『くらやみガールズトーク』収録短編「花嫁衣装」

【試し読み】「わたし、定時で帰ります。」「対岸の家事」で話題騒然の著者が放つ女性たちへの応援歌――朱野帰子『くらやみガールズトーク』収録短編「花嫁衣装」を特別公開!
朱野帰子の怪談短編集をウラモトユウコがタテスクロール漫画化した『くらやみガールズトーク』。
「私の話かと思った」と共感の声が殺到し、コミックナタリー主催「タテ読みマンガアワード 2024」国内作品部門にもノミネートされ大反響を呼んでいる本作が、この度フルカラーで完全書籍化! コミックス第1巻が、2025年2月7日(金)に発売されました。
本記事では刊行を記念して、原作小説のうち、コミックス第1巻でコミカライズされた短編「花嫁衣装」の冒頭試し読みを特別公開!
どうぞお楽しみください!
※本記事は2025年2月7日に「カドブン」note出張所に掲載した記事を再編集・再掲載したものです。
朱野帰子『くらやみガールズトーク』収録短編「花嫁衣装」試し読み
花嫁衣装
結婚披露宴が終わり、
私たちが見送りのためにロビーに立っているのを見ると、次々に寄ってきて、
「いいお式だったわ」
「優しい子だからね、大事にしてやってね」
などとお祝いの言葉を述べ、スタッフが小分けにしてくれた会場の装花を喜んで持ち帰った。私のブーケと同じ白い
「うちの一族に合いそうなお嫁さんで安心しましたよ」
と言った夫側の親族もいた。すぐには誰だかわからなくて、その人が去った後で夫のほうを見ると、「父方の
今着ているのは洋装だけれど、日本の花嫁衣装が白なのは、一度死んで、婚家の人間として生まれ変わるという意味があるのだと聞いたことがある。
ロマンチックだ。どんなつらいことがあっても夫と一緒に頑張ろうと思った。こんなに多くの人たちに祝福されたのだから。
最後にやってきたのは私の祖母だった。何も言わず、涙ぐんで私の手を握る。
「こんなに若くしてお嫁にいっちゃうなんてねえ」
古くさいこと言って。嫁、なんてもう死語だ。夫婦で新しい戸籍をつくる。それぞれの家から独立して対等の関係を築く。それが今の結婚だというのに。
私は笑いながら手を握り返した。
「大丈夫よ、おばあちゃん。彼はすごく優しいし、私たちは対等の関係だから」
ねえ、と言って、隣を見ると、母は目もとをそっと押さえている。今朝、私に朝ご飯をつくってくれた時からこんな調子だった。これが最後なのねと何度も言っていた。
なぜそんなに泣くのだ。本当に死ぬわけでもないのに。
「おめでたい場でそんなに泣くもんじゃないよ」
そう言う父も泣きそうな顔をしていて、私は吹きだしそうになった。
今まで育ててくれてありがとう。大事にしてもらいます。
夫と同じ名字になった。この日のことを私は一生忘れない。
「なんだか体調がすぐれないんです」
と相談すると、職場の先輩は、
「ストレスじゃない? 結婚して一週間でしょ。そろそろ出てくると思った」
とお弁当を包んでいた布を
「ストレス? ないですって。楽しいです。今日だって、ほら、夫がお弁当を作ってくれて。お弁当は彼担当なんです。他の家事だってちゃんと分担してくれるし」
「でも、色々と変わっちゃったでしょう?」
「まあ、引っ越しはしましたけど、前よりも広いですし、夫が家具にこだわる人で、インテリアも素敵なんです。……独身時代の生活がどれだけひどかったかって話ですけど」
冗談を言ったつもりだったが、先輩は笑わなかった。
「結婚一年目ってストレス
「そうですかねえ。毎日、家に帰って誰かがいるってほっとしますけど」
「自分ではそう思っててもね、小さいことが積み重なって、体が悲鳴をあげることってあるんだよ。私は
「うーん、でも私はないなあ」
「なければないで、それにこしたことはないんだけど」
先輩はふくらんだお腹をさすりながら言った。
「私はね、自分は死んだんだって思うようにした。そしたらようやく顎関節症が治った」
「死んだなんて、縁起でもない」
「結婚前の私はもういなくてね。今の私はたぶん別のなにかなの」
「なにかって?」
先輩はお腹にまた手を当てた。中で胎児がぐるりと動いたらしい。
「この前、お
撫でられるのはちょっとないな、と思いながら、
「安産を願ってくれたんじゃないんですか」
「うん、そうとるのがいいのかもね。でも私にはね、こう聞こえたの。あんたはどうなってもかまわないけどって」
「そんなこと言ってないじゃないですか」
「うん、言ってない。だけど、そういう風に聞こえるようになっちゃったんだよね」
