悲しみを抱えた期間工の青年の日常と秘密を描く、第16回小説 野性時代 新人賞受賞作『降りる人』(木野寿彦著)が、9月26日(金)に発売となりました。
今年3月に行われた選考会では選考委員の方々から非常に高く評価され、発売前より書店員さんからの熱いコメントも続々寄せられている本作。その発売を記念して、冒頭の第1章「春」を特別公開いたします。
力強くもなく、寄り添うわけでもない。でも否定せず、あなたの隣にいてくれる。この小説に救われる人が必ずいる。そんな確信をもってお届けする、一筋の光のような人間賛歌です。
新たな才能の門出に是非ご注目ください!
▼ この作品の試し読み一覧はこちら
https://kadobun.jp/trial/oriruhito/
木野寿彦『降りる人』試し読み(2/4)
以前の仕事をほとんど鬱のような状態で辞めた後、三ヶ月ほどは失業保険の手続きとわずかな就職活動以外では外に出なかった。セミナーに行ったり職業相談をしたりするだけで
「人間だとは思われない。ほとんど透明だ」
その言葉に不思議と安らぎを覚えた。派遣会社の採用担当者に電話すると、彼は朗らかな声で挨拶をした。
「宮田さんですね、浜野さんからお話は伺っています」
それから、工場での勤務経験とこれまでの既往歴を尋ねられただけで、三週間後から勤務可能だと言われた。履歴書さえも現地に赴任してから書けばいいという。
「お願いします」とだけ言った。採用担当者は、新幹線のチケットを手配しておくので荷物を持って三週間後に事務所に来てください、と言って電話を切った。
三週間後、キャリーバッグを引いて事務所を訪ねた。初めて会う採用担当者は、簡単な身元確認をすると、事務所までの交通費を精算し、チケットをくれた。
「あなたを採用するために多くの人が動いています。逃げないでくださいね」
最後まで彼の声は朗らかだった。
新幹線で浜野にショートメールを打った。しばらくして「勤務が終わったら連絡する。八時前には終わる予定だ」と返事が来た。
新幹線を降り、JRとローカル線を乗り継いだ。終点が目的地だった。
改札を抜けると、バンの前に男性が立っていた。ワックスで炎のように立ち上げた髪と黒ぶちの眼鏡がマッチしている。二十代の半ばに見えるが、このタイプの人は常に実年齢より若く見られがちなので、ひょっとしたら年上かもしれない。
「
車は、街並みから山へ突進するように走っていった。山を登り切り、下った先が目的地のアパートだった。駅から車で三十分の距離だった。
用意されていたのは、ごく普通の1Rの部屋だった。特に汚れている印象もない。分厚い遮光カーテンが完全に外の光をさえぎっていた。
部屋に着くとさっそく書類を書くよう指示された。履歴書やら契約書やら、言われるままに空欄を埋め、判子を押した。一日、ほとんど何も考えていなかった。ただ運ばれ、ただ手を動かした。
「以上ですね。じゃ、明日の工場面接頑張ってください」
「何か気を付けることありますか?」
「別に。聞かれたことにハキハキ答えるだけでいいですよ」
確かに彼もそのように対応していた。担当者が帰ってしまうと暇になった。お腹がすいたので徒歩十五分のコンビニまで歩き弁当を買った。日課となっている日記を書いていると、八時ごろアパートの前にバスが止まった。それから五分後に浜野から連絡が来た。
浜野の部屋は、今日赴任した僕の部屋と同じくらい物がなかった。
「片付いているね」
「捨てたんだ。一時期はゴミだらけでひどいものだった。洗濯機見てみろよ」
僕の部屋に備えられているものとは違い、重厚なドラム式洗濯機が置いてあった。
「これどうしたの?」
「自分で買ったんだ。洗濯物を干すのが
「高かったんじゃない?」
「かなりの値段がしたな。でも仕方ない。今まで生きてきて理解したんだが、俺には『洗濯物を干す』という機能がない。まったく備わっていないんだ。それを代用してもらうんだから多少の出費は仕方ない」
浜野は「コップもない」と言ってペットボトルのお茶を僕に手渡した。フローリングに直接座って話をする。
