KADOKAWA Group
menu
menu

試し読み

【試し読み】【第16回小説 野性時代 新人賞】クリープハイプ・尾崎世界観さん推薦!――木野寿彦『降りる人』第1章特別公開!(3/4)

悲しみを抱えた期間工の青年の日常と秘密を描く、第16回小説 野性時代 新人賞受賞作『降りる人』(木野寿彦著)が、9月26日(金)に発売となりました。
今年3月に行われた選考会では選考委員の方々から非常に高く評価され、発売前より書店員さんからの熱いコメントも続々寄せられている本作。その発売を記念して、冒頭の第1章「春」を特別公開いたします。
力強くもなく、寄り添うわけでもない。でも否定せず、あなたの隣にいてくれる。この小説に救われる人が必ずいる。そんな確信をもってお届けする、一筋の光のような人間賛歌です。
新たな才能の門出に是非ご注目ください!

▼ この作品の試し読み一覧はこちら
https://kadobun.jp/trial/oriruhito/

木野寿彦『降りる人』試し読み(3/4)

 行きのバスの車内で浜野と話していると、何かが臭った気がした。勘違いかとも思ったが、呼吸のたびにその異臭は濃くなっていった。車内がざわつき始めた。浜野は気づいていないらしく、おしゃべりを続けている。
「最近気づいたんだが、俺のがいこつの形、トム・クルーズに似てないか?」
「知らないよ。それより何か臭いがしないか?」
 浜野が鼻をくんくん鳴らした。僕たちの近くの席の人も、探るようにあたりを見回している。
「誰かが温めたチキンを食べているな」
 と浜野が言った。言われてみると、確かにフライドチキンの匂いだった。密閉されたバスの空気に混ざったチキン臭は、すこぶる不快だった。気分が悪そうに顔をしかめる人がいた。浜野が「これはもめるぞ」とぼんやりとした顔で言った。
 まるでその言葉をゴングのようにして、前方の席で言い争いが始まった。「臭いんだよ」「うるせえ。だったらここに座るな」と怒鳴りあっている。
 いつの間にかあめをなめていた浜野が、舌先でそれを転がしながら言った。
「みんな匂いには敏感なんだ」
「バス車内は飲食禁止だったっけ?」
「明確なルールは見たことないな。だが、自主規制ってやつかな。人がぎゅうぎゅうの密閉された空間では匂いがこもりやすいから、みんな言わなくても分かりますよねってところだろう」
 二人がけんする声は、車内中に響き渡るまでになっていた。「臭いからさっさと食え」「食う気なくした」と、苦情を述べた側が食すことを推奨し、述べられた側が拒否するという不条理な状況になっている。
 バスが駐車場に停車し、二人が黙った。途端に不快感がよみがえってきた。いつもはゆっくりと立ち上がる期間工たちが、我先にと降車していく。
 チキンを持っていた男が、それを口に放り込んだ。降りていく者たちをにらみつけながらしやくしている。浜野とともに、ポケットから手を引き抜いて立ち上がった。バスの中を通りながら、浜野が「今夜は魚にしようかな」と言った。チキンの男が目を向けてきた。さっさとバスから降りたかった。あの男の視線から逃れるため、小走りで事務所へ向かった。
 事務所には大きなテーブルが二つある。テーブルを囲むように長椅子が並べられている。いつも、入り口に近いほうのテーブルの席に社員が座り、もう一つに期間工が座っている。定時業務と残業の間には十五分間の休憩が挟まれ、その時に菓子パンが配布される。パンは社員側のテーブルに、乱雑に投げ出されたかのように置かれている。その中から、各々が好きなパンを手に取る。特に質の良いパンではない。スーパーで数十円でセールされているような代物だ。しかし、そんなパンの中にも明確な序列が存在する。
 最下層にいるのは間違いなくメロンパンとあんパンだ。単純にこの二つはしくない。メロンパンは極限まで皮が薄くて味がしないし、あんパンはあずきが硬くてぼそぼそしている。おまけにこれらはいつも複数置かれているので、希少性という意味でも価値が低い。それよりはジャムパンやドーナツの方が上だが、総じて位が高いのは総菜パンだ。肉体労働者の集まりだからか、腹にたまりそうなパンはすぐに取られてしまう。コロッケパンや焼きそばパンはトップクラスの人気だが、なんといっても最高位に属するのはフランクフルトのパンだ。たまにしか登場しない上に、ケチャップとマスタードのかかった佇まいが異彩を放っている。
