東田直樹さん「Forbes JAPAN 30 UNDER 30 JAPAN 2021」受賞!
記念のオンラインセミナー開催決定!
このたび自閉症作家・東田直樹さんが、グローバルビジネス誌「フォーブス・ジャパン」主催、世界に影響を与える30歳未満の30人を選出する「Forbes JAPAN 30 UNDER 30 JAPAN 2021」を受賞されました!
「30UNDER30」は、38カ国で発行されているForbes誌で世界的に展開されているアワードで、日本では今年で4回目。ビジネス、スポーツ、サイエンス、エンタテインメントなど様々な分野から、人種やジェンダーの多様性に富んだ、次世代を牽引する30人の若い才能が選ばれています。
「Forbes JAPAN 30 UNDER 30 JAPAN 2021」公式サイト
https://forbesjapan.com/30under30/2021/
受賞記念インタビュー
https://forbesjapan.com/articles/detail/43901
受賞を記念して、世界でも翻訳されているベストセラー・エッセイ『自閉症の僕の七転び八起き』を初の試し読み公開!「仕方ない」という言葉を「未来につながる言葉」と捉える、自閉症者としてだけではない、ひとりの青年としての著者の生き方が見えてくる一冊です。ぜひこの機会にご一読ください。
また、12月4日(土)には、記念のオンラインセミナーが開催決定。
今回は母・東田美紀さんとのW講演です。本作のサイン本付きチケットもご用意!みなさまのご参加をお待ちしています。
自閉症作家・東田直樹+母・東田美紀 オンライン特別イベント
自閉症作家・東田直樹+母・東田美紀 オンライン特別イベント
▼チケット申し込みはこちら
https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01h7j2zsw1021.html
『自閉症の僕の七転び八起き』試し読み
孤軍奮闘
どこから来たのだろう
自閉症という障害は、どこから来たのだろうと考えることがあります。
もしかして自閉症は、人類が生み出したものではないでしょうか。何かのバランスがくずれているために、僕たちのような人間が必要だから、生まれて来たような気がしてならないのです。だからといって、僕たちが、このままでいいと言いたいわけではありません。
僕は、自閉症者も完成された人間だと信じたいのです。自閉症者が不完全な人間だと判断する人がいることに納得できないからです。
自閉症者は、大多数の人といろいろなことが、少しずつ違っています。
それは、悪いことばかりなのでしょうか。
自閉症者は、確かにみんなとは少し違うかもしれません。
けれども、どんな人にも心があるように、自閉症者もさまざまな思いを持っています。心は見えないものだということを、もっとみんなが知る必要があると思います。話せる人も、自分のすべてを他人に見せていないのは、恥ずかしいとか、見せたくないという理由だけではないでしょう。
心の中を見せることは、自分自身をさらけ出すことです。
表に出してはいけないというより、そんなことは人にはできないのだと思います。
複雑な感情を持っているからこそ人なのです。
自分の意思だけではどうにもならない思いがあることを、本当は誰もが知っているはずです。
僕の自由
どうして話せないのか、僕はずっと不思議でした。
小さい頃は訳がわからず、ただ悲しいだけでした。小学校時代は、遅れのある子供なんだ、と思うようになりました。中学生になると、どうしようもないことだとあきらめました。
それはきっと、自分の周りに、重度の自閉症者で話せるようになった人がいなかったからです。
僕は、通信制の高校生になり、学校にほとんど行かなくなって、みんなと違うところで、生きていくようになりました。周囲の人の価値観ではなく、自分の頭の中で考えることが、僕のすべてになったのです。普通の高校生のように毎日学校に行かなければいけないと意見する人もいました。たぶん、同じような理由で引きこもりになった人もいるからでしょう。
けれども、僕にとってこの数年間は、自分の意思で生きることについて考えるための貴重な時間となったのです。
人と違う生き方をするには、勇気が必要です。
