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試し読み

【試し読み】文庫化記念! 大ヒット『悪い夏』著者・染井為人による戦慄のダークサスペンス『黒い糸』冒頭を大ボリューム特別公開

 いちかわにある自宅マンションに帰ると、一つ年上の兄のふうすけが、上機嫌で台所に立っていた。口笛を吹き、足で奇怪なリズムを刻んでいる。作っているのはビーフシチューのようだ。食卓には、めずらしくワインも置かれている。
「なんかいいことあった?」と、祐介はただいまの前に言った。
「論文がようやく片付いてな。今夜はその祝いだ」
 兄がそんなものを書いていたことを、祐介は今初めて知った。風介は基本的におしゃべりだが、肝心なことはあまり口にしない。幼い頃からそうだ。
 風介と暮らすようになって、そろそろ半年が経つ。きっかけは兄夫婦の離婚で、家を追い出された彼は、大きなリュックを背負って弟宅にやってきた。「すぐに出てくから」のはずが、今日に至るというわけである。
 離婚の理由は聞いていないが、想像はついている。今回もまた、奥さんが風介に耐えられなかったのだろう。
 祐介の知る限り、風介より変人はいない。
「アホにも理解できるように書くってのは、結構骨が折れるもんだな」
 乾杯し、互いにワインをめたあと、風介が唐突に言った。論文のことだろう。
 祐介は「そうなんだ」と適当に相槌を打ち、スプーンを手に取った。
「うん。いよ。肉の味がよく染みてる」
 だが、風介は弟の感想を無視して、「大前提として人のDNAというのは――」と一方的に語り始めた。
 ここから一時間、彼は自分で作った料理に手をつけず、対面の弟に向かってひたすら口を動かしつづけた。
 風介の勤め先は、都内にあるH大学大学院だった。彼自身もこの大学院の出身で、学生時代に人間社会研究科の臨床心理学の博士課程を修了し、修了後も研究員として研究室に残った。
「――よって、いかなる教育も、子どもの人格形成には、さほど影響を及ぼさないってことが改めて証明されたわけだ」
 と、風介は身もふたもないことを言って、話を締めくくったあと、ワイングラスにワインを注ぎ入れた。だが、中身はわずかしかなかった。
「もう一本買っておけばよかったな」と、風介が舌打ちをする。
「これくらいがちょうどいいんだよ。我々はアル中の素地があるんだから――だろ?」
 祐介がそう言うと、風介はがははと豪快に笑い、「その通り」と人差し指を立てた。
 自分たちの父親はアルコール依存症だった。酒に酔って家族に暴力を振るうことも、暴言を吐くこともなかったが、ベッドから起き上がるためだけに枕元に酒瓶を置く父を見て、祐介はこうはなるまいと幼心に思った。
 風介によれば、アルコール依存症は遺伝率が高いらしい。つまり、祐介も風介も、アルコール依存症になりやすいということだ。
 これは兄の仮説ではなく、残念ながらさまざまな研究結果から導き出された真実のようなので、だとすれば気をつけるほかない。
 よって祐介も風介も、一年のうちに飲酒する回数は数える程度だ。
「そういや、例の女の子ってまだ見つからないのか」
 風介が思い出したようにいてきた。この軽い響きに、ふつうの人はまゆをひそめることだろう。だが、この人に悪気はないのだ。
「見つかってたら、すでに報告してるし、だいいちニュースになってるだろう」
「まあ、そうか。けど、少しの進展もないのか」
「なにも。最近じゃ、警察からの連絡も減ってきたよ」
「ふうん。で、おまえ、目の具合は?」
 このように、唐突に話が変わるところも兄の特徴だ。
「こっちも、なにも。良くもなってないし、悪くもなってない」
「そりゃあ、良くなることはないだろ。一生治ることのない病気なんだから」
 これだ。デリカシーがないとか、空気が読めないなんて言葉は、兄には生ぬるい。はっきり言って、彼はイタい人間なのである。
 祐介は彼のこうしたイタさを目の当たりにするたび、毎度こう思う。
