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試し読み

THE GOSPEL TRAIN IS COMING――「ゴスペル・トレイン」試し読み【4/4】

『熱源』で直木賞を、『パシヨン』で中央公論文芸賞を、
それぞれ受賞した川越宗一、初の短編集単行本となる『福音列車』。
同作の中で、最も編集部内で人気の高い「ゴスペル・トレイン」を、
カドブンで全文公開いたします。

川越宗一『福音列車』より「ゴスペル・トレイン」試し読み【4/4】



 教会が掘っ建て小屋のような作りで再建されたのは、海軍兵学校の新年度が始まって一か月ほど経ったころだった。
 啓次郎は素直に学校へ戻った。日曜のたびに再建の工事を手伝い、完成すると牧師にいくばくかの寄付をし、それきり教会へは行かなくなった。
 その時、すでにニューマン夫妻はいなかった。
 夫のウィリアムは火傷こそ治ったが酷いあとが残り、なにより腰の痛みが去らなかった。労働などとてもおぼつかず、妻ネッティの稼ぎだけでは生活も立ち行かない。夫妻は療養を兼ね、隣の州に住むウィリアムの親類を頼って旅立った。
「初舞台が流れて、すまなかったな。ケイ」
 見送りの日、荷馬車の上でウィリアムは体を起こした。その背は傍らの妻が支えていた。神さまは何を寿ことほいだものか、空は美しく晴れ渡っていた。
「お前が来てくれなければ、俺もネッティも殺されていた。本当に感謝している」
 啓次郎は首を振った。助けることができたのは、たまたまあの緋色の集団が間抜けだったからだし、会堂は燃えくずに変わり、ニューマン夫妻は生活を壊された。
「これから、二人はどうするの」
 こんな理不尽な世で、この夫妻はどうやって生きるよすがを見つけるのだろう。
「まず、俺は体を治す」
 ウィリアムの声は決然としていた。
「治ったら、また働く。夫婦で教会へ戻って、学校をやり、うたう」
「また、誰かに襲われるかもしれない」
「次は自分で何とかするさ。主がおられ、愛する妻がいて、ソウルがある。あとは俺のガッツだけだ」
 チタリングスの材料を数え上げるようにウィリアムは言った。
「お前はどうするんだ、ケイ。真面目に学校へ行って、軍人になるのか」
「決めていない」
 答えてから、寂しさを感じた。歌の師とうたう場を啓次郎は失った。あらかじめ用意された世界でただ漂うだけの時間が、再び始まろうとしている。
「ケイ」
 ウィリアムは啓次郎の顔をのぞき込んだ。
「お前にはガッツがある。あとは、ソウルだ。ケイ自身の」
「ぼくの、ソウル」
 ウィリアムは頷く。かつて聖書を読んで泣いた男が御者台に座っていて、「いい日和だ」と陽気に言って手綱をしならせた。ごとごとと荷馬車は進みはじめた。
「元気でね、福音の列車ゴスペル・トレイン
 ネッティの声が聞こえた。月並みな言葉と不思議な綽名の組み合わせがしかった。
 ガッツ。ソウル。小さくなっていく馬車を見つめながら、啓次郎はもらった言葉をはんすうしていた。
 それから三か月だけ、啓次郎は学業に没頭した。だいたいの科目で十番以内の成績となるくらいの学力と、軍人の道には魅力を感じないという確信を得た後、くにもとに無断で退学届けを提出した。父への言い訳は必要な時期に考えることとして一年近くの間、彷徨さまようように米国を旅した。
 翌年の大統領選挙に向けた熱狂が始まっていて、参政権を求める女性たちの運動があった。何かの投票の帰りに襲われる黒人がいて、土地や命を奪われる先住民がいた。増える中国からの移民はストライキ破りにき使われ、貧しい白人労働者の一部は敵意を募らせた。上流社会で育まれた教養は融和の論拠にも差別のにも使われた。とめどなく生まれる新たな娯楽が社会の底にまる日々の憂さを吹き飛ばし、あるいは隠していた。
 何かを知ったすぐ後に正反対の光景を見る。頭が割れそうな日々の中で、啓次郎は道を定めた。西海岸から船に乗り、しながわで日本の土を踏んだのは明治九年の四月。いつのまにか二十歳になっていた。