 パンの扱いについての具体的な説明を受けたことはない。浜野も聞いたことはないらしい。初日から、ただパンが置かれているという光景だけがあった。
 パンを取りに行くという行為には妙な緊張感がある。社員と期間工が一堂に集合する時間は、残業前しかない。それだけで、一定のシリアスな空気が醸し出されている。そんな状態で、社員のテリトリーまでパンを取りに行かねばならないのだ。彼らのシマに一歩足を踏み入れただけで、自分がよそ者なのだと意識させられる。さらに、目的物を取るには、座っている社員の間に体を滑り込ませて手を伸ばさなくてはならない。パーソナルスペースの侵害だ。パンを取りにいくたびに、鼓動が速くなる。無様に手が震えているのが自分でも分かる。しかも、そうまでして手に取るのは社員に遠慮した人気のないパンだ。パンを取りに行くだけで、何かが確実に傷つけられる。ほとんどの期間工は、己のパンを隠すようにすぐにロッカーにしまう。
 浜野はパンを取りに行っていなかった。パンを取りに行かなければならないというルールはない、というのが浜野の言い分だった。観察していると、他の期間工もパンを取りに行ったり行かなかったりしているようだった。みんな、あの空気が嫌なのだろう。僕もなるべくパンを取りに行かないことにした。ルール違反なのかもしれないが、あの瞬間を避けたいという気持ちの方が勝っていた。
 その日、あかという名の社員の声が事務所に響いた。
なかさん、パンもう取りましたよね」
 とがめられたのは、期間工の田中さんだ。彼はおそらく四十代である。田中さんは不機嫌そうな声で言い返した。
「取ってねえよ」
 だが、赤城さんはより強く糾弾するように荒々しく言い返した。
「いや、ちゃんと見てたって。それ三個目だろ」
「だから何だ。余ってんだから別にいいだろ」
「パンもらってない人は?」と、赤城さんが事務所内を見回した。
 浜野がすっと手を挙げた。一緒に手を挙げた。
「遠慮せずにもらってください」
「俺、菓子パン食わないんですよ」と浜野が言った。
「でも、そうすると泥棒みたいなやつが現れるじゃないですか」
「おい、泥棒ってなんだよ」と田中さんがげきこうした。顔が真っ赤だった。ちょっと異常ともいえるほどの怒り方だ。
「泥棒だろうが」
 赤城さんも負けていない。まったくひるむことなく怒鳴り返す。田中さんはこぶしを握り締めていた。体の揺れのためか歯がカチカチ鳴っている。今まで、人がこれほど怒っているのを見たことがなかった。はじめはにやにや眺めていた社員たちも、警戒するように身をこわばらせた。
 浜野を盗み見た。浜野は飴の袋を読みながら、「キシリトール入りか」とつぶやいている。どうしてこの状況を無視できるのか謎だ。すると、休憩終了五分前の予鈴が鳴った。扉の近くに座っていた社員が立ち上がった。一人立ち上がると、糸がほどけるように他の社員も作業場に降りる準備を始めた。田中さんと赤城さんはしばらくにらみ合っていたが、他の社員が席を立つにしたがって離れていった。
 残業時間に、あの場の緊張感について考えた。誰かが手を出したらたちまち乱闘が起こりそうな予感があった。その爆発を見たいと思った。自分に届かない暴力は、単調で伸び切った時間に色を添えてくれる。
 エレメントを持つ手が震えていた。高揚していると同時に恐怖も感じていたのだろう。いや、恐怖ゆえに興奮していたのかもしれない。単価数十円程度の食物一つで争いが起こる。暴力はいつでもここにあり、発露の機会を今か今かと待ち構えているみたいだった。ふと鼻先に何かが匂った。エレメントが匂いを発するはずはないし、作業場内はしっかりと空調が管理されているので匂いがこもることはない。だとすれば、これは自分自身の匂いだろうか。それは、朝の不快なチキンの匂いに似ていた。
 仕事が終わり、浜野の部屋で過ごしていると、浜野が思い出したように言った。
「お前、焼きそばのあいつのこと覚えているか」
「忘れられるわけないよ」