 DNAなんて当てにならないな、と。
 自分たち兄弟は血縁関係にあるが、性格もふうぼうもまるでちがう。
 自分はまだまともだ。少なくとも、風介に比べれば百倍マシだろう。

 翌日の午後、五・六限目の授業時間を使って、体育館で初めて卒業式の演習が行われた。
 本番は一ヶ月以上も先なのだが、小学校にとって卒業式は最大の式典のため、万全を期す必要がある。
「そこ、列を乱さないで」
 指揮を務める六年一組担任のわたなべが壇上に立ち、マイクを通して指示を飛ばす。
 渡辺は祐介の六つ下、三十二歳の男性教師だ。くだんの事件によって同学年の担当になり、距離が近くなったことで、さわやかな見た目とは裏腹に、愚痴の多い男だと知った。昨日も、教職員の待遇について、延々と不満をこぼしていた。
「ほら、おしゃべりしないで歩く」
 約百名の卒業生が、横に並べられたパイプ椅子に沿って行進していく。六学年は三クラスあり、各クラス約三十五名の児童が在籍していた。
「卒業生一同、着席」の声で、児童がいっせいに腰を下ろす。
 その中の一つだけ、パイプ椅子は空いていた。小堺櫻子の席だ。まだ亡くなったと決まったわけではないので、彼女の席も用意しておかねばならない。
 卒業式当日、小堺櫻子はあそこに座ることができるだろうか。
 着々と演習は進み、祐介は体育館の隅に立ち、その様子を傍観していたのだが、国歌斉唱となったところで、おや、と思った。
 我がクラスの委員長であるくらもちが、一人だけ立ち上がっていないのだ。周りが全員起立して歌っている中、彼女は澄ました顔で座っている。
 当然、壇上の渡辺からも彼女の姿は見えているだろうに、彼は気にしていない様子である。周りの児童たちも、その状況に慣れている感じがした。
もと先生、うちのクラスの倉持さんなんですが、あれはどういう」
 祐介は傍らにいる、三組担任の湯本の耳元でささやいた。
「ああ、長谷川先生知らないんだ」と、四十四歳の女性教師がささやき返す。「まあ、そうよね。まだ受け持って一ヶ月だし、飯田先生から何も教えられてないんだものね」
 前任者の飯田美樹は休職後、完全に音信不通だった。ゆえに彼女からいっさいの引き継ぎがなされていないまま、今日に至るのだ。一応、各児童の個人情報や特徴はデータ化されているのだが、祐介はその他の業務に忙殺されていて、すべてを把握しきれてはいなかった。
「実はね、倉持さんの父親、につきようそのお偉いさんなのよ」
 やはりそうか。もしかしたら、と内心思っていたのだ。
 日教組を巡るあれこれは、これまで勤めていた小学校でも、何度か経験していた。それは児童や保護者だけに限らず、運動会で国旗掲揚をするのはやめませんかと、職員会議で場の空気を凍らせるような発言をした同僚がいたこともある。その人物もまた、君が代を絶対に歌わなかった。
「以前、飯田先生が、なんで君が代を歌わないのって、倉持さんに訊いたことがあるそうなのよ。きっと本人は理由をわかってなくて、親に強制されているんだろうなって思ったから質問したそうなんだけど、そうしたら彼女、『君が代を歌うことは軍国主義、全体主義の復活につながります』って答えたそうなの。正直、ゾッとするわよね」
 思想信条の自由は尊重すべきものであるが、たしかに穏やかじゃない話だった。
 倉持莉世はクラスでも、一際目立つ児童だった。成績優秀でスポーツ万能、なにより彼女は風貌がとびきり大人びていた。こうして眺めていても、周りの児童と同い年とは思えない。それこそ、となりにいる平山小太郎なんかと比べると、歳の離れたきようだいのようだ。
 平山小太郎――気が重たくなった。
 このあと、彼の母親が面談に来校する。そしてその前には、小堺櫻子の両親の対応が待っている。
 なぜ、こうも自分ばかりが矢面に立たされるのか。
 平山小太郎はまだしも、小堺櫻子など、これまで会話を交わしたことすらないのだ。そんな教師と保護者が話し合いをしたところで、いったいどうなると言うのだろう。
