カドブンで好評をいただいている、ミステリー『虜囚の犬』。
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◆ ◆ ◆
>>前話を読む
「よう、ひさしぶりだな、白石」
片手を挙げ、テーブルの正面に男が立つ。
白石は立ちあがり、丁寧に腰を折って挨拶した。
「おひさしぶりです。
「そうしゃちほこばるなよ。おれはもうおまえの上司じゃないぜ」
元主任こと名取は、そう笑って手を振った。
むろん軽口だ。わかってはいたが、白石の胸はちくりと痛んだ。そうだ、もう彼は上司でも先輩でもない。──白石が退職してしまったからだ。
「お呼びたてしてすみません」
「いや、どうせランチはいつも外で食ってるんだ。ちょうどよかった」
名取は手を伸ばし、メニューをひらいた。
場所は水戸家庭裁判所近くのビストロである。奥の個室を電話で予約したのは、約一時間前のことだ。かつては白石自身も足しげく通った店で、名物はビーフシチューと白身魚のグラタンだった。
「おれがこっちに戻ってきたと、よく知ってたな」
「いただいた年賀状に書いてありましたよ」
「そうか。そういやあ書いた気がする」
白石の答えに、名取は大げさに額を叩いた。
家裁調査官はおおよそ三、四年のサイクルで転勤を繰りかえす。白石が二年目の春、名取は
名取はビーフシチューを、白石はグラタンのランチセットを頼んだ。ウエイトレスが出ていくのを待って、白石は切り出した。
「……薩摩治郎くんのニュースを、ご覧になりましたか」
名取が眉を曇らせる。
「
「すみません。でも彼について話せる人が、ほかにいなくて」
「言っておくが、おまえのせいじゃないぞ」
名取はわずかに目をそらして言った。
「おまえが罪悪感を抱くいわれはない。おれたちはちゃんと仕事をした。おれもおまえも裁判官も、幾度となく合議して、少年にとって最適と思える道を模索したんだ。その結果が、あれだ。……事件から七年も経ってる。残念だが、彼の犯行はおれたちの手から完全に離れたところで起こった」
おれたち、か──。白石は目を伏せた。
当時、白石は薩摩治郎を受けもった。そして目の前の名取は、主犯の
個室のドアがノックされた。
入ってきたのは、さっきとは違うウエイトレスだった。サラダとスープ、カトラリーの籠を置き、一礼して出て行く。
白石は尋ねた。
「伊田くんのその後を、ご存じですか」
和井田から防犯カメラの男の体格を聞かされたとき、白石が真っ先に思い浮かべたのは伊田瞬矢だった。
百七十センチを切るくらいの中背で瘦せ型。当時の伊田は、軽量級のボクサーを思わせる体つきの少年だった。
名取がサラダにフォークを突き立てた。
「担当少年の個人情報は教えられんぞ。それくらい、当然おまえだってわかっているだろう」
ということは彼の現状を把握しているらしい。白石は殊勝な顔をつくって、
「わかっていますが、気になってしょうがないんです」と言った。
「なにがだ」
「伊田くんは鑑別所送致と決まったとき、『おれは悪くない。全部、薩摩のせいだ』とずいぶん暴れたでしょう。『おれは刺すつもりじゃなかった。薩摩が急におかしくなったから、あせってナイフを突き出しちまったんだ。おれが鑑別所行きなら、薩摩のやつは精神病院にぶちこまなきゃ不公平だ』と……。彼はかなり、治郎くんを恨んでいた様子でした」
「おいおい。伊田くんが薩摩治郎を殺したとでも言いたいのか?」
名取は無作法にスープスプーンを振った。
「あり得んよ。そりゃあ伊田くんは確かに、退所してしばらくは荒れていた。だがいまはすっかり更生してる。いまの会社だって、勤めてもう四年目だ。しかも正社員だぞ。親御さんだって『別人のようにまるくなった』って喜んでるんだ」
では現在も近場に住んでいるんだな。白石は思った。この口ぶりなら、まだ親元にいるのかもしれない。
「伊田くんは、もう治郎くんを恨んでいないんですか?」
「当たりまえだ。あのとき『薩摩のせいだ』と言い出したのだって、八つ当たりの悪あがきみたいなもんだったじゃないか。おまえも、いきさつは知ってるだろう」