「佐土原で、学校をやります」
 東京の旧佐土原藩邸、古色そうぜんたる殿さまの書院で、啓次郎は実父に宣言した。
「どうしてか」
 紋服姿の父は重々しい声で問うた。自分には一生持ちえない重みだと啓次郎には思えた。父は日本に三百人足らずしかいない大名だった。それに比べれば軽薄な若者に過ぎない啓次郎だが、ものを思ったり何かを欲したりはできる。
「ぼく、いや私のソウルとガッツゆえです」
 さすがに父は首をかしげた。啓次郎は言い直した。
「御一新はとどのつまり、将軍の専制を廃して議会政治を導入するもの。さよう心得ております」
 であるなら。啓次郎はよどみなく続けた。
「教育の普及こそ肝要。国政を議するにふさわしい人を選ぶ。そのための知識を郷里にもひろめたいと思いました。洋行させていただいたおかげで、多少は学んで参りましたから」
 英語学校、兵学校の教授たちはみな人品も知識も非の打ちどころがなかった。だが彼らより啓次郎の心を動かしたのは、アナポリス郊外の教会で小さな学校を支える、歌の教師たちだった。
 父は沈思してから、手にしていた扇子をぱちりと鳴らした。
「おぬしを町田から島津の家に戻すことにした。勝手に退学するようなぼんくらを、いつまでも預けておくわけにはいかんからな。さて、町田改め島津啓次郎よ」
 父の声に、啓次郎の背が自然と伸びた。
「ぼんくら息子なりに、お国の役に立て」
 妙な表現だったが、願いは許されたらしかった。
 啓次郎はまず東北へ往き、戊辰の戦さにたおれた佐土原藩兵の墓を巡った。ひとり静かな旅だったが、対して日本の国情は騒然としていた。
 憲法と議会を求める民権運動が盛り上がり、朝野では活発な政論が交わされていた。いっぽう、かつての身分や収入を奪われた士族たちは困窮し、うっくつしていた。終わらぬ不況も新政府へのえんとなった。
 民権運動を率いる板垣退助。薩摩で実質的な私兵を養う西郷隆盛。政府とたもとを分かって下野した御一新の功臣ふたりの動きに、世の注目が集まっていた。
 そんな中、啓次郎はやっと佐土原に帰った。日向ひゅうがなだから打ち寄せる波が洗う浜と、立ち上がるさんれいに挟まれた小さな平野。南北二本の川沿いに広がる田畑。足掛け八年ぶりの郷土は記憶とほとんど変わらず、啓次郎なりに望郷の念にひたった、
 それから、やまあいの廃寺に居を定めた。
「自立の精神を保ち固有の権利を全うせざるべからず」
 などという趣意書を書き上げ、「りつしゃ」なる結社を作った。志ある若者を集めて集団生活を送り、和漢西洋の書を読み、議論する勉強会であり、学校設立の準備会を兼ねた。
 啓次郎は日が昇ると用地の選定や教員の確保に走り回り、日が暮れると米国で得た肌感覚を交えて社員たちに民権論を説いた。「さま」と旧身分らしい敬称で呼ばれるたび、「さん」と言い直させた。四民平等の世なのだから、とも必ず添えた。
 自立社を設立したころ、熊本と福岡、山口で士族の反乱が相次いだ。すぐに鎮圧されたが、政府に不満を持つ者たちの鬱屈はますます高まった。自立社にも政府に批判的なものが多く、学問や民権の議論がいつの間にか、悲憤こうがいとなることが多かった。
「西郷はどうするか」
 旧藩時代は薩摩島津家の分家であり、いまは鹿児島県庁が所轄する佐土原ゆえ、鹿児島の情勢を話に上げる者も少なくない。たいていは言葉の裏に、西郷の武名で世を変えてほしいという期待が見え隠れしていた。
「戦さによらず言論で事を決するのが議会政治だよ」
 啓次郎は何度もいさめた。
 明治十年の二月五日、自立社は学校を設立した。啓次郎は同志たちとさかずきを交わすだけの簡素な開校式を行い、さっそく教材と生徒集めに取り掛かった。充実した日々が始まろうとした矢先、鹿児島県庁の役人が寺にやってきた。
 ――西郷先生、たれり。諸君らも加わるべし。
 ザンギリ頭に洋装をした役人の声が、啓次郎の耳を打った。