 だいいち、これまでにも小堺櫻子の両親とは、校長と教頭を交え、何度か面談を重ねてきているのだ。夫の方はまだ冷静――この人物もまた癖が強いのだが――なものの、母親はすぐに興奮してしまい、まともな会話ができなかった。彼女は、最後には必ず半狂乱と化して「娘を返せっ」と声を荒らげるのである。
 彼女は誰かを責めていないと、正気を保てないのだろう。我が子を失った者の胸中など、独り身には想像がつかないが、きっと底の見えない暗闇に沈み続けるような日々を送っているにちがいない。
 だが、さすがに祐介もへきえきしていた。
 いくら騒いだところで、娘さんは帰ってきやしませんよ――油断していたら、うっかり口に出してしまいそうな自分が怖かった。

 卒業式の演習を終えたあとは、クラスに戻り、帰りの会を行った。
 まずは各係から連絡があり、次に『今日の振り返り』に移行した。これは一人の児童がその日の印象的だった出来事を話すコーナーだ。担当は名簿順で日々変わる。
 今日はクラス委員長の倉持莉世の番だった。
「初めて卒業式の練習をしてみて、わたしは本当にこの小学校を卒業するんだなって、少しだけ実感が湧きました。わたしは私立中学に入学することになっているので、このかけがえのない仲間たちと過ごせる時間は、あとわずかです。だからこそ、毎日を大切に過ごそうと思いました」
 ここで倉持莉世は斜め後方を振り返り、とある机を見た。小堺櫻子の席だ。
「それと、卒業式当日は誰一人欠けることなく、全員で参加できたらいいなと思いました。以上です」
 拍手が沸き起こる。これだけで涙ぐむ女子児童もいた。
 つづいて『先生の言葉』の時間がやってきた。
 祐介は教壇から首を大きく左右に振り、児童たちを見回した。そうしないと、視野の狭い祐介は、全員の顔を見ることができない。
「倉持さん、素敵なスピーチをありがとう。先生も、このクラスの全員を送り出してあげたいと、心から思いました。そうなるように、みんなで願いましょう」
 うなずく者もいたが、大半の児童たちは無反応だった。白々しく聞こえたのだろうか。
 彼らからすれば、祐介は距離のある先生なのだ。前任者の飯田美樹は、クラスの児童たちから慕われていたという。感情表現が豊かだった彼女は、何か感動的な出来事があると、すぐにハンカチを目に当てていたらしい。だから児童たちは親しみを込めて、泣き虫先生とからかっていたそうだ。
 その点、祐介は淡々としていて、面白味に欠けるのだろう。陰で「色眼鏡先生はAIみたい」とささやかれていることも知っている。
「では、明日も元気に登校してきてください。さようなら」
「さようなら」と児童らの合唱。
 運動好きな男子たちから順に、ぞろぞろと教室を出ていく。その様子を教壇から眺めていると、倉持莉世がやってきて「長谷川先生」と声を掛けてきた。
「これを小堺さんのお母さんに渡してもらってもいいですか」
 そう言ってクリアファイルを差し出してくる。中にはA4用紙が束になって収まっていた。
「これは?」
「わたしのノートをコピーしたものです」
 理由は、小堺櫻子が再び学校に来られるようになったとき、彼女が授業についていけずに困ってしまうだろうから、というものだった。
「わざわざありがとう。でも、これは小堺さんが戻ってきてから、お願いしようかな。親御さんも複雑な気持ちになってしまうかもしれないしね」
「でも、わたし、小堺さんのお母さんから頼まれたんです」
 まゆをひそめた。「どういうこと?」
「実は昨日、小堺さんのお母さんがうちに来てて――」
 詳しく聞けば、小堺櫻子の母親の由香里は、度々倉持宅を訪れているらしい。そこで莉世に、今の学校やクラスの様子を教えてほしいと、せがんでくるのだそうだ。
 祐介は初耳だった。おそらく、他の教員もこのことを知らないだろう。
「わかりました。これは先生が預かって渡しておきます。ありがとう」
「よろしくお願いします」
 彼女はきびすを返したあと、一瞬立ち止まり、再びこちらに向き直った。
