カドブンで好評をいただいている、ミステリー『虜囚の犬』。
公開期間が終了した物語冒頭を「もう一度読みたい!」、「7月9日の書籍刊行まで待てない!」という声にお応えして、集中再掲載を実施します!
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(応募要項は記事末尾をご覧ください)
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2
死体で発見された家出少女こと、
長子である兄は、出産時の事故により足に障害があった。母親は夜も昼もなく息子の世話に追われた。父親は第二子を欲しがったが、
「まだ二人目の子供なんて考えられない。それより目の前の息子のことを考えて」
と彼女は拒むばかりだった。
しかしある夜、酒に酔った父は避妊せずに母を犯した。その結果できた子が千夏だ。父は堕胎を許さなかった。母は産むべきか悩みながら、息子の世話に忙殺された。堕胎時期を逃してしまった結果、千夏はこの世に産み落とされた。
両親は、千夏が一歳半のとき離婚した。
「絶対に子供は二人欲しい」と執着していたはずの父は、離婚となるとあっさり親権を放棄した。養育費は三箇月だけ振り込まれたものの、その後はぱったり途絶えた。
母は兄のみを溺愛し、千夏を
「あんたなんて産みたくなかった」
「お兄ちゃんだけで手いっぱいだったのに、あんたまでできちゃうなんて」
「何度も、母子もろとも死のうと思った」
母から絶えず恨み言を聞かされながら、千夏は育った。
「欲しくない子だったから、どうしても
近所から、幾度も児童相談所への通報がなされた。見かねた民生委員の手引きにより、千夏は四歳から六歳、八歳から十三歳の九年間を児童養護施設で過ごしている。
だが十四歳のとき母が再婚したことで、生活は一変した。
新しい義父が「家族四人での生活」を望んだからである。母と義父は千夏を施設から引き取り、支倉市の借家へと引っ越した。
義父からの性的虐待がはじまったのは、同居して半年
最初は風呂や着替えを
「きつく抗議すると、また施設へやられるかも」
と千夏が考えあぐねているうち、すこしずつ義父は行為をエスカレートさせていった。
肩や腰に直接触る。顔を近づけて髪の匂いを嗅ぐ。いやらしいからかい言葉をかける。千夏が不快感を示すと、義父は「冗談冗談」と逃げ、「千夏ちゃんと仲良くなりたいのに、誤解されているようだ。悲しい」と母親に泣きついた。
実母は千夏をひっぱたき、
「養ってもらってるんだから、
「あんた、自分の立場わかってないんじゃないの」
と怒鳴りちらした。
母のお墨付きを得た義父は、大っぴらに千夏の部屋を出入りするようになった。
そして母が法事で実家へ帰った夜、ついに千夏は義父に
その夜から、千夏は可能な限り義父を避けた。しかし母は「仲良くして」、「なにが気に入らないの」と娘を責めたてるばかりだった。
中学の途中で転校した千夏には、相談できる親しい友人がいなかった。頼れる大人や親類もまわりにいなかった。
保健室の養護教諭に遠まわしに打ちあけたが、
「親御さんとよく話し合いましょう。心をひらいて話し合えば、家族なんだからきっとわかり合えますよ」
と諭されて終わった。
高校一年生の夏休み、千夏ははじめて家出をした。
すぐに見つかって連れ戻されたが、その後も義父の隙を突いては逃げ出した。
千夏は小遣いを厳重に管理されていた。しかし彼女には秘密のスポンサーがいた。実兄だ。
兄は千夏が虐待されているのを知っており、
「この足じゃ、あいつに反抗しても無駄だから」
とこっそり千円札や五千円札を握らせてくれた。兄自身も、陰で義父に疎まれていたのだ。千夏は彼からのカンパを逃走資金にし、三年間のうちに五回家出した。
そうして彼女は六回目の家出で、
「これらは、
「北畠彩香はツイッターで治郎に拾われた。稲葉千夏は『プチ家出掲示板』というサイトで治郎と出会った。彩香が作ったアカウントと、千夏の書き込みがまだネット上に残っていたため、確認は容易だった。ただし治郎のツイッターアカウントはとうに削除済みだ。掲示板の書き込みも同様だった。まあプロバイダにログが残っていたから、消したところで無駄だったがな」
「治郎くんのIPだったのか」
「むろんだ。離れのデスクトップパソコンからのアクセスだった。串も刺してやしない、素のままのIPだ」