「ついでに言うと、俺には『片づける』という機能もない。かろうじて『捨てる』という機能はあるから、ある程度ものがたまったら一掃している。それでやっとまともに生活できる」
「仕事するうえで何か注意することある?」
「別に。言われたことをはいはい聞いて、あとは何も考えずに黙々と手を動かす。俺の知り合いだといえば近い場所に配属になるかもな」
「それだと安心できるなあ」
「俺と同じ部署になったら、まず班長と面談になるだろう。班長は意外とおしゃべり好きだが、言っていることはよく分からん。ただ、分かろうとしなければ怖いこともない」
「とにかく、何も言わずに黙々と作業すればいいんだね」
「まあ、そうだな」
部屋の隅にあった自動掃除機が動き出した。モーター音を鳴らして部屋の中を動き回る。
「いいもの持っているね」
「掃除の機能がないから代わりにやってもらっている」
自動掃除機が僕の前で止まった。僕がゴミなのか考えているみたいだった。
翌朝、アパートの前にバンが迎えに来た。僕のほかに男性二名、女性一名が乗り込んだ。道は海岸線に沿ってまっすぐ延びていた。コンピュータで製図したかのように、少しのブレもない直線だった。それは純粋な目的性のようなものを感じさせた。生産拠点に必要物を運ぶ通路。それ以外の要素が排除された道だった。
車はゲートをくぐり工場の敷地内に入った。さらに二分程度走った後で停車すると、降りるように指示された。
突然、眼前に白亜の建物が現れた。ところどころは
しばらくその場で待つように指示されたが、まぶしいほどの白さに目が痛くなり、とても工場を見ていられなかった。工場に背を向けると、小さな鳥居が目に入った。工場に対してあまりにも小さく、ミニチュアのように見えたが、確かに鳥居だった。つまり、工場の敷地内に
拒まれている感覚は自動扉が開くと同時に消えた。ロビーのような場所に入ると、適切な湿度と適切な温度に包まれた。不自然な快適さだった。
最初に、小さな穴にピンを差し込むテストが行われ、そのあと一人ずつ面接だった。健康状態とスポーツ経験を尋ねられた。「何か言いたいことは?」と問われたので、知り合いが働いていることを伝えた。面接は十分程度で終わった。
午後には結果が出て、僕は浜野と同じ部署で働くことになった。
配属初日、僕は作業場二階の事務所で部署の班長から仕事の説明を受けた。
班長は女性だった。僕は、工場の社員は男性ばかりのイメージだったので驚いてしまった。色白で細面の顔をし、髪を水色のゴムで結んでいた。工場よりもどこかのホテルで働いている方が似合っている。
とても整った顔立ちだと思った。右の顔を正確に折り返して左の顔を作ったように、わずかなゆがみも感じられなかった。
班長は銀色の金属の板を一つ、僕に手渡した。
「これはエレメントといいます。感触をよく覚えてください」
班長は、さらに複数のエレメントをテーブルに並べた。宝石商がダイヤを並べるような優美な手つきだった。
「これには
「取り除けなかったらどうなりますか?」
「あなたの後の工程の社員がチェックしますし、最終工程でもチェックします。しかし、あなたのところで取り除けるように努力してください」
「はい」
エレメントを手に取った。見た目よりも重く感じる。手触りは滑らかだ。丸みを帯びて、両端が少し出っ張っている。
「美しいでしょう。ただのパーツに見えますが、わがグループの技術を結集して作り上げた逸品です」
掌の上でエレメントをひっくり返したりして感触を確かめた。熱が伝わらない構造なのか、エレメントはいつまでも冷たいままだった。
「タツノオトシゴみたいな形ですね」と印象をそのまま口にした。
「私には別の物に見えます」
班長は事務所内の時計に目をやった。
「まだ時間がありますね。少しお話ししましょうか。どちらのご出身ですか?」
出身地域を答えた。
「そちらでは昔、浜に
「そうなんですか。知らなかったです」
鯨の姿を思い浮かべようとした。だけど、脳内には、以前、父が知り合いからもらってきた鯨の切り身、その小さな赤のイメージしか浮かばなかった。浜で横たわる鯨は想像力の範囲を超えていた。
そのあとも班長は話し続けたが、何の話かよくわからなかった。