「長谷川先生も大変ですね」
「え?」
「急にうちのクラスを押しつけられちゃって。では、失礼します」
 そう言ったあと、彼女は長い髪をふわりと浮かせて、教室の隅に残っていたとう日向ひなたのもとに、小走りで向かった。
「お待たせ。帰ろ」と、倉持莉世が佐藤日向の手を取る。
 そして二人揃って、「さようなら」と祐介に頭を下げてきた。
 祐介はあいさつを返し、彼女たちの背中を見送った。
 教室に一人になった祐介は、しばらくそのまま教壇に立っていた。
「押しつけられちゃって、か」と、唇だけで独りごちる。
 やはり、とらえどころのない子だなと思った。まがりなりにも一ヶ月間、彼女のことを見てきたが、いまだそのキャラクターがつかみ切れない。
 成績優秀で、運動もできて、周りにも親切な、絵に描いたような優等生。
 おそらく、佐藤日向と親しくしているのも、彼女なりの気遣いなのだろう。
 佐藤日向は、昨年十一月にこの小学校に転校してきたばかりで、中々教室にめず、そんな彼女が唯一親しくしていたのが、小堺櫻子だったという。
 そんな大切な友人を、彼女は失ってしまった。なにより、二人は事件が起きる数分前まで、一緒にいたのだ。小堺櫻子が下校を共にしていたのは、佐藤日向なのである。
 佐藤日向には、本当に、深く同情している。
 なぜなら、彼女は去年の春に、事故で父親を亡くしたばかりで、それをきっかけに母親と共に松戸市内に越してきたという背景があるのだ。
 彼女は父を失い、転校した先で、早々に友人を失ったのである。
 幼い心に、どれだけの傷を負ったのか、はかりしれない。
 祐介は振り返り、黒板の横の壁に掛かっている時計を見た。
「よし」
 と、つぶやいて教室を出た。

 小堺夫妻が来校したのは、十六時を十分以上過ぎてからだった。結構な遅刻なのだが、どちらからもびの言葉はなかった。
 狭い応接室で机を挟み、夫妻と向かい合う。窓の向こうの校庭では、男子児童たちがサッカーに興じていた。彼らが上げる声が、部屋の中まで聞こえている。
「何度も申し上げていますけど、わたしたちが貴校にお願いしているのは二つです。一つはビラ配り人員の確保、もう一つは飯田美樹の懲戒免職です」
 母親の由香里が前のめりで訴えた。寝不足なのか、以前にも増して濃くなった目の下のくまが、厚化粧でもごまかしきれていない。
「お気持ちはお察し致します」と、祐介は深く頷いて見せる。「ですが、どちらも現実的ではありません。まずビラ配りですが、我々教職員は平日は学校で公務が――」
「だったら、出勤前と退勤後にやってください。わたしたち夫婦は、毎朝六時と夕方七時から、駅前に立ってるんです。どうかお手伝いをお願いします。おたくの校長も教頭も、すぐに給特法がどうとか言いますけど、わたしたちはそういう法律的なことじゃなくて、一人の人間としてお願いしてるんです。だって、先生方が勤務外で個人的にやっているのであれば、誰にも文句は言われないわけでしょう」
「ええ、もちろん。しかしながら、やはりむずかしいと言わざるを得ません。冷たく聞こえてしまうかもしれませんが、我々教職員も一人の人間として生活があります。勤務外だからといって――」
「そんなことしている暇はないって? あなたたち、責任を感じてないの?」
「責任というのは何をもって――」
「それでも学校の先生? 教育者? 一人でも多くの協力があれば、それだけ櫻子が見つかる可能性が高くなるのに」
 これだ。まともな会話が成立しない。
「たしか長谷川先生、と仰いましたよね」
 これまで黙っていた夫が口を開いた。
「あなたもいきなり担任になられて、さぞ苦労されていることでしょう。状況を考えれば、あなたには同情します。ただ、わたしたち夫婦は落胆しているんですよ。これほどまでに学校側は非協力的なのか、とね。ビラ配りの件もさることながら、学校側は何一つ動いてくださらないじゃないですか。だいいち事件後、あなた方が一度でも我が家を訪ねてきたことがありましたか。こうした話し合いの場だって、毎回わたしたちが申し入れて、足を運んでいるわけでしょう。わたしたちは、情報を欲しているんですよ。櫻子のいない教室の様子とか、ほかの児童たちが櫻子について、どんな話をしているのかとか、どれだけさいなことでも知りたいんです。そうしたところから、何か事件解決の糸口が見つかるかもしれないでしょう」
