カドブンで好評をいただいている、ミステリー『虜囚の犬』。
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◆ ◆ ◆
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再生が終わった。
「北畠彩香の声を聴いてみて、どうだ」
和井田が言う。
「なにかわかったか」
「ああ」
白石は答えた。
「当然だが、北畠さんは傷ついている。無力感に打ちのめされている。だが監禁される前……いや夫にDVを受ける前から、おそらく自己肯定感の低い女性だった。稲葉千夏もそうだったと思うが、『わたしはこんな目に遭っていい人間ではない』、『一個の人間であり、不当な扱いは受け入れない』という、確固たる意志が乏しい。たぶん北畠さんの生い立ちも、恵まれていなかったんじゃないだろうか」
「当たりだ」
和井田は低く言った。
「北畠彩香の生家は、ちょっとばかり特殊でな。父方の曽祖父母と祖父母、叔父、両親、弟、そして彩香の九人が一つの家にひしめき合って暮らしていた。しかし働いていたのは彩香の父親だけで、あとは全員無職だ。とくにこの叔父が
「それは虐待だ」
白石は憤然と言った。
「子供を直接殴ることだけが、虐待じゃない。日常的に暴力をふるう姿を、子供に見せるのだって十二分に虐待なんだ」
「おれもそこは同感だ。……話を戻すが、北畠彩香は高校を卒業後に就職し、せっせと家に金を入れていたそうだ。『母のためだった』と言っている。苦労した母を守りたい一方で、彩香は生家を出たくてしかたがなかった。おかしな男に引っかかったのは、そのせいだろうな。自由のない女にとって、結婚は生家を出るための大義名分として最適だ」
「自己肯定感の低い人間ばかりだ」
白石は声を落とした。
「治郎くん、北畠彩香さん、稲葉千夏さん。全員が虐待の被害者だ。治郎くんの『ぼくたちは、みんな犬だ』という自虐的な言葉も、いたって示唆的だ」
「かもな」
和井田はいったん同意して、
「だがいまは示唆どうこうと悠長なことは言ってられん。それより、女を監禁する男の心理を教えろ。とくに薩摩治郎のような男が、女を監禁して殺す心理についてな」
「さっきも言ったが、治郎くんは自己肯定感と自尊心が低かった」
白石は
「彼は女性と対等な関係を築けない。自由意思がある女性や、自分の足で行動する女性は、性的対象どころか恐怖の対象だ。けっして逆らわない、出て行けない、彼を馬鹿にしない女性相手でないと、安らげないんだ」
「だから女が欲しけりゃ、さらって監禁するしかない、と? 要するに弱った女以外には勃起できないってことか」
「平たく言えば、そうだ」
「北畠彩香が言った〝支配したいというより、支配しなければならない感覚〟ってのも、その延長線上にあるのか?」
「強姦は性欲より、征服欲と支配欲の影響が大きいとされているからね。たとえば泥酔させた女性や、薬物で
「どういう意味だ」
「ぼくが知っている治郎くんと、この犯行にいたった治郎くんに
白石はまぶたを伏せた。
──ごめん、ごめんよ……ほんとうは、殴りたくない。乱暴なことは、したくない。
──でもぼくは、こういう人間でいなきゃいけないんだ。
──ごめんよ、アズサ……。
「おまえ、アズサという名に心当たりはあるか」
和井田が問う。白石は首を振った。
「ないと思う」
「そうか。男女問わず使える名だが、最近じゃ女性のほうが多いだろうな。おまえは『女の子とは無縁の少年』とマル害を評したが、同級生なり近隣住民なり、接点があった女性を一応当たってみよう」
そう言いながら、和井田は空のカップを指した。催促するように彼を見る。
白石は吐息とともに立ちあがった。自分のカップと和井田のカップに、サーバからコーヒーをなみなみと注いで戻る。
「ミルクは?」
「いらねえ」
「胃を悪くするぞ」
「心配するな。おれはおまえと違って頑健だ」
白石は自分のコーヒーにだけミルクを入れ、和井田にカップを渡した。
すこし
「おまえ、北畠さんに……そのう、人肉の件は言ったのか。つまりその、ドッグフードに、稲葉千夏さんの肉が」
「言っていない」
和井田は即答した。