 僕が仕事に慣れたころ、一人の期間工が入社してきた。彼は、パンが配られることを知ると、残業前休み時間に二階の事務所へダッシュし、一番にパンを選ぶようになった。それまでは、最初にパンを手に取るのは社員たちだと暗黙の了解で決められていた。社員が椅子に座り、あらかた取り終えて初めて、期間工たちはパンを取りに社員のテーブルへ赴いた。
 彼を注意したり今までのルールを教えたりする期間工はいなかった。彼はパンのことに限らず、やたらと大声で話したり作業着のジッパーを上げ忘れたりとトラブルが多く、関わり合いになりたいタイプではなかったのだ。
 彼は特に焼きそばパンを好んだ。まるで戦利品のように休み時間終了までパンをテーブルに置いて眺めていることもあった。彼にはやがて「焼きそばクソ野郎」というごくシンプルなべつしようがつけられた。
 焼きそばクソ野郎は、次第に社員に辛く当たられるようになった。他の期間工の三割増しで怒られているのをよく見かけた。それでも、彼は事務所ダッシュを止めなかった。唯一の生きがいであるかのようなしつようさで、彼は事務所への階段を上り続けた。
 ある日、彼の前に無造作に置かれたパンを見て、絶句した。フランクフルトのパンだった。フランクフルトは、社員でもおいそれと手を出せない存在だ。一番仕事ができると言われているとうさんに決定権がある。佐藤さんがフランクフルトをスルーしたら、社員の中でも上位に属する人が手にする。いつもそうなっていた。
 焼きそばの彼に伝えたかった。それは君がそんな風に扱っていいものではない。たぶん、報酬というものは、その集団で承認されて初めて得てよいものなのだ、と。
 彼の隣の期間工が、場の空気に押されるようにして「今日、それなんですね」と尋ねた。
 彼は、「まあ、たまにはこれでもいいかな」とニコニコしながら答えた。
 焼きそばクソ野郎は、一ヶ月経たずに工場を去った。表向きはもっと良い派遣先が見つかったという理由だったが、実際にはこの場所にいられなくなったのだろう。
「彼は今どこで何しているんだろうね」
「さあな。どこかで死んじまっているような気もするな」
 僕もそんな気がしていた。彼が幸せそうに焼きそばパンを食べている光景が、どう頑張っても思い浮かばなかった。
 次の日も、残業前の時間にパンはばらまかれていた。
 案の定、おいしくなさそうなパンが二つ残った。赤城さんがこちらに向けて刺すような視線を送っていた。
 浜野に動く様子がないため仕方なく取りに行った。残った二つに手を伸ばすと、田中さんが「おい、パン二つ持っているぞ」と言った。
「一つは浜野の分です」
「俺はいらんぞ」と浜野が言うのが聞こえた。事態がややこしくなるため黙っていてほしいのだが、浜野にそういった配慮は働かないだろう。
 無言で浜野に近づき、無理やりパンを握らせた。
 帰りのバスの中で、浜野は首をかしげながらパンを見ていた。
「なぜいらないパンが俺の手の中にあるんだ」
「僕にもわからないよ。後で捨てるにしろなんにしろ、いったんパンを受け取ればまるく収まるよ。今後は君もパンを取りに行ってね」
「せめてその場で食ったり捨てたりできればいいんだがな。持って帰ってまでこんなもの見たくない」
「そういえば、なぜ誰も残業パンを残業前の休み時間に食べないのかな?」
「それはな、この会社の独特のルールみたいなんだな。おそらくこのパンは、『残業お疲れ様パン』なんだ。だから、残業を終えてから食べなければならない」
「それ、誰が言っていたの?」
「誰も言っていない。でも、誰も食べていない。だから、俺が推察したんだ。この会社は、そんな風に暗黙のルールで決まっていることが多いんだよ。ちなみに、昔勤めていた工場ではパンと牛乳が出ていた。それを残業前にみんな食べていた。だからあれは『残業頑張れパン』なんだ。しかるべきものをしかるべき時に食すべし。工場ごとのローカルルールみたいなものだな」
「……とにかく、このまま沈静化するまで耐えよう」
「いや、そう簡単に事は運ばんと思うぞ。こういうのは一度こじれだすと、んじまったねじのように元に戻すのも困難なんだ」
 残念ながら、浜野の予測は当たってしまう。
