昭和51年4月1日、聖は府中町立府中小学校に入学した。学校は村山家から坂道を15分ほど歩いたところにあった。
小学校に入学しても聖の
お前は病気なのだから無茶しちゃいかんと伸一はことあるごとに言い聞かせたが、聖は耳を貸さない。3歳のころから兄の後をついて、山や川を駆け回った経験がいまは完全に裏目となっていた。思う存分に体を動かすことの喜びを幼いころに聖は知ってしまっていた。
そんな調子だったから聖が3度目の入院を
成長していくこととまるで反比例するかのような病気を、育ち盛りの聖はうまくコントロールすることができないでいた。ちぎられたまむしの
ちょうどこのころ、入院先の広島市民病院に院内学級が開設された。
府中小学校に入学してわずか1ヵ月で聖は地元の友達と別れ、広川学級という病院内の学校に転校することになったのだった。
学校といっても実態は入院生活そのものだった。
ある日、トミコが見舞いにいったとき、聖がぼそりと注文を出した。
「将棋の本を
トミコはいささか慌てた。
聖に本を買い
とりあえず広島でいちばん大きな古本屋にいってみることにした。そして、将棋の本を探した。
やがて、トミコは将棋の本が並んでいる一角を見つけ立ちどまった。そこにはトミコが想像していたよりもはるかに多くの、多種多様の将棋の本が並べられていた。トミコはその中からあまり迷うこともなく一冊の本を手にした。何の予備知識も情報もあるわけではなかった。ただ、病に
『将棋は
しかし、聖は白いシーツの上でむさぼるように読みつづけた。
「わかるんか。漢字なんか一つも読めんじゃろうが」と見舞いにいった伸一はある日、聖に
「漢字は読めんけど、でも大体のことは前後を何度も読みかえせばわかるんじゃ」と聖は
くる日もくる日も聖は『将棋は歩から』を読みふけった。それは少し進んでは前に戻り一字一字をかみ砕いてはまた進んでいくという、気の遠くなるような作業だった。
しかも、聖は伸一と何度か将棋を指したことがあるだけのまったくの初心者、あるいはそれ以前だった。
漢字も読めない小学1年生の聖がそれを読み進めることは、出口の決められていない海底トンネルを
しかし、聖は持ち前の集中力でそのトンネルを掘り進めた。そこに聖はいままでに何冊も読んだ物語にはない面白さを感じていた。書いてある内容を正確に理解することはできないが、子供なりに将棋というものの奥行きの深さや広がりを予感するのだった。
「母さん、また将棋の本を買うてきてくれ」
『将棋は歩から』を読破した聖はさっそくトミコに新しい注文を出した。そしてトミコは古本屋にいき当てもなく次の本を探す、そんなことが何度となく繰りかえされるようになった。
そのたびにトミコは古本屋の将棋の書棚の前で立ちつくす。とにかく、子供にもわかりやすそうな本、それだけがトミコが手にしているたった一本の
昭和52年3月、聖は小学2年生を目前にしていた。
病状は一進一退をつづけていた。
ちょっと元気になっては、はしゃいでまた熱を出す。くるくると同じ輪の中を走りつづけるはつか
主治医は病院の看護態勢に限界を感じはじめていた。子供たちにとって病院の広く長い
3月のある日、伸一は広島市民病院から呼び出しを受けた。
「病院で、聖君は少しもじっとしていてくれません」と医師は言った。
「このまま入院していても、悪くなることはないにしても
くるくるといつまで回りつづけても、結局は同じ場所を走っている、そのことに医者も本人も気づき苛立ちはじめている。環境を変えて、その輪の中からいったん降ろしてやるべきではないかというのが、主治医の見解であった。そして、国立
そこは広島市内から車で西へ1時間ほどの
そこで聖が本当に輪の中から降りられるかどうかは、伸一にはわからない。しかし、環境を変えたほうがいいという主治医の言葉に反論すべきものが何もないことも否定できない事実だった。
昭和52年6月6日、小学2年になったばかりの聖は伸一の運転する車に乗せられ原療養所に入院することになる。入院と同時にそれは聖にとって、早くも2度目の転校でもあった。
国立原療養学校は国道2号線を
第1、第2病棟は
第1病棟の5号室が聖の新しい生活の場となった。
闘病、遊び、勉学、子供たちの生活のすべては施設という閉ざされた空間で営まれ、ほとんどのことをその中で学んでいく。
建物の中が子供たちの世界であり、社会であった。友情やいたわり、けんかや
小学2年で入所した聖も最初のころは、けんかをしたり大事なおもちゃが
毎日の生活は規則正しいタイムスケジュールで営まれていた。
朝6時、
8時30分に隣の
10時から10時30分までは安静時間といって体を動かさずにベッドの上でじっとしていなくてはならない。
11時、自由時間。12時、昼食。
午後は1時から2度目の安静時間。
2時、午後の授業。4時、自由時間。5時、夕食。
6時から7時まで3度目の安静時間。7時、おやつと
8時、自由時間。9時、
自分に許される自由なスペースは、大部屋に並べられた6つの白いスチール製の小さなベッドのうちの一つ。
そこが聖の王国だった。
兵隊のような生活である。ただ、闘う相手が自分自身の中にあるということが大きな違いだった。
聖はありとあらゆることを、その小さなベッドの上で営まなければならなかった。しかし、5歳のころから入院生活に慣れている聖にとってそれはそんなに難しいことではなかった。
週に1度、伸一とトミコは面会を許され、自家用車で聖に会いにいった。毎週土曜日、それは聖が6年生になり退院するまで、ただの一度も欠かすことなくつづけられた。
療養所の生活に慣れてきた聖は再び将棋の本を読みはじめる。それも毎日、6時間から長い日は7時間。安静時間や自由時間を拾い集めて、そして時には就寝後の寝静まった部屋のベッドの上で、聖はむさぼるように将棋の勉強をつづけた。
なぜ、こんなに夢中になるのか誰にもわからなかった。もちろん本人にもわからない。ただそうすることに、聖は
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