「薩摩治郎が生きていたなら、いずれ裁判でわかっただろうがな。だがいまは事態がどう転ぶかわからん。知らずに済むなら、知る必要のないことだ」
「だな」
白石はうなずいた。
食べかけのバゲットサンドがまだ半分残っている。しかし食欲はとうになくなっていた。袋に戻しながら、和井田に問う。
「古い人骨のほうはどうした。身元は判明したのか」
「まだだ。歯があらかた
──経産婦か。
白石は心中でひとりごちた。
頭蓋骨
そんな思いを見透かしたかのように、
「薩摩治郎の
和井田が問うた。
白石は建前で返答しようか、一瞬迷った。だがやめた。吐息とともに正直に答える。
「被害者の性別による、としか言いようがない。たとえば息子以外の若い男だったら、否だ。
「では、相手が若い女だったら?」
「──可能性は、ゼロではない。そうとしか言えない」
「充分だ」
和井田は自分の膝を叩いた。
「おまえら心理学の専門家は、〝虐待の連鎖〟ってのをよく説いてるよな。マル害は、父の伊知郎に肉体的にも精神的にも虐待され、支配されていた。おまえだってその事実は認めるだろう?」
「そういう
白石はいやな顔をした。
「虐待だけでなく、殺人などの犯罪行為も連鎖する──とでも言わせたいのか? 答えは『そんな馬鹿な』だ。確かに精神の発達は、生育環境によって大きく左右される。だがぼくは、人間というのはもっと善なるものだと思っている。犯罪者の子供が、成長して犯罪者になるという考えには反対だ。……ただ」
「ただ?」
「弱者である自分を乗り越えたい、コントロールする側にまわりたいという欲求は、治郎くんにもあったと思う。
「いちいち面倒くさい言いかたをするなよ」
和井田が肩をすくめる。
「つまり北畠彩香たちにやらかした暴力行為や支配は、親父の
「まあ……、そうだな」
白石は認めた。指を組み、組んだ指をまたひらいて、顔をあげる。
「そういえば、伊知郎さんの死は事故で間違いないのか? 捜査や検視はしたんだろう。和井田の担当じゃなかったのか」
「おまえな、県警の捜査一課にいくつ班があると思ってる」
和井田は顔をしかめた。資料とICレコーダをバッグに詰めなおして、
「というか四年前に薩摩伊知郎の家に臨場した管理官は、
「で、いまはどうだ」
白石は尋ねた。
「いまもおまえは、事件性なしだと思っているのか」
「…………」
口の減らない和井田が、珍しく言葉に詰まった。眉間の
しかめ面のまま資料を詰める和井田に、白石は尋ねた。
「……
「まあ、元気とはお世辞にも言えんな。なんだ、会いにでも行く気か」
白石はすこし考えてから、あいまいに首を振った。
和井田がバッグを抱えて腰を浮かせる。「おい白石」
「なんだ」
「一つだけアドバイスしておくぞ。おまえは家裁調査官だと名乗るな」
鼻先に指を突きつけ、きっぱりと命じる。
「誰に会おうと好きにすりゃあいい。だが資格詐称の罪は犯すな。いいか、絶対にはっきりとは名乗るんじゃねえぞ」
3
翌朝、白石はいつもの時刻に起きた。
朝食は季節にふさわしく、
脳内はあいかわらず例の事件で占められていた。だからこそルーティンな作業をこなすことで、体から日常に戻していきたかった。
キッチンを覗く。
予報によれば今日の降水確率は六十パーセントらしい。洗濯は明日にまわし、代わりに念入りに掃除をした。貯蔵庫のストック残量を調べ、冷凍庫の霜取りをし、ガスコンロの五徳を磨き、マンションの自治会費を集金にまわった。
家に戻って、時計を見る。
昼どきまでには、まだ間があった。すこし休憩するかと、借りてきたD・M・ディヴァインのミステリをひらく。
しかし内容は、さっぱり頭に入ってこなかった。目で文字を追っているだけだ。視線はページの上を移動するものの、あらすじすら飲みこめない。
鼓膜の奥で、声がやまない。
──ぼくは犬だ。
犬だ。犬だ。犬だ。犬だ。犬だ。犬だ……。
白石はあきらめて本を伏せた。
リヴィングを出て自室へ向かう。昔のスーツが掛かっているクロゼットを開けた。
だが手はスーツより先に、収納チェストに伸びた。
(つづく)
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