「出産が近づいて、ナーバスになってるんじゃないでしょうか」
「うん、だから死んだと思うようにしてる」
先輩は弱々しく微笑んだ。そして息をふうっと吹いた。
「でも頑張らなきゃ。名前もね、夫と考えてもう決めてあるんだ。命をかけて産むのは私なんだから、これだけは好きにさせてもらうの」
そう言って先輩は可愛らしい男の子の名前を教えてくれた。
「××さん」
と、上司に呼ばれた時、自分のことだとわからなかった。何度も呼ばれて、ああそうだ、夫の名字になったのだとふりかえった。
「すみません。まだ慣れてなくて」
上司はホワイトボードの出勤管理表を指さしていた。
「まだ旧姓があちこちに残ってるから消しといてね」
私はうなずき、古い名字をクリーナーで消し、新しい名字に書き換えた。
パスポート、運転免許証、健康保険証、年金手帳、クレジットカード、ポイントカード。
思ったよりもずっとたくさんのものに、古い姓が記されている。ひとつひとつ名義変更する作業は面倒だった。でも、夫の名字の下に自分の名前がくっついているのを見ると、結婚したんだなあという実感がこみあげてくる。
会社のメールアドレスも変わります、と総務部に言われた。アカウント名が、名前と名字の組み合わせでできているからだ。
取引先に伝えると、お祝いの言葉がたくさん返ってきた。でも、「寂しいですねえ」と言う人も何人かいた。
寂しい?
まるで古い名字のついた私がどこかへ行ってしまうみたいなことを言う。
「会社だけは旧姓で通せばよかったかなあ」
夕食を食べながら、何の気なしに言うと、夫は顔をしかめた。
「なんで?」
「なんでって、深い理由はないけど、名刺とか訂正印まで作り直してもらうことになっちゃって、いろんな人に迷惑かけちゃったなって」
「しょうがないだろ、結婚したんだから」
「まあ、そうなんだけど」
「俺の姓って珍しいんだよ。よく
「うん、でも」
いらなくなったほうの名刺や訂正印を捨てた時のことを思いだした。古い名字たちがゴミ箱の底にカチンとぶつかる音が、胸の中に静かに響き、気づいた時には拾い上げていた。そしてロッカーの奥にしまいこんだ。
「離婚した場合、また名字を全部変えなきゃいけないのは、私のほうだし」
事情を知らない人に、ご結婚したんですかと尋ねられて、いえ離婚ですと答える。総務部に頭をさげてまた変更手続きをしてもらう。名字を変えたほうだけがそれをやらなければならない。不公平な気がした。だから名刺や訂正印が捨てられなかったのかもしれない。
「離婚しないんだからいいじゃないか」
「うん、まあ、そうなんだけどね」
「なんかあやしいな。既婚者だって知られたくないわけでもあるの?」
「そんなわけないでしょ」
「じゃあ、つまらないことでぐちゃぐちゃ言うなよ。夕食がまずくなる」
「ごめん」
翌日、更衣室の傘立てに残っていた古い名字のテープを
昼休みは銀行に行った。窓口から返された通帳を見ると、古い名字に二重線が引かれていた。傷みたいだった。結婚前の私が生き返らないようにと、念入りに二回切り裂いた傷に見える。そんな風に思ってしまう自分はおかしいのだろうか。
家に帰って通帳を机に放り出しておくと、夫が見つけて嬉しそうに言った。
「おっ、いいねえ。うちの名字、君の名前に合ってる」
合ってるという言葉を聞いて、結婚式で夫の伯父さんに言われたことを思いだす。
――うちの一族に合いそうなお嫁さんで安心しましたよ。
あれはどういう意味だったんだろう。合いそうって。私ばかりが審査を受けさせられたような気持ちになる。
「あなたの名前にもうちの実家の名字、合うと思うけどなあ」
そんなことを言ってしまったのは、負けたくなかったからだ。名字を変えただけで別の自分になってしまいそうな恐ろしさに。
「いやあ、合わないよ」
夫は即座に言った。
「俺には今の名字が一番しっくりくるよ。生まれた頃から
「私だって前の名字がしっくりきてたけど」
もうやめようと思っているのにそんな言葉が口をついて出てしまう。
「まあ、慣れるまでには時間がかかるよな」
夫は私を励まそうと思ったらしい。「あ、そうだ」と明るく言った。
「結婚式に出てくれた父方の
「お義父さん方の……」
そんな人、いただろうか。夫側の親戚は多く、顔を覚えられていない。
「姓名判断をしてくれたらしくてさ、うちの名字になってから、家庭的で子育てにも向く運勢になったって。いいお嫁さんもらったわねえって言ってたよ」
ご飯粒が
