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試し読み

【試し読み】選考委員感嘆の第16回小説 野性時代 新人賞受賞作!――木野寿彦『降りる人』第1章特別公開!(1/4)

悲しみを抱えた期間工の青年の日常と秘密を描く、第16回小説 野性時代 新人賞受賞作『降りる人』(木野寿彦著)が、9月26日(金)に発売となります。
今年3月に行われた選考会では選考委員の方々から非常に高く評価され、発売前より書店員さんからの熱いコメントも続々寄せられている本作。その発売を記念して、冒頭の第1章「春」を特別公開いたします。
力強くもなく、寄り添うわけでもない。でも否定せず、あなたの隣にいてくれる。この小説に救われる人が必ずいる。そんな確信をもってお届けする、一筋の光のような人間賛歌です。
新たな才能の門出に是非ご注目ください!

木野寿彦『降りる人』試し読み(1/4)



 アパートの外でバスが停まる音を合図にして部屋を出た。暗い闇の中、唯一の発光体である車体へ向けて歩く。着こんだ服の隙間から夜風が入り込んでくる。
 バスに乗り込み、出勤者名簿に丸をつける。車内にはすでに数名が乗車しているが、皆視線を合わせないように目を伏せている。
 まっすぐバスの中を進む。一番奥の席に、笑みを浮かべながら座っている男がいる。それがはまだ。
 隣に腰を下ろすと、浜野は待ちかねたように話しかけてきた。
「今更ながら『E.T.』見たぜ」
「スピルバーグ?」
「そうだ。宇宙人を自転車のかごに入れて泣けるかよと思っていたが、なかなかのもんだった。あれは父なき世界を受け入れる話なんだろうな」
 前の席の男性がため息をついた。
「少し声量を落としたほうがいいんじゃないか?」
「なぜだ?」
「粛々と工場に向かいたい人もいるだろう」
「なるほど。なら、声を小さくするよ。これでどうだ?」
「あんまり変わっていない」
 正確にはまったく変わっていなかった。
 バスに続々と人が乗り込んでくる。車内に人が増えていくたびに息苦しさが増していく。ほぼ満席まで席が埋まるとバスが出発した。
「声を落とすって難しいもんだな。まあ、何しろ『E.T.』の話だから聞いても害にはならんだろ」
「まだ『E.T.』を見たことがない人に僕らの会話が耳に入ったらネタバレになるよ。だから、今は黙っておこう」
「『E.T.』を見たことがない人類なんているのか?」
「昨日まで君もそうだったろう」
「まあ、そうだな」
 これだけ無意味な話を聞かされて、よく近くの席の人は怒らないものだと内心感心する。浜野は普段は無口な方なのだが、バスの中でだけ口数が多くなる。浜野なりに仕事前の緊張をほぐそうとしているのかもしれない。
「やっと金曜だ。今日で夜勤も終わりだね」と話を変えるために言った。とにかく、少しでもましな話題にしようと思った。
「夜勤週は休みが短いんだよなあ」
 と浜野がぼやく。
 僕と浜野は工場で期間工として働いている。勤務は昼勤と夜勤が一週間ごとに入れ替わる。金曜日の夜勤は土曜の朝まで仕事だ。帰宅して寝て起きると土曜日はだいたい終わっている。翌週は月曜の朝から勤務が始まる。そのため、実質休みなのは日曜日だけだ。しかも翌週の仕事に備えて、夜寝て昼働くという生活リズムに一日で逆転させなければならない。結論として、ほとんど休んだ気にならない。それが分かっていても、金曜日が終わるのが待ち遠しい。
 バスは暗闇を切り裂くように走る。はるか先に夜光虫のように見えた工場が見る間に近づいてくる。
 会話が途切れたタイミングで車内ラジオの音声が耳に入った。
「ミグタウというのは、日本で言えば草食系、というより絶食系男子ってとこですかねえ」と学者らしき人が言い、聞き手が「なるほど」とあいづちを打った。
 即座に浜野が反応した。
「絶食系男子ってなんだ。断食でもしているのか」
「たぶん意味が違うよ。恋愛に興味がない男性のことを絶食系男子というんだよ」
「恋愛の相手を食事とみなしているのか?」
「相手じゃなくて恋愛という行為に対する態度のことだろう。恋愛に積極的な人を肉食、淡泊な人を草食と呼んでいるからそこからの連想だろうね。おそらく、僕らも絶食系に分類されるんじゃないかな」
「性の欲求に関してなら、熱心に自慰をしている俺のことは自炊系男子とでも呼んでほしいな。アダルトビデオというおかずを購入して己の手で済ます。いこと言ったな、俺。わっはっは」
 複数の箇所から大きなため息が聞こえてきた。こんなことを繰り返していると、そのうち誰かにぶん殴られるのではないかと思う。さらに浜野が会話を続けようとした時、バスが停車した。扉が開く音がして、全員がノロノロと腰を上げた。
 バスを降り、皆が入り口で社員証をカードリーダーにかざす。ピッピッピとリズミカルに認証音が鳴っていく。リズムが大事だ。認証に失敗したり社員証を忘れたりした人間がいると、途端に列が混雑する。たまりができて人が密集していく様は、ありがいにたかるようでグロテスクだ。
 工場に一歩入るとほこりの臭いがする。浜野に言わせるとこの工場はかなりれいで臭いも薄いほうらしいが、あきらかに外界とは空気の質が違う。目には見えない様々な物質が空気中を漂っているのだろう。呼吸を通して、それらは体の中に侵入する。だが、そういった違和感や不快感も、十数歩歩いている間に忘れてしまう。
