実像 広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実
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広島のマザー・テレサとマスコミに祭り上げられた「ばっちゃん」こと中本忠子。その真の姿と思いに迫る【発売前試し読み・秋山千佳『実像』】
●「ただいま」「おかえり」を知らずに育った子。
●小学生で覚せい剤を親からうたれた子
●モヤシを盗んで飢えをしのいだ子 etc.
彼らを救ったマザーテレサと呼ばれる人がいます。
『ルポ保健室 子どもの貧困・虐待・性のリアル』、『戸籍のない日本人』など、いまの世の中から理不尽にも弾かれてきてしまった人々の声を拾い、伝え続けてきたジャーナリスト・秋山千佳さんの最新ルポ『実像 広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実』が、10月25日(金)に発売となります。
今回は聖人に“されてしまった”一人の女性の姿を通して、貧困、ヤクザなどからの離脱支援、女性の生き方、メディアのあり方など、多岐にわたるこの国の問題、その実態を照らし出していきます。
本名よりも「ばっちゃん」の通称で知られる女性、中本忠子。
彼女は広島市にあるアパートを拠点に約40年にわたり、非行少年をはじめ、生きづらさを抱える人たちに無償で手料理を提供し、生活の立て直しを支援し続けてきました。
その圧倒的な善行はメディアに取り上げられ、意に反して急速に聖人化されます。ところが、肝心の活動の動機は一切謎のままでした。本人、親族、そして〝家”に集う人々へ取材を重ね、秘してきた〝情と業“に初めて迫った渾身のルポ!
それは、偶像を求め、作り、持ち上げては貶める時代の闇を払うことでもありました。
発売まであと少し! 待ちきれない皆様のために、『カドブン』では「序章」と「第一章」を先行公開します。ぜひご覧ください!!
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序 章 「ばっちゃん」と「中本忠子」――二十五秒のスピーチを聞いて
こんなはずじゃなかった――。
例年になく雪の降った広島の空もこの日は晴れ渡り、私はかすかな春の気配を含ませた風を頬に感じながら、広島駅近くのホテルを見上げ、やがて玄関をくぐった。
二〇一八年二月十七日。ホテルの大宴会場では、朝から宴席の準備が始まっていた。
ロビーの「本日の催事案内」にはこう記されていた。
「『ばっちゃん』こと中本忠子氏祝賀会」
本名よりも「ばっちゃん」という通称で知られる女性が、この日の主役だ。
中本忠子さん、この時八十三歳。
広島市基町のアパートを拠点に、非行少年などの更生支援にあたる保護司を七十六歳の定年まで三十年務めた。
その事実以上に彼女が世に知られることになったのが、これまで四十年近くにわたり、非行少年などに無償で手料理を提供してきたことだ。保護司の頃も定年後の今も、来る日も来る日も、求める人がある限り毎食である。生きるために欠かせない営みである食を介して心を通わせ、非行や犯罪から立ち直らせてきた。その数は把握されているだけで数百人にのぼる。
こうした活動が評価され、中本さんは二〇一七年だけでも吉川英治文化賞、ペスタロッチー教育賞、内閣府子供と家族・若者応援団表彰(内閣府特命担当大臣表彰)と、大きな賞を立て続けに受賞。三冊の書籍も刊行された。
何よりこの年の初めには、ドキュメンタリー番組「NHKスペシャル」で『ばっちゃん~子どもたちが立ち直る居場所~』として放映されたこともあって、「ばっちゃん」という呼び名と活動は一気に全国区となった。
こうした受賞と出版を祝うのが、この日のパーティの目的だった。
ただ、その目的を踏まえても、パーティの顔ぶれは異色だった。
出席者は百八十九人。十九脚ある丸テーブルのうち、出入口に近いテーブルには、中本さんを支えてきたスタッフや関係者、かつて中本さん宅で食事をし、更生した元非行少年らがスーツに身を包んで参席している。同級生や親族もいる。
ここだけ見たらごく普通のアットホームな会であっただろう。
しかし、舞台正面のテーブルに目を転じれば、日本を代表する政官の関係者が参集している。
広島高等検察庁検事長、広島地方検察庁検事正、広島県知事代理といった広島関係だけでも、一人の元保護司を讃えるには異例のものと言えるだろう。
さらに、法務省保護局長、衆議院議員の平口洋氏、自由民主党の政調会長であり派閥の領袖である岸田文雄元外務大臣までいた。
そして会場中心の席を占めていたのが、安倍晋三首相夫人である安倍昭恵氏だ。
立場としては公益財団法人の社会貢献支援財団会長として臨席していたが、その役職ゆえの義務的な参列ではなかった。会が始まってすぐ、次のような挨拶をしていた。
