーヒーと菓子パンを頰張っている。
「わたし、何が何だか分からないうちに」
「僕も課長から漏れ聞いただけだけど、他社の営業の色仕掛けだったみたいだよ。枕営業ってやつ? 美人でも若くもない、普通のおばさんだったって。いやあそこまでやるかって、びっくりだよね。だからまあ、藤野さんのせいでも飯田課長のせいでもないよ。波多野社長がスケベだっただけ」
 さすがにびっくりして、わたしも企画書を作っていた手を止めた。コンプライアンスに厳しいこの時代に、ただの会社の歯車なのに、汚いジジイと寝てまで成績をあげたいと考える人間がいるだなんて信じられない。そんなことするくらいなら、それこそ死んだ方がマシだ。
 しかし飯田ならば、それを「根性がある」と評し、それをしないわたしを「女として」「営業として」終わっているとこき下ろしても、不思議ではない。飯田は表面上は現代的な価値観にアップデートしているように見せかけているが、ただ装っているだけだ。「やれって言ったらパワハラだかセクハラだかになっちゃうけどさー」なんて言うのが目に浮かぶ。そもそもいかにも飯田が喜びそうな下世話な話なのに、大っぴらにもせずに、むっつりと口を閉じていたのはなぜなのだろう。
「多分茗荷谷さんが色々と言ったんだと思うよ」
 わたしの頭の中を読んだみたいに、上倉さんがパンに視線を落としたまま言った。
「茗荷谷さんが」
「こないだふたりで話してるとこをたまたま見た人がいてさ」
「へえ……」
 茗荷谷と飯田が連れ立って歩いているところを想像したが、まるで釣り合わない。
「茗荷谷さんって不思議な人だよね。物凄く美人だし頭もいいし、もっと華やかな仕事が似合いそうだけど、何か事情があるのかな。このフロアの男子社員はほとんど茗荷谷さんのことが好きだろうね」
「上倉さんも茗荷谷さんを好きですか」
 わたしが聞くと、上倉さんは一瞬黙った。
「いや、そんなわけないじゃん。僕、そんな身の程知らずじゃないし」
 何かを誤魔化すような早口だった。上倉さんの脂で汚れた眼鏡は肉に埋もれ、空調は快適なのに汗で額が光っている。上倉さんはパンのフィルムをゴミ箱に捨てるとパソコンに向き直った。
 デスクの上に出していた私用のスマホが震え、目をやる。ポップアップに表示されている名前は茗荷谷夕海子。明日の土曜日、わたしの家に遊びに来る時間を確認するラインだった。
 
 
 茗荷谷は塩レモンケーキを収めた箱を腕に下げて遊びに来た。
「綺麗なところに住んでますね」
 駅まで迎えに行くと言ったのに、グーグルマップを見ながらひとりでマンションまで来た茗荷谷は、物珍しげにきょろきょろとわたしの部屋の中を見回している。
「借り上げ社宅です」
「なるほど、いいですねえ」
 茗荷谷は会社では見たことのない派手なターコイズブルーのフレアワンピースを着ていて、休日用の顔を見られたような気がして少しどきりとした。わたしも会社には着ていかないラフな格好で、社交辞令かもしれないが「スーツもいいですけど、そういうのも似合ってますよ」と言ってもらった。わたしは挙動不審になりながら紅茶をれた。
 家に人が遊びに来るというシチュエーション自体、学生以来のことで、少し緊張している。しかもこんなに美人で会社の人気者である同僚だ。なぜこんな人がわたしの家に来ることになったのか。大真面目に考えて、ああそうだ呪いの人形だ、と思い出す。
 紅茶のカップを茗荷谷の前に置いたが、茗荷谷の目はテレビ台の上に鎮座している人形にくぎけになっていた。らんらんと目が輝いている。
「あれですね」
「そうです」
 わたしも人形を眺めたが、人形はうちに来たときから何も変わっていない。無い顔をわたしたちに向け、黙って鎮座している。
 正直に言って、茗荷谷を使ってこの人形に飯田を殺させようと考えていた自分の心理が、冷静になった今では理解できなくなっていた。どうかしていたとしか思えない。追いつめられて正常な思考ができていなかったのだ。
 あれを実行していたらどうなっていたことか、とゾッとする。
 今でも飯田のことは死んでも構わないと思っているが、果たして残酷な死を与えなくてはならないほどの極悪人だろうか。社内で失脚するとか、部長に怒られているのを目撃するとか、その程度でもわたしの気は晴れるのではないだろうか。
