実像 広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実
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【第4回】広島のマザー・テレサとマスコミに祭り上げられた「ばっちゃん」こと中本忠子。その真の姿と思いに迫る!! 発売前試し読み・秋山千佳『実像』
●「ただいま」「おかえり」を知らずに育った子。
●小学生で覚せい剤を親からうたれた子
●モヤシを盗んで飢えをしのいだ子 etc.
彼らを救ったマザーテレサと呼ばれる人がいます。
『ルポ保健室 子どもの貧困・虐待・性のリアル』、『戸籍のない日本人』など、いまの世の中から理不尽にも弾かれてきてしまった人々の声を拾い、伝え続けてきたジャーナリスト・秋山千佳さんの最新ルポ『実像 広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実』が、10月25日(金)に発売となります。
今回は聖人に“されてしまった”一人の女性の姿を通して、貧困、ヤクザなどからの離脱支援、女性の生き方、メディアのあり方など、多岐にわたるこの国の問題、その実態を照らし出していきます。
本名よりも「ばっちゃん」の通称で知られる女性、中本忠子。
彼女は広島市にあるアパートを拠点に約40年にわたり、非行少年をはじめ、生きづらさを抱える人たちに無償で手料理を提供し、生活の立て直しを支援し続けてきました。
その圧倒的な善行はメディアに取り上げられ、意に反して急速に聖人化されます。ところが、肝心の活動の動機は一切謎のままでした。本人、親族、そして〝家”に集う人々へ取材を重ね、秘してきた〝情と業“に初めて迫った渾身のルポ!
それは、偶像を求め、作り、持ち上げては貶める時代の闇を払うことでもありました。
発売まであと少し! 待ちきれない皆様のために、『カドブン』では「序章」と「第一章」を先行公開します。ぜひご覧ください!!
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>>第一章 基町の家――卵焼きを囲んで②「そのままかじったインスタントラーメン」「検察庁で鉢合わせ」
もう一つの卵焼きが定着するまで
順調に見えた美々さんのボランティア生活も、晴れの日ばかりは続かない。
夏の近づくある平日、私は別の取材を終え、午後一時半ごろ基町の家に到着した。ドアを開けると、二階から中本さんが「ちょっと田村さん」と呼びかける声がした。「みたらし団子を食べたい、言うんで買うてきて」と言っている。
そのとき一階には田村さんしかおらず、ここを空けるわけにはいかないと切羽詰まった様子で「申し訳ないけど秋山さん、行ってきてもらえん?」と頼まれた。
近くのスーパーへの買い出しに同行したことはあるが、財布を渡されてというのは初めてだ。誰が団子を食べたいんだろう、と事情がよくわからないまま、みたらし団子五パックやそうめんつゆ二本など、メモに走り書きされた買い物を済ませて戻った。
みたらし団子を持って二階へ上がると、中本さんのほかに、中学生くらいの私服姿の女の子四人と、中年の男性がいた。
女の子たちは一様に沈んだ表情をして、団子を渡しても「ありがとうございます」と礼を言うばかりで手をつけようとしない。私が戸惑っていると、男性は「車の中で食べさせますので」と言い、子どもたちに立つよう促して、何度も頭を下げて去っていった。
見送った後、中本さんが「涙、涙の子じゃねぇ」と事情を説明してくれた。
女子四人は、三十キロ以上離れた児童養護施設で暮らす中学生で、その朝登校するふりをして脱走してきたという。途中で制服を脱いで薮に隠し、こっそり貯めてきた小銭を合わせて電車に乗り、広島駅まで出てきた。中の一人が小学生の頃、中本さん宅へたびたび来ていた子だったので、駅からは広島城を目印に歩いてきたのだった。
一行が到着したのは昼前で、中本さんはたまたま用事があって出たばかり。肩透かしを食らって外に出ようとする彼女たちを、田村さんが「今出たら補導されるわ」と必死に引き留め、唐揚げや生姜焼きなどをふるまって時間稼ぎをした。その場には美々さんもいたという。
しばらくして中本さんが基町の家に戻った時、四人は美々さんから「なんで親に連絡とれんの、連絡とれんってどういうことね」と追及されているところだったという。中本さんは全員の境遇を知っていたわけではないが、とっさに「そういうこと言うちゃいけん。連絡して心配してくれるような親がおるならこの子らはここにおらん」と叱り、四人を連れて二階へ上がった。
場の大人が中本さんだけになると、彼女たちはすぐに不満を爆発させた。
一人が「発狂しそうじゃ、こんななら今すぐ死んだ方がいい」と言い出し、自分たちの暮らす施設の生活ぶりを滔々と語った。職員からあれをするな、これをするなと言われるばかりで自由がない、というのだ。
それなら親との生活が良かったかと聞けば、「あんなに虐待されてそんなこと思いません。お母さんという言葉を聞くだけで頭に血が上る」と答えたという。
見れば体には傷跡がたくさんあり、どの子も親は刑務所か逃走中、という状況だった。
そして皆、連絡を取りようもない親に連絡を取れと強いてきた美々さんに対して、怒りがおさまらなかった。「家庭の事情もわからんくせに」「じゃけえ嫌いよ、大人は」と口々に言う。