「ええ」
白石は首肯した。
事件の概要ははっきり覚えている。
あの夜、伊田瞬矢は治郎ともう一人の仲間を連れて繁華街へと繰り出した。いざこざは午後九時過ぎ、伊田が通りですれ違った少年に因縁を付けたことからはじまった。ごくオーソドックスな、「面付きが気に入らない。金を出せ」といったたぐいの因縁だ。しかし相手の少年が拒んだため、彼らはその場で言い争いとなった。
悲劇は直後に起こった。
伊田瞬矢の証言によれば、「相手と
仲間の証言も一致していた。薩摩治郎は突然、恐慌発作に似た症状を起こして激しく震えだし、その場で悲鳴をあげはじめた。
パニックは、まわりの少年たちにも伝染した。まず被害者少年がナイフを取り出した。伊田瞬矢も自分のバタフライナイフを出し、刃をあらわにした。
伊田は被害者少年と
「気が付いたら、ブレードがあいつの腹に
のだという。
それがあの事件のほぼ全容だ。少年らしく短絡的な、それだけに悔やまれる傷害事件であった。
白石は目線を上げた。
「でも被害者少年の腹部に刺さったナイフは、伊田瞬矢のものではなかったんですよね。伊田所有のバタフライナイフは、すでに叩き落とされていた。被害者少年は伊田と揉み合ううちに、自身の所持品であるナイフで腹部を刺されてしまった」
「ああ。先に刃物を出したのは被害者だった、という点が重視された。
「でも治郎くんはなぜ、あの程度のことでパニックになったんでしょう」
白石は言った。
じつを言えば、治郎があのとき恐慌状態に陥った理由を、白石は知らない。書類には「怖くなった。逃げたかった」としか記述がなかった。治郎自身は話そうとしなかったし、その点は審判で重要視されなかった。
──でもいま、ぼくはそこが知りたい。
だからこその鎌かけだった。
名取はナプキンで口を拭いて言った。
「あの程度のこと、なんて言ってやるなよ。思春期の少年はデリケートで、侮辱には過敏なものだ。おまえだって、
──そこの犬っころ。
顔に動揺が表れないよう、白石はこらえた。
名取が言葉を継ぐ。
「少年たちの陰に隠れておどおどしていた治郎くんは、いかにも使いっ走り然として見えたんだろうな。確かに、おれたちから見りゃ『あの程度』の言葉かもしれん。でもさんざんいじめられ、からかわれていた治郎くんにとっては違う。傷ついた少年本人にしか、その傷の深さと痛みはわからない」
「……そうですね。すみません」
白石は低く謝り、
「治郎くんは、犬が嫌いでした」と付けくわえた。
「そうか」
名取がうなずく。
ふたたびノックの音がした。
運ばれてきたのはメイン料理とパンだった。ぐつぐつ煮立つシチューボウルとグラタン皿に、二種のパン。バターとバジル入りのオリーヴオイルが添えられている。
「まあともかく、伊田くんは治郎くん殺しの犯人じゃない。そいつは百パーセント確かだ」
名取は言った。
「彼にはアリバイがある。その時刻は、社をあげて廃ビルの解体作業にかかっていたんだ。元請けの現場監督ならびに、社員全員が証人さ」
それを知っているということは、つまり名取も伊田瞬矢のアリバイを確かめたということになる。だが白石はあえて追及しなかった。
「すみませんでした」
椅子からすこし腰を浮かせ、あらためて名取に深く頭を下げる。
「こんなことを訊くなんて、失礼だとはわかっていたんです。でもニュースを観てから、不安で、いてもたってもいられなくて……」
「ああいや、いいんだ」
名取が慌てたように言う。
「おまえも──その、いろいろ大変だもんな。まだカウンセリングを受けてるんだろう? あんなニュースを観たら、心が揺れるのは無理ないよ。おれだって、正直言ってかなりビビった」
彼はビーフシチューのボウルを指さし、
「さて、食おうぜ」
とナイフとフォークを取り上げた。
「メインの前に、おまえが納得してくれてよかったよ。わだかまりを抱えたまま食ったって
デザートは、ヴァニラアイスクリームを添えた黒糖のシフォンケーキだった。濃いコーヒーとともに、ゆったりと口に運ぶ。
「今日は、お時間を割いてくださってありがとうございます」