 そして何より、茗荷谷を死なせるなんて。
 こんな人間を殺そうとするなんて、正気ではなかった。確かに傲慢でイラっとするところもある女だが、それは性根が真っ直ぐであることの裏返しなのだ。だからわたしにも親切にしてくれる。お節介だなと思うが、それでも素直に感謝するしかない。こんなにも美しい容姿を持ちながら、いや持つがために、持たざる者にも平等に接することができるのだろうか。
「人形、ちょっと見せてもらってもいいですか」
 茗荷谷が言うので、仕方がなく人形を取って手渡した。念のために言い添える。
「あの、人形に触れているときは、絶対口を利かないでください」
「分かりました」
 この人形をネットで調べた人形供養のお寺に送るか、それともこっそり所有しておくか、まだ迷っている。手放した方が安全だとは分かっているものの、いつか本当に殺したい相手が出て来たときのために持っておきたいという欲もある。そう、これはわたしのサバイバルナイフだから。
 茗荷谷は人形を両手に持ち、あちこち観察したり撫でさすったりしている。何かの拍子に呪いを発動させてしまうのではと思うと落ち着かない。
「なるほど、まがまがしいですねえ」
「もういいでしょう。この人形のことは置いておいて、茗荷谷さんの最近のマイブームのことでも教えてくださいよ。実はわたしも何か趣味を始めようかと思ってて」
 こう言えば食いついてくるだろうと思ったのだが、茗荷谷は人形を見つめ、うつむいたままだった。
「やっぱり間違いないですね。この人形はあのカフェで隣り合った老婆にもらったんでしょう」
「え……」
 なぜ知っているのか。わたしが戸惑っていると、茗荷谷は顔をあげた。眉をひそめ、少し物憂げな表情をしている。
「あれは古い知り合いなのです」
「知り合い?」
「この人形はあの人が自分で作ったものらしいんですが、全く、わたしには理解ができないです。人がかつとうの挙句に人を呪い殺すという選択をする様子を見て楽しんでいるんでしょうけど、いい年して人形遊びだなんて、何が面白いですか。この世にはそれよりもっと面白いことがたくさんあるのに、不健康ですよ。しかもそうこうしてるうちに、自分はあんな皺くちゃのおばあさんになってしまって……。ああなったらもう誰にも相手にされないでしょ。どんなに美しくても、あそこまで老化が進行してしまうと形無しですね。そう思いませんか、藤野さん」
 茗荷谷は溜息をついたが、彼女が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。呪いの人形を渡す怪しげな老婆と、目の前の美しい派遣社員の女が、どう繫がっているというのか。
「ちょっと、意味がよく分かりません」
「しかしまあ、これも何かの縁でしょう。藤野さん、この人形はわたしが預かります。あ、よろしければその前に、これを使ってひとり人を殺してあげましょうか」
「え、は」
 茗荷谷は両手で抱えた人形をくるりとわたしに向け、平然と言った。
「もちろんただじゃありませんよ、簡単な条件があります。わたしの血をちょっと飲んでくれませんか? いや、抵抗感があるのは分かるんですけど、病気とか持ってませんし、結構いい匂いがする血なんで、トマトジュースや赤ワインなんかに混ぜると意外と飲めますよ。それだけで、わたしがこの人形で、藤野さんが殺したい人を殺してあげます。ていうか、飯田課長でしょ。ムカつきますもんね」
「え、いや」
 言葉がなかなか出て来ない。心臓の鼓動がバクバクと痛いほどに激しく鳴っていた。一体、何を言っているのか、この女は。
「あの、駄目ですそれは」
 つっかえながら何とか言うと、茗荷谷の目が猫みたいにきらりと光った。
「その人形で誰か呪うと、呪った人も死んでしまうんです」
「ああ、そんなこと。おぼれ死ぬという呪いですね。ふふふ、ご心配はありがたいですが、わたしにそんなものが効くわけがありません。そもそも溺れるということがあり得ません、エラ呼吸できるんで。それは気にしなくていいんですよ。だから、血をコップにほんの一杯」
「無理です、絶対無理」
 訳が分からないまま、わたしは悲鳴のような声で叫んだ。
「まあ」
 茗荷谷はわたしの引き攣った顔を眺めると悲しげに眉を下げて微笑み、人形を丁寧にテーブルに置いた。