「ばっちゃんとは、社会貢献支援財団で表彰されて以来、お邪魔をさせていただいたり、昨年は私どもの地元であります山口県長門市の方にもお越しをいただきました。何度となくお会いするたびに、その懐の大きさ、ばっちゃんの愛の大きさに感動しているところでございます」
昭恵夫人の思いの深さに触発されたのだろうか。受付で誰もが目を見張っていたユリや胡蝶蘭などに彩られたスタンド花には「内閣総理大臣 安倍晋三」の名札。同じく「内閣総理大臣 安倍晋三」として届いた祝電も披露された。
シャンデリアがきらめく五百平米の会場の端から舞台上に目を向けると、金屏風の前で座している主役の中本さんは小さく見えた。黒いドレスとグレーのラメ入りカーディガンに身を包み、普段はしない化粧を施して、どこか他人事のような顔つきをしていた。
来賓のスピーチが続くが、中本さんが口を開く機会はなかなか巡ってこない。
私はまた「こんなはずじゃなかった」と思いながら、初めて中本さんに会った時のことを思い出していた。華やかなパーティとはあまりにかけ離れた、中本さんにとってありふれた日常の一コマを。
二〇一六年一月、中本さんの自宅アパートを訪ねた。
週刊誌の取材だった。保護司向けの雑誌に掲載されていた中本さんの記事を目にして、話を聞きたいと依頼したものだ。
平日の午後三時ごろ、どうぞどうぞと迎え入れてくれた初対面の中本さんは、「何せかんせ狭いじゃろ?」と笑って言った。
約四十平米、2DKの部屋は、刑務所で受刑者が作った木の箪笥や棚が壁際を埋め、一人暮らしにしては大きな食卓とこたつテーブルが存在感を示す。
テーブルに着いた中本さんは、このように話し出した。
「ここに来る子いうたら、親が薬物依存症、刑務所に出たり入ったり、虐待、ネグレクト……。まず普通の家庭の子は来んけんね。毎日のことじゃけ、盆も正月も休めんのよ」
中本さんの語り口は明るいが、内容は重かった。
一時間もすると、中本さんは話を中断した。そして「まあまあ、どうぞ召し上がれ」と言って、作ってあったカレーを出してくれた。
早い時間の突然の夕食に戸惑いつつ、さじを運ぶ。
「おいしいじゃろう?」と中本さん。
素直においしかった。ホロホロに煮込まれたすじ肉入りで、辛さ控えめの優しい味わいながら、こくがあって癖になる。何より温かいご飯がお腹に収まっていくことで、気持ちがほぐれていく。
食後、お茶を手にホッと一息ついていると、こう言われた。
「子どもが更生するために一番手っ取り早いのが、食べること。お腹が空いたらいい知恵は浮かばんでしょう? 悪さばかりを考える。大人だってひもじかったら、皆さん殺気立っとるよ」
図星だった。私は普段から、胃袋が顔に出ていると人にからかわれるくらいお腹が空いているのがわかりやすいと言われる。昼前に軽く食べてはいたが、緊張もあって顔はこわばっていたのだろう。それを見抜かれ、中本さんの哲学が真理をついていると身をもって実感した。「百聞は一食に如かず」だ。
日が暮れる頃には、「ばっちゃん、腹減ったー」と少年たちがやってきた。中本さんは「はいよはいよ、おかえり」と対応に追われはじめる。
この頃来ていたのは九~二十二歳の子どもや若者で、一日三~十人くらい。
剃り込みをいれたり派手なチェーンネックレスをした彼らも、おかわりを重ねるうち、ドアを開けたときの荒々しさが緩んでいく。お腹が満たされると、中本さんらと他愛ないおしゃべりに花を咲かせ、なかなか腰を上げようとしない。テレビを見ながら自宅のようにくつろぐ子もある。
結局、私のその日の滞在は六時間に及んだ。
非行少年と呼ばれてきた彼らは、背景を知れば中本さんの言うように「普通の家庭の子」でなかった。支えとなる大人が周囲にいなかった。
私は社会のどこにも受け皿のないこうした子どもや若者の存在を、各地でたびたび見聞きしてきた。貧困や虐待、依存症などの問題が見えやすい学校の保健室を何年も取材してきた中で、家庭環境が厳しい子ほど不登校になったり高校だと中退してしまったりし、支えを失って道を踏み外しやすくなるのが気がかりだった。
それだけに、彼らと食卓でごく自然に向き合う中本さんに、すっかり心を掴まれてしまったのだ。
翌朝東京へ戻る予定だったが、聞きたいことは尽きず、次の日も中本さん宅に東京行きの最終の新幹線ぎりぎりまで居座らせてもらうことになった。これほどまでに話を聞きたいと思える人と出会えた興奮は大きく、取材後は頭が熱くて寝付けないほどだった。
一方で、疑問もあった。中本さんの活動の動機がはっきり見えないのだ。
初日の取材を終えて、ノートに赤のボールペンでこう書き込んだ。
「なぜここまで人のために尽くせるのか」
中本さんのしている活動は、どう考えても常人ではありえないものだ。
手料理をふるまう相手からその費用を徴収したことはない。資産家ならともかく、市営アパートで年金暮らしの身だ。かつては寄付などもなく、食費だけでも月十万円を超える活動資金のために生活費を切り詰めたという。近年は独居の高齢者なのに電気使用量が多すぎると、電力会社から確認を受けることもあったそうだ。
