「企業再生こそ日本の再生だ」会社を生き返らせる男が修羅場で見た物とは!
テレビ東京系で放送中のドラマ「リーガル・ハート~いのちの再建弁護士~」。
反町隆史さん演じる再建弁護士・村越誠一が、倒産の危機に瀕した中小企業を救うことに心血を注ぐ、熱きヒューマンドラマです。
カドブンではドラマの放送開始を記念して、現役弁護士・村松謙一(構成協力:石村博子)による原作『いのちの再建弁護士 会社と家族を生き返らせる』(角川文庫)の試し読みを実施。
「まえがき」につづき、第2章「ふたつの死が私を変え、支えている」を3回にわけて全文公開いたします。
第二章 ふたつの死が私を変え、支えている
九九%ダメと言われても、私は諦めない
私が深くかかわる会社は、倒産は時間の問題として関係者が
人間の体でいえば、心肺停止の仮死状態。しかし、たとえ心臓が
九九%ダメと思われても、最後の一%の望みにかけて、私は心臓マッサージを続ける。
皆が
絶望的と思われる状況のなか、私の背中を押してくれるのは、生きたくても生きられなかった、私の娘や経営者たちの「前へ、続けて」という励ましである。
彼らの思いを受け止め、人々を救うのが私のなすべき仕事だと思っている。
「会社の救済は人生の救済」と唱える私の原点には、ふたつの
どん底の悲しみの体験は、生き方も仕事への向き合い方も根本から変えるものだった。私自身も死と再生の道のりを歩まなければならなかった。
初めての大きな失敗
弁護士として独り立ちし、「
気力体力では誰にも負けない自信があった。師匠から学びとった「死んだ子も生き返らせてしまう」手法を駆使し、困難な案件でも真正面から挑んでいった。いつも全力投球だった。自分で言うのはおこがましいが、大小さまざまな再建事件にあたった当時の若手弁護士の筆頭と言えたかもしれない。
事務所を構えて七年、弁護士としてどんな会社でも大丈夫と自負していた。正直、自信もあった。そんななかで、起こってはいけない事件が起きてしまった。
一九九七年二月の月曜日の出勤前だった。秘書から緊急の電話が入った。大量の書類がFAXから机上にあふれている。送り主は関西の顧問先会社であるが、その内容がただ事ではないという。
事務所に駆けつけ、書類を読むうち、体が震え始めた。会社の詳しい営業報告の後に続いていたのは、まぎれもなく〝遺書〟の内容だったからである。
そこにはこのように書かれていた。
「先生。本当に申し訳ございません。
私としては先生のアドバイスに従い、精いっぱい努力してきたつもりですが、六九歳のこの身、もはや限界です。先生とお知り合いになれて本当にうれしゅうございました。長い間、本当に幸せでございました。先生がいつも激励してくれた『勇気をもて』との言葉、胸に刻んでおります。……ぎりぎりまで悩みましたが、私は首をつり、自殺を致します。御恩をあだで返す結果となり、まさに断腸の思いでございます。……では、お別れを申し上げます」
私に最後の手紙を書いたのは、関西地方で子供服販売店の経営をしている六九歳の社長だった。送った時間は明け方四時ころとなっている。夜半過ぎから綿々と書き始め、誰もいない事務所にFAXを流すと、覚悟の行為を行ったということか。
新幹線に飛び乗り、会社に行くと奥さんが泣き崩れていた。私は奥さんの姿を
その会社は、ピーク時には関西地方で一六店舗を有する、地元では名前の知れた会社だった。社長の夢は店舗を五〇にまで増やすことだったが、私が相談に乗り始めた時には、店舗の半数以上は赤字経営。借入金も増えて、金融機関への返済に四苦八苦するようになっていた。
このままでは危ないと、私は私的再建(リスケジュール)を社長に提案。金融機関に対して、返済の一時猶予と金利の引き下げの要請を進めることにした。
金融機関は私の前では「よくいらっしゃいました」と
真面目な人ほどそうした
その時期の私は全国的にも注目された大型案件の弁護士チームの一員として、精力的に動き回っていた。大規模再建から地方の中小企業まで、さまざまな事件を数多くこなし、自分の力と技をもってすれば、たいていの人は助けられると思いこんでいた。
そんな過信を打ち砕いたのが、変わり果てた社長の姿だった。
社長の遺書をかばんに入れて、いつも持ち歩く
私に託された仕事は、残された取引先に迷惑をかけないよう、迅速に会社の後始末(整理)を行うことであった。大事な取引先を守ってほしいと、社長が私に依頼していることが、遺書の端々から痛いほど伝わってきた。
遺書が届いた日から二日間、私はほとんど一睡もせず、その作業に取り組むことになった。
地方裁判所に「破産の申立」申請、及び商品を守るための「保全処分の申立」申請、管財人の早期選任申請……。明け方四時までかけて書類を作成すると、始発の新幹線に乗って現地の裁判所に提出。その間、裁判所と連絡を取り合ったので、申立てと同時に「処分禁止の保全処分の決定」が発令された。これにより、仕入れた商品はどこにも流出せずにそのまま店舗・倉庫等に保管されることになった。
状況が状況なだけに、債権者に「何が起きたのか、今後はどうなるのか」を一刻も早く知らせる必要があった。
午後一〇時、駅近くのホテルに金融機関や取引先などの債権者に集まってもらい、事情説明を行うことにした。
通常債権者への説明は、会社の会議室などで行われる。しかし、こうした緊急事態では、債権者の不安に火が付き、何が起こるか分からない。場合によっては監禁状態となって身体の危険も伴いかねない。その点、人々が行きかう公の場、ホテルのロビーなら大丈夫だろうと考えた。
私は
妻には電話を入れて、「万一、一一時半を過ぎても私から連絡がなければ、警察に電話をするように」と伝えた。
だが、いざ集まってもらうと案に相違して、債権者は強く迫ることもなく、自殺した社長にも私にも同情を示してくれた。長くつきあいのあった経営者の突然の死は、彼らにとっても
帰り際、ある大口債権者がわざわざ近よって「先生が素早く手を打ってくれたから、社長も安心して眠れるでしょう。頑張ってください」と声をかけてくれた。その言葉を聞いて、涙が出てきたことは忘れられない。
冷たい雨の降る夜だったが、私は傘をさす気力もなかった。
一連の対応が終わり、ホテルに戻ってひとりビールを飲んでいると、泥のような身体に、深い悲しみと自責の念が襲ってきた。自分の学んできた企業再建の技術とは、何だったのか。初めての敗北がもたらしたものは、あまりに過酷な結末だった。
それ以後、私は社長の〝遺書〟をかばんに入れて、いつも持ち歩くようになった。社長は救えなかったが、社長の人生を誇りに思っていこうと決めたのだ。
会社は大きな混乱もなく、淡々と
この事件のショックは大きく、私はしばらくの間、仕事を休んでいる。だが翌年、さらに大きな打撃を受けることになる。
長女の
>>第3回へつづく
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