しかつめらしく礼を言う白石に、
「いいって」名取は
「おれもおまえのことは気になっていたし、一度会いたいと思ってた」
フォークを置き、小声で言う。
「……
白石の手が止まった。
名取は彼をいたましそうに見て、
「なんで知ってるんだ、って顔だな。お節介ですまん。東京の本庁には、おれの同期も何人かいたんだ」
と言った。だがその言葉は、白石の耳を右から左へ素通りしていった。
ある女性の白い顔が浮かび、脳のあらかたを占めてしまう。
紺野
同時に海馬の奥から、よみがえってくる声がある。
──
少年の声だ。嘲笑を含んだ、かん高い声音だった。
──ケツをこっちに向けろよ。雌犬。
一瞬、白石はきつくまぶたを閉じた。脳内で十数えてから、目をひらく。
「会えません……よ」
なんとか言葉を押し出した。急に個室内の酸素が薄まったように感じた。息苦しい。胸が詰まって痛い。
「……彼女のほうが、ぼくに、会いたがらないでしょう」
シフォンケーキの食感が、口中で乾いたスポンジに変わった。
4
七年前、薩摩家で家政婦を務めていた女性は元気そうだった。名は
幸恵は白石から有名店のシュークリームを受けとって、
「これはまた、懐かしいお客さまだこと。ご丁寧にお菓子までありがとうございます。お父さん、お客さまからお土産をいただきましたよ」
と奥の仏壇に化粧箱を供え、
仏壇に線香を上げさせてもらってから、白石は客間の座卓に座りなおした。
「すでにお察しとは思いますが、本日は薩摩治郎くんについてお話をうかがいたく、お邪魔しました」
「ええ、……そうですよね」
幸恵は
「悲しいことに、坊ちゃんは亡くなられてしまいました。家庭裁判所というのは、対象が死んでからも調査なさるものなんですね」
「そこはまあ、ケースバイケースです」
白石は言葉を濁した。この程度なら、ぎりぎり資格詐称にはあたるまい。
「幸恵さんは、薩摩家をいつお辞めになったんですか」
「旦那さまが亡くなった三箇月後です。奥さまが『あの人ももういないし、わたし一人なら身のまわりのことくらいできますから。それに治郎が、家に人が出入りするのをいやがるし……』と」
「そのときには、治郎くんはもう離れ家に住んでいたんですか?」
「ええ。あそこに籠もって、出てこなくなったんです。食事は昼と夜の二回、奥さまが毎日届けておいででした。わたしが運ぶのでは駄目だったんです。絶対に、奥さまでないと」
「外から、彼の暮らしぶりはうかがえましたか」
「いえ全然。
「たまにコンビニなどで買い物をしていたようですが」
「夜食を買いに出るくらいはあったようですね。わたしは夕方の五時で帰りましたから、まったく会えませんでしたが」
幸恵は頰に手をあて、ため息を
「まさかあの坊ちゃんが、女の人をさらって閉じこめるだなんて……。いまでも信じられません」
おとなしい、やさしい子だったのに──。
そう言って目がしらを押さえる。
「旦那さまのせいですよ。坊ちゃんから全部取りあげて、旦那さまの勝手ばかり押しつけて……。子供なんて、親が思うように育ちゃしない、と覚悟しながら育てるくらいでちょうどいいんです」
「治郎くんの友達が、家に来られないようにしてしまったそうですね。庭師の
白石が言うと、幸恵は涙ぐんだ。
「ええ。お友達も趣味も、なにもかも坊ちゃんから取りあげてしまいなすってね。それだけじゃありませんよ。奥さまに甘えることまで禁止したんです。子供から母親を奪うなんて、これほどひどいことはないでしょう?」
「伊知郎さんは、なぜそこまでしたんでしょうか。あの人は治郎くんを、どうしたかったんだろう」
「自分の言うことだけを聞く、ロボットみたいな子にしたかったんでしょうよ」
彼女は語気を強めた。
「旦那さまが、坊ちゃんを愛していなかったとは思いません。でも、やりかたは完全に間違っていました。旦那さまは自分のコピーとして子供を欲しがっていた。なのに、徹底的に子供が嫌いでした」
「子供と見ると、誰かれかまわず怒鳴りつけていたそうですね」
「ええ、例のあの調子で」
