小休止を終えてチェックインカウンターに戻ると、ちょうどツアー客が捌けた直後らしく、順番待ちの列は見当たらなかった。
できれば夕刻のラッシュ時までゆっくりしたい。そう考えているとカウンター前に軽快な足取りで近づく男がいた。
咲良は思わず叫び出すところだった。
サングラスをしているものの、特徴ある顔の輪郭と口元は隠しようがない。人気のお笑い芸人、瀬戸ようじだった。
チェックインカウンターに有名人がやってくることは少なくない。政治家、スポーツ選手、タレント、歌手。国際線では必ずパスポートとチケットの現物確認を行うので秘書やマネージャーが代行することはできず、本人が来なければならない。目と鼻の先で有名人と顔を合わせるのは数少ない役得の一つだ。
「どうもすみません」
瀬戸はまず頭を下げてきた。実際に見る芸能人がテレビとはまるで別のキャラクターであるのは珍しくないが、瀬戸ようじも例外ではなかった。
彼らがGSやCAと接するのは短時間だが、接客業をしていればわずかな時間でも人となりの一端は窺い知れるものだ。酒好き女好きで奔放、ひと昔前の破滅型芸風でブレイクした瀬戸だが、カメラが回っていないところでは小心者と思えるほど慎重で、そして何より腰が低かった。タレントイメージとの落差も手伝い、咲良も密かにファンになっている。
本来、瀬戸クラスの有名人ならVIP扱いとなりコンシェルジュがアテンドしてもおかしくないのだが、本人が頓着しないタイプらしい。
「これ、お願いします」
手慣れたもので、瀬戸はパスポートとチケットをカウンターに置くとサングラスを外した。既に本人であるのは知れているが、マニュアルに従って確認する。JL062便ロサンゼルス経由ニューヨーク行き。
瀬戸は月に一度の割合でニューヨークとの間を行き来している。彼の出演する番組で海外ロケは聞いたことがないので、おそらくプライベートの旅行なのだろう。
「お預かりする荷物はありますか」
「これだけお願いします」
瀬戸がスーツケースを置いた。Mサイズのハードタイプ、二泊するにはちょうどいい大きさだ。
「あんまり長逗留できなくって」
こちらが訊きもしないのに、瀬戸は弁解がましく言う。素でもサービス精神が旺盛なのは好印象だった。
「お忙しそうですものね。いつもテレビで拝見しています」
「やっ。どうもありがとうございます」
瀬戸は再び低頭する。ファンを名乗る者にも至極丁寧な対応なので、好感度が増す。
「国内だと人の目があるから、なかなかゆっくりできなくて。いや、注目されるのはホントに有難いんですけど」
「忙しい方ほどプライベートな時間は必要だと思います。どうぞ羽を伸ばしてきてください」
「お気遣いありがとうございます」
チェックイン情報から出力されたタグをスーツケースに取りつけ、BHSコンベヤの上に置く。ベルトコンベヤに載せられた荷物は爆発物検査装置(EDS)を通過して出発ロビー下の階に運ばれる仕組みだ。EDSはCTスキャンで中身を透視する。手荷物のインライン検査にも導入されており、お蔭で検査時間が大幅に短縮できている。
見れば、瀬戸の手にはバッグが提げられている。
「そちらのバッグはどうされますか」
「これは機内持ち込みでお願いします」
「では保安検査場へお願いいたします。いってらっしゃいませ」
「どうもありがとうございます」
最後に一礼して瀬戸はカウンターから離れていく。本音を言えばもう少し世間話をしていたかったが、今の会話が許容範囲ぎりぎりだろう。内規は厳格で、有名人のサイン一つもらっただけで上司から睨まれるのだ。
役得の余燼を味わっていると、また一人男性がこちらに近づいてきた。長身の細面で、柔和な顔と物腰が印象的だ。
「失礼。今のお客さん、芸人の瀬戸ようじさんですよね」
有名人を見かけて確認したがる人間は少なくない。咲良は知らぬ存ぜぬを決め込もうとしたが、反応する前に手帳を呈示された。
警察手帳だった。
「身分を明かすのを忘れていました。本日から成田国際空港警察署に赴任してきました仁志村賢作といいます」
噂をすれば何とやらだ。
「蓮見さん、ですね。どうぞよろしく」
仁志村は胸元の名札を見たのか、先にこちらの名前を告げる。機先を制されて咲良は一瞬口籠ってしまう。
「あの、署長さん、ですよね」
「わたしの名前をご存じでしたか。恐縮です」
「広報が回っていましたから。あのう、チェックインカウンターに何かご用なのでしょうか」
「いいえ。空港内を回っていたら、偶然瀬戸さんを見かけたので確認したかっただけです」
「空港内をって。署長さんはそんなことまでするんですか」
「わたしだけかもしれませんが」
そう前置きした上で、仁志村はどこか嬉しそうに応える。