「やっぱり藤野さんのピンチを助けてあげるべきではなかったですね。……なんて、冗談ですよ。打算で仕事してるわけじゃないですから。別に無理なら無理でいいんです、言ってみただけです。その気になれば力ずくで藤野さんに言うことを聞いてもらうことなんて簡単ですからね」
 茗荷谷はきやしやだが、わたしより背が高い。わたしは腕力にはまるで自信がない。ズボンのポケットに入れていたスマホを引っ張り出そうとするが、指が上手く動かない。茗荷谷はそれに気がつくと、「110番したいんですか? わたしの使います?」と自分のスマホを人形の横に出した。人魚のキャラクターがあしらわれた子どもっぽいスマホケースは、何かの冗談だろうか。
「何、なんですか、茗荷谷さん。あなた一体、何者なんですか」
 茗荷谷がすっと真顔になった。そうするとまるで彼女自身が人形かのように無機質に見える。
「北陸の片田舎に伝わる民話なんですけどね」
「は」
「むかしむかし、うすべにという美しい人魚がおりましてね。浜辺や岩場で遊んだり、漁師をからかったりして毎日吞気に過ごしてたんですが、ある日村の女に食べられてしまったのです。醜い女でした。村の人はみんな、薄紅の美しさに嫉妬して女がおかしくなったのだろうと思いました。その女はみるみるうちに絶世の美女になり、しまいには人魚になってしまって、みかどに献上されることになり村から消え去ったそうです。だからそのお話はそこでおしまいなのですが、実のところ、彼女は帝に献上されたわけではなく、村人を殺害して逃げたのです。そして今でも生き続けています」
 わたしは黙って茗荷谷の顔を見つめていた。
「それが茗荷谷さんですか?」
「まあ、そういう感じです」
 茗荷谷はにっこり笑った。
 この女はちょっとおかしいのだ、精神状態が異常なのだ。必死にそう思おうとしているのに、思考回路にもやが掛かったようになって、うまく動かない。もふじはこの人形をどこでもらったと書いていたのだった?
「藤野さん」
 ほんの少し肩を前に出した茗荷谷が囁いた。ひっそりと忍び寄ってくるような、甘い声だった。
「わたしの血を飲むのです。飲みすぎなければ、時間をかけて徐々に美しい顔になりますから、周囲に別人と思われるようなこともありませんよ。性格が変わる人もいますから、仕事も上手くいくようになるかもしれません。飯田課長もいなくなるんですから、なおのこと働きやすい職場になりますよ。藤野さんにとって何も悪い話じゃないでしょう」
 全身にぷつぷつと鳥肌が立っていた。とんでもないことを提案されているのは分かっているのに、まるで甘美な誘いのように感じている。出ていってくださいと強く言えば、きっと茗荷谷は帰るだろう。そうすれば良いのに、なぜかそれができない。
「……茗荷谷さんにどんなメリットがあるって言うんです」
「あら、そんなことを聞くなんて藤野さんは理性的ですね。見た目に拘泥していないようです。素晴らしい、そういう人が欲しいの」
 茗荷谷はわたしの顔を覗き込んでいた。いつの間にかテーブルから身を乗り出して、こんなに近くに寄っている。コーラルレッドの唇が吊り上がる。いだことのないような不思議な甘い香りがした。
「あのね、わたしは全国方々の色んな女性に、少しずつ血を飲んでもらっているんです。目印をつけて回ってるんです。みんな少しずつ美人になって、少しずつわたしになって、わたしはわたしをこの世に増やしているんです」
「なんでそんなことを……」
 茗荷谷は艶然と笑った。こちらの胸の中に入り込んで支配してくるような底知れぬ恐ろしさがある笑顔だった。
「わたしは美人の国を作りたいんです。美人しかいない国では、美しい顔面に価値は無くなります。見た目のせいでいやな思いをすることも無くなります。そのときに本当のそのひとの価値が浮き彫りになると思いませんか。まあ途方もなく未来の話になると思いますけど。藤野さん、あなたもその一員に加わって欲しいんです」
「わたし、に」
「そうです藤野さん、わたしはあなたが欲しいのです」
 思わず心臓を両手で押さえ込んだが、痛みを感じたわけではなかった。鼓動が手のひらに伝わってくる。まるで恋のような甘いうずきにも似た鼓動なのに、同時に呪いの人形にも抱かなかった根本的な恐怖を感じていた。