「それでは時間です。下に降りて作業してください」
班長が立ち上がった。作業着を着ていても、ほっそりとした女性の体つきであることが見て取れた。すると、急に班長が女性であることを意識した。近い距離で話している時には、まったく考えなかった。それは、班長が雑談であっても非常にシステマティックな話し方をしていたからかもしれない。
髪を収めるようにして帽子をかぶり、安全靴を履くと作業場に降りた。自動扉を開けると、一瞬風圧を感じた。中に一歩踏み入ると、途端に激しい機械音に襲われた。金属同士がぶつかる音や電子音が耳の傍で鳴っているようだった。他者が近くにいても、足音も話し声も何も聞こえなかった。自分自身の声さえも聞き取れなくなりそうだった。
第五レーンで作業をするように指示された。先輩の作業を見て覚えるのだ。
「簡単すよ。はめて回してまたはめる」
と、僕より幾分若そうな先輩は大きく口を開けて言った。
作業開始時間になると、パレットの上に円状に並べられたエレメントが流れてきて先輩の手元で止まった。先輩は、そのうちの一枚を手に取り、油性ペンでしるしをつけて戻した。そして、くぼみの部分に円形の金属をはめた。「これ、リングって呼ばれてます」と先輩は言った。リングがきっちりはまっていることを確認すると、先輩はエレメントをひっくり返した。そして、反対側のくぼみにもリングをはめて、パレットから取り出した。「これでベルトの完成です」。先輩はベルトを回して傷や変色の有無をチェックすると、ケースの中に入れた。そして、すぐに次のエレメントを手に取り、再び油性ペンで黒い口紅を塗るようにしるしをつけた。
繰り返されるその作業を見つめ続け、その日の業務が終了した。
仕事が終わり事務所で荷物を取り出した。浜野の姿を探したが見つからなかった。浜野の後についてバスに戻ろうと思っていたのに当てが外れた。
多くの社員が抜けていくドアがあったのでついていくことにした。行きの時とは違うドアの気がしたが、それさえも定かではない。
しかし、十分ほど歩いても外に出ることができなかった。行きは五分とかからなかったはずである。感覚的にだが、みんな工場の中心へ向かっているような気がする。
たまらず浜野に携帯で電話をかけた。
「浜野、迷ったみたいだ。どこにいるかわからなくなった」
「そうか。俺はもうバスに乗っているよ」
「僕もバスに乗りたいんだ。近くにいた社員の後をついて行ったんだけど、まだ外に出られない」
「その人たちは社員用駐車場に向かっているんじゃないか。期間工のバスが止まる場所とは反対だ」
「どうしよう?」
「同じ道帰ってくりゃいいんじゃないか。ただ、バスはあと二分で出発だ」
浜野はまったく役に立ちそうになかった。電話を切って途方に暮れた。同じ道を帰るといっても、右折したり左折したりした記憶があるためきちんと
めまいがするような不安に襲われた。巨大な建物の中にいるはずなのに
とにかくそのまま進むことにした。すでに残業時間に入り作業をしている人たちを横目に歩く。こんな時間にとぼとぼ歩いている人間を、作業者たちは不審な目で見ている。
天井には何本もの巨大なパイプ管が張り巡らされていた。それは乾いた臓器のようだった。巨大なマシンと巨大な配管ばかりが視界に入ると、それが標準のサイズであるように思われてきた。お前が小さすぎるんだ。そう言われているみたいだった。
東南アジア風の男性が近づいてきた。
「何していますか?」
と彼は尋ねた。
「で、出られなくて」
と僕は答えた。僕があまりにも切迫した様子だったからか、彼は「出られない? 逃げたい?」と真剣な面持ちになった。それから、「ここには出口はありません」と言った。
すると、電話がかかってきた。派遣会社の担当者からだった。僕は、男性に頭を下げて電話に出た。
「浜野さんから『宮田が迷子です。俺はバスです。出発します』と留守電が残ってました。意味が分かりません」
不機嫌そうな声だった。工場内で道に迷い出口がわからなくなったことを伝える。
担当者はため息をつくと、「とりあえず歩いていれば外に出られるでしょう」と言った。
「出口らしき場所が見えました」
