9/26に発売された原浩さん最新長編小説『蜘蛛の牢より落つるもの』。ダムに沈んだ伝説の村で、かつて起こった猟奇事件。その真相に近づくほどに、恐怖と謎があふれ出す・・・・・・! 書店員さんお墨付きの「どんでん返しホラーミステリ」を大ボリューム試し読み公開。
原浩『蜘蛛の牢より落つるもの』試し読み#04
「ほら、このところの水不足でダムの水位がめちゃくちゃ下がってるんだ。このまま雨が降らなければ事件のあった六河原キャンプ場も湖底から姿を現すかもしれないだろう。写真とか撮れたら面白いじゃない。もうダムの近くにキャンプさせてもらえる場所を手配したから、泊まり込みで取材して欲しいんだよね」
「泊まり込む必要あります? 大体どうしてキャンプなんですか。ホテルとかでもいいでしょうに」
「だってほら。事件現場近くに常駐していれば、怪異に遭遇するかもしれないじゃん。怪奇現象の体験ルポになったら最高だね」
「遭遇するなんて信じてないでしょ。大体俺、キャンプ道具なんて持ってないっすよ。経験もないですし」
「道具は僕のを貸すよ。一時期ソロキャンプにはまってたんだ。いいのを持ってるからさ」
「いや、でもですね……」
「なんだよ。怖いの?」
「そういうわけじゃ」
「わかるよ、ゆびちゃん怖がりだもんね。うちの仕事してるライターでは珍しいタイプだよ」
俺も冨さん同様に幽霊も宇宙人もUMAも超能力も信じちゃいない。だが、信じているかどうかと、その手の話が得意かどうかは別の話だ。俺はスプラッター映画も駄目だし、ホラー小説も一切読まない。怪談話などもってのほかだ。理由は単に苦手だからだ。それを知った冨さんに、ことあるごとに怖がりだと揶揄されてきた。
「ひとりで山に泊まるなんて、やっぱ、おっかないかなあ。厳しい?」
冨さんが意地悪く笑う。
「いえ、おっかないわけじゃないんですよ」
「だったらなんなのさ」
「いや、だから俺はですね。この仕事を進めるにあたって、わざわざ現場でキャンプをする必要性について疑問を呈しているのであって──」
その時、いきなり会議室のドアが勢いよく開いた。
「あ、いた! ちょっと編集長、社員を凍死させる気ですか!」
入って来るなり興奮気味に冨さんにまくし立てた女性は編集の坂口塔子さんだった。塔子さんは眼鏡の細いフレームを指で押さえて冨さんを睨む。冨さんはばつが悪そうに椅子を引いて塔子さんを見上げた。
「あ。塔子ちゃん。今日お休みだったんじゃ……」
「午前半休です。設定温度二十度っていくらなんでも酷すぎです。凍えます。約束したでしょう。二十五度以下にはしないでくださいって。この温度で暑がっているのは編集長だけです。それに電気代だって馬鹿にならないんですよ。社長ご自身が節電意識に乏しかったら他の社員に示しがつかないでしょう」
塔子さんは天竜書房に長年勤める編集のひとりで年齢は三十過ぎくらいと聞いている。冨さんとは年齢差があるものの、どういうわけか冨さんが唯一頭の上がらない相手だった。
冨さんはやや怯えた笑顔を塔子さんに向ける。
「あ、そうね。そうだよね。でもほら、今日は暑いからさ、空調も効きが悪いかなって……」
「十分効いてます」遮るように断言すると、塔子さんは俺に顔を向けてにっこりと笑った。「ゆびちゃん、こんにちは」
「あ、どうも。お世話になってます」
俺が頭を下げて応えると冨さんが取り繕うように口を挟んだ。
「あ、ゆびちゃんが例の現場でのキャンプ体験してくれるって」
塔子さんは意外そうに目を丸くして俺を見る。「そうなの?」
「え、はい、まあ……」
「ほらあ、僕がお願いしたら、きっとやってくれるよって言ったじゃない。それにさ、なんなら、僕も現場に同行したらいいんじゃないかと思うんだよね。ほら、ゆびちゃんキャンプ慣れしていないしさ。インタビューも僕がいたら助けになるだろうしさ。それに」
塔子さんはじろりと横目に冨さんを見る。眼鏡のつるがきらりと光った。
「編集長。昨日お渡ししたゲラの確認はして頂けましたか? 校了のスケジュール、把握されていますよね」
冨さんは跳ねるように立ちあがる。
「やります。今からやりますから」
「お願いします」
冨さんは「じゃ、ゆびちゃん、この件頼むね」と言い残して、逃げるように会議室を出て行った。
ドアが閉まると塔子さんは溜息をついた。
「編集長がキャンプ好きってだけなんですよ。本当は」
「ああ、そういうことっすか」俺は苦笑した。
「公私混同ですよね。困っちゃうあの人。でもまあ二十年前の怪異の現場でキャンプするっていうのも、ちょっと面白い企画だとは思うんだけど」
「ですね。まあ楽しそうな仕事ですし、頑張ります」
「いつも無茶振りばかりごめんなさい。本当、助かります」
塔子さんはそう言って微笑むと、ふと窓の外に目をやった。
「雨、午後から降るかもしれませんね」
塔子さんがぽつりと呟いた。
窓の外には黒雲が低く垂れこめている。
だが、結局この日も降らなかった。