「私はお嫁さんじゃない。そっちの家にもらわれてない。あなたと結婚しただけ」
「わかってるよ。でも叔母さんはそういう意味で言ったんじゃないだろ」
「なら、なんで姓名判断なんてするの? 家庭的じゃなくて子育てにも向かないって結果が出たらどうなってたの?」
「悪い結果が出たら言わないだろ。いい結果だったからよかれと思って」
「いい結果? 家庭的で子育てに向いてる女性になりました、合格ですって言われて、私が喜ぶって本気で思ってるの?」
結婚しようと二人で決めた夜、夫と遅くまで話し合ったことを思いだす。お互い給料が少ないから共働きにしよう。家事は分担して、子育ても二人でしよう。
「悪い風にとるなよ。叔母さんの世代にとってはそれが褒め言葉なんだからさ」
夫はげんなりしている。
「あなただったらどう? あなたがうちの実家の名字を選んだとして、うちの親戚が勝手に姓名判断してきたとしたら」
「それとこれとは比べられないよ」
「なんで?」
「男にとって名字を変えるっていうのは当たり前のことじゃないから」
「奥さんの名字になる人だっているでしょ」
「でもその場合はさ、養子縁組して田畑を継ぐとか遺産をもらうとか、なにかしらの交換条件があった場合じゃないの? なにもないのに変えるなんて犠牲が大きすぎる」
「女は犠牲を払って当たり前だと」
「そうは言ってない。あくまで一般論だよ」
私は黙った。説得できたと勘違いしたのか、夫はにこりと笑った。そして皿を片付けながら、なにかのついでみたいに言った。
「あ、そうだ、大伯父さんが結婚式に来られなかっただろ。だから君に会いたいって言ってるんだ。うちの両親が明日一緒に行こうって」
「明日? 急すぎない?」
「土曜日で休みだろ。大伯父さんはせっかちな人だから」
「でも、引っ越しの片付けとか、名義変更とかで、ろくに休めてなかったし。今週末はゆっくりしたかったんだけど。来週じゃだめ?」
「父親がもう大伯父さんに連絡しちゃったって」
どうして私の予定を確認してくれなかったんだろう。でもこれ以上、小さいことにこだわって雰囲気が悪くなるのはいやだった。私はうなずいた。
(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)
作品紹介
書 名:くらやみガールズトーク
著 者:朱野 帰子
発売日:2022年02月22日
「わたし、定時で帰ります。」で話題騒然の著者が放つ女性たちへの応援歌。
なんだろ? この不平等感! そろそろ口に出してもいいんじゃない? 『わたし、定時で帰ります。』の著者が放つ、女子たちの本音満載の物語。例えば――。
女性には”もやもや”がつきものだ。たとえば何回か来る人生の通過儀礼。結婚では夫の名前になり、旧姓は消えてしまう。義理のお母さんから孫を早く生んでと言われる。けれど嫁だから、夫の実家をたてて、自分の本当の気持ちはしまい込む……。最初はちょっとだけのがまんのはずが……。出産、親の痴ほう、失恋、引っ越しなど、人生は常に変わっていく。大小問わず、ふいに訪れる人生の節目で、これまで築いてきた人間関係は変わってしまう。どうして、女性ばかりがそれらを全部背負わなきゃいけないの。普段、人に言えずしまい込んでいる嫌な気持ちを、見つめ、解放してくれる物語の数々。くらやみから聞こえてくるのは――女子たちの本音。私たちはもう一度、生まれ変わる。解放される。自分のために!すべての戦う女性たちのための応援歌!
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コミックス紹介
『くらやみガールズトーク』タテスク版も配信中!
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プロフィール
朱野帰子(あけの・かえるこ)
東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。2009年、『マタタビ潔子の猫魂』(「ゴボウ潔子の猫魂」を改題)でメディアファクトリーが主催する第4回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞し、作家デビュー。13年、『駅物語』が大ヒットに。15年、『海に降る』が連続ドラマ化された。現代の働く女性、子育て中の女性たちの支持をうける。主な作品に『賢者の石、売ります』『超聴覚者 七川小春 真実への潜入』『真壁家の相続』『わたし、定時で帰ります。』など。