外に出ると夕日が目を焼いた。担当者に、出た場所から見えるものを伝える。やはり本来出るべき場所の反対側に出てしまったらしい。
僕のいる場所まで担当者が迎えに来てくれた。車に乗り込むと「大変でしたね」と担当者は苦笑しながら言った。
「鯨に飲み込まれたみたいでした」
「はは。鯨に飲み込まれたことあるんですか?」
翌日は、道に迷わないように入り口から目印になるものを探して歩いた。すると、足元で高い音がすることに気づいた。足元を排水溝が走っていた。うまい具合に担当するセクションの事務所の近くまで通っていた。これなら帰れる。そう思うと少し安心できた。
トイレに行くと、そのあまりの汚さに驚いた。壁には黄色い染みが付着し、床のタイルのいくつかは外れていた。三つある個室のうちの一つには、「故障中」と手書きされた紙が貼られていた。浜野にそれを伝えると、「工場の便所なんてそんなもんだろ」とあっさりした反応だった。
この日は、ベルトを一つ作らせてもらうことになった。
頭では作業を理解しているつもりだったのに、体が思うように動かなかった。リングをはめたりひっくり返したりするたびにいちいち考えてしまう。なんとか一つ作り終えてケースに入れると、社員から「次」という冷たい声が返ってきた。
コンベアを見ると、すでに流れてきたエレメントが二つ列を作っていた。
目の前に来たエレメントの束にリングを押し込む。さっきと微妙に感触が異なる気がするが、かまわずひっくり返す。
装置からエレメントが飛び出した。空中を舞うエレメントの一つ一つが目に焼き付く。時が止まった世界のように、手を伸ばせばすべて捕まえられるような気がした。だが、もちろんそんなことはできるはずもなく、エレメントは次々と地面に落下し、自身の重みに耐えかねるように倒れていった。
「何やってんだよ」と社員の声が飛んだ。先輩がエラーボタンを押した。
先輩はすでに作業を始めていた。
「落ちたら終わり。そいつらはもう使えない。床を触ると手袋もダメになるんで拾わないようにして」
とベルトを作りながら説明してくれた。散らばったエレメントは、無価値の象徴であるかのようにただひたすらに倒れていた。見回り担当の社員がエレメントを回収していった。それをただ突っ立って見ていた。
休憩時間に先輩に謝った。
「別にいいすよ、失敗はつきものなんで。ただ、一個ダメにしちゃうと一万円くらい損になるんで気を付けて」
休憩明けも先輩の作業を眺めて過ごした。一万円は僕が一日に稼ぐ額とほぼ同じだ。僕というパーツが運ばれ生成され出荷されているようだった。地面に落ちた僕は無価値だ。完成品として
(つづく)
作品紹介
書 名:降りる人
著 者:木野 寿彦
発売日:2025年09月26日
「しれっと生きればいいだろ」 選考委員感嘆の小説 野性時代新人賞受賞作
〇「滑稽でもあり哀れでもある主人公が、実在の人物に思えるほど描写が自然で的確」(冲方丁/選評)
〇「名作が名作として読者の心に届く瞬間を目の当たりにできた思いで胸が熱くなった。」(辻村深月/選評)
〇「選評を書いているいまも、得がたい余韻がつづいている。」(道尾秀介/選評)
〇「淡々とした、ときにはユーモラスな語り口ながら、最後の一行まで緊張感が失われないのは、主人公の根源的な戦いを、緻密に、正確に、描いているからだ。感銘を受けた。」(森見登美彦/選評)
〇「こういう人の、こういう日々こそを、青春と呼びたい。いや、呼ばせてください。」(尾崎世界観)
心身ともに疲弊して仕事を辞めた30歳の宮田は、唯一の友人である浜野から、期間工は人と接することの少ない「人間だとは思われない、ほとんど透明」な仕事だと聞き、浜野と共に工場で働くことに。
絶え間なく人間性を削り取られるような境遇の中、気付けば人間らしい営みを求めるようになっていく宮田だったが、実はある秘密を抱えており――。
選考委員の胸を打った、第16回小説野性時代新人賞受賞作!
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322505000584/
amazonページはこちら
電子書籍ストアBOOK☆WALKERページはこちら