また、昼夜を問わず助けを求める電話や来訪がいつあるかわからず、旅行はおろか、風呂にもゆっくり浸かっていられない。人が警戒するはずの非行少年の出入りのために鍵をかけなくなり、自宅は人であふれ返り、プライバシーなどない。それどころか、複雑な家庭環境下にある男子中学生たちを預かり、半年あまり自宅に住まわせたことさえあるらしい。この手の驚くエピソードは次々に出てきた。
中本さんはなぜ、このような活動を続けてこられたのだろう。
翌日には正面切ってこの質問をぶつけてみた。
中本さんは「皆さん必ずそれを聞くけど、答えようがないの」と笑いながら言った。「よその子であれ、わが子であれ、子どもは皆幸せになってほしいし、よくなってくれることを念じてやっているだけのことよ」
良い言葉ではある。が、明確な答えにはなっていなかった。
本人の経歴に何かヒントがあるかと思ってあれこれ尋ねてみたが、「私、自分でいいところというと一切過去を振り返らんの。前進のみ」とつれない。
結局、後に記事にした保護司になる以前の経歴は、次のようなことだけだった。
広島・江田島の出身。二十一歳で結婚し、三人の男の子を授かったが、末の子が生まれた直後に夫を心筋梗塞で失う。父親の記憶がないほど幼かった三人を女手一つで育てた――。
これさえも過去記事を元にしつこく確認していったのだが、活動の話と打って変わって口は重くなり、しまいにはこう言われてしまった。
「子どもたちにも言うよ、過去のことは反省はせにゃいけんけど、あとは全部忘れようって」
折しも全身にびっしり入れ墨のある中年の女性がやってきて、昔の話は流れてしまった。息子がきっかけで自分も食事に訪れるようになったという彼女は、中本さんの手を取り、撫でながらしみじみと言った。
「ばっちゃんの手はマザー・テレサの手よ。恵まれん子を助けてねぇ」
聞けば中本さんは「広島のマザー・テレサ」と呼ばれているという。
結局、二日かけても中本さんの活動の源泉を探り当てられなかった私は、後日、週刊誌の記事でこの「広島のマザー・テレサ」という言葉を使った。それはそのまま見出しにもなった。
時がたつほどに悔やまれた。中本さんの近くにいる人が実感を持ってそう賞するのはいい。が、ちょっと取材しただけの人間が、「とにかくすごい人ですよ」とわかったような気になってこの言葉を借用するのは、あまりに安直だった。
あの疑問を無視してはおけない。その年末、私は中本さんにあてて、「中本さんの歩んでこられた道を一冊の本にまとめられれば」と手紙をしたためた。
ちょうど中本さんが、前年立ち上げたNPO法人でアパート敷地内の事務所を借り、自宅に代わる新たな活動拠点「基町の家」を開いた頃だった。
翌二〇一七年四月、東京であった吉川英治文化賞の授賞式で、久々に中本さんと再会した。
式では受賞者のスピーチがあった。各人が思いの丈をめいっぱい語っていたのだが、舞台に上がった中本さんが淡々と述べたのは、たったこれだけだった。
「中本でございます。よろしくお願いいたします。えー、私はですね、これというようなことは何もしていない、ただ長年、子どもたちに食事を作って食べていただいたというだけのことと思っております。まあ、でもこれからも体の続く限りやらせていただきたいと思っております。今日は栄えある賞をいただきまして、ありがとうございました」
時間にして二十五秒。
終わった瞬間、会場はどよめき、一拍おいて万雷の拍手が湧いた。用意してあった原稿はもっと長かったらしいが、結局目を落とすことはなかった。
大舞台でも思いきりがよく、直感的に動く。子どものことさえ語れればいい。中本さんらしさが凝縮されたスピーチを見て、ますます強い思いが湧いてきた。
中本さんの実像に迫りたい。
ただ、最初の取材の経験から、本人への単純なインタビューでは本質を掴みきれないと感じていた。そこで、「基町の家」での活動をそばで見させてもらおうと決めた。まずは誰とどんな関わり方をしているのかをもっと知りたかったし、身近な人の証言から中本さんの姿を浮かび上がらせていければいい、と考えたのだ。
そこから一年間、毎月のように数日から十日、広島や関係先を訪ねた。
ちょうど中本さんが数々の大きな賞を受賞した時期と重なった。周囲の人の中から「ばっちゃんとして偶像化されてゆくことには違和感を覚える」という声が漏れ出したタイミングでもある。
しかしその偶像化とは別に、通うにつれて取材は思いがけない方向へと進んでいき、想定は次々に崩れていった。そんな事態に戸惑いながらも、わかりやすい美談に落とし込まれることを拒むような、一人の女性の生き様に心揺さぶられていくこととなる。
「こんなはずじゃなかった」というのは、偶像化されていく中本さん自身の胸にも去来した思いだったろう。特殊な活動をする女性を追う中で浮かんできたもの、それは、「家族」という普遍的なキーワードだった。
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▶第2回へつづく
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