 次の日、残業前の休み時間にパンを食べている人間が現れた。おにという名前の若くて体の大きな期間工だ。彼は、つまらなそうに口を動かしていた。それ自体は目立つ姿ではなかったのだが、彼が座っている場所がちょうど事務所の真ん中であったため、両サイドからの視線が集中しやすかった。彼は視線に気づいていないのか、スマートフォンを眺めながらのんびりと食していた。彼がやや大きめのげっぷをすると、田中さんが怒鳴った。
「お前なんでパン食ってんだよ」
 鬼木は田中さんをにらみつけると、
「腹減ったんで」と言った。
「ルール違反だろ」
「ルールとか聞いてないし」
 鬼木はゆっくりとしゃべり、そんで威圧的な態度を取っていた。形勢不利とみた田中さんは班長のもとへ走った。
 班長は顔だけ田中さんに向けて応対した。
「田中さんはご不満があるということですね。では、投書箱に書かれたらいかがでしょう」
「そんな大げさな話じゃないんですよ。班長がびしっと言ってくれればそれで済むんです」
「今は時間がないので後にしましょう」
 班長が話をうやむやにするつもりであることは明らかだった。田中さんに向けられた班長の微笑は、丁寧に作られているがゆえに嘘くさかった。
 翌日になれば問題は霧散している、班長はそう考えていたのかもしれないが、田中さんはしつこかった。その日以来、休み時間のたびに班長に苦情を述べていた。班長のあからさまに無関心な態度も乗り越えていく。
 班長は、「まあまあ田中さん、相手方の言い分も聞いてから判断しましょう」という発言を繰り返し、いなし続けた。
 日に日にパンを食べる人数が増えていった。残業前はお腹がすくのでパンを食べたくなる気持ちもわからなくはない。休み時間になると、誰かが菓子パンの袋を開ける音が響き、特有のしつこく甘ったるい匂いが事務所にこもるようになった。
 赤城さんをはじめ社員たちはこの件に関しては注意をしなかった。初めに食べ始めた鬼木が体が大きく喧嘩が強そうだったのと、ルール違反を注意して田中さんと同じ側に立つことになるのが嫌だったからではないかと推測される。
 社員たちがこの状況をよく思っていないことは明らかだった。しかし、今更注意はできない。いつ何時も、今更、が邪魔をする。がんじがらめの状態が、社員たちのストレスをさらに増大させていた。
 車で町に買い出しに出た帰り、浜野が言った。
「どうやら田中さんは本当に泥棒の前科があるらしい。だから泥棒という単語にはセンシティブなんだな」
「だからって怒りすぎじゃないかな」
「お前、社員にもパンを食い始めたやつがいるのに気づいたか?」
「いいや。社員の方はなるべく見ないようにしている」
「おそらくあれは、期間工のルール違反を無効化しようとしてやっているんだな。貴様らはパンを食うか。よかろう。俺もパンを食う。という雰囲気を出しているが、うまくいっているとはいえないな」
「僕らに害が及ばなければ、誰が何をしてもいいよ」
 事務所内がいくらぴりついていても、パンを受け取り続け、そのまま持って帰っている限り、問題にはかかわらずにいられるはずだ。
「ところで、君はどこで田中さんとかの情報を仕入れてくるの?」
「俺が昼勤の時に休んでいる場所が、たばこ室の近くでな、よく話し声が聞こえてくるんだ。あと、作業場や事務所で社員が話しているのを耳が拾っちまうんだよなあ」
「耳がいいんだね。ん、あれはなんだろう?」
 アパートの駐車場付近に人だかりができていた。珍しいことだった。人が集まることなどめったにない。横目に見ながら、浜野が車を停車させた。
 輪の中心にいるのは二人の男だった。顔になんとなく見覚えがあった。
「あ、チキンか」
 と浜野が言った。確かに、一人はバスの中でチキンを食べていた男だった。だとすれば、もう一人は隣に座っていた男なのだろうか。
 野次馬は、見世物でも見るようににやけながら二人を取り囲んでいた。二人は相手をののしりながら小突きあっていた。腰が引けていて、不格好な動きだった。だんだんと込める力が強くなっているが、それによりさらに不思議な動きになっていた。二人とも真剣であればあるほどこつけいだった。
 ふと、浜野へ顔を向けた。浜野はひどく真面目な様子でこの光景を眺めていた。同じものを見ているとは思えなかった。
「浜野」
 と声をかけた。その時、何かが倒れる音がして「きゃあ」という悲鳴が響いた。
 チキン男が地面に倒れていた。カッと目を見開いている。口が半開きのまま微動だにしない。