家族と一緒にいることで、自立が遅れるという見方もありますが、僕の考える自立は、社会の中で自分らしい生き方をすることです。
僕を自由にさせてくれた家族に、今は感謝しています。
自閉症者の孤独
自閉症という言葉には、自分を閉じ込めるという印象があると思います。でも、それは間違いです。
確かに、自閉症者は人と関わるのが苦手ですが、心はいつも、外に開いています。もしも、本当に心を閉ざしていたら、奇声を上げることも、パニックになることもないでしょう。それは、感情が表に出ている証拠です。
心が閉じていても、開いていても、そんなことどちらでも構わないと思う人もいるかもしれません。でも、それでは、だめなのです。自閉症とは心を閉じている障害ではないという事実を、みんなに知ってもらわなければいけないからです。
自閉症者は心を閉じているために、人と関わらないのではありません。開いているのに、気づいてもらえないのです。
外に出るためには、人の力が必要です。どうか、僕たちに、この社会で生きるための力をかしてください。
話せない自閉症者の孤独について、僕は陽が昇る前の暗闇のようだと、いつも思っています。希望は、すぐ側にあるのに、夜が明けることなど、まるで想像もできないからです。みんなは、話せない自閉症者がどれだけ孤独か、きっとわかっていません。考えてみれば、人は生まれてから死ぬまで、誰もがひとりなのです。すべての時間や思いを共有できる人など、存在しません。
他の誰かとつながることで、自分はひとりではないと思い込むのではないでしょうか。そういう点から考えると、話せない自閉症者は、最も孤独な人になります。しかし、もともと人は孤独なものだと割り切ることができるのであれば、それほど特別な存在ではないのかもしれません。
孤独な人にも、思い出は平等に残ります。
言葉でうまくつながれなくても、人を愛したり、人から愛されたりした経験は、その人の心の中に大切な記憶として、刻まれるでしょう。
自分が本当に孤独だったのかどうかは、死ぬときわかるのではないかと、考えています。
話せない自閉症者は、誰とも心を許し合うことができないと、心配している人もいるでしょう。
話せないのだから、胸の内をわかってもらえないのは仕方ないことです。それは悲しい現実ですが、それほど悲観することもないのではないでしょうか。
なぜなら、心の中にも友達はつくれるからです。自分であって自分ではない人間が、心の中にすんでいるのです。僕はまるで、親友のような自分に楽しいとき、悲しいとき話しかけます。
だからこそ、自分のことを嫌いにならないでほしいのです。自分のことを嫌いになったら、心の親友も失ってしまいます。理想の自分には、ほど遠いと感じている人が、自分を好きでい続けるのは難しいことです。
話せない自閉症者に「あなたのことを好き」と伝えてあげてください。人から好きと言われることで、自分でもずっと自分を好きでいられると思います。
誰でも辛いのは、誤解されたとき、自分で弁解できないことではないでしょうか。
周りの人は、気持ちが伝えられなくて、どんなに辛いだろうということについては考えてくれますが、言い訳できないことについてはどうでしょう。
本当は、やりたくないのにやってしまう、言いたくないのに声が出る、謝りたいのに謝れないなど、自閉症者の言動は、誤解されてしまうことだらけです。
弁解できない状況ほど、苦しいことはありません。自閉症者は変わった言動をとるかもしれませんが、みんなと違う種類の人間ではないと思っています。
善い人間だと信じて接してほしいのです。どうしようもない奴だと思われていると、それは本人にも伝わります。
周りの評価で、その人の価値というものは、決まってしまうのではないでしょうか。
人の心を育てるのは、愛情です。
自閉症で良かったこと
これまで自閉症であるために、いろいろな苦労もしてきました。それは、この社会のほとんどの人が、定型発達といわれる普通の人たちで構成されているからではないでしょうか。
そのために、僕が普通の人たちを、ただうらやましがっていると思われるかもしれませんが、そんなことはありません。今では、自閉症で良かったと思うこともでてきました。
僕が、そう考えられるようになったのは、ふたつの理由があると思います。
ひとつは、自閉症である僕を家族が否定しなかったおかげです。両親は僕を障害児だと決めつけず、長所を伸ばそうと努力してくれました。
