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【話題作再掲】認知症の義母の介護要員になった妻が、男と消えるまで。怒濤のどんでん返しミステリー!櫛木理宇『虜囚の犬』#15

カドブンで好評をいただいている、ミステリー『虜囚の犬』。
公開期間が終了した物語冒頭を「もう一度読みたい!」、「7月9日の書籍刊行まで待てない!」という声にお応えして、集中再掲載を実施します!
※作品の感想をツイートしていただいた方に、サイン本のプレゼント企画実施中。
(応募要項は記事末尾をご覧ください)

 ◆ ◆ ◆

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      7

 目覚めは、お世辞にもすがすがしいとは言えなかった。

 眠りが浅かったせいで体がだるい。しっかり十時間ベッドにいたというのに頭が重く、思考は霧がかかったようだ。

 そんな兄とは対照的に、接待で遅かったはずのは晴れ晴れと出勤していた。日課のジョギングをこなしたらしく、シューズがに立てかけられている。朝食もきれいにたいらげてあった。

 しらいしは自己嫌悪にまみれつつ、コーヒー豆を全自動コーヒーメーカーにセットした。可燃ゴミの袋を持ちあげ、口を縛る。

 毒にも薬にもならないBS放送の旅番組を眺めながら、彼はコーヒーを一杯飲み、なんとか脳を目覚めさせてゴミ出しに向かった。

 このマンションのゴミ捨てルールは厳格である。

 二十四時間、何曜日だろうと捨てていいマンションも多いようだが、ここは〝可燃ゴミは月水金。不燃ゴミは第二と第四木曜。前夜に出すのは不可。分別厳守。朝八時まで厳守〟だ。もし破ろうものなら、マンションの自治会に呼びだされて小一時間は説教をされるとのうわさだった。

 ゴミステーションには、すでに顔見知りの主婦数人がたむろしていた。

 専業主夫をはじめた当初は、彼女たちから刺すような視線を向けられたものだ。しかしここ二年は、いたって良好な関係を築いている。「新しくできた店は、スーパーよりヨーグルトが二十円安いわよ」だの、「駅裏の自転車屋なら、無料でパンク修理してくれますよ」だのと情報を交換し合える仲だ。最近は垣根が低くなりすぎて、

「白石さんって結婚しないの? 彼女いないの?」

「うちのめいっ子が独身なんだけど、どうかしら」

 などといらぬお節介まで焼かれるようになっていた。

「どうも、おはようございます」

 礼儀正しく、白石は井戸端会議に参入した。

「あら白石さん、おはよう」

「おはよう。ねえ、なんだか空気が湿っぽいと思わない? これは一雨来るわよ」

「そうよね。予報じゃ降水確率三十パーセントだったけど、信じないほうがいい。今日は絶対降るわ。雨の匂いが近いもの」

 なるほど、では今日は洗濯はやめよう──とうなずきながら、白石は集積箱を開けてゴミ袋を置いた。振りかえって、主婦たちに話題を振る。

「それはそうと、最近このあたりも物騒ですねえ」

 ちょっと話の入り口としては唐突かな、と思わないでもなかった。

 しかしあにはからんや、主婦たちは一斉に飛びついてきた。

「そうそう。ほんっと最近どうかしてるわよねえ」

「聞いた? 通園路で昨日、また変な男から声かけ事案があったんだって」

「聞いた聞いた。近ごろじゃ、ちょっとの間でも油断できないのよねえ。いいとしの男が平日の昼間っから幼稚園児に声かけるって、ああ、想像しただけでおっかない」

「そ、その件ももちろん怖いですが──」

 白石は割って入った。

「怖いですよね。づか市の女性監禁事件と、犯人の刺殺事件。まだ刺した犯人は捕まっていませんし、事件の背景がよくわからないしで」

 その言葉に、主婦たちは顔を見合わせた。

 ほんの数秒黙ったあと、ふたたびせきを切ったようにしゃべりだす。

「地元の恥よね、あんなの!」

「おっかないなんてもんじゃないわよ。次元が違うわ。警察もほんと、頼りにならないったら。あの男、なんでいままで捕まらなかったの?」

「古塚市のさつさんって有名よねえ。生前、いい噂は聞いたことなかったわ。親の因果がなんとやらってやつ? 犯人が捕まらないのは怖いけど、あの息子が野放しになってたことのほうがよっぽど恐怖だわ」