 地面の排水溝を見ながら歩く。入り口から排水溝をたどっていけばとりあえず迷わない。
 本当は、排水溝なんて見なくても作業場にたどり着くことはできる。一年も同じ道をたどっているのだ。目隠しされたって間違えないかもしれない。だけど、初日に帰り道を迷った経験からどうしても排水溝を見てしまう。
 工場内でもう一度社員証をかざし、所属するセクションの作業場へ入る。作業場二階の事務所に荷物を置いたらすぐに一階へ降りる。バスの到着時刻にもよるが、始業時間まで十分未満であるため、ぐずぐずしているとトイレに行く時間もなくなる。
 作業場に入ると社員がマシンのスイッチを入れているところだった。あいさつをしてもいちべつもくれない。そんなことにももう慣れた。ゴム手袋をつけて自分の作業場所付近で待機する。チャイムが鳴り業務連絡が始まる。そのころには稼働し始めたマシンの作業音が響き渡っている。班長がマイクで何かを話しているが聞き取れない。聞き取れたためしがないが、誰も気にしていない。
 ベルトコンベアが動き出した。これから後は、単純作業を延々繰り返すことになる。作業を始めると、意識に霧がかかった気がする。手元に何かが流れてきて、何かを作り、何かを手放している。しかし、目の前の出来事を認識する前に、次の何かが来て、待っている。
 二時間程作業すると十分間休憩が与えられる。この時に、トイレに行ったり給水器で水を飲んだりする。多くの人はこの時間にスマートフォンを操作する。
 壁に寄りかかっていると、浜野が隣に立った。
「日曜日、俺の部屋で『サンドラの週末』を観ないか?」
「どうしたの?」
「映画館まで行くのは面倒だから家で過ごそうと思ってな。急にあの映画を観たくなった」
「考えとくよ」
 休憩が終わると、また同じ作業を繰り返す。動きは体に染みついているので自然とめいそうしているような心地になる。浜野が言った日曜日の映画について考えてみた。
『サンドラの週末』は、社長から社員の過半数がボーナスをあきらめるなら雇用し続けるという条件を提示された女性が、同僚たちを説得して回るという話だ。基本的に登場人物全員がゆううつな顔をしている終始暗い映画である。だけど、そういう映画の方が心を休めてくれることがある。
「聞いてますかー」
 と言われて我に返った。
「見逃しですよー」
 後のチェックを行う社員がこちらを見ることもなく告げた。室内は騒音に満ちているのに、怒気を含んだ声は耳に届く。
「すみません」
 手を動かしたまま謝る。そうだ。心をあまり遠くにやりすぎると、こうしてミスが発生する。チリチリあぶられるような緊張感を保ち続けなければならない。
 一時間休憩を告げるチャイムが鳴った。マシンが停止し、作業を止める。手袋を脱いでも、
てのひらがわずかに震え続けている。いつもこうだ。繰り返された時間が手の中にそのままとどまっているようだ。深呼吸をして心を落ち着ける。水面から顔を出したようなあん感を覚える。
 夜勤時は、二つある食堂のうち一つだけが営業し、もう一つは閉店している。閉店している食堂もかぎはかかっていないので、複数の従業員が中に入って床や並べた椅子の上で眠っている。浜野も夜勤の時は食堂で寝ているらしいが、姿を見たことはない。
 今日はいつもよりさらに部屋の中が暗く感じた。いくつもの足が投げ出された光景は、遺体安置所のように思える。
 足元がぐにゃっとした。誰かの足を踏んでしまったらしい。謝ろうと思うけれど、言葉が出てこない。
「人間ですよ」
 と暗闇から声がした。声の主の姿は黒い塊で判別できない。「今踏んだの、人間ですよ」と暗闇は繰り返した。絞り出した声で謝罪してその場を離れた。
 静かに椅子を並べ、体を横たえる。快適とは言えないが幾分体は楽になる。業務開始十分前に予鈴がなる。無機質でひび割れた電子音を聞きながら体を起こし椅子を戻して部屋を出る。 
 休み時間明けもまったく同じ作業を繰り返す。おそらく、今を切り取った写真と二時間後の写真を比べても違いは分からないだろう。時間が前に進むのではなく、ただぐるぐる同じところを回っている。午前七時や午後五時と名前がついているが、本来意味はない。始まりと終わりがあるが、あくまで便宜的なもので絶対的なものではない。時間の円環の中に、僕は時々存在している。
 作業の速度はさほどでもないため安心だ。スピードを要求される工場に長く勤めていると、ばね指という奇妙にねじ曲がった指になってしまうことがあるらしい。ぞっとする。単調な仕事にうんざりしかけると、これは楽な作業なんだ、これでも運がいいほうなんだ、と念仏のように唱えることにしている。
 作業時間が残り一時間になった。急にベルトコンベアのペースが遅くなった。今日はマシントラブルもなかったため、業務時間に余裕をもって一日の生産量に達しそうなのだろう。
 作業が終わると、十五分ほど掃除の時間がある。床のゴミを拾っていく。地面に落ちた部品は使用できない。見た目がどんなに綺麗でも廃棄される。工場全体で一日に捨てられる部品の量は数百キロに及ぶらしい。
 帰りのバスに乗りこむと、先に座っていた浜野がうなっていた。
「どうしたの?」
「ミスをして落ち込んでいる」