自立に向けての練習は大切です。大人になるためには、誰にでも必要なことで、自閉症という障害をなくすためのものではありません。僕が自閉症である自分を好きになれたのは、両親が今までの自閉症の固定観念に縛られることなく、僕に合った教育をしてくれたからでしょう。
もうひとつは、自己決定できるようになったことがあげられます。自分を大切にするために、自分のことは自分で決められる。それが、とても重要ではないでしょうか。
両親が僕の気持ちを、いつも一番に考えてくれたおかげで、僕は自分に自信が持てるようになったのだと思います。
僕は「自閉症だから」と言われると、ちょっと悲しい気持ちになります。
自閉症という言葉には、良くない印象があるからではないでしょうか。そのために、自閉症の人たちの立場が、一層悪くなっている気がするのです。
確かに自閉症者が、この社会で生きていくのは大変です。しかし、大変だということが、そのまま不幸ではないと思います。
自閉症だと聞いて、同情されるのはなぜでしょう。
それは社会の中で、自閉症者が幸せに生きているイメージが少ないからだと感じています。
自閉症であることは、悲しく辛いと思われている社会で生きていかなければならない、そのこと自体が、自閉症者を不幸にしているのではないでしょうか。
僕も昔は、自閉症でなければ良かったのではないか、そう思っていました。しかし、今は違います。自閉症と僕を切り離して考えることはできません。なぜなら、僕が自閉症でなければ、きっと今の僕ではなくなるからです。自閉症でない僕は、外見は同じでも、物の見方や考え方が全く違う別の人間になってしまいます。
自閉症でなくなるのは、病気で歩けない人が、歩けるようになるみたいに、悪いところが治ることではありません。おそらく自閉症者は、脳の仕組みそのものがみんなと違うのです。
もし、あなたが今のあなたでは都合が悪いから、治療されるとしたらどうでしょう。
症状を軽減するための薬ではなく、今までのあなたの存在そのものを根底から変えてしまうような治療です。これまで、あなたが美しいと思っていたもの、大事にしてきたものが、すべて無意味になってしまうのです。
普通になれば、もっといいものがある、これで人に迷惑をかけずに生きられると、みんなは言うでしょう。現在、自閉症で苦しんでいる人にとっては、夢のような出来事だと思います。僕は、それを否定しているわけではないのです。
みんなと違うせいで人格までも否定されるのは、おかしいと思うのです。
自閉症であるために、僕は苦しんでいるのではありません。苦手なことを練習するのも、当たり前だと考えています。辛いのは、普通の人たちが簡単にできることが、なかなかできるようにならないからといって、怒られたり責められたりすることです。そのたびに僕は、自分はなんて悪い子なんだろう、価値のない人間だと思い知らされます。
自閉症といわれる人たちの脳の仕組みにも、良いところがたくさんあるはずです。それを、まだみんなが気づいていないだけではないでしょうか。
もし、世の中の人たちが、治療という面ばかりではなく、自閉症者の脳の仕組みそのものに関心を持ってくださり、どのようなすばらしさがあるのか研究が進めば、自閉症者は自閉症であることに、誇りが持てると思います。
必要なのは、生きる希望です。どんなに大変な毎日でも、希望があれば生きられます。
僕はこの世に生まれて、楽しいことや嬉しいことを、たくさん経験させてもらいました。自閉症という障害を抱えていても、僕のことを好きでいてくれる人たちのおかげで、笑顔で暮らせる環境を有難いと思っています。
もし、僕が普通だったら、自閉症の人に対して、人間として対等に接することができたのだろうかと考えることがあります。
こんなにも、生き辛さを抱えた人たちの見えない心を探り、どうすれば今より充実した日々を送れるのか、自分のことのように考えることができたでしょうか。
世の中に障害者が存在するのは、何か理由があると思っています。
僕たちを見捨てずに一緒に生きようとしてくれる人たちには、愛があふれています。この愛こそが、人類がこれからも生き残っていくための鍵に違いありません。
たとえ、自己表現できなくても、知能が低くても、愛は伝わります。自分が大切にされているという実感は、生きる希望につながります。
どんな人の人生も尊いからこそ、みんなで助け合って生きようとするのでしょう。
