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試し読み

ブラックボックス化した家庭内の暴力は周囲に気づかれない。 【『蜘蛛の牢より落つるもの』試し読み#06】

9/26に発売された原浩さん最新長編小説『蜘蛛の牢より落つるもの』。ダムに沈んだ伝説の村で、かつて起こった猟奇事件。その真相に近づくほどに、恐怖と謎があふれ出す・・・・・・! 書店員さんお墨付きの「どんでん返しホラーミステリ」を大ボリューム試し読み公開。



原浩『蜘蛛の牢より落つるもの』試し読み#06

 俺は続く言葉を待った。やがて草彅は顔を上げると前髪を搔き上げた。草彅の髪の生え際、横一直線に五センチほど長さの古傷が見える。ぼこぼこといびつな凹凸を残す傷は路上で干からびたミミズの死骸を連想させた。
「この傷はあいつにやられたものです。酔ったあいつにハサミで殴りつけられたんです。裂けた傷からたくさん血がでました」
「あいつ、というのは、義父の……?」
 草彅は眉を寄せると、その名を口にする時間すらも嫌なのか、早口に吐き捨てた。
「牟田です」
 冨さんのメモにも書かれていた。草彅の義父、牟田雅久は事件の五年ほど前から草彅家に居付くようになったという。すぐに妻を殴るようになり、そして子供たちにも暴力が向けられるようになるまで時間はかからなかった。牟田の度重なる暴力と精神的な虐待は家族の正常な思考を次第に奪っていった。牟田の妻も子供もいわばマインドコントロールされた状態に陥り、全てが牟田の言いなりになったらしい。家族は牟田に完全に支配されていた。
「……弟にも酷い傷がたくさんありました」草彅は続けて話す。「私は中学生にしては体が大きかったんです。牟田は大人としては小柄な方でした。そのせいか、あいつは私をあまり殴りませんでした。でもその代わりに、あいつの暴力は母と弟に集中してしまった。今考えれば、いくらでも流生を助けることができたはずなのに、あの時は怖くて、何も考えられなくて……」
 当時中学生であった草彅が成人男性の暴力に抵抗するのは難しいだろう。母親の静代も精神的に支配されていたのであれば、解決には外部の助けが必要になる。だがブラックボックスになった家庭内での暴力は事態が深刻化するまで周囲に気づかれないケースは多い。草彅家にとって不幸だったのは、家庭内の異常な状況が周囲に露見する前に流生の死亡という最悪な状況に至ってしまったことだ。
「弟さんが亡くなられたのは、キャンプ場での事件の直前ですよね」
「はい。私が学校から帰ると、冷たくなった流生が浴室に裸で寝かされていました。それで……」
「亡くなった理由は聞かされましたか?」
「後になって牟田に殴られて頭を打ったのだと知りました。けど、その時にあいつがどう説明したのかは覚えていません。死んでいる弟を見てどう感じたのかすら覚えていないんです……ただ、その後あいつが言ったことは覚えています。流生が死んだのは、私や母親の責任だと言いました」
「それを信じたんですか?」
「その時は疑問に感じませんでしたし、そうなのかと思って恐ろしくなりました。あいつは、流生の死体を隠さないと家族は大変なことになる。流生を埋めなければならない……そう言ったんです」
「それでキャンプ場に?」
 草彅は項垂れたまま頷いた。
 俺は以前、家庭内暴力についての記事を書くにあたり、DV被害者保護のために設立された民間シェルターの施設運営者に取材を行ったことがある。それによると、暴力を受け続けた人間というのは感覚が鈍化して考えることをやめてしまうものらしい。強いストレス環境に晒され続けると、人は些細な精神的負荷すらも避けるようになる。これはある種の防衛反応といってもいい。虐待から逃れるために行動を起こすことすらもストレスになってしまい、その結果、現状に甘んじたまま変化を恐れるようになる。誰がどう見ても危険な状態なのに、救いの手を拒むことすらあるのはそのためだ。草彅家もそうした状況だったのだろう。そうした中で弟が殺されたにもかかわらず、草彅もその母親も牟田の指示に従い続けた。
「キャンプ場の敷地に弟さんを埋めようと、牟田雅久が指示したんですね」
 草彅は再び頷いた。
「当時は、すぐにでもダム工事が始まるという雰囲気でしたから……」
 牟田がキャンプ場に死体を埋めようと考えたのは理由があった。
 この地が間も無く地図から消えるからだ。
 この事件の二年前、六河原村と国は「六河原ダム建設に係る基本協定書」を締結していた。その翌年には「信濃川水系六河原ダム建設事業の施行に伴う補償基準」についても同意がなされ調印も終わっている。つまり事件当時、六河原ダムの着工を目前に控えていたのだ。そのため、六河原キャンプ場もその夏をもってキャンプ場経営を廃業し閉鎖されることが決まっていた。そして着工から三年もすれば、キャンプ場は建造されたダムによって生まれる湖の底に沈むことになる。牟田は死体をそこに埋めてしまえば、犯罪が露見する可能性はなくなり、将来にわたって安全だと考えたのだろう。
 しかし、実際は地元の反対運動によってダム建設計画は度重なる遅延を余儀なくされた。竣工し湛水が行われたのは、それから八年も後だ。牟田の考えた通りに流生の遺体が埋められたとしても、すぐに隠蔽とはいかなかったはずだ。
「六河原キャンプ場には他の客もいたんですよね」
「ええ。けど、私たちが行った日は、後から一組来ただけです」
「それにしても人目はあるわけですよね。どうやって弟さんの死体を埋めたんですか? 他のキャンプ客の目もある中で」
「テントの中で埋めました。あいつが、管理人からテントを借りたんです」