「起つべし、今こそ起つべし」
「政府の暴虐、正すべし」
「正義は大西郷にあり。かの軍に参ずるべし」
 廃寺の堂に集まった自立社の社員たちは口々に叫んだ。県庁の役人が言うには、暴|戻ぼうれいなる東京政府が西郷暗殺の刺客を放った。ここにいたり西郷は政府を問責せんと決意し、兵を率いて上京するのだという。
「勇にはやってはだめだ」
 啓次郎は必死に止めた。
「政府は立憲政体の実現を約束している。それまでに必要な知識を蓄え、弘めるのが我らの仕事だ。政府の非は道理で、議会で問うべきなんだ」
 アナポリスの黒人たちは学んでいた。反乱のたくらみなど一度も聞かなかった。
「起たずともよし」
 決起をしらせに来たまま同席していた役人は、居丈高に言い放った。鹿児島県庁は政府の下部組織でありながら、ほとんど西郷とその学校の支援部門になっている。
「佐土原などしょせん、島津分家の小藩。役立たずが数名加わったとて我らの足手まとい」
 あからさまな焚き付けに場が収まらなくなった。啓次郎の制止もむなしく、同志で隊を結成して西郷軍に加わると衆議は決した。
「ならば、ぼくが隊を率いよう」
 なるべく死人を出さずに佐土原へ帰ってくるつもりで、啓次郎は宣言した。社員たちに比べて冷静な自分が指揮官であれば無謀を止めることもできるし、いざとなれば「逃げろ」と命じればいい。
 かくて、島津啓次郎率いる四百余名の佐土原隊は郷土を発つ。数日を経て到着した鹿児島の城下は、出陣を控えた士気おうせいな兵で満ち満ちていた。
 啓次郎はさくらじまを望む屋敷で島津本家の当主にあいさつした後、単身、西郷軍の本営へ向かった。
 伸びてきた癖のある長髪、フロックコートに首のネッキタイ。見せつけるような洋装は啓次郎の意地だった。和装に古臭さを感じているわけではないが、時代が変わったと言いたかった。ただし、無理やり巻きつけた兵児帯には二刀を突っ込んでいる。戦いに行くのだから仕方ないとあきらめてはいるが、とにかく重くて仕方がない。
 市街を見下ろす丘陵、城山のふもとに石垣で囲まれた広大な敷地がある。西郷が設立した私学校の本校で、いまは「薩軍本営」と大書された門標が掲げられていた。
 旧時代の屋敷そのままの広い板間に、洋装やはかま姿の男たちが向き合って座っていた。薩軍の最高幹部たちだ。
「島津啓次郎です。日向佐土原より参陣いたしました」
 立ったまま声を張る。ご苦労でござった、と幹部の一人が首だけ動かして応じた。挨拶以下の礼儀しか払わない態度はいかにも高慢だった。
 奥には、しょうに腰掛けた大柄な人影があった。
 紺地の上等な衣服の胸に二列の金ボタンを並べ、詰襟と両袖に金糸のしゅうを這わせている。目深にかぶった制帽の頭頂は前から見えるように傾いて作られ、金のぼうせいが六つ縫いこんである。顔は制帽の陰になって判然としない。
 西郷隆盛。顔は見えずとも星の数で分かる。御一新を成した英雄であり、官を辞した今なお、日本でただひとりの陸軍大将の地位にある。
 啓次郎は息を吸い、立つ足に力をこめた。蛮勇とも無謀とも思えたが、言わねばならぬことがある。
「貴軍に加わるにあたり、一つ問いたい。よろしいか」
 あえて「貴軍」と隔意ある表現をしたのは、鹿児島の側に佐土原を従属的に扱う素振りが見え隠れしていたからだ。
「軍議の最中である。手短に願いたい」
 さっきの幹部が面倒くさげに告げた。腕っぷしが強かったら殴ってやるのだがな、と啓次郎は思ったが、殴って勝てるかは分からない。薩軍幹部はみな、御一新の前から血しぶきや硝煙をくぐってきた猛者ばかりだ。
たびの挙兵は、政府の非を正すための上京であり、国家に弓引くものにあらず、と伺っている。聞けば政府には、御一新で無二の功を立てた西郷どのを刺殺する企みがあったとか」
「さよう。非道極まる。捨て置けぬ」
 幹部の返事は無視して、啓次郎は広間の一点をにらみ続ける。その先で、六つの五芒星をいただいた人影は微動だにせず、ただ黙している。
「西郷どのにお尋ねしたい」
 啓次郎は声を張った。幹部連はざわめき、彼らの偶像へ目を遣り、続いて非難するように啓次郎をにらんだ。
「兵権は独り、国家にあり。陸軍大将であっても私に兵を動かす権能はあらじ。西郷どのはいかなる理によって兵を挙げられるか」
 斬り付けてくるような敵意を幹部たちから感じたが、啓次郎はひるまなかった。
 西郷が挙兵を思いとどまれば、万事は丸く収まる。御一新を指導し、政府の中枢にいた西郷隆盛であれば、理非が分からぬはずはない、と願っていた。
「非は政府にあり」
 さっきの幹部が立ち上がった。
「現今の政府は上に皇威を侵し奉り、下に人民を虐げてはばからず、人民には、その権利を擁護せぬ政府を廃するの権あり。英国が暴政に抗せし米国の華盛頓ワシントンのごとし」
 抵抗権、革命権というやつだ。この幹部なりに学んでいるのだろう。