二日後、俺は草彅柊真に会いに信州へと車を走らせていた。
彼の住む佐比市は群馬県との県境に近い小さな市で、事件の起きた一年後に六河原村を正式に吸収合併している。目立った観光地も気の利いた特産品もなく、小規模なスキー場がひとつあるくらいだ。こうした取材のような用件がなければ、この先も訪れることはなかっただろう。
途中編集部に寄って冨さんが貸してくれたキャンプ道具一式を車に積み込んだ。俺がテントを張った経験がないと言うと、冨さんは簡単だから心配ないという。
峠道の天気は快晴だった。エアコンの調子が悪く、窓を開けたまま車を走らせているが、吹き込む空梅雨の乾いた空気はもはや夏を思わせる暑さだ。前髪をばさばさと不愉快に乱すばかりでちっとも涼しくはない。昨日の夕方、東京ではいくらか降雨があったが、首都圏の水瓶たるダムを備える水源地だけが狙ったように雨雲がかからない。関東甲信越では、今週からとうとう一部の河川流域で取水制限が発令されていた。
六河原キャンプ場集団生き埋め死事件。ネット上にも情報の乏しいこの事件を、俺は昨夜一通りおさらいしていた。
ことの発端はキャンプ場に訪れた四人家族だ。
四人家族とはいっても、そのうちの一人は死体だ。その死体は当時まだ十歳の草彅家の次男、草彅流生。後の司法解剖で彼の死因は脳挫傷であったと判明した。激しく殴打され、倒れた拍子に後頭部を床に強く打ち付けたらしい。そればかりではなく、体中には多数の痣や傷が見つかった。彼は日常的に虐待を受けていたのだ。流生への虐待を行い最終的に死に至らしめたのは、この家の義父、牟田雅久。牟田は籍はいれておらず内縁の夫だった。実父は草彅柊真が五歳の時に病死している。
この家族は死んだ流生の死体を埋めて隠蔽する為に六河原キャンプ場にやってきたのだった。もちろん主導したのは牟田雅久だ。
牟田は妻と長男に命じてキャンプ場内に流生の遺体を埋める穴を掘らせた。穴掘りは外から見られないように、大型テントの中で行われたらしい。しかし、その途中でどういう理由があったのかキャンプ場管理人の蜂須賀三津夫と、キャンプ客の浅井洋平という人物も穴掘り作業に加わった。
ふたりが穴掘りをしている様子は蜂須賀の妻の文子に目撃されている。また浅井洋平は娘の萌香を連れてキャンプ場を訪れていたが、娘もまた父が突然に穴掘りに加わったと証言している。
彼らが作業に加わった経緯は判然としない。草彅柊真の証言では現場に突如現れた女に命じられ従ったのだという。『掘り出した女』だ。ふたりが穴掘りに加わったのは事実であり、そこに何らかの事情があったとしか思えないが、今日にいたるまでその理由はわかっていない。
穴は彼らの手によって複数掘られたらしい。流生の死体を埋めた後に、牟田雅久を除く全員が順番に穴の中に入り、次々と生き埋めにされたのだ。最後に残った牟田雅久はキャンプ場の受付のあった管理棟に向かうと、現場に燃料をまき、室内に火をかけた上で首つり自殺を遂げた。
事件の状況は不可解極まりなく、当時の警察の捜査は難航を極めたらしい。結局のところ殺人だったのか、あるいは事故か、それとも自殺だったのかすら断定することができなかった。大勢で死体を埋める穴を掘り、穴を掘った者たちが自ら埋められたという気味の悪い事実だけが残った。地中から人間を発狂させるガスが噴出したらしいとか、某新興宗教が絡んでいる、などといった様々な噂話が当時流れたらしいが、どれも根拠はない。
生き埋めにされた現場からは、長男の草彅柊真とその母親の静代が生きて助け出された。その生き残りである草彅柊真に取材ができるのだ。とはいえ、事件から二十年以上も経過している。今更事件の当事者に話を聞いたところで新しく得るものは少ないだろう。俺はあまり期待していなかった。
(つづく)
作品紹介
蜘蛛の牢より落つるもの
著者 原 浩
発売日:2023年09月26日
取り憑くものは、怨霊か悪意か。 『火喰鳥を、喰う』の衝撃ふたたび!
フリーライターの指谷は、オカルト系情報誌『月刊ダミアン』の依頼で21年前に起こった事件の調査記事を書くことに。
六河原村キャンプ場集団生き埋め死事件――キャンプ場に掘られた穴から複数の人間の死体が見つかったもので、集団自殺とされているが不可解な点が多い。
事件の数年後にダムが建設され、現場の村が今では水底に沈んでいるという状況や、村に伝わる「比丘尼」の逸話、そして事件の生き残りである少年の「知らない女性が穴を掘るよう指示した」という証言から、オカルト好きの間では「比丘尼の怨霊」によるものと囁かれ、伝説的な事件となっている。
事件関係者に話を聞くことになった指谷は、現地調査も兼ねて六河原ダム湖の近くでキャンプをすることに。テントの中で取材準備を進める指谷だが、夜が更けるにつれて湖のまわりには異様な気配が――
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