 さっと波が引くように、あたりに静寂が満ちた。遠くを走る車のエンジン音が聞こえた。
 チキン男がゆっくりと上体を起こした。ほっとした空気が流れたのも束の間で、彼の後頭部から何かが落下した。
 脳みそが落ちた、と思った。さらに大きな悲鳴が響き渡った。だが、よく見ると、それは血にまみれた石だった。
 チキン男が後頭部に手をやった。掌に気分が悪くなるような色の血液が付着していた。
「きゅ、救急車!」と誰かが叫んだ。チキン男はうつろな目のまま動かない。
「たいしたことねえよ」と言い、大柄な男性が前に進み出た。鬼木だった。鬼木は男の前に座ると、「とりあえずお前は動くな」と言った。それから近くの女性を指さし、「派遣担当者に連絡しろ。そいつに病院連れて行ってもらえば大丈夫だ」と指示を出した。
 やがてやってきた担当者の車に乗って、チキン男は病院へ連れていかれた。見送った我々の間にきまずい空気が流れた。楽しんだことへの居心地の悪さが顔に残っていた。でも楽しかったんだよなあ、そういう空気もしぶとく居座っていた。
 翌日、終業後に班長に呼び出された。浜野も一緒だった。
「お二人も今わが班がもめていることはご存じかと思います」
「パンですか?」と浜野が言った。
「さよう、パンです。社員によると、あなた方がパンを受け取らなかったのが事の発端だと」
「はぁ」
 ため息のような声しか出せなかった。「さよう、パンです」。班長が真剣に考えてくれているとは思えなかった。どんな顔をしているのかと、彼女の顔へ視線を移した。
 班長の微笑は、割れていた。笑顔の裂け目から嫌悪がのぞいていた。面倒な事象を発生させ自分を巻き込んだ者へふくしゆうしたがっているようだった。
「ルール違反は困るんです。いいですか、大きな声では言えませんが、田中さんにはちょっと良くない気質というものがあるんです。それをあなた方がそそのかしているんです」
「そそのかす?」
 驚いて思わずオウム返しした。
「そうです。状況を作り誘発させるのはそそのかしているようなものですよ」
「ほほう」と浜野が言った。
 納得しがたい理屈だと思った。だが、そんなことは班長自身が百も承知だろう。できるだけ上滑りした理屈と言葉で問題を押し付ける。それが彼女なりの復讐なのだろう。反論を口にしようとすると、班長が強い口調で言い切った。
「お二人にも責任がありますので、これ以上和を乱さないように田中さんを説得してください」
「どんな風にですか?」と尋ねた。
「それはお二人で話し合ってください。くれぐれも平和的解決をお願いいたしますよ」
 班長は机に向き直った。問題は完全にこちらに預けたといわんばかりの態度だった。反論を試みたかったが、浜野が「バスに乗り遅れる。行こうぜ」と言った。
 排水溝の上を歩くと金属製の高い音がした。問題は、残業パンが社員と期間工の力関係を正確に反映していないことにあるのではないかと思った。期間工と社員では、給与も権限も責任も何もかもが違う。しかし、パンについては、社員に表立って優越的な権限が与えられていない。その関係性のが、不協和音を鳴らしている。
 浜野が小声で何かをつぶやきだした。
「ミックス粉、マーガリン、ショートニング、水あめ、ソルビトール、乳化剤、膨張剤」
 浜野はパンの原材料名を読んでいた。なぜそんなことをしているのか分からなかった。
 バスに乗り込んだが憂鬱だった。斜め前の席に田中さんが座った。
「宮田、平和的解決のプランはあるか?」と浜野が言った。
「全然」
「よし、俺に任せろ」
 浜野が席を移り田中さんに話しかけた。それと同時に幾人かがバスに乗り込んできて車内が若干騒がしくなった。出勤時は皆沈黙しているのに、帰りはおしゃべりになる。
 浜野と田中さんの会話は聞こえず、時折横顔が見えるだけだが、状況は芳しくなさそうだった。みるみる田中さんの顔が険しくなっていく。
 バスから降りたところで、浜野に首尾を聞いた。
「失敗だ」と浜野は残念そうに首を振った。
「なんて話したの?」
「平和的に解決しましょうと言って平和的ってなんだと言われて分かりませんと言ったら怒られた」
「でしょうね」
「それで今夜十時くらいに田中さんの部屋に行くことになった」
「頑張ってね」
「お前もだ」
「だと思ったよ」