「ならば今の政府を廃したのち、いかなる国家を建てるお考えか伺いたい。いつ議会を開く。いかなる憲法を作る。陸海どちらの軍備を優先なされる。西洋諸国との不平等条約はどうなされる。朝鮮、しんこくなど隣国とは和戦いずれを取られるか」
「それは」
「ご思案なければ別の問いに移ろう。ワシントンは大陸市民の代表会議から全軍の司令官に任じられた。西郷先生はいつ、誰に、どのような手続きで兵権を授かったのだ。政府の非に、西郷先生も非をもって対するおつもりか」
この餓鬼コンワロォ――」
「あなたは黙っていろ!」
 啓次郎は怒鳴った。
「いかがか、西郷どの。我ら佐土原の衆、義のため命は惜しからず。しかれども義のなき戦さ、理のなき暴挙は国家人民のためならず。お答えあれ」
 はち切れそうな不穏な静寂があった。それから、きらびやかな人影がゆらりと立ち上がった。
「皆、座を外せ」
 声、というよりうすくような音が聞こえた。幹部たちは不本意そうな足音を鳴らして去っていく。
 西郷はきょを揺らしてゆっくりと歩み寄り、啓次郎の前で端座する。制帽を取って傍らに置くと、静かに平伏した。
「西郷隆盛でございます。先ほどの者らのご無礼、どうかお許しくだされ」
「ちょっと」
 大名の子らしい尊大さを覚える前に米国へ渡った啓次郎は、あわてて片膝を突いた。
「ちょっと待って下さい、西郷どの。顔を上げて下さい」
「では、お許しを賜りましたゆえ、憚りながら」
 上がった西郷の顔を、啓次郎はつい、しげしげと覗き込んだ。太いまゆ、大きな目、豊かな頬、大きな頭と短く刈り込んだ頭髪。すべてが簡素で、大ぶりな造形だった。隠然たる武で日本中から警戒とせんぼうを集めていた人物とはとても思えない。
「お尋ねのこと」
 西郷の顔は穏やかで、微笑んでいるようにも見えた。
「仰せの通り。この挙兵は私戦にて、義も理もなし。政府軍の討伐を受けるは必定、となれば敗けもまた必定」
「分かっていて、なぜ起たれるのです」
「明治の世を呼ぶため。それにはまだ人死にが足りませぬ」
 啓次郎は自分の目と耳を疑った。微笑みをたたえたままの西郷の表情は、その物騒なげんとまるで釣り合わない。
「手前は御一新の折、三百諸侯の封土に分かれた日本を一つにせんとし、あまの命を損ないました。ですが、まだ日本は二つに割れております。報われし者と」
 西郷は、握り飯でもつまむような手つきで右手を上げ、次に左手を上げた。
「報われざる者。今度はこれを」
 上げられた両手が、ぽんと音を立てて合わせられた。
「一つにせねばなりませぬ」
「そのための挙兵と」
「さよう」
 握り飯をもうひとつ、とでもいうような軽さで、西郷は頷いた。
「手前は、報われぬ者どもの恨みとともに死ぬ。そうして初めて日本は一つになり、明治の世が訪れ申す」
「死なれるのですか、西郷どのは」
「それが手前の天命でござれば」
 自分の死を、大きな握り飯を食べ終えたような満足げな顔で西郷は言う。
「ただ、まこと残念なことに」
 西郷は悲しげに首を振った。
「啓次郎さま、あなたも同じ。佐土原の報われざる者どもを率いて国家にはんする軍に身を投じた。もはや、いずかたへも逃げられぬお立場。勇ましく戦って佐土原の名を上げ、大逆の罪に服し、従容と死なれませ。かくあってこそ佐土原の衆は遺恨も異議も捨て、ひとつの日本にせ参じることができましょう」
「死ぬ」急に背筋が寒くなった。「ぼくが」
「さよう」
 西郷は重々しく答える。
「来るべき明治の世のために。それが、あなたの天命」
 啓次郎は言葉が出なかった。死は人並みに怖いが、それ以上にがくぜんとした。自ら決めた生を歩むつもりが、天命なるものに捕まってしまった。やはり自分は、あらかじめ用意された世界から逃れられず、その中に漂うしかないのだろうか。
 その時、体が揺れた。太陽に灼かれた土埃と汗の臭いが鼻の奥に差し、律動する心臓が肉体を内からたたき始めた。歌が聞こえ、啓次郎を煽った。
「ぼくはもう、あなたが起こす戦さから逃れられない。それには同意します」
 目の前にあった造作の大きな顔が、包むように啓次郎を見つめる。
「ですが、ぼくは死なない。生きて、ほんとうの明治の世を迎えます」
 啓次郎が米国で会った黒人たちは、救いに向かって自ら進もうとしていた。ソウルを抱き、ガッツをたぎらせ、福音の列車が来る日まで生き抜き、来れば自分の足で飛び乗ろうとしていた。現実を引き受けながら、天命なるものに全てをゆだねようとは決してしなかった。
 いま、ぼくはソウルを得た。啓次郎はそう思った。
「善きお覚悟」
 西郷は微笑むと、制帽をつまみ、かぶりながらゆっくり立ち上がった。
「佐土原の衆の部署は、追って本営より達せられましょう」
 啓次郎は見上げ、息を呑んだ。ふとじしの温厚な男は、もうそこにはいなかった。
「戦さでござる。奮われよ」
 血と硝煙で維新を成した勲功並びなき陸軍大将、南国一万数千の精兵を率いて国家に叛せんとする男は、啓次郎を押しつぶすようにきつりつしていた。