中本さんの元に来ていたことのある子は「ばっちゃん、これが更生保護?」と問いかけたという。中本さんがたびたび「更生保護」と口にしていたのを覚えていたのだろう。意味はよくわからずとも、このかけ声の下に集まる人たちなら中本さんと同じように接してくれる、と思っていたのが裏切られたように感じたのかもしれない。
中本さんはそう言われて、謝るほかなかった。「ごめんね。更生保護というのは、色々な事情によって罪を犯した人がおったとしても、差別せずにお互い人間愛でやっていきましょうというのが基本じゃけんね。聞かれて嫌なことは言うちゃいけんよね」
四人は、施設に帰りたくない、ここで寝かせてと泣いたというが、中本さんは、逃げ通せるものじゃないと説得して、彼女たちの目の前で施設へ電話をしたという。案の定、施設名の入った自転車を見つけた駅員からの通報を受けて職員らが行方を捜しているところだった。そして中本さんたちの予想より早く、職員が駆けつけたのだった。
静かになった基町の家で、中本さんは買ってきたばかりのそうめんのつゆを手に取って「あれらがそうめんを食べたいということで……」と無念そうにつぶやいた。
他方、この日は基町の家を出たり入ったりしていた美々さんもまた、何なのあの子ら、と四人に対して憤懣やるかたない様子だった。中本さんと田村さんはこの怒りを、本人は常識的に話したつもりが叱られたからだろう、と見ていた。
基町の家にいると、自分の持っている常識がいかにちっぽけなものかを痛感させられることばかりだ。自分の想像力を超える子たちに相対することは、調理よりはるかに難しい。美々さんにとって、いずれ直面せざるを得ない試練だったことだろう。
ただ、まずいことは重なるものだ。
美々さんはこの日、プライベートの人間関係のトラブルも抱えて「イライラしてリスカせんことにはおさまらん」と言い出した。リスカとはリストカットのこと。自傷行為だ。彼女の左腕はタトゥーに目を奪われがちだが、手首にはリストカット痕がある。
基町の家のボランティアを始めてからは途絶えていたのだが、精神的に不安定になったことで、その日からあっという間に新たな切り傷が増えてしまった。
リストカットといっても手首ばかりでない。秋口には、より目立たない太ももの付け根を切ってしまうと中本さんに打ち明けた。さらに毎日、食べたり飲んだりしては吐くようにもなった。
かつて漂白剤を飲んだ男性の騒ぎの際、美々さんが「本気で死ぬ気なら言ってこんよ。助けてほしい、止めてほしいからなんよ」と目を潤ませていたことが思い返された。美々さん自身が長らく心に抱えてきた「助けてほしい、止めてほしい」という声にならない声が、あのときうっすら浮かんだ涙だったのだろう。
その声がまた自傷行為となって噴出しているようだった。
美々さんが不安定になると、うまくいっていた瑠愛さんとの親子仲もぎくしゃくしだした。瑠愛さんは基町の家に滅多に顔を見せなくなっていった。友人に連れられて時折現れても、美々さんと会話どころか目を合わせようともしない。突然、意味のない大声を上げることもあった。中本さんはその様子を見て「心が満たされておらんのじゃろう」と心配した。
中本さんは美々さんに、ボランティアといっても無理をせず、好きなときに来てできることをすればいい、と励ました。美々さんもだいぶ気が楽になったようだ。しかし、どれだけ辛くとも、というより辛い時だからこそ、だろうか、彼女の足が遠ざかることはなかった。
美々さんがボランティアを始めて半年以上が経った頃のこと。台所に立っていた彼女から、弁当用の卵焼きを作るので手伝って、と十個の卵を割り入れたボウルを手渡された。これは端で見ているより力仕事だ。
私が苦戦していると、「それじゃ永遠に混ざらんよ」とからかいながら引き取ってくれた。
もっと多くの卵を使う日もあるといい、慣れた手つきでかき混ぜる右腕を見ると、肘下の筋肉が発達していた。触らせてもらうとカチカチだ。気づけば日々の卵焼きを作るのは、中本さんより、美々さんの方が多くなっていた。指摘するとしげしげと自分の腕を眺めて、「確かにここに来てから筋肉がついたね」と言った。
彼女の右腕の変化は、やっと見つけた自分の居場所を守ろうと頑張ってきた証だった。
冬になる頃には、瑠愛さんも何気ない様子でご飯を食べにくるようになっていた。
昼下がりにやってきた瑠愛さんは、ケチャップスパゲッティと焼き肉、唐揚げを出してもらって黙々とかきこんだ。
同じテーブルには小学五年生の男子がおり、中本さんが瑠愛さんを指して「美々の子どもよ」と紹介すると「うん、この前キャッチボールして遊んでもらった」とニコニコしている。一同はクリスマスの話題になり、瑠愛さんが「ばっちゃんと過ごす」と言うと、五年生も声を張り上げた。「俺もばっちゃんと過ごす、ばっちゃんと結婚する!」
まあまあ、孫とひ孫の年齢よー、と大げさにのけぞる中本さんの近くで、美々さんも笑っていた。母子差し向かいでなく、中本さんはじめ他の人が緩衝材となり、親子はまた普通に話すようになっていった。
元日の朝、彼女から写真が届いた。いつものように基町の家へ出向き、新年の挨拶に訪れるであろう人たちのために、大量の俵型のおむすびを作っている写真だった。食卓に並ぶおせち料理や鍋の傍らには、いつもの卵焼きもあった。中本さんのふっくらした卵焼きとはまた違う、しっかり成形された美々さんならではの卵焼きだ。
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▶第5回へつづく
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