「お電話代わりました。平山です」
〈どうしてダメだったんでしょうか〉
第一声がこれだった。
先週末、江頭藤子はとある男性と見合いをしていた。だが、その当日の夜、男性側から亜紀に断りの連絡が入っていた。つまり、以後、彼女とやりとりする気はない、ということだ。
その理由は、〈正直、ちょっと気味悪くて〉とのこと。もっとも、それを彼女には伝えていない。
「江頭さん、ごめんなさい。以前にも申し上げましたけど、相手側のお断りの理由については、開示できない規則なんです」
〈けどわたし、どうしてもわからなくて。だって、楽しくお話もできたし、次の約束だってきちんとしたのに〉
男性もたしかにそう話していた。別れ際にまた会いましょうと手を差し出され、つい握ってしまったと。
ただ、それが社交辞令であるとわからないところに、またこうしてしつこく破談となった理由を
「江頭さん。終わったことで悩んでいても仕方ないので、気を持ち直して、またトライしましょうよ」
〈けど、気になるんです。なんでわたしが断られなきゃいけなかったのか。平山さんはしっかり理由を聞いてるんでしょう〉
これが彼女のもう一つの特徴。やたらとプライドが高い。相手に拒まれたことが認められないのである。
「なにがダメだったかと自分を責めるより、相性が良くなかったんだと気楽に考えないと、婚活がつらくなっちゃいますよ」
〈わたし、別に自分を責めてません〉
少しは責めたらどうなのか。思わず口に出してしまいそうになる。
「とにかく、お断りの理由については教えられない規則ですので――」
〈腹が立つんです〉
「へ?」
〈約束したのに、
いきなりそんなことを言われ、困惑した。
「ええと、でも、そういうのってよくあることだし……それに、そういう不誠実な人と早めに終わることができてよかった、こう考える方が健全じゃないですか」
そのように
「もしもし、江頭さん――」
〈これから、そちらに伺います〉
「はい?」
〈実はわたし、近くから掛けてるんです〉電話の向こうで、車のエンジンが掛かる音が聞こえた。〈では、五分ほどで到着すると思うので〉
「あ、そんな急に言われても――」
一方的に通話が切れる。ツー、ツーという機械音を聞きながら、亜紀は額に手を当てた。
やっぱりこの女、ちょっとおかしい。いや、だいぶおかしい。
半年前、彼女を入会させたのは、確実に失敗だった。初めて会ったときから不穏な、嫌な雰囲気を漂わせていたのだ。なぜあのときの自分は、目先の数字にこだわってしまったのだろう。あとの祭りだが、後悔せずにはいられない。
江頭藤子は、本当に手の焼ける会員だった。事実、これまで見合いを組んだ相手から、いくつかのクレームが入っていた。だが、亜紀がそれとなく注意を与えても、本人は意に介さず、自らの落ち度を認めない。
きっとこの先、どんな
思考がそこに至り、亜紀は足早に、所長の小木のデスクに向かった。小木は新人の謙臣と話し込んでいたが、こちらは急ぎなので「ちょっといいですか」と割り込んだ。
今し方の江頭藤子とのやりとりを手短に伝え、その場で彼女に強制退会を言い渡してもいいかと伺いを立てた。
すると、小木は腕を組み、
「退会までさせることはないんじゃない? ちょっと変わった人なのかもしれないけど、月会費だって滞納することなく、きちんと払ってくれてるんだしさ。だいいち理由をどう告げるのよ。あなたは面倒だから辞めてもらいますって言うわけ?」
「もちろん適当な理由をつけますけど。たとえば男性会員からのクレームが多すぎて、会社が対処に困っているとか。実際にクレームはいくつか届いてますし」
「けどそれ、これまではっきり伝えたことある? ないでしょう」
「まあ、はっきりとはないですけど、でも、多少なりとも匂わせてはいます」
「その程度でしょ。ならダメ。それこそ、江頭さんから本社にクレームがいくことになる」
そんなの、別に構わないだろう。なんのためにお客様対応室があるのか、と言いたくなる。
「もちろん、イエローカードを出すくらいはいいよ。ただし、いきなりレッドカードはダメ。絶対に」
「でも、このままじゃわたしだって……」
亜紀はその先の言葉を飲み込んだ。これ以上話をしてもムダだと思ったからだ。この上司は、部下の気持ちを
それともう一つ、過去に彼からの食事の誘いを断ったことも、こうしたところに影響している気がした。あれは四ヶ月前、小木が松戸営業所の新所長として赴任してきたとき、どういうわけか、亜紀だけが食事の誘いを受けた。これを断ったところ、翌日から急に態度が冷たくなったのだ。