幸恵が大きくうなずく。
白石は伊知郎の口調を真似て、「『ガキが。馬鹿ガキがっ』」と吐き捨てた。
予想以上に似ていたらしい。幸恵がぷっと噴き出した。
「それです、それ。ほとんど口癖でしたよ。坊ちゃんに対しても言っていましたもの。『この馬鹿ガキがっ』ってね。旦那さまから見れば、子供はみんな臭くてうるさくて邪魔なんです。坊ちゃんのお友達、近所の子、善吉さんのお孫さん……。
ポットから急須に湯を注いで、
「善吉さんは、昔から家業はお孫さんに継がせるつもりだったんですよ。でも旦那さまがああだから、お孫さんは薩摩家のお庭に入れなくてね。広いお庭なのに、善吉さん一人でやらなくちゃいけなくて困ってましたっけ」
しみじみと言う。
白石は頃合いとみて、言った。
「善吉さんといえば、先日お会いしたときに不思議なことを言っていましたよ」
「あら、なんて?」
「……『薩摩家にかかわったせいで、疫病神にでもとっ憑かれたかねえ。いや、神は神でも犬神かな』と」
効果はてきめんだった。
幸恵の顔いろが、さっと変わった。
「やめてください」
一瞬青くなった顔に、今度は血がのぼる。
「そんな……いまどき
犬神筋か、と白石は胸中でつぶやく。
しかしここは素直に、「すみません」と謝っておいた。
「失礼しました。しかし疫病神うんぬんと言いたくなる気持ちは、ぼくもわからないでもないんです。おとなしい子だった治郎くんがなぜあんなふうになってしまったのか、なぜ殺されたのか。それをなにものかのせいにしたくなる気持ちはね」
「それは、まあ……。ええ。そうかもしれませんね」
不承不承、といった顔つきで幸恵は同意した。
多少ながら怒りはおさまったようだ。しかし湯吞に二杯目の茶を注ぐ手は、まだわずかに震えていた。
「治郎くんを恨んでいた人に、心当たりはありますか?」
「ありませんよ。あるわけがない」
幸恵が突き放すように言う。機嫌をとるべきか、もっと怒らせるべきかと迷い、白石は後者を選んだ。
「……ですが、
次の瞬間、幸恵が見せた反応は白石の予想とは違っていた。
彼女は怒らなかった。代わりに目を見ひらき、唇を無音で動かした。その唇は「まさか」と読みとれた。
──まさか、そんな。
「考えられませんか」
駄目押しのように問う。
「そんな、だっていまさら……。いえ、だとしても恨みは旦那さまに向かうはずで、坊ちゃんには……」
「父親への恨みが息子に向かう例は珍しくないですよ。治郎くんは伊知郎さんの一粒種だった。伊知郎さん亡きいま、鬱憤晴らしにはうってつけの相手とも言える」
「でも、大須賀さんは死んだと聞きました。その証拠にお墓参りにもあらわれないし、あれきり二度と戻ってこなかった。そんな、そんな……」
いまや幸恵は、拝むように
どうやら伊知郎はそうとうな恨みを〝大須賀〟から買っていたらしい。この件は和井田の調べを待つか、と白石は考えた。この場で幸恵に訊いても、すじみち立った答えは返ってきそうにない。
二杯目の茶をもらい、白石は質問を変えた。
「薩摩志津さんには、事件後、お会いになられましたか」
「ええ、一度だけ。それはもう、
幸恵は悲しげに言った。
「家を売って、引っ越すかもしれないとおっしゃっていました。当然ですわね。こうなってしまっては誰も知らない土地で、ひっそり暮らされたほうがお耳の具合にもいいでしょう」
「ですね」
白石は
「──アズサという名前のかたに、お心当たりはありませんか?」
家政婦の顔いろが、また変わった。
犬神どうこうと言われたときとは、また違った反応であった。
「知りません」
彼女は早口で言い、手を揉み合わせはじめた。
見るからにそわそわと落ち着かない仕草だ。
ここまでだな、と白石は予想した。幸恵はその予測を裏切らず、
「あのう、わたし、そういえば用事を思い出しました。……すみませんが、お話のつづきはまたにしてくださいます?」
と玄関の方向を手で示した。
目は、白石からそらしたままだった。
(つづく)
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