「ええ。なので、児童の個人情報に関わること以外であれば、すべてお話ししますと、前にお伝えしたかと思います」
「しかし、妻はあなたから連絡を受けたことは一度もないと言っています。毎回、こちらから問い合わせているだけだと」
 いったい、それの何が気に入らないのだろう。
「もちろん、特筆すべき報告があれば、こちらから連絡を致します。ただ、これまでそうした状況になかったということです。もし、こちらからの定期的な報告を希望されるのであれば、毎週金曜日の夕方と決めて、わたしからご自宅にお電話をさせていただきます。そこで、週のクラスの様子などをお伝えしますが、それでいかがでしょうか」
 祐介が冷静にそう告げると、その態度がかんに障ったのか、小堺由香里がみるみる目をいた。
「だったら、飯田美樹の処分はどうなるのよっ!」
「それは、わたくしにはわかりかねます」
「懲戒免職にしなさいよっ!」
「わたくしに決定権はございませんので」
「そうやって逃げるなっ!」
 それから約一時間にわたり、祐介は怒号と非難の嵐を浴び続け、「次の予定がありますので」と強引に話し合いを終わらせた。この対応に小堺夫妻は憤っていたが、これ以上相手にしなかった。実際に次の予定が迫っているのだ。
 最後に、小堺夫妻を来客用玄関まで見送りに行ったところで、祐介は倉持莉世から預かったクリアファイルを差し出した。
「たまに、倉持さんのお宅に行かれているんだとか」
「何かいけないんですか。しずさんと莉世ちゃんだけなんです。わたしたちに寄り添ってくれているのは」
 静香というのは、倉持莉世の母親だろう。
「ほかの人は口先だけ。みんな心配しているふりをしてるだけ」
「由香里。もういい。行こう」
 小堺夫妻が来客用玄関を出て行くと、ちょうど入れ替わる形で、一人の女性がやってきた。
 一見して、平山小太郎の母親だとわかった。顔がそっくりなのだ。
 彼女はすれちがった際の、小堺夫妻の形相がよほど恐ろしかったのか、二人に声を掛けず、その背中をしばらく見送っていた。
 祐介はそんな平山亜紀に声を掛け、初見の挨拶を手短に交わし、先ほどの応接室に彼女を案内した。
 着席し、向かい合ったところで、「小堺櫻子ちゃんのこと、何かわかったのでしょうか」と彼女が控えめにいてきた。
「いえ、残念ながら、まだ何も」
「そうですか。ほんと、信じられない話ですよね」
「ええ」
「もし、自分の子だったら、耐えられないと思います。仕事なんか、まったく手につかないだろうし、何にもやる気がなくなっちゃう」
 それから平山亜紀は居住まいを正し、用件を切り出した。
「親のひいかもしれませんが、うちの子、ふだんは大人しいし、優しい子だと思うんです。ただ、たまにキレてしまうことがあって、そうなるとすぐに手が出てしまうんです。小学校に入ってから、年に何度かそういうことがあって、学年が上がるにつれてその回数が増えてるから、ちょっと心配で」
「たしかに春から中学生になりますし、身体も大きくなればそのぶんリスクも増しますしね」
「そうなんです。そこなんです」と、平山亜紀が身を乗り出す。「昨日の件だって、たまたま中川くんに怪我がなかったからいいものの、もし当たりどころが悪かったら大変なことになってたでしょう――あ、そういえば中川くんのお母さん、怒ってませんでしたか」
「ええ。お電話で一連の報告をしたところ、うちの息子が先に平山くんに悪口を言ったんだから自業自得だ、むしろこっちが悪い、とおっしゃっていました」
「本当ですか」
「ええ。もちろん」
「そうですか。なら、いいんですけど」
「何かありましたか」