「親の因果、あるある! 先代の薩摩さん、恨み買いまくってたものね。当の父親が刺されるんじゃなくて、刺されたのが息子さんな上、あんな事件を起こしてたなんてねえ。ああわ。因果としか言いようがない」

「あの家もこれで終わりよね。お家断絶ってやつよ」

 あまりにも速いテンポで交わされる会話に、

「せ、先代の薩摩さんは、恨みを〝買いまくってた〟んですか」

 白石はやっとのことで口を挟んだ。

「それってつまり──例のおおさんの件、も含んでるんでしょうか?」

「もちろんよお」

 輪の中央を陣取る主婦が、自信たっぷりに言った。

「大須賀さんなんて、薩摩さんがらみじゃ恨み系の筆頭でしょ」

「え、大須賀さん? 誰それ?」

「ほら、大火事の人よう。土地をだましとられちゃったとかで、そのあと火事で……」

「ああ、あの人! 大須賀さんって名前だったのね。一家で夜逃げして、その後は行方がわかってないんだっけか」

ふくはあざなえる縄のごとし、なんて言うけど、あれうそよね。不幸って一気に雪崩みたいにやって来るものよねえ。いい証拠が、あの大須賀さんとこよ」

 白石は辛抱強く聞き役に専念した。

 結果、大須賀家についてわかったことは以下だ。

 二十五年前、大須賀家の当主が七十代で亡くなった。土地家屋を相続したのは、一人息子のみつであった。しかし相続手続きの過程で、彼はたちの悪い不動産会社に目をつけられてしまった。

 口車でいいように転がされた大須賀光男は、気づけば土地家屋の所有権を移転させられ、多額の抵当権を付けて借り入れを起こされていた。これはまずいのでは、と思ったときはもう遅かった。虎の子の土地は、金融機関によって競売にかけられていた。おまけにわらをもつかむ思いで解決を託したNPO団体も、不動産会社とぐるだった。

 その土地を、競売で安く買いたたいたのが薩摩ろうだ。

 なお大須賀光男に先のNPO団体を勧めたのは、他ならぬ伊知郎自身だったという。不動産会社とも、以前から懇意な間柄であった。

 すべてを光男が知ったのは、彼らに身ぐるみがされてからだ。

 進退きわまった大須賀一家は、郊外の借家へ引っ越さざるを得なかった。

 だが悪いことは重なるものだ、

 たてつづけに夫と財産を失った光男の母親は、心労に耐えられなかった。彼女は悲嘆のうちに、認知症を発症した。

 光男と妻は、昼も夜も老母のはいかいに悩まされるようになった。役所にかけ合ったが、特養老人施設の空きはなかった。「百人単位での順番待ちだ」と言われた。

 光男はしかたなく、妻を退職させた。妻は介護に、家事育児に、内職にと奔走した。別人になり果てた老母は、夜中でも泣きわめき、外をさまよい歩き、壁や床にふん尿にようを塗りたくった。

 半年後、妻は家を出た。駆け落ちしたのである。相手は、元取り引き先の従業員であった。

 仕事から帰宅した光男は、テーブルに残された書き置きを発見した。認知症の老母と子供たちを抱え、彼はぼうぜんとするしかなかった。

 さらに二箇月後、決定的な事件が起こる。

 大須賀家は火事を出したのだ。

 原因は老母の火遊びである。妻のいない家は荒れ放題で、ゴミ屋敷同然だった。燃え種にはこと欠かなかった。

 借家は密集した住宅街に建っており、消火栓からかなり離れていた。しかも出火時刻は、人びとが寝静まった真夜中であった。

 大須賀一家が住んでいた借家は、全焼した。

 そればかりか周囲の六軒に延焼し、うち三軒が全焼した。

 借家の焼け跡からは、炭化した老母の遺体が発見された。また隣家の赤ん坊と母親が焼死し、重軽傷者は十七名にのぼる大惨事となった。

 光男と子供たちは、手当てを受けた救急病院からそのまま失踪した。身ひとつの、まさに夜逃げである。

 失火で七軒を焼いた上、生後八箇月の赤ん坊と若妻を死なせたのだ。二度と故郷の地は踏めないだろう、失意のとんそうであった。

(つづく)

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