 明治十年九月二十四日、午前三時五十五分。
 城山を包んでいた夜明け前の静寂を、三発の砲声が殷々と抜けていった。
 それを合図に城山の各所にあった西郷軍のほうるいは雨のような砲弾に打たれた。続いて、地を震わせるようなかんせいと無数の銃声が湧き上がる。
 西の空に残る満月がれいめいの薄闇に浮かぶ下で、政府軍の総攻撃は始まった。
 啓次郎は数名の薩兵と共に城山の中腹に築かれた堡塁の守備を任されていた。背後には西郷隆盛はじめ軍の最高幹部たちが本営を構えている。
「助太刀に――」
 戦さの喧騒に煽られたらしい兵士が、土を詰めた俵を積んだ胸壁をよじ登る。啓次郎はその後ろ襟を掴んで引き倒した。
「ここを抜かれたら、西郷どのがいる本営まで敵を遮るものがない。動くな」
 言ってはみたものの、威圧するような物言いはどうも慣れない。
「どうせ、皆死ぬ」
 兵は吐き捨てながら起き上がり、再び胸壁に手を掛けた。もう啓次郎は止めなかった。釣られるように、薩人の全員がいなくなってしまった。
「しょうがないな」
 啓次郎も胸壁をよじ登り、上に腰を掛けた。
 薩軍は精強だった。ただ、それ以上におごりがあり、戦略はさんを極めた。七か月にわたって九州各地を転戦したあげく政府軍に圧倒され、数百名の敗軍となって鹿児島城下に帰ってきた。城下で兵糧奪取の戦闘を起こしたが、市街を戦火に焼かせたほか何もできず、城山に籠った。
 佐土原隊は開戦からしばらく後方に置かれていたが、無謀な作戦に投入されて戦死者を出した。啓次郎はそれを理由として郷里へ帰って隊を解散させたが、追いかけてきた薩軍の使者が「裏切り」などと口汚くののしり、戻らねば佐土原を攻めるなどと脅した。
 仕方なく啓次郎は佐土原隊を再結成した。隊そのものは信頼できる側近に任せ、自身はひとり薩軍本営付きを志願した。裏切りを疑われた佐土原から出す人質には自分こそ恰好であろうと思ったからだ。佐土原隊はいくつかの戦闘に参加した後に再び解散し、啓次郎はいつのまにか城山にいる。
「死ぬ気なんてさらさらなかったのにな」
 まるでごとのように軽く言った。黎明の薄闇は朝の光を帯びはじめた。
 今日で、日本の内戦は絶える。刻々明るくなる空をあおぎ、啓次郎は確信を新たにした。
 西郷が起こした戦争は、これまで起こった士族の反乱のうち最大だったが、呼応する反乱は一つも起きなかった。城山の四百人を最後にして、武力で政府にあらがう者どもはいなくなるだろう。
 真の明治の世、福音の列車が、やっと日本にも来る。憲法を構え、議会を擁し、平等な市民が万機を言論で決する世が。このやかましく、血なまぐさい戦闘の騒音とともに。
 感慨を、次に飽きを感じた啓次郎は胸壁から飛び降りた。沈む月と昇る日が混然となった光を頼りに、緩い坂道を下る。
 十間(約二十メートル)ほど先の茂みから、政府軍の一隊が躍り出た。いいところに来た、と思いながら、啓次郎は刀を抜く。
 兵士たちは啓次郎を認め、広がり、着剣した銃を構える。啓次郎は大きく息を吸った。駆け出しながら、叫ぶようにうたう。

  福音の列車が来る
  その音がすぐそばで聞こえる
  車輪のうなりが聞こえる
  大地が鳴り響く
  さあ乗り込もう、子供たちよ!
  さあ乗り込もう、子供たちよ!
  さあ乗り込もう、子供たちよ!
  客室はまだまだ余裕があるさ

 山の端に日がきらめいたとき、銃声の束が啓次郎の胸を貫いた。

作品紹介



福音列車
著 川越 宗一
発売日:2023年11月02日

日本史が世界史と激突する瞬間のきらめく5つの福音を、直木賞作家が描く!
「福音の列車が、やっと日本にも来る。このやかましく、血なまぐさい戦闘の騒音とともに」

国と国の歴史が激突するその瞬間、その時代を活写した5つの物語。


明治維新の後、アメリカの海軍兵学校に留学した佐土原藩主の三男・島津啓次郎。彼はスピリチュアル(黒人霊歌)と出会い、これにぞっこんに。しかし、歌うにはソウルとガッツが必要だと言われる。「ゴスペル・トレイン」

上野戦争で死に損ない、妻と二人で「虹の国」ハワイへ移住して再起を図ろうとした伊奈弥二郎。待っていたのはサトウキビ農場での重労働だった。威圧的な白人農場主たちに、弥二郎とハワイ人労働者のエオノはストライク(労働争議)を決行する。「虹の国の侍」

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シベリア出兵にて、どうしても従えない命令を忌避して脱走兵になった、騎兵一等卒・鹿野三蔵。彼はモンゴルで、黒旗団(ハラ・スルデ・ブルク)という馬賊団に参加。生まれや人種を越えて、自らの国(ウルス)を探そうとする。「黒い旗のもとに」

神戸で生まれ育ち、祖国のためにインド国民軍婦人部隊、ラーニー・オブ・ジャンシー聯隊に志願した、少女・ヴィーナ。元サラリーマンの陸軍少尉で、インド独立指導者のチャンドラ・ボースに心酔する青年・蓮見孝太郎。インパール作戦で、近くて遠い二人の人生が交錯する。「進めデリーへ」

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322112001254/
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