 目の前にいるのは本物の魔だ。何よりも恐ろしいのは、そう思っているのにあらがいがたい強い魅力を感じていることだった。見えない網にからめとられるように、ずるずると茗荷谷の中にひきずりこまれていく。
 こんなにも途方もない魔物が作る美人の国とは、一体何なのだ。
 茗荷谷が言う通り、もともとのわたしは容姿に囚われてはいないはずなのだ。美しいものに過剰に焦がれたりしないし、ありのまま生きられたらそれが一番いいと思っている。思っているのに、世間がそうさせない。
 飯田のように、人間的な魅力の無さが顔に出ていると言う人間だけではない。SNSを覗くと、病的に見た目に執着し、いかに自分を可愛く見せるかに命を懸け、外見にむとんちやくな他人を攻撃するアカウントがたくさんある。何千万もかけて整形した人間をする人間、『すごい。頑張った』と褒めたたえる人間。それは本当にすごいのか。不細工な女がいじめられるが美人になって見返す、という電子コミックの広告はひっきりなしに流れてきて、不細工な女が現状を打破するには美人になるしかないという思考を押し付けてくる。
 どんな顔でも良いのだと、ありのままのあなたが美しいのだと、そう言う人は誰もいない。
 美人しかいない国に行けば、そんなことはどうでもよくなるのだろうか。皆、茗荷谷のように美しい顔をした国で、そこでは本当に人間性などというものが重視されるのだろうか。ありのままの自分を愛してもらえるのだろうか。
 好奇心は、猫をも殺す。
「藤野、さん」
 耳殻にゆっくりと声が流れ込んでくる。
 わたしの奥底、誰も触れたことの無い領域を侵すように、禁断の甘い香りが入り込んでくる。脳髄が痺れて動けなくなる。
「わたしはあなたが欲しいのです」
 笑うように、歌うように、甘く囁く。
 人魚の歌声を聞いてはいけない。
 
 
 飯田はその夜遅くに死んだ。
 単身赴任のマンションのベッドの上で、頭部が粉々に砕け散っていたそうだ。連絡がつかないことを心配した奥さんに見に行くよう頼まれ、第一発見者となった上倉さんは、ちょっとせた。
 新しい課長がすぐにやって来たが、不幸なことに、飯田以上のパワハラセクハラ野郎だった。瘦せぎすの男で、いつも唇をじ曲げて脚を組んでおり、コツコツとペンでデスクを叩く音でノイローゼになりそうな気がする。
「顔に出てるんですよ、藤野さんは。底の浅さとか、人間力の低さとか、そういうものが」
 飯田と同じようなことを、より嫌味な口調で言う。
 鏡を見ると、わたしの顔は前よりほんの少し鼻が高くなって、二重の幅が整ってきたように思える。これから茗荷谷のような美女になっていくのだろうか。それでもまだ、同じことを言われ続けるのだろうか。
 一体わたしは何を考えていたのだろう。わたしが仕事ができないのは顔のせいではない、そんなこと分かっていたはずじゃないのか。顔というフィルターを取り払った美人の国に行ったのなら、わたしはきっとますます馬鹿にされ、虐げられるんじゃないだろうか。
 茗荷谷夕海子は翌月の派遣契約を更新せず、皆に惜しまれながら会社を去った。

(気になる続きは、本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:うたかたの娘
著 者:綿原 芹
発売日:2025年10月01日

第45回横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈大賞〉受賞作
道に佇む不気味な人物をきっかけにしてナンパに成功した「僕」。相手の女性と雑談をするうちに故郷の話になる。そこは若狭のとある港町で、奇妙な人魚伝説があるのだ。そのまま「僕」は高校時代を思い出し、並外れた美しさで目立っていた水嶋という女子生徒のことを語る。彼女はある日、秘密を「僕」に明かした。「私、人魚かもしれん」幼い頃に〈何か〉の血を飲んだことで、大病が治り、さらには顔の造りが美しく変化したのだと――。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322505001050/
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