「というわけで、
「……わかりました」
肩を落とす亜紀を、傍らにいる謙臣が同情の
ほどなくして、江頭藤子は本当に営業所に現れた。相変わらず、黒を基調とした地味ないでたちで、化粧がなされていない。この女はどういうわけか、ノーメイクを信条としているのだ。
それに加え、この腰下まで伸びた直毛の黒髪である。子どもならいいが、彼女の年齢は亜紀と同じ三十九歳だ。さすがに不気味なので、亜紀は切った方がいいと何度も進言しているのだが、彼女は毎度「考えておきます」と受け流すだけだった。
謙臣にお茶を頼み、パーティションで仕切られただけの応接スペースに、彼女を案内した。
「それはつまり、わたしの方に問題があると、平山さんはおっしゃりたいのでしょうか」
相手の男性会員とのコミュニケーションの取り方を今一度見直すべきでは、と亜紀が伝えたところ、彼女からこのような言葉が返ってきた。
「問題というわけではないんですが、初対面でご自身の結婚生活の理想ばかりを突きつけてしまうと、相手の男性も
江頭藤子は見合いの場において、家庭での家事分担から始まり、マナーやルール、さらには、性生活の頻度についてまで、事細かに相手に要望を伝えているのだ。
「だけど、最初にわたしはこういう人間ですと、正確にお伝えしておいた方がいいと思うんです。それに、わたしなりに男性側のことも考えて、色々と配慮をしているつもりです。わたし、本当なら性交渉も持ちたくないですし、できることなら体外受精で妊娠したいくらいなんですから。でもそれだと男性側はストレスも
そう、この女の結婚の最大の目的は、出産なのである。三十半ばまでは、子どもはいらないと考えていたそうだが、四十を目前にして、考えを改めたのだと以前話していた。いずれにせよ、彼女にとって夫の存在は、ハナから二の次なのだ。
「ですが江頭さん、やっぱりそういうデリケートなお話は、もう少しお互いの距離が縮まってから――」
「だから、何度も申し上げていますよね。最初にお伝えしておいた方が手間が省けるでしょうと。平山さんって話のわからない方なんですね」
ふだんの亜紀ならば、ぐっと
だが、このときばかりは我慢ができなかった。きっと、息子の暴力の件がメンタルに影響していたのだろう。
ここで、噴火したように感情が
「話がわからないのはあなたの方でしょう」
自分でも思わぬ大声が出た。営業所の中が静まり返る。
「相手があなたを気に入らなかった。ただこれだけの話じゃない。こんなのわざわざ話し合うまでもないでしょう。だいたいあなた、わたしのアドバイスを一つでも聞いたことある? 散々自分がやりたいようにやって、上手くいかないからって、こっちに難癖をつけてこないでよ」
江頭がみるみる目を
「わたしがいつ、難癖をつけたんですか」
「つけてるでしょう、今も。だいたいあなた、すべてが非常識なのよ。こうしてアポも取らずにいきなり押し掛けてきて、少しはこっちの都合も――」
亜紀は止まれなかった。完全に冷静さを失っていた。
そしてついには、
「結局、あなたがそんなだから、いくつになっても結婚できないのよ」
と、絶対に言ってはならないことまで口にしてしまった。
亜紀は消沈して、営業所の駐車場に停めてある自家用車に乗った。
小木の説教から解放されたのは、今さっきだ。滅多に声を荒らげることのない上司が、「おれのクビまで飛ばす気かっ」と、薄い髪を振り乱して怒り狂っていた。亜紀は身を小さくして、その
力なくエンジンのスタートボタンを押し込んだ。ブーンと静かなエンジン音が、ひんやりした車内に響く。
いくら
江頭藤子はボソッと捨て
大通りに出て、流れに乗った。亜紀の愛車は、ピンクベージュカラーのダイハツのミラトコットだ。去年の春先に思いきって新車で購入したのだが、ローンは三年以上残っている。
先の信号が赤に変わりそうだったので、アクセルを強く踏み込んだ。時刻は十八時を過ぎており、冬の空はとうに夜支度を終えている。一方、こちらは今から夕飯の支度をしなくてはならない。
信号に捕まったところで、亜紀は小太郎に持たせている簡易ケータイに電話を掛けた。やっぱり、今夜は夕飯を作る気力が湧かないので、外食で済ませようと思ったのだ。だから、おもてに出る準備をしておいてと、そう伝えたかったのだが、彼は電話に出なかった。
小太郎は基本的に、自分のケータイに触らない。なぜなら電話とショートメールしか送れない、子どもにとってひどくつまらないものだからだ。