「僕もだ。ミスをすると体が重くなる」
「俺はミスをして落ち込んだ日、アダルトビデオを買うことにしている」
「かなりの数買ってない?」
「少し前に数えたらDVDとデジタル合わせてゆうに千を超えていたな」
「そんなに買う必要あるの? 今の時代、ネットにいくらでも転がっているし」
 バスが動き出した。駐車場をぐるっと転回してから車道に出る。道の向こうに大きな風車が見える。いつ見ても風車は景気よく回っている。目には見えない力があのような巨大な物体を動かしていることが感覚的に理解できない。
 浜野は考えをまとめるように窓の外を眺めてから言った。
「いいかみや、アダルトビデオは無からひょっこり生まれるものじゃない。俳優が演技をして、スタッフがそれを撮影して編集して作られるものだ。そこには明確に労働が発生している。労働には対価を支払わないと世の中の仕組みがほつれる。ネット上に転がっているアダルトビデオを無料で楽しむのは、道端に落ちているものを拾って自分の物にするような行為だと俺は思う」
 浜野が僕に顔を向けた。
「日曜日だが『サンドラの週末』と一緒にアダルトビデオ鑑賞会もやろう。おすすめのを教えてやるよ」
「分かった。でも他の映画を提案するかもしれない」
「もちろんいいぞ。大切な日曜日だ。じっくり検討してくれ」
 工場には社員がかなりの人数いて、期間工も一定数いるのだけれど、僕には浜野以外に友人がいない。浜野だってそうだろう。そのため誰かと一緒に過ごすとなれば必ず浜野といることになる。
 バスが停車した。それぞれのアパートに戻る。浜野のアパートとは一棟しか離れていないので、徒歩数十秒の距離だ。
 玄関にたどり着き靴を脱ぐ。ほぅっと声が漏れる。それくらいの心地よさがある。その場で座り込んでしまいたい衝動に駆られるが、ぐっと我慢する。靴下を脱いで洗濯機に放り込む。一日立ち仕事をした足は汗ばんでいて、歩くと床に足の裏が張り付く。
 おにお湯をため始めたら敷きっぱなしの布団に倒れこむ。一日の疲労がどっと押し寄せてくる。寝ころんだまま、部屋の隅に置いてある麻袋にポケットから取り出したものを入れる。
 風呂に入ったら食事をとる。一人の食事は短くあっけない。アパートは山の裏にあるため、街に出るには車でも二十分近く走らせなければならない。車を持っていないので、自転車を使うことになる。その場合、ゆうに一時間はかかる。苦労して一時間かけてショッピングモールに行きたいとは思わない。結果として中途半端な時間を一人過ごすことになる。
 隣の部屋のチャイムが鳴らされた。その音がはっきり聞こえるほど、部屋の壁は薄い。すぐにおしゃべりが始まった。部屋の主は女性で、二週間ほど前から男性が訪ねてくるようになった。
 男性の声は年齢不詳だ。声変わり直後のようにも聞こえるし、酒で焼けてしまった中年の声のようでもある。女性は男性に比べて落ち着いている。最初は多少声を潜めていた二人も、一週間ほどではばからない声量になった。彼らの世界においては隣人など存在しておらず、二人の秘密は二人だけのものなのだろう。
「ちょっと、手!」
「マジででかいよね」
 彼氏は隙あらば彼女の胸を触ろうとする。彼女は、ぎりぎり守り切れない程度の防御をする。お互いに結末は見えているはずなのに、必ず事前プロセスが入る。まるで何かの儀式のように繰り返される。
 配信サイトで『サンドラの週末』を再生した。日曜日に観る映画の候補として、全体の雰囲気を再確認しておきたかったのだ。
 主演のマリオン・コティヤールが悲しげな表情をしている。雇用を失うということの苦しみはよくわかる。
「おっぱいおっぱい」
 隣からの声でサンドラの音声がかき消された。どのみち字幕を読んでいるので支障はない。サンドラは同僚の説得に失敗した。観ているこちらまでつらくなる。「おっぱいって名前つけた人天才だよね」。それはその通りだと思う。映画に意識を戻そうと努める。「マジで柔らかい。最高」。手持ちのカメラがまるでその場にいるような臨場感を伝えている。「ほんとむの好きよね」「うん。てゆうかちんこ好きよね。もう触ってるし」「だって大きくなっているから」「なめて」「ほら、ズボン下ろしなさい」。部屋を出た。
 朝日がまぶしくて目が焼けそうだった。この朝日のように、隣の部屋の二人には晴れやかな欲望が満ちていた。自分はどうだろう。高校生くらいまでは恋愛とは遠くから眺めているものだった。大学に入り、クラスやアルバイト先で連絡先を交換した人もいた。だけど、メールを送っても数回やりとりしたら返事は来なくなった。誰かと二人きりで出かけることは一度もなかった。今から思えば、恋人になる前に友達にすらなれていなかったのだろう。
 大学を卒業してからは、生きることでせいいっぱいだった。あきらめてしまえば人生は驚くほど早く過ぎていく。何も起こらないまま、何も望まないまま、三十歳になってしまった。
 風が吹いていた。海からの風が湾に入りこみ、何にもさえぎられることなくここへ届いていた。山に囲まれて育った僕には慣れない感覚だった。水平線の彼方かなたから何かが迫ってくる。しかし、その存在の姿は見えない。
 しばらく散歩して部屋に戻った。隣のふたりは、激しい音を立てて励んでいた。
 彼らのフィニッシュに合わせ、麻袋を空中へ放り投げた。