(つづく)

作品紹介



書 名:降りる人
著 者:木野 寿彦
発売日:2025年09月26日

「しれっと生きればいいだろ」 選考委員感嘆の小説 野性時代新人賞受賞作
〇「滑稽でもあり哀れでもある主人公が、実在の人物に思えるほど描写が自然で的確」(冲方丁/選評)
〇「名作が名作として読者の心に届く瞬間を目の当たりにできた思いで胸が熱くなった。」(辻村深月/選評)
〇「選評を書いているいまも、得がたい余韻がつづいている。」(道尾秀介/選評)
〇「淡々とした、ときにはユーモラスな語り口ながら、最後の一行まで緊張感が失われないのは、主人公の根源的な戦いを、緻密に、正確に、描いているからだ。感銘を受けた。」(森見登美彦/選評)
〇「こういう人の、こういう日々こそを、青春と呼びたい。いや、呼ばせてください。」(尾崎世界観)

心身ともに疲弊して仕事を辞めた30歳の宮田は、唯一の友人である浜野から、期間工は人と接することの少ない「人間だとは思われない、ほとんど透明」な仕事だと聞き、浜野と共に工場で働くことに。
絶え間なく人間性を削り取られるような境遇の中、気付けば人間らしい営みを求めるようになっていく宮田だったが、実はある秘密を抱えており――。
選考委員の胸を打った、第16回小説野性時代新人賞受賞作!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322505000584/
amazonページはこちら
電子書籍ストアBOOK☆WALKERページはこちら


紹介した書籍

MAGAZINES

小説 野性時代

最新号
2025年9月号

9月25日 発売

ダ・ヴィンチ

最新号
2025年10月号

9月5日 発売

怪と幽

最新号
Vol.020

8月28日 発売

ランキング

書籍週間ランキング

1

天国での暮らしはどうですか

著者 中山有香里

2

高良くんと天城くん 6

著者 はなげのまい

3

まだまだ!意外と知らない鳥の生活

著者 piro piro piccolo

4

意外と知らない鳥の生活

著者 piro piro piccolo

5

ひまちゃんと天国の面接

著者 しらほし卯乃

6

マダムたちのルームシェア5

著者 sekokoseko

2025年9月15日 - 2025年9月21日 紀伊國屋書店調べ

もっとみる

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP