現代に蘇った卑俗な化け狸が、この世の不平や悪を斬る!?怪談実話のトップランナーが満を持して放つ、冒険活劇!
『丹吉』松村進吉
化け狸・丹吉は、エッチな悪事によって徳島市方上町にある弁天山の卑猥な形の岩に封じられた。暇をもてあます丹吉は、参拝に来る松浦とち子を通じて現代社会の知見を得る。ある日、プチ弁天の力で受肉した丹吉は、阿波の平和を守るため妖怪退治を命じられるが……。令和版狸合戦がここに開幕!
『丹吉』松村進吉 試し読み#5
その時だった。
どこかで子供が泣いている。
しくしくと。声を殺して。
「……迷子か? いや、違うな。隠れてる」
ワイは鼻をヒクヒクさせ、風の匂いを嗅ぐ。
まだ乳臭い餓鬼だ。三つか、四つというところ。
「近くに親はいない?」
「いないようだ」
「様子を見に行きましょう」
「あっちだな」
なだらかな坂道の園路を回らず、ショートカット用の階段を上がる。
変な鳥ゾーンへと続く横道を無視して、そのまま真っすぐ。すると、五十メートルくらいの長さのトンネル通路に行き着く。通路の内壁はギャラリーになっていて、モザイクタイルだか切り絵だかの動物画が、左右にずらりとはめ込まれている。
その中央付近――ペンギンの画の前に設えられた、ベンチの陰。
地べたに座り込んでいる子供がいる。
白いダウンジャケットに紫のイヤーマフ。
ふ~む、と顎を擦りながらワイは近づく。
「……丹吉、この子は」
「わかってるよ」
子供が顔を上げた。
幼すぎて性別が定かではないが、持っている物からして多分、男児だろう。
泣き腫らした瞼の奥は黒目がちで、濡れた頬は凍えている。
ワイはよっこらせ、とその横に腰を下ろす。
「よう。ワイの名前は、丹吉狸。かつて〈阿波の国にこの狸在り〉と、その名を轟かせる寸前までいったこともある、ご立派な化け狸様じゃ。お前の名は?」
「…………」
「今日からここはワイのパトロール範囲になったんじゃが、事情次第では、命までは取らずにおいてやってもよい。……いや、坊主に訊いてるんじゃない。お前だ、〈兎〉」
ぴこぴこ。
ぴんッ……、とダウンジャケットの懐から長い耳が飛び出し、くるくる回る。
男児は慌ててそれを隠そうとしたが、続けてスンスンスンスン、とヒクつく鼻が迫り出し、身をよじり――やがてポーンッ、と大きく飛び跳ねた。
ああッと男児が声を上げ、捕まえようとするが、その手は空を切る。
宙を舞う、真っ白な――。
冬毛のノウサギ。
「――こんぬぉやるおおぉぉぉ! おのれ妖怪、化け狸! あたしのケント君から離れるぉおお!」
「おわッ!?」
兎はワイのストールを駆け上がり、頭の上に乗り、その場で地団太を踏んだ。
地団太、と言っても単なる足踏みではない。ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や、と数を唱えながら凄まじいスピードで頭頂部を連撃してくる。
「これは踏み鎮め――天鈿女命の舞いから発した、鎮魂の技」
蛇が、胸元で囁く。
え、何それ。こ、こ、こいつは、い、一体。
「おりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃ!」
「は、はええええええ……」
「ぬおおぉぉぉりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃ!!」
「は、は、は、はええええええええええええ……」
ワイの頭はバブルヘッド人形のようにブリブリ振動し、あっという間に気が遠くなる。
いかん――。
と、そこで緋のストールをかき分けて顔を出す黒い蛇。
舌を出し入れし、鋭い擦過音を吐きながら兎をねめつけた。
「さがれ。わをんな、われらあなかしこきべんざいてんのみつかひとしれ」
ビクン! と一度軽く跳ね、兎はワイの頭から男児の陰へと飛び、隠れる。
ワイは白目を剥いて、すぐさまその場に突っ伏した。
吐きそうだ。
「ヴォエッ……」
「……丹吉、大丈夫ですか。祓われてませんか」
「……あ、危ないところだった。単なる化け狸のままだったら――神使になってなければ、多分死んでた」
「神使〈候補〉ね。はい、無事で良かった」
「…………」
チッ、いちいち細かい奴だなぁ……。
ワイは何度かえずきながら、男児に庇われている兎を睨む。
兎はまだ興奮した様子で、チラチラ顔を出してはフガッ、フガッ、と威嚇しつつ飛び跳ねている。
まったく、どいつもこいつも!
「クソッ、この動物園は化け兎まで飼育してんのか!? 何なんだよお前は!!」
「いや化けてんのはあんたでしょ!? あたしは出雲の国から来た立派な神使、つーかなんで妖怪が弁天様にお仕えしてんの? 意味わかんないんだけど!」
「よ、妖怪とは何だコイツ、失敬な……。蛇、何とか言ってやれ」
「丹吉は本当に妖怪みたいなもんですから否定できません。それより、兎は何故こんなところにいるんです? この子供は?」
みたいなもんって……。
いやまあそら、大きな括りではソッチ系かも知れませんけど……。
兎は、蛇と男児を交互に見てから、少し耳を折る。
そして何やら、とんでもなく甘ったるい三温糖のような声で話し始める。
「あたしは――あたしはね、その、何て言うか色々あって、五年前からこの動物園のふれあいコーナーで、人間を癒す仕事をしてるの。ケント君はいつもあたしを指名してくれる常連さん」
「なるほど」
「でも、ちょっと今日はケント君、見てのとおりテンションがおかしくなっちゃって。無理やり店外に誘われて、ここまで拉致られちゃったんだ。多分今頃、ウェイターやケント君のお祖父さんが、必死に捜してると思う……」
「はい」
「……て言うのもそろそろあたし、店年齢的に限界だから、どこか別の箱に移籍しようと思ってたんだよね。やっぱほら、他の娘がどんどんお婆ちゃんになって死んでくのに、あたしだけ元気だと――浮いちゃうじゃない?」
「なるほど」
「で、ケント君にそれとなく、その話したの。あたしここ辞めようと思ってるんだーって。そしたら! ……お別れするのヤダよ、僕が飼う! って叫んで、ピューッ! ……凄くない? まだ四つなのに、カッコいいよね。ちょっとジ~ンと来ちゃったよ、アハッ!」
「はい」
「――いや待て待て。蛇。なるほど・はい、なるほど・はい、じゃないだろ何でこんな奴の話をご清聴しとるんじゃお前は」
ワイは漸く身体を起こし、ストールの隙間から生えた蛇と、眼前の性悪兎を見比べる。
兎は丸い尻尾を二、三度振り、小首を傾げてこちらを向く。
なぁに? とでも言いたげな顔である。
「ケッ、カワイ子ぶりやがって……。ワイはその手には乗らんぞ。貴様、自分を神使だと言ったな? でもそりゃ妙だ。遥々出雲から遣わされた神使が、こんな辺鄙な場所で何年も客商売なんかしてる訳がない。お前の正体は何だ、ここで何をしてる! 言え……!」
「……うぅ、うぇぇ~ん! ケントくぅ~ん! このオジサンがあたしをいじめるぅ!」
男児はハッとして兎を抱き上げると、再び己の懐の中に隠した。
そして小さな唇を引き結び、ワイを睨む。
なんとも健気なことだが。
「フスーッ……。坊主、そいつは普通のウサギじゃない。お前の家では飼えんと思うぞ」
「う、うるさい。あっちに行けっ。バニーちゃんは僕のだっ」
お、おう。……どうするんだこれ。
妖じみたシュガーボイスで人間を、それもこんな餓鬼をたぶらかしやがって。
この小僧、性癖が歪んでしまうのと違うか。
「丹吉。しかしこの兎が、神使の力を持っているのは間違いありません。そして出雲から来たというなら、その主は多分、大国主命です」
「えっ……。まじー?」
「我々神使はお役目に遣わされるか、あるいは自分自身の修行を許された時しか、主の元を離れない。そしてその修行の形というのは、それぞれの裁量に任されています」
「え、待ってくれ。裁量って、じゃあ結構フリーでウロウロできるのか?」
「フリーではありません。たとえ修行でも、厳とした目標を立てて出発するので、その誓いが果たされるまでは帰還も許されない」
「はは~ん……」
話が見えてきたぞ。