「ウチの管轄は成田空港の供用区域と限定されています。一日で回れない広さじゃない。自分の担当区域を一日で把握できるなんて最高ですよ」
咲良も成田国際空港警察署の概要だけは知っている。一九七八年、成田空港(当時の名称は新東京国際空港)開港とともに新設された全国三番目の空港警察で、現在は百四十人ほどの警察官と職員が勤務しているはずだ。警察署としては確かに小所帯だが、それでも空港内を視察して回る署長というのは初耳だった。
「でもウチの警官はよく見回りをしているでしょう」
「ええ、それはもちろんですけど」
見回りはしてくれても、役に立ってはくれていない。もちろん口には出していないが、仁志村は咲良の顔を見て小首を傾げた。
「ふむ。空港職員の方には不評なのですかね」
まさかと思い、咄嗟に手で口元を隠す。それを見た仁志村は大笑する。
「正直な人ですねえ。別に顔に出てやしませんよ」
「引っ掛けですか」
「それはともかく、署員が不評を買っている理由を知りたいものですな。改善すべき点を改善しなければ、わたしが赴任してきた意味がない」
「でも警察には民事不介入の原則があるんじゃないですか」
「大原則ではありますが、民事か刑事かの境界線は曖昧な部分があります。ちょっとした言い争いなら民事ですが、互いに激昂して大声を出し合えば迷惑防止条例に抵触する。空港内なら警察官の出番になってもおかしくない。別に警察の介入を推進するつもりはありませんが、空港職員の皆さんが警察の力を利用してくれればとは思います」
快活な口ぶりなので自ずとこちらの警戒心が薄れる。現に、初対面だというのに咲良は何の抵抗もなく会話を続けている。
「でも、わたしたちが詰所に飛び込んでも、まともに取り合ってくれないことが何度かあったんですよ」
「それはよろしくない。話は最後まできちんと聞く。現場にも臨場する。民事か刑事かの判断はその上ですることです」
仁志村の言葉には重さがないが、薄っぺらさもない。所信表明の空手形ではなく、実現可能な公約を聞いているような気にさせるのだ。
「そうしてもらえると、わたしたちも安心していられます」
「何よりです。国際空港は空の玄関口です。様々な国籍の人間の出入り、異文化の交流と確執。揉め事は起きて当然だし、起きた揉め事は早急に解決するのが肝要です」
仁志村はまるで暗唱したかのように喋る。普通なら通り一遍の外交辞令に聞こえそうなものだが、不思議に耳に心地よい。
だが最近芽生えた皮肉屋の性が頭を擡げてきた。失望するのは嫌なので、あまり期待しない方がいいだろう。
「気乗り薄な顔をしていますね」
またしても仁志村はこちらの顔色を読んでくる。
「まあ、新参者の決意表明なんて眉唾ものですからね。蓮見さんのお気持ちはもっともです。ただ同じ組織人の一人として、言っておきたいことがあります」
「何でしょう」
「大きな組織だからこそ、責任者が替わったら大転換する可能性があるのですよ。それではまた」
仁志村はそう言うと、さっさと踵を返してカウンターから離れていった。彼の言葉が千夏のそれとは正反対だと気づいたのはしばらくしてからだった。
仁志村は本当に成田空港中を視察して回ったらしく、各ターミナルの職員からの目撃談が咲良の耳に入ってきた。だが見る者が違えば印象も変わるらしく、仁志村の人物評は一定しなかった。
「今度の署長はいかにも軽いよなあ。ちっとも頼りになんね」
「親しみやすそうじゃん」
「トップが替わったくらいで、いきなり空港警察が親身になってくれるもんかね」
「結局、一日で空港内を回りきったって話だけど、それって要するに急ぎ足だろ。視察したうちに入らないよ」
「あれはさ、外見だけだな。実際は庁舎に引っ込んだら椅子にふんぞり返って何もしないタイプだ」
「空港警察なんて所詮小所帯だからな。本人にしてみたら腰掛けみたいなものじゃないのか」
仁志村の持つ軽快さを軽薄と取るかフットワークの軽さと取るか。いずれにしても赴任当日、仁志村の顔が職員たちに売れたことは間違いない。だが二、三日もすると皆はすっかり興味を失くしたようだった。
少しばかり話し込んだせいか、咲良は仁志村に肩入れしそうになっている。空港職員に顔を知られたのが吉と出るかそれとも凶と出るのか。仁志村のお手並み拝見といったところだろう。
しかし空港内はセキュリティが万全であり、仁志村が辣腕を振るえるような事件が発生する可能性は皆無と思われた。また、仮に大事件が発生したとしたら、それは咲良たち空港職員には迷惑な話だった。
少なくともこの時点までは。
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