本屋大賞作家・冲方丁氏待望の歴史長編『麒麟児』が2018年12月21日に発売となります。5年ぶりの歴史長編となる『麒麟児』で冲方氏が描くのは、勝海舟と西郷隆盛。幕末最大の転換点、「江戸無血開城」を命を賭して成し遂げた二人の“麒麟児”を描く、著者渾身の歴史長編です。
本作の発売を記念して、12月7日(金)より12月19日(水)まで計13日間連続での試し読みを実施いたします。『麒麟児』の「序章」と「第一章」、総計82ページ(紙本換算)、約4万字を発売前にお読み頂けます!
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四
山岡が、ふうーっとまた良い呼吸をし、背筋を伸ばして言った。
「まことの暴発は、焼き討ちののち……鳥羽・伏見の戦いですな」
この言葉に、勝は大いに喜んでうなずいてみせた。
「そうだよ。その挙げ句が、今ここに官軍が攻めてくるっていう大騒ぎさ」
「上様が大坂から戻られたとき、安房守様が出迎えられたと聞きました」
「迎えになんぞ行くものか。帰って来ることさえ知らなかったんだぜ。いきなり使いが来て、呼び出されたんだよ」
「その場におられる方々を、恫喝されたとか」
勝は笑ってかぶりを振りながら、その光景を思い出していた。
一月十二日の朝のことだ。
勝は朝餉の箸を止め、慌ただしくやってきた使者を出迎えた。
「軍艦、帰府せり」
というのが使者の報せだった。寒いなかにもかかわらず満面に汗を浮かべて言った。
「どなたか知りませんが、大切な御方がお着きになったとのことで、たいそうな騒ぎです。それで、安房守様に、品川に出向いて頂けないかとのこと」
勝は、ぼんやりとその言葉を聞いた。
脳裏ではさっそく一年半前の――慶応二年(一八六六年)の夏の日のことが、よみがえっている。
長州に行ってくれ――そう口にした慶喜の顔が浮かんでいた。幕閣の顔もついでに浮かんだ。
長州征伐の折、会津と薩摩の対立を解消させ、公武合体の推進を何としても果たさねばならない。勝はそう命じられ、肝脳を絞って働いた。
そして投げ出された。
慶喜は勝手に停戦の勅を賜り、幕閣ははなから会津と薩摩を仲裁できるとはみていなかった。勝は面目を失った。時間稼ぎの捨て駒に等しい扱いを受けた。
また同じことが起こる。そういう予感があった。ほとんど確信だった。
勝の人生はこうしたことの繰り返しである。幕府が窮地に陥ると重用され、用が済むと放り出される。どれほど的確な進言をしても、的確であるがゆえに拒絶される。
それでも、時が来れば必ずまた重用されるとわかっていた。幕府や将軍には、自分のような人間が必要だった。事実、幕府が消滅するというこのときが、そうだった。勝の満々たる自信がそう思わせているというのではない。それだけ幕府に人材がない、という寂寞とした思いすら抱かされる現実が、勝には見えていたからだった。
使者の到来は、勝の予想どおりだった。
だが力はわかなかった。なんだかひどく悲しい気持ちになった。
「おれは、しくじった身の上だから、こうして引っ込んでいるんだぜ。そういう大変なところに呼ばれたとて、出ていきゃしねえよ」
勝はそう言って追い返し、朝餉を食った。家族がなんのかんのと声をかけてくるが、ろくに耳に入らなかった。
茶を自分で淹れて飲んでいると、また別の使者が来た。
「上様でござる」
使者は必死の面持ちで告げた。何としても勝を連れてこいと厳命されたのだろう。
「お着きになった御方は上様ご本人に間違いありません。上様が、安房様をすぐに呼べと仰せです。一刻も早くと。安房様、お頼み申します」
勝は深々と溜息をついた。
「馬が売れねえんだ」
「は――?」
「お天道様にはわかってたのかね」
勝はそう言うと、使者を待たせて馬を連れてきた。御城から引っ込んだとき、馬も売ってしまおうと思ったのだが、買い手がつかなかったのだ。こいつが売れずに居残っているのも天命だろう。そう思いながら、馬にまたがった。
海軍所まで馬をとばした。道中、悲しみが膨らんで仕方なかった。
到着すると、何人もの男たちが火を焚いて暖を取っていた。どいつも、こいつも、なんともみすぼらしい姿だった。
老中の板倉侯がいた。
なんと会津藩主の松平容保がいた。
そして、慶喜がいた。
お気に入りの洋装に、刀を肩にかけ、寒そうに身をすくめている。海が荒れたかして船上で難儀したのだろう。顔色は悪く、やつれていた。
正月二日に京に向けて進軍させた張本人たちが、なぜ今、ここにいるのか――勝はもはや疑問にも思っていない自分を悟った。こうなることは、あらかじめわかっていた。そう思った途端、ひどい悲しみの塊が、全て怒りに変貌した。
「あなた方は、いったい、なんというざまだ!」
怒号が勝の口から逬った。相手は将軍であり大名たちである。さすがに周囲の者が止めようとしたが、勝は止まらなかった。
「これだから、言わぬことじゃあない! もうこうなってしまってから、どうなさるおつもりだ! ええ、上様! どうするんですか!」
いつしか勝の双眸から涙がこぼれ出していた。泣きながら吠えていた。何もかも腹立たしかった。自分が具体的に何に対して泣いているのかもわからなかった。
慶喜は珍しく逃げなかった。いつもなら、さっさとどこかへ引っ込んで耳を塞いでいたはずだ。なのに宙を見つめたまま、勝がひとしきり詰るのを黙って聞いていた。
勝は叫ぶのをやめた。喉が痛くなるほど叫んでいたことに後で気づいた。誰も何も言わない。
勝の荒い息だけが響いた。
ふと、
「安房」
慶喜がうつむいて、か細い、ささやくような声で、呼んだ。
勝は、はたと息をのんだ。暴言を吐いたことで、てっきり処罰されるのかと思ったが、慶喜は何も言わなかった。勝を斬れとは命じなかった。それとは逆のことを慶喜が命じようとしていることが伝わってきた。
――頼む。どうにかしてくれ。
慶喜がそう言っているのがわかった。
勝の目に、また激しい熱を帯びた涙が溢れた――。
(第9回へつづく)
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