「ええと……」俺は取材メモのページをめくり、最初のページに記載した名前を確認した。「管理人の蜂須賀三津夫さんですね」
 草彅が首肯する。
「そうです。蜂須賀さんから借りたテントは布製の大型テントでした。真ん中に一本支柱があるだけの円錐形のテントでした」
「ティピータイプのテントですね」
「そう呼ぶんですか? そのテントの中はかなり広かったです」
 広いばかりでなく、ティピータイプのテントは構造を支えるのが骨一本だけなので設営が簡単なのだと冨さんから教わったばかりだ。今、車に積んである冨さんから借りたテントがまさにそのタイプなのだ。
「そのテントの中に弟さんの遺体を運んだんですね」
 草彅は頷いた。
「ええ。流生はクーラーボックスに入れられていました」
「クーラーボックス……」俺は息を吞んだ。
「ええ」と、草彅は小さく頷く。「体を抱えるような姿勢でボックスの中に……」
 子供が入るくらいの大型のクーラーボックスなのだろう。その情景を思い描くだけで気分が悪くなる。俺は考えないようにして話を続けた。
「車は駐車場に?」
「いえ、テントの隣に停めてました。テントが出来るとすぐにそれを中に運んだんです」
 ということは、六河原キャンプ場はオートキャンプ場だったらしい。キャンプサイトに直接車両を乗り入れることを許されたキャンプ場だ。運び込んだ荷物の出し入れが楽に行えるので人気だと聞いたことがある。死体を運び込むにも都合が良かったはずだ。
 続きを促すと、草彅は記憶を手繰るように天井を見上げる。
「……私がテントを設営していると、牟田はどこからか両手にシャベルをぶら下げて戻ってきました。キャンプ場の備品を勝手に持ち出したようです」
「では、そのシャベルで?」
 草彅は無表情にこくりと頷く。
「あいつは、これでテントの中の地面を掘れと、そこに流生を埋めろと言いました」
「テントの中で穴を掘ったんですか?」
「ええ」草彅は首肯した。
 テントの入り口さえ締め切ってしまえば、中で何をしているのかはわからない。まさか死体を埋めているなどと考える人間などいないだろう。しかも他の客が一組だけならば気づかれる可能性も低い。
「でも、穴を掘るのは相当大変だったんじゃないですか?」俺が訊くと、草彅は強く頷いた。
「ものすごく暑くてね。汗だくになりましたよ。テントの入り口も閉め切ってましたし」
 事件のあった日は九月上旬だ。この地域の気候は冷涼とはいえ、日中涼しくなるにはまだ早い時期だ。テントの中でシャベルを使うような重労働をするのは難儀だったろう。
「テントの中を見られないように閉めていたんですね」
「それもありますが、虫が多かったんですよ」
「虫?」
「ええ。蜘蛛が多くて。入り口を開けておくと、どんどん入ってきちゃうものですから。風が通らないテントの中で汗だくになって地面を掘りました」
 草彅はリビングの床に目を落としたまま、ぼそぼそと話す。光のない黒々とした視線は、まるでそこに弟の死体を埋める穴が見えているかのようだ。
「昼間から掘り始めたんですね?」
「そうです。テントを張り終えて、昼過ぎくらいから」
「穴掘りは三人で?」
「はい」
「事件の記録を読みましたが、途中からその管理人と他のキャンプ客も穴掘りに加わったとか」
 草彅は暗い眼差しを俺に向けると「……はい」と、小さく頷いた。
「どういった経緯でそういうことになったんでしょう。その人たちも死体を埋めるために掘っているのを知っていたんですか?」
「……彼らは、巻き込まれたんです」
「巻き込まれた?」
「はい」
 続く言葉を待ったが、草彅はそれ以上何も言わず、フローリングの床をぼんやりと見つめている。
「そういえば、その、穴を掘っている最中に何かあったともお聞きしていますが……」
 草彅が眉根を寄せる。「……何か、とは?」
「何かを掘り出したとか」
 草彅は虚をつかれたようにぽかんと口を開けたが、やがて半紙に墨汁が滲んでいくように、その表情がじわりと暗く濁っていく。
「それは……」と、草彅は呟くように言うと、再び床に目を落とし、口を噤んだ。
 草彅の様子は思いだせないという感じではない。思い起こした何かがあるが、それを言葉にすることをためらっているようにも見えた。
 やがて、草彅はぽつりと言った。
「石が出たんです」

(つづく)

作品紹介



蜘蛛の牢より落つるもの
著者 原 浩
発売日:2023年09月26日

取り憑くものは、怨霊か悪意か。 『火喰鳥を、喰う』の衝撃ふたたび!
フリーライターの指谷は、オカルト系情報誌『月刊ダミアン』の依頼で21年前に起こった事件の調査記事を書くことに。
六河原村キャンプ場集団生き埋め死事件――キャンプ場に掘られた穴から複数の人間の死体が見つかったもので、集団自殺とされているが不可解な点が多い。
事件の数年後にダムが建設され、現場の村が今では水底に沈んでいるという状況や、村に伝わる「比丘尼」の逸話、そして事件の生き残りである少年の「知らない女性が穴を掘るよう指示した」という証言から、オカルト好きの間では「比丘尼の怨霊」によるものと囁かれ、伝説的な事件となっている。
事件関係者に話を聞くことになった指谷は、現地調査も兼ねて六河原ダム湖の近くでキャンプをすることに。テントの中で取材準備を進める指谷だが、夜が更けるにつれて湖のまわりには異様な気配が――

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322306000299/
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