人から助けてもらうことが多い僕ですが、助けてくれた人が笑顔でいてくれると、とても嬉しいです。人に優しくされるたび、また明日から一生懸命に生きていこうと思えます。そして、少しでも家族や社会に貢献できるよう頑張ろうと努力するのです。
僕が答えられなくても、質問してくれたり、意見を求めたりしてくれる人がいるから、何をどうしたいのか考えることができます。どんなふうに生きることが自分にとって幸せなのか、悩み選択できるのは幸福なことです。
僕は、自然が好きだったり、文字や数字に関心があったり、人が興味を示さないものに
こだわりやパニックなどの問題行動は、治していかなければなりませんが、僕は治らないことを悔むより、行動のコントロールが少しずつでもできるよう、挑戦し続けたいです。
自閉症で本当に良かったと思える人生を歩むことが、これからの僕の目標です。
十人十色
地味な人と派手な人
世間には、地味な人と派手な人がいます。見た目を気にするのは、かなり個人差があるのではないでしょうか。
僕は洋服や髪型などには、ほとんど興味はありませんが、自分の言動が、人にどう思われているか不安になることはあります。
外見が気になる人は、みんなの中で目立ちたかったり、逆に目立ちたくなかったりと、自分がどんなふうに人の目に映っているのか知りたいのだと思います。
僕の場合は、見た目が素敵だとか、個性的かなど、人からどう見られているかという以上に、周りの人に迷惑をかけていないか、誰かを嫌な気持ちにさせてないか心配で仕方ないのです。目立ちたい人が、正直うらやましいくらいです。
僕の目立ちたくないという思いは、地味な人の気持ちと似ているのかもしれません。
何とかみんなになじもうとして努力しますが、結果として逆に目立ってしまうことがあります。
おかしくないかな、変に思われないかなと気にはなるものの、どうすればいいのかわかりません。結局、いつも通りの自分でいるしかないのです。
見た目は目立っているかもしれませんが、僕は見かけより小心者です。
友達がいないこと
学校教育では、友達がたくさんいるのがいいことだと教えられます。しかし、中には友達をつくるのがへたな子もいます。
自閉症者は、人との関わりが苦手なために、友達があまりいない子も多いのではないでしょうか。そんな子の中には友達にからかわれたり、いじめられたりする子もいるでしょう。
いじめる方は、軽い気持ちなのです。おもしろいから、いじめているだけなのです。いじめられている子に、それくらい我慢しなさいという人もいます。社会に出たら、もっと嫌なことがあるよと、さとす人もいます。
けれども僕は、いじめられる練習など必要ないと考えています。社会に出るまでにしなければならないのは、不必要な我慢を覚えることでもないと思っています。それで、どんなに傷つくかは、本人にしかわかりません。いじめられて大人になることが、どれくらいみじめで辛いことなのか、いじめられたことのない人にはわからないでしょう。
友達づくりを強要するのは、やめてほしいです。
無理をしなくても、お互いが自然に尊重し合い、支え合うのが友達ではないでしょうか。たとえ、友達がいなくても、誰もが人生の主人公です。
友達がいないのは、恥ずかしいことではありません。自分らしい人生を歩むことこそを目標にしてください。
僕は「障害者だから」という考え方は好きではありません。しかし、そのこととは別の問題として、障害者の中には、ひとりで生きていけない人がたくさんいるのも事実です。
社会は障害者も受け入れてくれる場所です。それは、本当かと聞かれると本当だし、噓だと言われると噓なのかもしれません。
人は、能力だけで評価されるものではありません。一生懸命に生きている姿を知ってもらうことで、人としてのすばらしさをわかってもらえます。
人としてのすばらしさは、感動を呼びます。多くの人に、生きる価値や、命の尊さを教えてくれるからです。
障害者自身は、障害者だからという理由で、やさしくされたいとは願っていないのではないでしょうか。
誰もがいずれは高齢になり年老いていきます。病気や障害は人ごとではありません。
一人の人間としての存在価値は、どんな人も変わらないと思うのです。
不幸だと思うとき
僕が、自分自身を不幸だと考えていたのは、小学生のときでした。自分のことを誰もわかってくれないと思っていたからです。母だけは僕の味方でしたが、それは味方であって、僕の苦しい気持ちを解消する助けにはなりませんでした。