次に、自宅の固定電話に電話を掛けた。ところが、小太郎はその電話にも出なかった。
なんだろう。眠っているのだろうか。もしくは
小太郎はこのようなことがあった日、深く落ち込むのである。そして涙ながら、「二度と暴力は振るわない」と反省の弁を口にする。
その姿もまた、彼の父親にそっくりだった。
とりあえず、コンビニでお弁当を二つ買った。本当はあまりこういうものに頼りたくないのだけど。
ほどなくして、自宅のマンションに到着した。亜紀と小太郎の住まいは、松戸市内にある築三十年の八階建てマンションの四〇三号室だ。新しくも広くもない2LDKだが、収納が多いところだけは気に入っていた。なにより、家賃が五万六千円なので助かっている。
亜紀は玄関のL字形のドアノブを引いたところで、おや、と思った。
鍵を使ってドアを開けると、「おかえり」と、居間の方から小太郎の声がした。
「ただいま」パンプスを脱ぎ、一直線に居間へ向かった。「今日はちゃんと鍵を掛けてたんだ」
「なんか怖かったから」
カーペットの上に体育座りをしている小太郎が言った。どうやらテレビアニメを見ていたようだ。
「怖いって、どういうこと?」
「さっきまで、ずっと電話が鳴ってた」
「電話?」
「うん。もしもしって出ても、何も言わないの。でも、切るとまたすぐに掛かってきて――」
そんなことが十回ほどつづけてあったという。電話番号は非通知と表示されていたようなので、おそらくイタズラなのだろうが、これで亜紀からの電話に出なかった理由がわかった。どうせまたイタズラ電話だと思って、番号を確認しなかったのだろう。
「誰なんだろう。気味悪いね」
亜紀が腕を組んで言うと、小太郎は「ぼく、犯人わかる」と表情を落とした。
「誰よ」
「たぶん、中川くんだと思う」
今日、小太郎が椅子を投げつけたクラスメイトだ。
「中川くんって、そういうことをする子?」
「わかんない。謝ったときは、許してくれるって言ってたけど」
「そう。とりあえずご飯を食べて、今日はママと一緒にお風呂に入ろう。今日学校であったこと、ちゃんと――」
電話が鳴った。
すぐさま歩み寄り、液晶ディスプレイを確認する。非通知の電話だった。小太郎が話していたのはこれだろう。
亜紀は一つ息を吸ってから、受話器を取った。
「もしもし」
たしかに、相手は何も言わなかった。ただし、
「どなたですか」
もしかしたらこれは中川くんではなく、彼の母親かもしれないと亜紀は想像した。息子が被害に遭ったことで、はらわたが煮えくりかえっているのかもしれない。それに、この手のやり口は、なんとなく大人の女のような感じがした。
いや、ちがうかな。中川くんの母親は、そういうことをするタイプの人じゃない。どちらかといえば、肝っ玉母ちゃん的な女性で、授業参観の日に少し話をしたことがあるが、その際の大口を開けて豪快に笑う姿が印象に残っている。ああいう人は、この手の陰湿な行動は取らない気がする。
しかし、だとすれば誰――。
もしや、元夫の達也――?
考えたくはないが、粘着質なあの人の方が現実味がある気がした。実際に離婚から数年間、亜紀はしつこく復縁を迫られており、それを断っていると、彼はストーカーじみた行動に出たので、警察に通報すると脅したことがあるのだ。
だが、それを機に達也のそうした行為はいっさいなくなった。今では約束通り、三ヶ月に一度、小太郎と会える日を楽しみに、つましく暮らしているはずだ。だいいち、自分の息子を怖がらせるようなことはしないだろう。
では、いったい誰なのか。
ここでふいに、亜紀の
――覚えていろ。
と女の声が再生された。先ほど、江頭藤子から吐かれた捨て台詞だった。
まさかな。そんなはずはない。彼女が我が家の電話番号を、知っているわけがないのだから。
「どなたかわかりませんが、迷惑なのでやめてください。これ以上、こういうことをするなら警察に相談しますから」
亜紀は語気荒く告げて、受話器を乱暴に落とした。
2
受け持ちのクラスの児童である平山小太郎が、教室でトラブルを起こしたので、彼の母親に一連の報告をしたところ、明日、
長谷川
お待ちしておりますと、快く承諾したものの、正直なところ、気持ちの余裕はなかった。
祐介は今、いっぱいいっぱいの日々を送っていた。
祐介が松戸市立
こんな中途半端な時期に、それも卒業を目前に控えた児童のクラスを受け持つことになったのには、理由がある。前任者の
「長谷川先生、お疲れのところ申し訳ありませんが、少しいいですか」
背中に声が掛かり、振り返ると、教頭の
「校長先生が、きみにお話があるそうなんだ」