「無用心だな」
「ああ。ちなみにミネラルウォーターとドッグフードをネット通販していたのも、当該のパソコンだった。電動
「IPを偽装しなかったのは、捕まってもいいと捨て鉢だったからかな。それとも精神の荒廃が進んで、判断力が低下していたのか……」
「どっちだと思う」
「わからない。ぼくはこの七年間、彼に会っていないから情報が乏しい。せめて一度でも顔を見るなり、声を聞くなりしていたら判断できたかもしれないが」
「音声データならあるぞ。ただし薩摩治郎のじゃあないがな」
和井田はバッグからICレコーダを取り出した。
「誰の音声だ」
「北畠彩香さ。病室で聴取した際の、録音データだ。ゆっくりとだが彼女は回復傾向にある。医師の許可をとって、十分きっかり話してもらった」
再生スイッチを入れる。
白石は一瞬ためらった。だが止める間はなかった。
かぼそい女性の声が流れ出した。疲れきった声だ。精神的にも肉体的にも
「すまん和井田、音量を絞ってくれ」
白石は言った。
「……まだぼくは、傷ついた女性の声を聞くのに、抵抗がある」
和井田が無言で音量を下げた。
北畠彩香の声は細いが、滑舌がよく聞きとりやすかった。
「わたしは千夏ちゃんを守って、世話しなきゃならなかった」彼女は言った。
その役目があったから、つらくても生きていられた。でもあの子がいなくなってからは、いつ死んでもいいと思っていた──と。
北畠彩香は、千夏を妹として扱うことで心の均衡を保っていたらしい。また千夏のほうも、彩香にべったり甘えきっていたようだ。
千夏は離れの地下室で、
「いままでは五回とも東京に逃げて、すぐ連れ戻された。でもこっちならお
と彩香にしがみついて
「
──そんなふうに考えたから、ばちが当たったのかな。
──まさかほんとうに、鬼に捕まるなんて思わなかった。
千夏は激しくしゃくりあげた。
「大丈夫。きっといつか出られるよ」
彩香は彼女を抱きかえし、そらぞらしい慰めを言うしかなかった。
二人を
彼女たちを代わるがわる強姦し、水とドッグフードの皿を交換し、おまるを取り替えた。塩分不足を防ぐためか、ドッグフードにはたまに
半裸で、己の
いつかきっとおかしくなる。彩香は思った。こんな暮らしがいつまでもつづいたら、頭がきっとどうにかなる。わたしたち二人とも、きっと正気ではいられない──。
だが自分の舌を
鎖を首に巻いて
「一人にしないで」
千夏は泣いた。
「どのくらいかわからないけど、さらわれてきてからずっと一人だった。あんな寂しいのは、二度といや。置いていかないで」
しかし結果的に、彩香を置いて死んだのは千夏のほうだった。
男はほとんど口をきかなかった。寡黙な暴君だった。機械のように規則正しくあらわれ、彼女たちを交互に犯し、食料と水を替えていった。他人の排泄物にまるで嫌悪を示さないのも、異様な感じがした。
彩香と千夏は、監禁されているうち薄汚れた。髪は脂でべとつき、肌には
臭覚が鈍麻して、己の臭いはわからない。しかしひどい臭いを放っていたはずだ。なのに治郎は女たちがどんなに汚れようが、垢じみようが意に介さなかった。
こんな汚らしい女たちに、あの男はよく〝その気〟になれるものだ──。彩香は不思議だった。衛生や美への、男の無関心さが気味悪かった。
性的興奮より、男は支配に
男は彼女たちを犯し、殴った。
とりわけ女たちが「せめて体を拭きたい」、「髪を洗わせて」と自己主張したときに、ひどく殴った。「今日は何日なの。外はどうなっているの」などという問いは、ただ黙殺した。
彼女たちを殴ったあと、男は急に弱気になることがあった。
床に膝を突き、頭を両手で抱え、「ごめんよ」と謝るのだ。
「ごめん、ごめんよ……ほんとうは、殴りたくない。乱暴なことは、したくない。でもぼくは、こういう人間でいなきゃいけないんだ。ごめんよ、アズサ……」
涙声だった。
なぜか男は、彩香と千夏をひとしく「アズサ」と呼んだ。
「殴ってごめんよ、アズサ」
「どこにも行かないで、離れないで、アズサ」
といったふうに。
また機嫌のいい日には、ドッグフードを与えたあと「ぼくたちは家族だ」と言うこともあった。
「ぼくたちは、みんな犬だ。犬の家族だ。アズサ、ぼくの子供を産んでくれ。ここでみんなで、楽しくいつまでも暮らそう」──。
(つづく)
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