 訊くと、平山亜紀は少ししゆんじゆんした素振りを見せたあと、「ちょっとイタズラ電話があって」と視線を落とした。
 昨夜、自宅に無言電話が十数回も掛かってきたのだという。かすかな息遣いは聞こえるものの、相手は何も言わないのだそうだ。
「それはちょっと不気味ですね。また次も掛かってくるようなら、警察に相談した方が良いかと思います」
「はい。そうします」
 それから、小太郎のかんしやくについて再び話し合った。
 彼女の話によると、一学期にも二回、二学期にも二回、小太郎は友人とめ、暴力行動に出たのだという。
「わたしがこのクラスの担任になってからも二回目なので、合計六回か。たしかに少なくない数ですね。とはいえ、けっして多いわけでもないと思います。わたしが過去に受け持っていた児童で、毎日のように取っ組み合いのけんをする子もいましたから」
「でもその子って、ふだんからそういうことをするやんちゃな子ですよね。うちの小太郎はふだんは大人しくて、むしろ気が小さいのに、突然キレるから怖いんです。なんていうか、そういう子の方が危ない感じがするというか」
「おっしゃりたいことはわかります。ただ、わたしが見ている限り、小太郎くんにそこまで大きな問題があるようには見えませんが。お電話でもお伝えした通り、彼はしてしまったことに対して素直に反省もできますし、中川くんにきちんと謝罪もしてましたから」
 そう告げると、平山亜紀は下唇をんで押し黙った。そして、「それも少し、不安なんです」と声を落として言った。
 理由を問うと、小太郎の父親がそうだったからだと、彼女は告白した。
 彼女の別れた夫はDV癖があり、おもてでは良き夫として振る舞うのだが、家庭内ではひようへんし、妻にたびたび暴力を振るったという。そして、その都度反省を示し、涙してびていたそうだ。
「なるほど、つまり小太郎くんが、父親のそういう気質を受け継いでしまっているのではないかと」
「はい」
 祐介は慎重に、次の言葉を選んだ。
「たしかに、そういった親の気質が子に遺伝することもあるそうです」
 兄の風介から、散々聞かされているのだ。彼によれば、この手の気質は身長や体重よりも、よっぽど遺伝率が高いらしい。もちろん、そんなことまで話すつもりはないが。
「とはいえ、元のだんさんは内側で、小太郎くんは外側に向けてなので、そこに明確なちがいはあると思います」
「そうでしょうか」
「ええ。小太郎くんの方は友達との喧嘩の延長ですし、それに吹っかけられた側ですから。ですから、あまり思い詰めなくても――すみません。一ヶ月足らずの担任が、知ったような口を利いて」
「いえ、そんなこと。そう言ってもらえて、少しホッとしました」
 平山亜紀は八重歯をのぞかせて、柔らかく笑んだ。資料によれば、たしか彼女は祐介の一つ年上だったろうか。
 これを機に、彼女は祐介に気を許したのか、言葉を崩し、あけすけに家庭内のことを語った。小太郎は家では甘ったれで、今でも母親と一緒にに入りたがるのだという。
「さすがに六年生だからやめなきゃと思ってるんですけど……ぶっちゃけ、先生も引いてますよね」
「そんなことはないですが、もうそろそろ卒業した方がいいかもしれませんね」
「ですよね。自分でもわかってるんです。でもやっぱり、母ひとり、子ひとりだから……それに、一緒に入った方が節約にもなるし……」
 平山家の経済事情は、「毎月ギリギリ、かつかつ」だそうで、その話の延長で彼女の職業が結婚アドバイザーだということを教えてもらった。
「失礼ですけど、長谷川先生、ご結婚は?」
「自分は独身です」
「じゃあ今度、入会の申込書を持ってこなきゃ」
 彼女は冗談めかして言った。
「公務員の人気はすごいですから、すぐお相手が見つかりますよ」
「ダメですよ、わたしなんて」
「あら、どうして。まだお若いのに」
「実はわたし、目の病気なんです」
 彼女の顔から、スッと笑みが消える。


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