僕は普通学級に在籍していたので、自分だけがみんなと違うと感じていました。どうして僕だけ話せないのだろう、なぜ、僕だけやれないのだろうと、苦悩するばかりでした。僕が一生かかってもできないことを、みんなが軽々とやっている姿を見るたび泣きたくなりました。小学五年生まで普通学級に在籍しましたが、心身共に疲れ果て、逃げるように特別支援学校に転校したのです。そこで、本来の自分を取り戻すまで四年かかりました。
僕は、それまで特別支援学校の授業を見学したことがなかったので、最初は普通学級とのあまりの違いに驚きました。
なぜ、僕はここにいなければいけないのだろうと思う気持ちもありましたが、普通学級では考えられない先生や友達のやさしさは、自暴自棄になっていた僕の心を救ってくれました。特別支援学校では、僕は問題児ではなく、普通の生徒でした。僕よりしっかりしている子も、大変そうな子もいました。
僕は、そこで初めて、世の中には障害を抱えながら生きている子供たちが大勢存在することを知ったのです。
特別支援学校では、ありのままの自分でいることができました。
僕にとって学校は、勉強するところではなく、自閉症としての自分を見つめる場所になりました。学校では、ほとんど何もしなくていいような時間が流れていきました。
障害の特性に合わせた授業といっても、実際はさまざまな個性の子供がいるので、先生方は日常生活の面倒をみるだけでも手一杯な感じでした。それでも、学校の友達は、あまり不満もなく、楽しそうに生活しているように見えました。
考えてみれば、特別支援学校には、小学校一年生のときから在籍しているか、僕のように普通学級や支援学級より、この学校の方が合っていると思われて転校した生徒が通っていたはずです。子供たちは、特別支援学校が自分の居場所だと感じていたのでしょうか。
特別支援学校は、確かに障害のある子にとって、居心地のいい場所でした。いじめられることもなく、必要以上に叱られることもありません。僕は、ここで人から大切にされることの重要性を学んだと思います。
誰でも、人として生きていく権利を持っていること、障害のあるなしにかかわらず、人は幸せになれることを実感したのです。僕は特別支援学校で自分なりの幸せを見つけ、将来はこの学校の高等部に進学し、地域の作業所で一生懸命に働けばいいのだと、考えるようになりました。自分の居場所はここだったのだ、僕は重度の自閉症なのだから、なるべく人に迷惑をかけないようにしながら自分のできることを増やし、自立に向けて努力しなければいけない、そう決心しました。以前通っていた普通小学校での思い出も、遠い過去のような気がしていました。
特別支援学校には、僕と同じ自閉症の子供たちもたくさんいました。町を歩いていても、めったに自閉症者に会うことはなかったし、地域の小学校にも自閉症の子供はいなかったのに、この特別支援学校には、ひと目で自閉症だとわかる子供が何十人も通っていたのです。
それが、何を意味しているのか、その頃の僕にはわかりませんでしたが、僕のような子は、この学校でなければいけなかったのだと思い知らされたような気がしました。正直、悲しくもなければ、寂しくもありませんでした。これが、僕の運命なのだと思いました。
僕は、自閉症であることを、それほど嫌だと思ったことはありませんでした。自閉症である自分しか知らないわけですから、当然のことかもしれません。僕が自分のことを嫌いにならないのは、自閉症であることとは直接関係ないと思います。みんなとの違いを感じながらも特別支援学校で学び、将来は作業所で頑張ろうと考えたのは、自分自身を嫌いにならなかったからでしょう。それなのに僕は、中学部卒業後、通信制高校に進学し、今は作業所にも行かず、作家として活動しています。
その理由は、僕の心に、大きな変化が起きたせいです。
僕は、自分の人生を人に選択してもらっているのではないか、と考えるようになったのです。
僕が自閉症であることと、自分の人生をどう生きるのかということは、別の問題ではないのか。本当にやりたいことは何だろうと自問自答するようになりました。僕は、誰のために特別支援学校の高等部や作業所に行こうとしているのか。それが、本当に自分のためなら、なぜ嬉しく感じないのだろう。
