カドブンで好評をいただいている、ミステリー『虜囚の犬』。
公開期間が終了した物語冒頭を「もう一度読みたい!」、「7月9日の書籍刊行まで待てない!」という声にお応えして、集中再掲載を実施します!
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(応募要項は記事末尾をご覧ください)
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7
目覚めは、お世辞にも
眠りが浅かったせいで体がだるい。しっかり十時間ベッドにいたというのに頭が重く、思考は霧がかかったようだ。
そんな兄とは対照的に、接待で遅かったはずの
毒にも薬にもならないBS放送の旅番組を眺めながら、彼はコーヒーを一杯飲み、なんとか脳を目覚めさせてゴミ出しに向かった。
このマンションのゴミ捨てルールは厳格である。
二十四時間、何曜日だろうと捨てていいマンションも多いようだが、ここは〝可燃ゴミは月水金。不燃ゴミは第二と第四木曜。前夜に出すのは不可。分別厳守。朝八時まで厳守〟だ。もし破ろうものなら、マンションの自治会に呼びだされて小一時間は説教をされるとの
ゴミステーションには、すでに顔見知りの主婦数人がたむろしていた。
専業主夫をはじめた当初は、彼女たちから刺すような視線を向けられたものだ。しかしここ二年は、いたって良好な関係を築いている。「新しくできた店は、スーパーよりヨーグルトが二十円安いわよ」だの、「駅裏の自転車屋なら、無料でパンク修理してくれますよ」だのと情報を交換し合える仲だ。最近は垣根が低くなりすぎて、
「白石さんって結婚しないの? 彼女いないの?」
「うちの
などといらぬお節介まで焼かれるようになっていた。
「どうも、おはようございます」
礼儀正しく、白石は井戸端会議に参入した。
「あら白石さん、おはよう」
「おはよう。ねえ、なんだか空気が湿っぽいと思わない? これは一雨来るわよ」
「そうよね。予報じゃ降水確率三十パーセントだったけど、信じないほうがいい。今日は絶対降るわ。雨の匂いが近いもの」
なるほど、では今日は洗濯はやめよう──とうなずきながら、白石は集積箱を開けてゴミ袋を置いた。振りかえって、主婦たちに話題を振る。
「それはそうと、最近このあたりも物騒ですねえ」
ちょっと話の入り口としては唐突かな、と思わないでもなかった。
しかしあにはからんや、主婦たちは一斉に飛びついてきた。
「そうそう。ほんっと最近どうかしてるわよねえ」
「聞いた? 通園路で昨日、また変な男から声かけ事案があったんだって」
「聞いた聞いた。近ごろじゃ、ちょっとの間でも油断できないのよねえ。いい
「そ、その件ももちろん怖いですが──」
白石は割って入った。
「怖いですよね。
その言葉に、主婦たちは顔を見合わせた。
ほんの数秒黙ったあと、ふたたび
「地元の恥よね、あんなの!」
「おっかないなんてもんじゃないわよ。次元が違うわ。警察もほんと、頼りにならないったら。あの男、なんでいままで捕まらなかったの?」
「古塚市の
「親の因果、あるある! 先代の薩摩さん、恨み買いまくってたものね。当の父親が刺されるんじゃなくて、刺されたのが息子さんな上、あんな事件を起こしてたなんてねえ。ああ
「あの家もこれで終わりよね。お家断絶ってやつよ」
あまりにも速いテンポで交わされる会話に、
「せ、先代の薩摩さんは、恨みを〝買いまくってた〟んですか」
白石はやっとのことで口を挟んだ。
「それってつまり──例の
「もちろんよお」
輪の中央を陣取る主婦が、自信たっぷりに言った。
「大須賀さんなんて、薩摩さんがらみじゃ恨み系の筆頭でしょ」
「え、大須賀さん? 誰それ?」
「ほら、大火事の人よう。土地を
「ああ、あの人! 大須賀さんって名前だったのね。一家で夜逃げして、その後は行方がわかってないんだっけか」
「
白石は辛抱強く聞き役に専念した。
結果、大須賀家についてわかったことは以下だ。
二十五年前、大須賀家の当主が七十代で亡くなった。土地家屋を相続したのは、一人息子の
口車でいいように転がされた大須賀光男は、気づけば土地家屋の所有権を移転させられ、多額の抵当権を付けて借り入れを起こされていた。これはまずいのでは、と思ったときはもう遅かった。虎の子の土地は、金融機関によって競売にかけられていた。おまけに
その土地を、競売で安く買い
なお大須賀光男に先のNPO団体を勧めたのは、他ならぬ伊知郎自身だったという。不動産会社とも、以前から懇意な間柄であった。
すべてを光男が知ったのは、彼らに身ぐるみ
進退きわまった大須賀一家は、郊外の借家へ引っ越さざるを得なかった。
だが悪いことは重なるものだ、
たてつづけに夫と財産を失った光男の母親は、心労に耐えられなかった。彼女は悲嘆のうちに、認知症を発症した。
光男と妻は、昼も夜も老母の
光男はしかたなく、妻を退職させた。妻は介護に、家事育児に、内職にと奔走した。別人になり果てた老母は、夜中でも泣きわめき、外をさまよい歩き、壁や床に
半年後、妻は家を出た。駆け落ちしたのである。相手は、元取り引き先の従業員であった。
仕事から帰宅した光男は、テーブルに残された書き置きを発見した。認知症の老母と子供たちを抱え、彼は
さらに二箇月後、決定的な事件が起こる。
大須賀家は火事を出したのだ。
原因は老母の火遊びである。妻のいない家は荒れ放題で、ゴミ屋敷同然だった。燃え種にはこと欠かなかった。
借家は密集した住宅街に建っており、消火栓からかなり離れていた。しかも出火時刻は、人びとが寝静まった真夜中であった。
大須賀一家が住んでいた借家は、全焼した。
そればかりか周囲の六軒に延焼し、うち三軒が全焼した。
借家の焼け跡からは、炭化した老母の遺体が発見された。また隣家の赤ん坊と母親が焼死し、重軽傷者は十七名にのぼる大惨事となった。
光男と子供たちは、手当てを受けた救急病院からそのまま失踪した。身ひとつの、まさに夜逃げである。
失火で七軒を焼いた上、生後八箇月の赤ん坊と若妻を死なせたのだ。二度と故郷の地は踏めないだろう、失意の
(つづく)
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