(つづく)

作品紹介



書 名:降りる人
著 者:木野 寿彦
発売日:2025年09月26日

「しれっと生きればいいだろ」 選考委員感嘆の小説 野性時代新人賞受賞作
〇「滑稽でもあり哀れでもある主人公が、実在の人物に思えるほど描写が自然で的確」(冲方丁/選評)
〇「名作が名作として読者の心に届く瞬間を目の当たりにできた思いで胸が熱くなった。」(辻村深月/選評)
〇「選評を書いているいまも、得がたい余韻がつづいている。」(道尾秀介/選評)
〇「淡々とした、ときにはユーモラスな語り口ながら、最後の一行まで緊張感が失われないのは、主人公の根源的な戦いを、緻密に、正確に、描いているからだ。感銘を受けた。」(森見登美彦/選評)
〇「こういう人の、こういう日々こそを、青春と呼びたい。いや、呼ばせてください。」(尾崎世界観)

心身ともに疲弊して仕事を辞めた30歳の宮田は、唯一の友人である浜野から、期間工は人と接することの少ない「人間だとは思われない、ほとんど透明」な仕事だと聞き、浜野と共に工場で働くことに。
絶え間なく人間性を削り取られるような境遇の中、気付けば人間らしい営みを求めるようになっていく宮田だったが、実はある秘密を抱えており――。
選考委員の胸を打った、第16回小説野性時代新人賞受賞作!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322505000584/
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