下村に連れ出され、校長室へ向かう。部屋に入ると、校長の
下村が田嶋のとなりに腰を下ろし、祐介は彼らに向かい合う形で座った。
木製のローテーブルを挟んだ先に並ぶ、校長と教頭をブルーレンズ越しに見て、改めて狐と狸だと思った。前者は痩せ細っていて
先に口を開いたのは狐の方だ。
「長谷川先生、目の方の具合はいかがですか」
「おかげさまで良好です」
祐介は食い気味に返答した。
すると、狐は細い目をさらに細めて「なによりです」と言い、横の狸を
水を向けられた下村が一つしわぶく。
「先ほど
下村はそこまで言って、バトンを渡すように田嶋を見た。
「弱ったものです」と、田嶋がため息交じりに言う。「大事な娘を失った親御さんの気持ちは理解できるが、こちらに矛先を向けられても困ってしまう。正直、公務妨害でしかない」
「ええ、本当に」と下村が腕を組んで
「筋がちがうという話をしたところで、相手に聞く耳がないものだから、お手上げだ」
その一因はあんたにもあるんじゃないのか――祐介は口の中で言った。
この狐校長は、事件から三日後に行われた記者会見の場で、「イチ教育者として、また責任者として、
おそらく、多くのマスコミに囲まれて上がってしまっていたのだろうが、あの失言によって、世間は学校側にも落ち度があったのではないかという印象を抱いたことだろう。
今から約二ヶ月前の十二月四日水曜日十六時半頃、六年二組に在籍していた小堺櫻子が小学校を出たあと、帰宅途中に行方不明になった。
十二歳の児童が自ら
事件当日、共に下校をしたクラスメイトの女子児童の証言によれば、互いの家の分岐点である十字交差点で、「また明日ね」と言い合って別れたという。
そこから小堺櫻子の自宅までは徒歩で七分程度、彼女は一人で帰路についた。
そしてその直後、彼女は
事件があったであろうと想定される通りは、あまり人気がなかった。古い民家が点在していたが、その時間におもてに出ていた住民はおらず、また、防犯カメラを設置している住宅もなかった。
小堺櫻子の母親である
そしてこの電話でのやりとりが事後、問題となる。
というのも、小堺由香里は二十六歳の女性教師が、〈おそらく櫻子ちゃんはどこかで道草を食っているのではないでしょうか。なので、警察に連絡するというのは尚早かと〉と発言したと訴えているのだが、これを飯田美樹は「わたし、そんなこと言っていません」と否定していた。
おそらくは飯田美樹の主張の方が正しいと思われるが、小堺由香里は頑として証言を覆さなかった。
いずれにせよ、これの何が問題なのかというと、小堺由香里はあろうことか、自分はすぐにでも警察に通報をするつもりであったが担任の先生に止められたためしなかった、だから結果として通報が遅れた、もしあのときにすぐ通報していたならば娘は発見されていたはずだ――このような言い掛かりをつけてきたからだ。
つまり、学校側の指示に従ったせいで、娘が返ってこないと訴えているのである。
「理不尽もここに極まれりだ」田嶋が鼻にシワを寄せて吐き捨てた。「あんな難癖をつけられたのでは、飯田先生が気を病むのも仕方ない」
「まったくです」と下村が
祐介はこの発言に関しても、どうかと思った。
なぜなら事件から二日後、飯田美樹から学校
祐介はというと飯田美樹に対し、深く同情していた。まだ若い彼女があのような状況下に置かれては、メンタルを病んでも仕方ないだろう。
だがまさか、彼女の後任として、自分に白羽の矢が立つとは考えてもみなかった。
事件前、祐介は四年一組の担任を務めていた。であるのにも
とにもかくにも、まず、ふつうでは考えられない人事だった。
「で、長谷川先生。小堺櫻子さんの母親はね、明日の放課後、我が校にやってくると言うんだ。それも
田嶋が前のめりになって切り出してきた。下村はそっぽを向いている。
「ところが、わたしと教頭先生はその時間、市の教育委員会に出向かなければならない」
なるほど、それもまたこちらに押しつけたいということか。
自分も明日の放課後は、平山小太郎の保護者と面談の予定があるが、それを話したところで、彼らはそっちをどうにかできないかと粘ってくるだけだろう。
祐介は鼻息を漏らしたあと、「わかりました。対応します」と、やや冷淡に告げて、席を立った。
ドアに向かう途中、床に置かれていた観葉植物の植木鉢を足のつま先で
もちろん、わざとじゃない。祐介には見えなかったのだ。
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