特別支援学校では、多くのことを学びました。自閉症者としての自分を取り戻せたのは、この学校のおかげです。しかし、ここで一体、何をしているのだろうと思う自分がいたのも確かなのです。
僕は、逃げているのではないか。
誰かにとって必要な場所が、僕にとっても必要な場所ではなかったことが、初めてわかりました。
僕は、普通学級にいたときのことを思い出しました。
ひとりでできないことが多く辛い思いもしましたが、勉強も運動も、能力の限界まで、頑張っていました。結局は、努力し続けることに疲れてしまいましたが、そこには確かに、同世代の子供たちと共に泣き、笑い、怒っていた僕がいたのです。
普通学級は、この社会の中で生きるとはどういうことかを教えてくれる貴重な場所でした。僕は小学生の頃、そのことに気づけなかった自分に対して、後悔の気持ちでいっぱいになりました。
学校は、いつかは卒業しなければいけない場所です。それなのに、どうして障害のある子を、分けて教育しようとするのでしょう。誰の目にもふれていない僕たちを理解してほしいと望むこと自体、難しいような気がします。
僕は、普通の学校と特別支援学校の両方に通ってみて、それぞれいいところがあることがわかりました。けれども、それは障害のある子だけ別に教育する理由にはならないと思います。特別支援学校でやれることが、どうして普通の学校でできないのか不思議でなりません。同じ勉強をすることは無理かもしれませんが、一緒の学校で学ぶことはできると思います。
普通の学校では、人権のことや、共生についても学びました。それなのに、学校はみんな一緒に生きることを実践していません。
障害者にとって必要なのは、できないことの練習だけではないと思います。本当に必要なのは、この社会の中で、自分の生きる意味を探すことではないでしょうか。
誰にも自分のことをわかってもらえず、ひっそりと生きている人がいること、障害のためにいろいろなことを我慢しながら、生活している人がいることを知ってほしいのです。なぜなら、人は人を見て、自分をかえりみるからです。
僕たちは、かわいそうだとか、気の毒だと思われたいわけではありません。ただ、みんなと一緒に、生きていたいのです。
人がお互い
障害者は隠れるようにして、生きていかなければいけない存在なのでしょうか。
不幸なのは、自分の意思ではなく、分けられてしまうことです。
もし、障害者が、分けられ続けなければいけない存在であるなら、僕たちの生きる価値はないでしょう。
僕は、障害者の生活をもっと良くしてほしいとお願いしているわけではないのです。普通の人だって、必死で生活しているのはわかっていますし、そういう方たちのおかげで、毎日暮らしていけることにも感謝しています。
みんなが障害者を見て、何を思うのか、障害者がみんなを見て何を思うのか、一緒にいてこそ、わかることもあるのではないでしょうか。
僕たちの生き方が、普通の人たちの価値観に影響を与えることも、きっとあります。助け合いは、物質的な面ばかりではありません。人は、食べて寝ることだけ満たされても、生きていけない動物だからです。
僕が、特別支援学校の高等部に進学しなかったのは、ひとりの人間として、将来の進路を自分で決めたかったからです。もちろん、それには責任も伴いますし、現実はそんなに甘くはないでしょう。それでも、僕は、自分の人生を生きるための一歩を踏み出しました。
作業所が悪いと言っているわけではありません。どの人の人生も尊いものです。だからこそ、囲い込むだけではなく、障害があっても多様な生き方を認めてもらいたいのです。
僕は、障害者もみんなの中で生きることで、もっと成長すると考えています。障害があっても夢を叶えたいと願っている人は、たくさんいるはずです。
みんなの未来と僕たちの未来が、どうか同じ場所にありますように。
作品紹介:自閉症の僕の七転び八起き
自閉症の僕の七転び八起き
著者 東田 直樹
定価: 660円(本体600円+税)
『自閉症の僕が跳びはねる理由』の東田直樹、待望の文庫エッセイ第5弾!
障害者だけでなく、人は誰でもどこかに不自由を抱えている――。「自閉症」という障害への思い、会話ができないからこそ見えてくる日常の様々な気づき。自らの「七転び八起き」の歩みが詰まった一冊!
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