9/26に発売された原浩さん最新長編小説『蜘蛛の牢より落つるもの』。ダムに沈んだ伝説の村で、かつて起こった猟奇事件。その真相に近づくほどに、恐怖と謎があふれ出す・・・・・・! 書店員さんお墨付きの「どんでん返しホラーミステリ」を大ボリューム試し読み公開。
原浩『蜘蛛の牢より落つるもの』試し読み#02
まただ。気のせいではない。誰かが土を踏みしめているような音だ。
俺は振り返り音のした方向に目を凝らした。星明かりが照らす暗がりの中にもやもやと何かが動くのが見えた気がした。やはり狸か。それとも野犬?
再びライトのスイッチを入れた。光が土塊ばかりの地面を照らす。そこに見えたものに俺はぎょっとした。
蜘蛛だ。地面を蜘蛛の群れが這っている。
蜘蛛はどれも体長二、三センチくらいの大きな蜘蛛だった。湖底の瘦せた土の上を何匹もの蜘蛛がまるで何かから逃れるように右から左へと移動している。俺は足元に寄って来た蜘蛛の一匹を思わず踏み潰した。スニーカーを上げると、裂かれた腹から内臓を飛び出させた蜘蛛がぺしゃんこになっていた。
「うわ、気持ちわりい……」
そういえば、ここに来る途中にも蜘蛛を見た気がする。ダム湖ってのは蜘蛛が多く生息しているものなのか? なんだかわからないがとにかく撮影を続けなければ。俺はライトをオフにした。辺りは一瞬で暗闇に戻る。
ふと、手元のカメラを見ると、うっすらと光る液晶画面の端に見慣れない黄色い正方形の枠が表示されていた。カメラのレンズは振り返った方向にそのまま向けている。
これは何のアイコン表示だ? このカメラは使い始めたばかりで勝手がわからない。説明書も一度ざっと読んだだけだ。黄色い枠はカメラに映る景色のひとところを示すように明滅している。
思い出した。このカメラは顔認識機能がついている。カメラに人の顔が映ると自動的にピントを調整してくれるのだ。この四角い枠は人の顔と認識している部分に表示されるらしい。
じっと黄色い枠が囲む領域に目を凝らした。ここには俺の他に誰もいない。人の顔などあるはずもない。一体何を顔と認識しているのだろう。
明滅している枠の中に滲むように何かが見えてきた。ざらざらと粗いノイズの中に黒い影がぼんやりと蠢いている。何かが見えそうで見えない。その暗い濃淡に目を凝らす。急激な認識だった。それは、いきなり顔に見えた。
「うわっ」
驚きカメラを地面に取り落とした。土の上に跳ねた音がして、次にじゃぽんと水音がした。慌てて足を引くと右足が冷たい水に濡れた。スニーカーがざぶりと湖水に沈む。意外と水深は深く、くるぶしまでが水に濡れた。
「あ、くそ」
カメラは防水のはずだが、絶対とも言い切れない。せっかく撮影した映像が消えてしまっては元も子もない。俺は暗がりを手で探った。水の中に手を入れるが泥だけで何も指に触れない。買ったばかりだ。紛失するわけにはいかない。いつの間にか両足が水に浸かっていた。水際から離れると すぐに水深が深くなっているみたいだ。少し移動しただけなのに、すでに膝下までが水に濡れてしまっている。靴底がずるりと泥に滑って、水の中に引き込まれるようだった。慌てて踏ん張りながら、水中に手を伸ばす。
「くそ、どこだ、カメラ」
すると指先に硬いものが触れた。カメラの握り部分らしい。俺は水中からなんとかそれを拾い上げた。カメラの電源は入ったまま録画状態で動いている。どうやら壊れてはいないらしい。今度は落とさないように首に下げたストラップに繫いだ。手探りでカメラライトのスイッチを入れると、白い光が閃いた。ライトも問題なく点灯した。
顔を上げると、さっきカメラが顔認識した辺りにライトを向けた。しかしそこには岩が転がる乾いた湖底の土があるばかりで誰の姿もなかった。もちろん液晶上に顔認識を示す黄色い枠表示もされなかった。
「マジか……」
心臓が跳ねるように動き出す。冷たい恐怖が急速に湧いてくる。
俺はこんな動画を撮影しているが心霊など信じちゃいない。信じていないからこそ、こういう撮影をひとりでもこなすことができる。しかし、今見えたものは一体なんなんだ。見間違いだったのか? 得体の知れない何かが確かにそこにいたように思えた。暗闇の中に首だけが浮かんでいたのだ。男か女かわからない。だが確かに人間の顔だった。液晶画面にぼんやりと浮かんだ見開いた目。無感情に結ばれた薄い唇。そしてその鼻は──
ちゃぷり
その音に振り返った。背後には湖だ。火の見櫓のすぐ近くの水面に、リング状の波紋が幾重にも広がっているのが見えた。魚でも跳ねたのか。いや、それにしては大きい気がする。
生き埋めにされた人間たち。そして六河原村の伝説が頭をよぎった。
何かヤバイ。
水から上がろうと踏み出した瞬間、泥に沈んだスニーカーが滑った。体重を乗せた軸足が湖に引き込まれるように、ずるずると沈む。水中に潜む何かが、俺の体を湖底に引き込もうとしている。そんな妄想が閃くように頭に浮かぶ。
俺は這いつくばって泥に手をついた。全身が濡れてしまうが、そんなことに構ってはいられない。カメラライトの明かりが激しく揺れる。地面を搔くようにして体を持ち上げると、どうにか湖水から脱出して地上に上がることができた。
少し水に浸かっただけなのに、全身に寒気が走る。体が震えだし止まらなかった。がちがちと歯が音を立てる。振り返って水面を照らした。だが、そこには水中に泥を巻き上げた水面があるばかりで他に何もいない。
光が瞬くと、いきなりライトの明かりが消えた。慌ててカメラライトのスイッチに触れるが点灯しない。水に浸したためか本当に壊れたらしい。そういえば別売りのカメラライトに防水性能はなかった。
くそ、どうしてこんなことになったんだ。
呼吸を整え、立ち上がろうとした。その時だった。ふと、気配を感じた。誰かが近づいている。それは押し殺したように小さいが、どこか獰猛にも聴こえるノイズ混じりの呼吸音だった。
「だ、誰かいるのか?」
暗闇に呼びかけるが返答はない。だが、その気配はゆっくりとこちらに近づいてくるのがわかる。
ライトの明るさに慣れていた為に、暗い星明かりにまだ目が順応しない。その時、スマホをポケットに押し込んでいたことを思い出した。スマホのライトで照らせばいい。俺は震える手で尻ポケットを探る。水の中に落としていやしないかと一瞬不安に思ったが、スマホはまだそこにあった。
立ち上がり取り出したスマホに目を落とす。起動した液晶画面の放つ薄明かりが弱弱しく手元を照らした。
息を吞んだ。俺のすぐ目の前に誰かが立っている。鈍いスマホの光に照らされ、何者かの足元がぼんやりと見えた。手を伸ばせば届くくらいの距離だ。暗闇の中に黒い衣服が垂れている。黒い和服だった。いや、僧侶の着る袈裟のような衣装だろうか。
しゅう、しゅう、と呼吸音が鳴った。俺自身の呼吸なのか、それとも相手の呼吸なのかもわからない。がちがちと鳴る歯の震えを食いしばって抑えようとするが止まらない。
震えながら目線を上げる。そいつの顎先がじわじわと視界に入ってくる。白い布が顔の横に垂れている。頭巾を被っているのか?
目の前の何かは身じろぎもせずにじっと立っていた。それの吐く息が鼻先に届いている気がした。
俺は顔を上げた。向けられたそいつの顔。それを見た瞬間に抑えていた恐怖が爆発した。
(つづく)
作品紹介
蜘蛛の牢より落つるもの
著者 原 浩
発売日:2023年09月26日
取り憑くものは、怨霊か悪意か。 『火喰鳥を、喰う』の衝撃ふたたび!
フリーライターの指谷は、オカルト系情報誌『月刊ダミアン』の依頼で21年前に起こった事件の調査記事を書くことに。
六河原村キャンプ場集団生き埋め死事件――キャンプ場に掘られた穴から複数の人間の死体が見つかったもので、集団自殺とされているが不可解な点が多い。
事件の数年後にダムが建設され、現場の村が今では水底に沈んでいるという状況や、村に伝わる「比丘尼」の逸話、そして事件の生き残りである少年の「知らない女性が穴を掘るよう指示した」という証言から、オカルト好きの間では「比丘尼の怨霊」によるものと囁かれ、伝説的な事件となっている。
事件関係者に話を聞くことになった指谷は、現地調査も兼ねて六河原ダム湖の近くでキャンプをすることに。テントの中で取材準備を進める指谷だが、夜が更けるにつれて湖のまわりには異様な気配が――
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